あの日、義母の一言で私の人生は一変した。「正月までに、おせちとおもてなし膳を全部お前が作れ。失敗したら離婚よ」と。十月のまだ暖かい午後、台所に立つこともままならない私に、それはまるで死刑宣告のように響いた。三年間、毎日の夫婦の食事すらおぼつかない三流主婦の私が、三十人分の料理を?しかも「八〇点以上取れなければ嫁失格。つまらないものを作ったら出ていきなさい」と言われたとき、私はただ茫然とするし…

あの日、義母の一言で私の人生は一変した。「正月までに、おせちとおもてなし膳を全部お前が作れ。失敗したら離婚よ」と。十月のまだ暖かい午後、台所に立つこともままならない私に、それはまるで死刑宣告のように響いた。三年間、毎日の夫婦の食事すらおぼつかない三流主婦の私が、三十人分の料理を?しかも「八〇点以上取れなければ嫁失格。つまらないものを作ったら出ていきなさい」と言われたとき、私はただ茫然とするし...

正月までに、おせちとおもてなし膳を全部お前が作れと言われた日、頭が真っ白になった。義母に「年末年始は覚悟しなさい」と言われたのは、三が日の喧騒がまだ遠い十月のこと。私は台所すらおぼつかない三流主婦で、結婚して三年になるというのに、毎日の夫婦の食事を作るのがやっとだった。

