名前は草のしみ。七十歳。今日も私は自室で本を読んでいた。この家の壁は薄い。リビングで交わされる家族の会話が、まるで隣で話しているかのように聞こえてくる。昨夜から降り続いた雨が上がり、窓の外には湿った空気が漂っていた。本の中の文字はすでに目に入っていなかった。私は無意識のうちに耳をそばだてていた。
居間から、嫁のみ咲の冷たい声が聞こえた。お母さん、もう一人で暮らしてもらったほうがいいんじゃない?毎日家にいても邪魔なだけだし。
そうだな。一人にしてしまえば、一日でも早くこの家がすっきりする。
み咲がわざとらしいため息をついた。正直、自分から出て行ってくれると助かるんだけどね。
そうだな。母さんも親父みたいに、勝手にいなくなってくれればいいんだけどな。息子の大輔が吐き捨てるように言った。母さんなんて、年金もらってるだけの寄生虫みたいなもんだし。
俺らだけじゃなくて、国からしても邪魔だろうな。み咲が笑いながら言った。
大輔、それはその通りだけど、スケールがでかすぎるよ。
私の心臓が激しく打ち始めた。手が震える。全身から血の気が引いていくのがわかった。目の前が一瞬真っ白になった。涙が溢れそうになるのを必死にこらえたが、私はすべてを聞いてしまった。
二十年間の思い出が、走馬灯のように頭の中を駆け巡った。実業家だった夫と、息子の大輔と過ごした楽しい日々。金銭的に余裕のある生活だったのに、私は専業主婦にはならなかった。働きながら息子を育てる道を選んだ。自分の力で息子をしっかり守れるように、と。夫はそんな私を見て、しみは本当に頑張ってるな、とよく褒めてくれた。あの言葉を思い出すたび、私は胸が温かくなるのを感じたものだ。
しかし、愛していた夫は三年前、認知症で行方不明になった。それからというもの、厳しい父がいなくなった途端、息子夫婦の態度は変わり始めた。最初は小さな口論だった。やがてそれは、私を家族の輪から外すような行動へと変わっていった。私は毎日、ただ家の片隅で静かに過ごすだけの存在になっていた。それでも私が耐えていたのは、夫が築いてきたこの家を壊したくなかったからだ。
その夜、私は自室で現実と向き合おうと、二十年前の家族の思い出が詰まった箪笥の一番下の引き出しを開けた。古い書類の束を取り出すと、その中に軽井沢の別荘の不動産関係の書類が混じっていた。書類を広げ、所有者の欄を見た瞬間、私の手が止まった。私の名前が消され、勝手に大輔の名前に書き換えられていた。二つの別荘の名義が、すべて大輔に変更されていたのだ。
日付を見ると、三ヶ月前だった。私の手が再び震えた。夫は生前、私が働かなくても生きていけるようにと、それでも私が厳しい道を選んでフルタイムで働きながら子育てをしていた姿を見て、もし自分に何かあった時のために、価値あるものを妻に残しておきたいと考えてくれた。だからこそ、軽井沢の別荘の名義を私にしてくれていたのだ。それが、息子の手によって勝手に書き換えられていた。
さらに、預金通帳を確認すると、勝手に数十万円が引き出されていた。引き出された日付は、別荘の名義変更の直後だった。これらはすべて、夫が行方不明になった後に、息子が私の同意なく行ったことだった。
私の決意は固まった。一瞬、夫の言葉が頭に浮かんだ。しかし、もう後戻りはできない。私は心の中で強く呟いた。もうこれで終わってもいい。徹底的に地獄を見せてやる。
数日後、息子夫婦はリビングでハワイ旅行の計画を立てていた。大輔が形式的な口調で言った。母さん、一週間留守番な。
私は静かに頷いた。その瞬間、私の口元に、誰にも気づかれない小さな笑みが浮かんだ。分かったわ。
私がこれからやろうとしていることなど知る由もなく、息子夫婦はのんきな表情を浮かべていた。
家族が旅行に出発する日が来た。私は玄関で見送った。彼らが家を出た後、私はすぐにタクシーに乗り、空港へ向かった。すべてを投げ捨てる覚悟で、空港の建物を歩き、滑走路へと向かった。
警備の目をかいくぐり、私は滑走路に侵入した。目立たないように腰を落とし、そろりそろりと飛行機に近づいていく。数メートル進んだ時、警備員が私の姿に気づき、大声で叫びながら全力で追いかけてきた。
気づかれた以上、全力で走るしかない。高校時代、陸上短距離の国体選手だった私。数十年ぶりに全力で走った。足が軋む。膝が悲鳴を上げている。でも、ここで歩みを止めるわけにはいかない。私は心の中で叫んだ。走ってくれ、私の脚。若い頃の記憶が蘇る。あの頃の歓声が聞こえる。
警備員は必死に追いかけたが、私に追いつけなかった。しかし、私が息子の乗っている飛行機の前に立ちはだかる寸前で、別の警備員に取り押さえられた。
私は喉が枯れるほど叫んだ。大輔、引きずり下ろしてやる!
