「ねえ、あなた、レイナって人知り合い?」
夫の優太が帰ってくるなり、そんなことを聞いてきた。私は一瞬、固まってしまった。聞きたくない名前だった。レイナ。高校時代の親友だった女だ。正確には、当時付き合っていた彼氏を奪われて縁を切った相手。もう何年も会っていないし、ましてや私が結婚していることなんて知るはずがない。
優太の話では、職場に新しく派遣された女性が私の親友だと言って話しかけてきたらしい。もし本当にあのレイナなら、どうやって優太が私の夫だと知ったのか。あの事件を最後に関係を断ったのに、どんなつもりなのか。嫌な予感が胸の奥でざわついた。
私は優太に、レイナとはあまり関わらないでほしいと伝えた。彼はあっさり了承してくれたが、どうしても不安が消えない。私は高校時代に仲の良かった友人に相談することにした。優太から聞いた話を順に説明し、疑問をぶつけた。縁を切ったはずのレイナが、どうして優太が私の夫だと確信を持てたのか。答えが出なかったのはそこだった。
友人は少し考え込んだあと、スマホを操作して私に見せた。
「多分これじゃないかな」
そこに映っていたのは、優太のSNSだった。友人曰く、レイナはSNSを辿って優太にたどり着いたのだろうとのこと。優太が投稿した私との写真は、かなり親しい関係だと一目で分かるものだった。他の投稿を辿れば、私が妻だと推測できてもおかしくない。
私がSNSに疎いから、そんな可能性は考えてもみなかった。謎が解けて少しほっとした反面、自分の知らないところで夫が私の顔がはっきり分かる写真を公開していたことには腹が立った。危機感がなさすぎる。
その日、優太が帰宅すると、私はSNSに上げた私の写真をすべて消すよう言った。彼は「今時写真の公開なんて当たり前だ」と反論したが、私はどうしても納得できなかった。結局、優太が不機嫌そうに折れて写真は消してもらえた。それが、私たち夫婦にとって初めての喧嘩だった。
あの衝突以来、私たちの間にはギクシャクした空気が流れていた。特に言い争うわけではないが、どこかよそよそしい。以前のような仲の良さはなくなっていた。優太の帰宅時間も遅くなっていった。私も言い過ぎたと反省し、素直に謝ったが、彼の反応はそっけないものだった。その冷たい態度に、私はすっかり気を削がれてしまい、それ以上何も言えなくなった。
そうして私たちはすれ違ったまま時間を重ねた。優太は帰宅が遅くなるどころか、出張も増えていった。今までこんなに頻繁に出張なんてなかったのに、と不審に思わずにはいられなかった。
ある日、優太の趣味仲間から「最近、優太が顔を出さない」と冗談混じりに言われて、私は驚いた。休日も以前と変わらず外出が多くて、てっきり趣味に出かけているものだと思っていたからだ。全身の毛が逆立つような感覚がした。まさか、と思いながら優太のSNSを確認する。
祈るような気持ちとは裏腹に、そこには最近のレストランの写真や観光地の風景が並んでいた。私には見覚えのないものばかりだ。優太は何も隠す気がないのか、無防備に写真やコメントを残している。私がSNSをやっていないのを知っているから、見られることはないと思っていたのだろう。好き放題しているとしか言いようがなかった。
私はもっと確実な証拠を探すため、優太のSNSから辿ってレイナのアカウントも確認した。そこには同じ料理、同じ日付の観光地の写真があった。これで二人に何らかの関係があることは間違いない。頭の片隅で最悪の事態を否定しながら、私は優太の帰宅を待った。
緊張しながら問い詰めると、優太はあっさり白状した。
「バレちゃったならしょうがないよな」
数日後、私は優太にレイナを呼び出させ、三人で話し合いの場を設けることにした。話し合いとは言っても、私はまだ身の振り方を決めていなかった。優太はあれから私との会話を避けているし、レイナも私に直接接触してこなかった。遊びのつもりなのか、本気で優太を奪いたいのか、検討もつかない。レイナの性格なら、単に私を貶めたいだけという可能性もあった。