「お母さん、ちょっと待ってください。それって何かの冗談ですよね」

「誰が冗談を言うの。今年からは容赦しないからね、全部お前がやるのよ」

「無理です。私、三年前に初めてフライパンを持った身です。芸を披露するのとは違うんです」

「芸?誰が芸をしろと言ったのよ。おせちの仕込みから、年始に来るお客様の膳の用意まで、全部あなたに任せるって言ってるの」

「そんなの絶対に無理です。外注で乗り切らせてください」

「絶対に許さない。家は手作り以外認めないわ」

泣きそうになりながら承諾すると、義母は最後に付け加えた。

「やる気だけは認めてあげる。でもね、つまらないものを作ったら、うちの嫁として認めないから」

「どういうことですか」

「失敗したら離婚届を書いて出ていきなさい。これはうちの嫁にふさわしいかどうかの最終試験よ。三年目にして、ようやく試すときが来たの。八〇点以上取れなければ嫁失格」

そんな条件を聞いていなかった。数年後に、規範がないまま神様を試す嫁になるなんて夢にも思わなかった。私は茫然としながら、この馬鹿げた提案を夫の順一に伝えた。

「お前、何を怒ってるんだ?」

「年末年始に試験があるんだって。おせちもおもてなしも全部私が作れって」

「宅建でも取るのか?お前が?」

「違うわよ。お母さんが、正月に来る親戚三十人分の料理を全部私に任せるって言ったの」

「うちの実家は本家だからな。子供の頃から正月はひっきりなしに人が来てた。お年玉がすごく多くて嬉しかったけど、大人になったら大変だろうな」

「分かってるでしょ、私がどれだけ料理下手か。順一が一番知ってるんだから」

確かに、いまだに得体の知れない黒い物体が出来上がることはある。でも十月から始めれば、数ヶ月も練習時間があるではないか、と順一は言う。

「じゃあ、数十万円を練習に使ってもいいのね」

「それは困るけどな」

「じゃあ聞くけど、明日から練習して半年後に一軒家を建てろって言われたらできる?どうすればいいかも分からないのに」

「それは無理に決まってるだろ」

「それと同じ。人には得意不得意があるんだから」

「でも、これは母さんの優しさだと思うぞ。女たるもの、そのくらいの料理ができないとつまらないぞって言ってるんだよ」

「じゃあ順一は私のこと、つまらない女だと思ってるの?」

「そこまでは思ってないけど、そろそろ修行した方がいいかなとは思ってた」

「もしかしてお宝を抱えてるの?」

「そんなわけないだろ。父さんが亡くなってから、正月にみんなが集まるのが母さんの唯一の楽しみなんだ。分かってやってくれ」

「それとこれとは話が別よ」

私は開き直って、翌日、自慢の兄のところへ相談に行った。兄は脱サラして居酒屋をやっていて、料理は得意だった。

「お兄ちゃん、料理ってどうやったらできるの?」

「いきなりなんだよ」

「お前、脱サラして居酒屋やってるくらいなんだから、料理人としての腕前はすごいんでしょ?」

「俺は料理が好きなだけだ。作った料理を美味しいって褒めてくれる人の顔を見るのが幸せなんだよ。お前は昔っから要領が悪いもんな」

「要領が悪いなんて言わないでよ。私は正月料理を作らなきゃいけないの」

「うちの実家か。それはきついな」

「どうしたらいいの?」

「無理ですって言えばいいだろ」

「言ったけど、できないなら離婚しなさいって言われたの」

「じゃあ離婚すればいいだろ」

「は?お前、気づいてるか?それ、嫁いびりだぞ」

「嘘だろ。今気づいたのかよ」

「でも、もし私がやり遂げられたら、お母さんだってちゃんと認めてくれるんじゃない?」

「お前にできるのか?相手はそれを分かって仕掛けてきてるんだよ。俺は揉め事が嫌いだから口も手も出さないけど、どうやって切り抜けるかは自分で考えろ」

「妹のピンチなのに見捨てるの?」

「妹の成長を願ってるから見捨てるんだ。頑張れよ」

誰も助けてくれない。どいつもこいつも、と心の中で恨みながら、私は期限までの三ヶ月間、本当にジムに通って体力をつけた。そして三十日、義実家に乗り込んだ。

「今日から一週間、この台所を使って地獄を見せてやるわ」

「この三ヶ月、ジムに通って体力をつけてきました。気合いだけは認めてください」

「筋肉で家事は乗り切れないわよ。まあ、やれるものならやってみなさいな」

「お任せください。脳内シミュレーションは完璧です」

「脳内?」

「はい。YouTubeを見て、まるで手術前の医者のように手を動かす練習を三ヶ月してきました。脳内では完璧な三段重ねが完成してます」

「無理よね」

「やってみないと分かりません。ぶっつけ本番ですが、私は昔から本番に強いタイプなんで」

「本当にできるの?三十人は来るのよ」

「はい。脳内では三十人が喜んでいます」

「最後に、お母さんは今どこにいらっしゃるんですか?」

「ちょっと所用で出かけてるの。私のことは気にしないで、さっさと準備しなさい」

翌日、私は完全に打ちのめされた。脳内で何度も成功した動きが、現実の手では全くできない。昆布巻きはこの世のものとは思えない苦さで、黒豆はしわしわで義母みたいになった。目の前の食材は全て無駄になり、成功作は一つとしてなかった。

「もう限界です。助けてください。私には無理です」

「泣き事を言うな。正月は明日よ。まだ時間はあるでしょ」

「食材が尽きてしまいました。何一つ成功しなかったんです」

「何てことなの。どうすればいいのよ」

「料理はもういいわ。あんたは今から家中の掃除をしなさい」

「それくらいならできますが、お母さんは今どちらにいるんですか?」

「え?うん。ちょっと所用で出かけてるわ」

「二日連続で所用ですかね」

「あんたに関係ないわよ」

「そうですか。じゃあ帰ります。掃除はルンバを走らせておきました。窓や畳の拭き掃除はお願いします」

「あんたね」

「では、素敵な年末年始を」

タクシーは呼んであった。バスも電車も走らない夜に、義母は無力な私を追い出せなかった。翌朝、夫は怒り狂って電話をかけてきた。

「なんで帰ったんだよ」

「誰も味方がいないから」

「嫁としての義務を放棄するのか」

「あのね、これは嫁いびりよ。私に三十人分のおもてなしができると本当に思ってる?」

「やればできるだろ」

「じゃあ順一がやってよ。男も女も関係ないでしょ」

「俺は男だぞ」

「男も女もないの。無理なものは無理なの」

「じゃあ何のために結婚したんだよ。こういう時のために嫁がいるんだろ」

「そうだったんだ。利用されるために結婚したんじゃないわ。私はあなたと一緒にいたいから結婚した」

「母さんはお前を試してるんだ。できなきゃ離婚だって言われてるんだぞ。仕方ないだろ」

「そこまで言うなら離婚に応じよう」

「だからそこまで言ってないんだけど」

「後のことはまた話し合おう」

正月早々、私は実家に戻っていた。義母からは「せっかくの新年なのに、お前のせいで食卓が寂しい」と鬼電が何度も入り、親戚の皆ががっかりしていると伝えられた。大晦日に街中を走り回って蒲鉾や黒豆を買い集めたけど、全く足りなかったらしい。

「息子がもらった嫁の実力ですって皆に言ったら、口を揃えてそんな嫁は捨てろって言われたわ。それに三年経っても孫も埋めないなんて、単なるガラクタだって言った人もいたわよ」