すぐに警官も駆けつけ、私は近くの警察署に連行された。だが、私の心は不思議なほど静かだった。これで、すべてが動き出す。
幸い、大きな飛行機の遅延は発生せず、大事にはならずに済んだ。警察署で事情聴取が始まった。警察官が真剣な表情で尋ねた。草野しみさん、なぜあんな危険なことを?
私は静かに、しかしはっきりと答えた。まず、他の乗客に迷惑をかけてしまったこと、本当に申し訳なく思っています。ですが、私は決死の覚悟の上での行動でした。
私はすべてを話した。息子夫婦からの差別。夫が残してくれた別荘の名義を同意なく変更されていたこと。預金通帳から無断で引き出されていたこと。私の話を聞いた警察官の表情が、怒りと同情で歪んだ。
なるほど。別荘の名義を無断で変更したことは、有印私文書偽造罪と詐欺罪。預金通帳からの無断引き出しは横領罪。そして、これらはすべて高齢者虐待防止法に該当しますね。これらの罪として立件できます。
事情聴取が終わると、その日のうちに私は帰された。飛行機の遅延は発生しておらず、事情聴取で全ての事情が明らかになったためだ。私は自宅に戻り、静かに彼らの帰りを待った。
一週間後、息子たちがハワイから帰ってきた。息子夫婦は機内にいたため、滑走路での騒ぎを知らなかった。だが、帰国して空港に着いた時、ニュースで私のことを知ったらしい。
家族が自宅に戻ってきた。玄関の鍵が開く音がしたかと思うと、大輔が激しい足音とともに私の前に立ち、掴みかかって叫んだ。おい、ババア。滑走路に侵入したってどういうことだ?何を考えてんだ?
私は冷静に言った。あなたたちの会話、全部聞いていたわ。追い出しの計画も。そして、別荘の名義を私の同意なく勝手に変更したこと。預金通帳から無断で引き出したこと。
言い逃れができないと悟ったのか、大輔は開き直った様子で叫んだ。なんで、何年も放置されてた書類をこんなタイミングで見てるんだよ。てめえがこの世からいなくなったら、何事もなく俺たちのものだったんだぞ。もう少しだったんだ。
私は静かに、しかしはっきりと答えた。夫を失い、唯一の家族からのけ者扱いされて、昔の楽しい思い出の中の幻想に逃げ込みたかった私の気持ちを、まだ踏みにじるのね。
私は静かだが絶対的な拒絶の声で言った。もう終わりね。あなたたちがやってきたことはすべて警察に話してあるわ。態度によっては取り下げる選択肢も残していたけど、今、完全に無くなったわ。
その事実を知った息子夫婦の顔色が変わった。大輔が震える声で言った。母さん、本当にすまなかった。俺たちが間違っていた。
み咲は泣きじゃくりながら叫んだ。お母さん、許してください。私たちが間違っていました。
しかし、もう遅かった。有印私文書偽造罪、詐欺罪、横領罪、高齢者虐待防止法違反の罪で、大輔とみ咲は逮捕された。家族は完全に崩壊した。
私は息子夫婦が手錠をかけられる様子を静かに見つめていた。その表情には、悲しみも怒りもなかった。ただ、すべてが終わったという、空虚な静けさだけがあった。
息子夫婦が逮捕され、私はこの家を出ることを決意した。長年住んだ家を離れるのは、胸が苦しかった。しかし、この家に残っても、もう二度と家族としての時間を取り戻すことはできないと理解していた。
友人の紹介で、私は農家のコミュニティで新しい生活を始めた。共同生活の仲間たちと温かい関係を築いていく。朝は鳥の鳴き声で目を覚まし、日中は畑仕事に汗を流す。夕方になると、仲間たちと一緒に夕食を囲む。
ある日、仲間の一人が優しい笑顔で言った。草野さん、ここに来てくれて本当に良かった。これまで本当に辛かったと思うけど、ここではみんながあなたの味方よ。
私は心から笑顔になった。これが本当の家族なのかもしれない。
夕焼けがのどかな村を赤色に染め上げていく。私は縁側から、自分の家と仲間たちの家、その向こうに広がる畑を優しい目差しで眺めた。家とは、建物のことではない。そこに住む人間の心の寄り所のことだ。
風が畑の作物を優しく揺らしている。遠くから仲間たちの笑い声が運ばれてくる。もう孤独ではない。これからの人生、たとえ長くはなくても、笑顔と温かい絆に包まれて生きていくことができる。
私は心からの幸福感に包まれながら、静かに目を閉じた。壮絶な復讐劇は終わった。同時に、本当の人生の始まりだった。