休日、自宅で顔を合わせた。予定の時刻を少し過ぎて、優太に連れられてやってきたのは、紛れもなくあのレイナだった。十年も経てば見た目は大人になっているものの、男に媚びるような甘えた声は高校時代と変わらない。彼女は緩く巻いた髪をいじりながら、睨むような視線で私を見た。明らかに私を見下していた。でも、そんなことは今更気にならなかった。
「ごめんね。優太はレイナの方がいいんだって」
レイナは勝ち誇った顔で、テーブルを挟んだ私に小首をかしげてみせた。こんな大人になってまでこんな煽り方をする人間がいるとは夢にも思わなかった。彼女は自分の可愛さに絶対の自信があるらしい。そして、それを後押しする人間が誰なのかもすぐに分かった。デレデレと鼻の下を伸ばしていた優太が口を挟んできたからだ。
「それに比べてレイナは可愛いだろ。俺に甘えてくれる最高な女だよ」
私は、自分の夫が目の前で別の女性ののろけを語る様子を、醒めた気持ちで眺めていた。優太は図に乗って、私が冷たい女だとか、レイナの方が自分を癒してくれるとか、次から次へと言ってくれた。レイナはその言葉の一つ一つに満足そうに頷いている。どうやら本当に私から優太を奪い取るつもりのようだ。二人が私への裏切りを認め、何の反省もないと分かった時点で、私はこの席についた目的を果たした。あとは黙って彼らの話を聞いていた。
優太はその様子に満足したのか、笑いながら離婚届を差し出した。
「もう何を言っても俺の気持ちは変わらないから、素直にこれを書いてくれ」
その言葉を聞いて、二人への気持ちが一気に覚めてしまった。この話し合いが始まるまでは、確かにレイナへの怒りや優太の行動への悲しみもあったはずなのに。今はただ、「愚かな人たちだな」という感想しか出てこない。不倫をしておいて、その妻の前で悪びれる様子もなく振る舞える神経に、私は引いてしまった。完全に見限った。離婚を決意した私は、最後に念のため、優太の覚悟を問うた。
「本当に離婚していいんだよね」
私の言葉を聞いた優太はレイナと顔を見合わせ、こちらに向き直ると同時に吹き出した。負け惜しみだと笑われた。私はこれ以上、二人に何かを言ってやる気にもなれず、そのまま黙って離婚届を受け取り、役所に提出した。
家は出ることになったが、自分一人ならどうとでもなる。しばらくはビジネスホテルを拠点に生活した。身軽になった私は一人で色々と準備を始め、新居が決まって落ち着いた頃、見知らぬ番号からの電話を受けた。長いコールが二度、三度とかかってくるので不審に思いながら出てみると、電話の相手はレイナだった。優太のスマホに登録されていた私の番号を見て電話したそうだ。
レイナは私が訪ねたわけでもないのに、自分の近況を話し出した。あれから優太と無事に入籍したこと、新婚生活にぴったりな新居を選んだことを上機嫌に語った。私が相槌すら打たないものだから、張り合いがないと思ったのか、今度は新居は高級マンションを買ったのだと自慢し、優太がいかに自分に甘いのかを嬉しそうに話し始めた。
「彼女曰く、優太は私には賃貸で我慢させていたけど、レイナには望むものを全部与えてくれるらしい。服もバッグもマンションでもね。レイナってば本当に愛されてる」
私に対してマウントを取ることができて、レイナは声だけでもニヤニヤしているのが分かるくらい上機嫌だった。
「エリートの旦那様を奪ってごめんね。でもレイナの方が魅力的だから仕方がないわよね」
笑いながら酷いことを言われて、私は隠すことなくため息をついた。
「よくマンションを買うほどのお金を借りられたわね」
驚きと呆れで、つい言葉に出してしまった。するとレイナは聞き捨てならないとばかりに、優太はエリートだからマンションくらい変えると、鼻息荒く反論した。同じ職場なのだから大体の給料も分かっていると豪語したが、つまり彼女は本人の収入や支出を正確には知らないということだろう。
「だって金遣いは荒いし、借金もあるのに。大変ね」