「ひどいですね」

「これは親戚の総意として伝えるの。息子と離婚してちょうだい」

「いいですよ。そこまで言うなら仕方ありませんね」

「まだそこまでは言ってないんだけど」

「この試験は、順一さんが結婚する時にお嫁さんに課すものなんですよね。だったら順一さんは一生独身だと思いますよ」

「なんでよ。素晴らしい嫁がいつか来るかもしれないでしょ」

「素晴らしい女性であればあるほど、この家の異常さを察知して逃げ出しますよ。私みたいなポンコツ三流主婦ですら逃げるんですから、一流ハイスペック主婦はもっと嫌がります」

「悔しがってるだけだろ。何の使い道もないボロ雑巾と同じなのよ」

「あ、言い忘れましたけど、裏口の玄関先に荷物を置いてます。早めに開けてくださいね」

数分後、義母の悲鳴が聞こえた。

「何よ、この豪華なおせちは。まさかお前が作ったっていうんじゃないでしょうね」

「私が作りました」

「嘘を吐きなさい」

「何もできない嫁イコール離婚であるなら、そのレベルの料理ができる嫁はどうなるんですか?できないって思ってたから答えを用意されてないですよね。最初から私たちを離婚させるために、無理な条件を押し付けたってことです」

「料理の腕は認めてあげてもいいけど、掃除ができてなかったじゃない」

「トイレ、風呂、窓、床、全て終わってます。お母さんがパチンコに行ってる間に、ね」

「なんでパチンコって言ったのを」

「心配だったのでついてきました。私を尾行して、料理と掃除をしたってこと?」

「まあ、そうなりますね。これでも不合格でしょうか」

「姑を尾行するなんて非常識にも程があるわ。息子のことも疑って尾行するに決まってる。そんなことになれば、あの子はストレスで倒れるわね」

「結局、私がポンコツでも完璧でも、何かしら文句をつけて反対する気だったんですね。ただ、なぜそこまでして離婚させたいのかは分かりませんよ」

「もういいじゃない。さっき離婚に同意したでしょ。お前は帰りなさい」

「はい、そうですね。と引き下がるほど単純な女じゃないんです。納得するまで突き詰めます。では、良いお正月を。あのおせちは本当に美味しいので食べてください」

帰り道、私は兄に電話した。

「お兄ちゃん、本当にありがとう。あのおせちのおかげで、義実家の闇を暴けそうだよ」

「お前のために徹夜で作ったんだぞ。掃除は得意なんだが、料理だけはどうしても苦手だから助かった。お前、洗い下手のくせに人使いは荒いな」

「実家に超高い日本酒を置いておいたから、明日帰ったら一緒に飲もう」

「仕方ないやつだな。で、闇って何なんだ?」

「多分、義母と順一はグルだね」

「あれは義母だけがやったことだろ」

「私が料理できなくても離婚、立派なおせちを届けても離婚。おかしくない?最終目的は離婚だったのよ。手段は何でも良かったんだと思う」

「じゃあ別れるしかないだろ」

「もちろんそのつもり。ただ、ここまでコケにされたら大人しく引っ込めないわ。真実を確かめてから、こっちから別れてやる」

翌日、順一がまた電話をかけてきた。正月休みを満喫していた私は、気のない返事をしていた。

「お前のせいで母さんの機嫌が悪いんだぞ。どうしておせちも作ったし掃除もしたのに」

「それでもお母さんが気に入らないならダメなんだよ。離婚しろって言われたし」

「仕方ないよ。母さんが認めないなら無理だ」

「そう。でもね、年末に家事を嫁に丸投げしておいて、パチンコで十五万負ける姑に何か言われる筋合いはないのよね。それに、新しい女ができたからってママに泣きついて別れさせようとするのもどうかと思うけど」

「何言ってんだよ。誰が新しい女だって?」

「他にも色々知ってるけど、それは本人にぶつけようと思う」

「どういうことだよ」

「とにかく、私を騙して裏切った報いは受けてもらうわ。楽しみに待ってなさい」

その夜、私はまとめた資料を手に義母と対峙した。

「お母さん、私に嘘をついてましたね。三秒だけ待ちます。全ての罪を告白してください」

「何を言ってるんだか」

「時間切れです。正月に親戚が集まること自体、嘘ですよね」

「嘘なわけないでしょ。去年の正月見たじゃない」

「はい。でも今年は誰も来てないはずです。私、先日こちらにお邪魔した時に、親戚の皆さんの家に挨拶に伺ったんです。れ子さんとLINEを交換して色々話を聞きました。それで分かったんです。お母さん、親戚中から絶縁されてますよね。パチンコに注ぎ込みすぎて、親戚中にお金を借りてて。返す方法はパチンコに勝つこと、だって。どういう思考回路ですか」

