私は杉本誠一、六十二歳。祖父の代から七十年続く町工場を継いで三十年、一度も黒字を外したことはなかった。それが、大学時代の友人である同島。今は大手銀行の遠取締役を務める男の、たった一言で由来が揺らいだ。
「君の会社を潰してやる」
その言葉を境に、取引先の融資が一斉に停止した。理由の説明はない。別の銀行に打診しても、判を押したように断られる。私は悟った。これは圧力だ。指先が冷えた。工場の時計の針はいつもと同じ音で進むのに、胸の鼓動だけが速い。窓の外で午後の光が鈍く揺れていた。
息子の直人は弁護士だ。静かに言った。
「父さん、証拠で戦いましょう」
午前十時、会社の代表電話が鳴った。表示は都内の数字。KFC銀行担当者の野村からの電話は簡潔だった。事務的な声が、じき越しに告げる。
「新規の融資は見直しです」
妻のみち子が背中をさする。
「無理しないで」
私は頷き、倉庫の鍵を手に取った。父に言われた言葉が脳裏に蘇る。記録は全て残しておけ。いつかお前を救う。みち子が静かに言った。
「あなた一人で抱えないで。従業員のみんな、ずっとあなたについてきたじゃない」
私は答えた。
「だからこそ倒れられない」
みち子は黙って湯呑みを置き、私の視線を受け止めた。みち子が続けた。
「信じてる」
「うん。知ってる。あなたは記録を残してきた人」
私は小さく笑って、工具の匂いが染みついたコートに袖を通した。みち子は微かに笑った。
「直にも連絡しておくわ。あなたは倉庫へ。私は台所の明かりをつけて待ってる」
会社の倉庫に向かった。錠を開けると、埃の匂いが一気に広がった。埃をかぶったバインダーを開くと、昭和の文字が並ぶ。記録の脇に異様な一ページ。手数料、年間五百万円を個人座へ。私は凍りついた。融資の見返りを同島の個人口座へ。おかしい。以後長年にわたり、融資額の〇・二パーセントを毎年個人口座に。さらに父の代の帳簿には担保評価の偽装と、設備投資融資に対する年〇・一パーセントの個人口座への振り込みが二十年分。
直人が力強く言った。
「父さん、これだけで十分に戦えます」
私は静かに首を振る。
「まだある」
同窓だった若き日の同島。学費が払えないと泣きつき、私が貸した十万円を借りてないと否定した男だ。金額ではない。彼が踏みにじってきたのは、私たちの誠実さだ。小さなわだかまりが、やがて憎しみに変わった。卒業後、間もなくの同窓会で誰かがあの借金の噂を軽口にした。同島は真っ赤になって否定し、以後私を露骨に避けるようになった。その後彼は銀行として頭角を現したが、私は取引で一つだけ妥協しなかった。帳簿を正しく残すこと。そして見返りや寄付を持ちかける個人的な依頼は断ることだ。
十年前、支店長時代の同島は地域貢献の名目で多額の寄付を迫った。私は断った。彼はその場で笑って受け流したが、あの時の目は笑っていなかった。その後、審査の厳格化や融資条件の微妙な不利変更が続いた。私が記録を残す人間であることを同島は誰よりも知っていた。彼が私を潰したい理由は単純だ。自分の不正を最もよく知る相手を先に消しておきたい。その恐怖だ。
直人は弁護士チームを招集し、三十年分の帳簿、契約書、振り込み記録を法的に整理した。私は同島の銀行の株を百株だけ買い、株主総会の出席権を得る。直人が短く告げる。
「総会で一気に返上、同時に告発です」
私は静かに頷いた。舞台はあちらが用意してくれる。
会場は本店ホール。受付で株主カードを受け取り、着席のベルが鳴る。壇上に役員が整列し、議事が始まった。壇上の同島はわずかに視線を落とした。胸の中で呟く。あいつはまだ全部持っているのか。やがて質疑応答。私は手を上げ名乗った。私は正面を見据えた。