私は、優太がエリートと呼ばれるサラリーマンであることは肯定した上で、レイナの認識不足を冷静に指摘した。
「借金?」
明らかに初めて聞く事実に動揺するレイナに、私は滞った返済を何度も肩代りしたことを告げた。優太はレイナの前では格好をつけていたので、知らなくても仕方がないが、彼は趣味には湯水のように金を注ぎ込む人で、貯金どころか借金を抱えていた。そんな状態でキャッシュでマンションを購入できるはずがないし、住宅ローンの審査だってどうやって通ったのか不思議で仕方なかった。私が二人の楽観的な思考と行動力に関心さえ覚えていると、レイナは電話口で大きな声を出して反論した。優太は金持ちで、自分に何でも買ってくれるのだと。彼女は自分に言い聞かせるように私の言葉を否定した。
私は、おそらく本当に知らずに入籍してしまったであろう彼女に、冷静に事実を突きつけた。
「今までは私が生活費を出していたので、優太は給料を丸ごと小遣いにできた。でもこれからは住宅ローンに生活費、借金の返済もあるのだから、今までのようにはやっていけないでしょうね」
私の説明を聞いたレイナは信じられないらしく、「そんなはずはない」と繰り返した。
「優太はね、金遣いは荒いから。レイナも妻として、節約頑張ってね」
私は、派遣社員のレイナが自分と同じようには稼ぎがないことを分かっていて、そんな言葉をかけた。すると、何の反応もなく、彼女は黙り込んでしまった。私は追い打ちをかけるように、二人に慰謝料を請求するつもりがあることを告げた。するとレイナは、慰謝料という単語に反応して、なぜそんなものを払う必要があるのかと逆切れした。不倫を働いたのだから当然だと私が返すと、レイナは驚くような理論で自分を正当化した。
「優太が、私よりもレイナのことを好きになったんだから、仕方がないでしょ。振られたからって、嫌がらせするのはやめてよ」
一体どんな子供じみた考えで、それが嫌がらせになるのか。私は丁寧に解説した。夫が妻以外の女性と関係を持てば不法行為に当たり、妻は夫と相手の女性の両方に慰謝料を請求できるのだと。それでもレイナは「ひどい」だの「高校時代は彼氏をもらっても、何も言わなかっただの」と、全く立場を理解していない様子でごね続けた。
私は彼女に言った。何を言っても、もう決めたことだと。妻から奪うほどの大恋愛の末に結ばれた優太と、仲良く暮らすよう祝福すると。
「じゃあ、借金返済も頑張ってね」
そのまま、私はわめくレイナを無視して電話を切った。
その後、私は以前から相談を進めていた弁護士に連絡し、慰謝料請求の手続きを進めてもらった。わずか数日で、優太とレイナに請求が届いたようで、その日から私のスマホは着信の嵐だった。直接やり取りをすることはないと伝えてあるはずなのに、電話が鳴りやまない。私は一度だけ電話に出て、弁護士を通すよう再度通告し、二人を着信拒否に設定した。
結局、優太とレイナが期限内に慰謝料の請求に応じなかったため、この一件は裁判にまで発展した。裁判での二人は一貫して不倫行為自体を認めないと主張し続けたが、消されてしまったものも含めてSNSに大量の証拠が残っていたため、私の完全勝利となった。それでも二人は慰謝料の支払いを渋った。強制執行手続きをし、優太たちの給料を差し押さえることでようやく支払いを受け、私は二人と縁を切ることができた。
しばらく経って、友人から優太たちのその後を聞いた。やはりマンションはローンが支払えず、早々に手放したらしい。優太はそれでも趣味を辞められなかったのか、資金繰りに困って危ないところから金を借り、借金が会社にまで乗り込んできたため、首になってしまったそうだ。レイナは友人らに手当たり次第に借金を申し込み、その返済トラブルや金銭感覚の異常さから、今では誰にも相手にされないらしい。
それでもまだ二人で一緒にいて、ボロアパートに住み、バイトで食いつぐ毎日を送っているというのだから大したものだ。私は離婚してよかったとしみじみ感じた。もう彼らのことは忘れて、幸せに生きていこうと思っている。