「同島様、お久しぶりです」
会場がざわめく。私は書類を掲げ読み上げた。
「昭和六十年の融資条件です。手数料、融資額の〇・二パーセントを個人口座に。以後毎年の振り込みです」
同島が口ごもる。
「それは――」
私は続けた。
「さらに父の代の担保評価の偽装。正当な評価では担保不足なのに融資を通した。対価として年〇・一パーセントを二十年」
会場は騒然となり、株主が立ち上がる。前列の男が声を上げた。
「説明しろ」
別の席から声が飛ぶ。
「本当なのか」
私は会場を見渡した。
「私は証拠を全て保管しています。記録帳簿、振り込み明細。法廷提出の準備は完了済みです」
年配の株主が低く呟いた。
「監査役委員会はいつから何を見ていたんだ」
若い株主が手を振り上げる。
「疑似進行だ。まずは事実関係の開示を」
そして最後に、私は低く会場に響くように言った。
「正義は騒がない。記録だけが静かに真実を示す」
私は書類を置いて告げた。
「同島氏。あなたは四十年かけて私の家族から三億五千万円を搾取してきた」
会場が騒然とする。
「会場の秩序をお守りください」
同島が絞り出す。
「誤解だ。手続き上の確認が――」
私は手元の書類の束を軽く叩いた。
「確認は簡単です。ここにあなたの個人口座に振り込まれた毎年同額の記載がある。逃げ道は閉じた。選べるのは謝罪か法廷か」
私は視線をそらさずに告げた。
「そして十年前、あなたが地域貢献の名目で求めた寄付を私は断った。あの日からあなたは私を恐れ、私の記録を恐れた。今日、その恐れが現実になっただけだ」
別席から声が飛ぶ。
「監査役は何をしていたんだ」
監査役席がざわめく。司会が慌ててマイクを切り替える。
「ご質問は一人ずつ――」
私は言葉を区切って告げた。
「質問ではありません。通知です。本日付けで背任並びに業務上の疑いで告発状を提出済みです」
同島が言葉を失った。副頭取が臨時取締役会を求める。役員の全員が振り返り、直ちに競技を求める声が上がる。一斉に手が上がり、会場の空気が一気に変わった。同島は崩れ落ち、会場は怒号とざわめきに包まれた。
総会後、銀行は緊急調査に入り、同島は背任を認めた。背任横領金融犯罪で執行猶予付き有罪判決まで、時間はかからなかった。一方、私の会社には新しい銀行から連絡が入る。新しい担当者から電話が来た。
「三十年黒字を外していない会社。私たちは支援したい」
会社は資金を得て、再び回り始めた。従業員に活気が戻る。現場に立つと、油の匂いと機械音が胸に染みた。工場長が駆け寄る。
「社長、材料は今日の午後には入ります」
私は短く返した。
「頼む。ラインは明日から全開で」
若手が笑顔で言う。
「社長、戻ってきてくれてよかったです」
私はただ頷いた。言葉より先に動くことだ。直人が肩越しに支えた。
「告発状は受理済み。金融庁への報告も完全に完了させます」
庭では孫の小春が花を植えている。小春がスコップを差し出す。
「おじいちゃん、一緒に植えよう」
私は頷いた。
「いいとも。日が当たる場所を選ぼう」
小春が指を差す。
「じゃあ、ここがいいね」
直人が静かに報告する。
「父さん、手続きは全て終わりました」
私は空を見上げる。四十年の戦いは終わった。守りたかったのは会社の看板ではない。誠実に積み上げてきた私たちの生き方だ。小春が言った。
「おじいちゃん、これ名前つけよう」
私は笑った。
「いいね。メモリーはどうだ」
小春は笑って頷き、小さな苗にそっと土をかけた。土の匂いは工場の油と同じように手に残る。手を使って積み上げた時間の匂いだ。風が優しく吹いて、苗の葉先が小さく震えた。午後の光が庭の砂に細かな影を刻んだ。