「うるさい。私は一度十五万も勝ったことがあるんだから、そのうち大勝ちするの」

「たまたま起きたラッキーを夢見てるんですか?それに、お父さんが亡くなってから親戚の皆さんはよくしてくれたそうじゃないですか。それを裏切るなんて」

「黙りなさい。あんたに関係ないでしょ」

「確かにそちらの親戚のことは私に関係ありません。ただ一つだけ聞かせてください。私と順一さんを離婚させたいのはなぜですか」

「あんたが嫁としてふさわしくないからよ」

「じゃあ自分で調べます」

「待って。何をするの?」

私は探偵を雇うことにした。数週間後、兄の家でその結果を待っていた。

「お前、もう実家に戻ったのかよ」

「いいじゃん。兄貴がいいって言ったんだから」

「俺が冷やしたビールがすぐなくなるだろ」

「いいじゃん。兄貴がいいって言ったんだから」

「なんだよ、もう離婚したのか?」

「今探偵に調べてもらってるところ。それが終わったら話し合う」

「順一、もしかして浮気してるのか?」

「多分ね。それを確定させるための探偵」

「なるほど。そういうことか。元々順一は離婚したくて母親に相談してたんだ。それで嫁いびりをして追い出しましょうって、正月の無理な課題をお前に押し付けたのか」

「私はそう思ってる」

「なんだよ。俺が頑張って作ったおせちが無駄じゃねえか」

「本当だよね。それも慰謝料と一緒に請求するわ」

「笑い事じゃないぞ。妹のためと思って寝ずに作って配達までしたんだからな」

「お兄ちゃんには感謝してるよ。いつも私のつまらない愚痴を聞いてくれて、何だかんだ文句を言いながら助けてくれる。感謝してもしきれない」

「嘘だな。お前は俺をいいように使ってるだけだ」

「バレたか」

「お前のことはムカつくが、お前を騙した奴はもっとムカつく。俺にできることがあれば何でも言え」

「結局、頼りになるのは兄貴なんだから」

数日後、探偵から報告が届いた。順一は新しい彼女を作っていて、義母もそれを知っていた。三人でパチンコに行き、一緒に並んで打つ姿が写真に収められていた。私は離婚を決意し、順一に連絡した。

「離婚するわ。そうか。そこまで言うなら仕方ない」

「そこまで言ってないけどね」

「俺ら大して貯金もないし、財産分与とかはなしで、すっきりさっぱり終わりでいいだろ」

「良くないわよ。口座に二万しかないって?」

「切羽詰まっても一万だ」

「じゃあ、二〇一万でいいよ」

「なんで二百も増えてんだよ」

「浮気した場合の相場はそれくらいらしいから」

「誰が浮気したって?俺が?ありえない」

「こちらは探偵まで雇って調べたのよ。お母さんと彼女と三人で並んでパチンコを打つほど仲良しなのね」

「お前、どこまで調べてるんだ」

「マッチングアプリで出会ったんでしょ。私はあなたがパチンコをするなんて知らなかったわ。それに、あの貯金はどうしたの?毎月五万ずつ積み立ててたはずよね。三年で三百六十万は貯まってるはずだけど、二万って何?」

「趣味が原因だ。俺は借金はしてない」

「借りてなくても、ギャンブルで貯金を溶かすのは依存症よ。パチンコをやめなさい。金のかからない趣味を見つけなさい。それに、親戚から訴訟を起こされる前に返済した方がいいわ」

「そんな物騒なことするかよ。身内だぞ」

「正月も顔を出さないってことは、ほぼ絶縁されてるじゃない。そんな情けが残ってると思う?あんたの名前で借金とかされてないといいけどね」

「さすがにそこまでは……いや、ありえるかもしれない」

「疑心暗鬼になる親子関係ね。私はやってられないからさっさと抜けるわ。離婚届を送るからよろしく」

「離婚はいいけど金は払わないぞ」

「黙れ、浮気者」

数時間後、義母から電話がかかってきた。

「あんた、息子に二〇〇万も請求したって本当?」

「少なかったですか?ではもう少し足しておきますね」

「逆よ。たかが浮気で二〇〇万だなんて冗談じゃない。何様のつもり?」

「奥様のつもりですが。お母さんこそ、強気でいられるのも今のうちですよ。近いうちに親戚からの訴訟ラッシュが始まりますから。口で言っても返さないんだから、裁判所に命じてもらうしかないですよね。私は夫から、浮気の慰謝料二〇〇万と貯金の使い込み一八〇万、合わせて三八〇万を請求します」

「ありえない」

「夫とグルになって嫌がらせをして離婚に追い込むより、浮気とギャンブルのことを最初に打ち明けてくれたら、さっさと判を押したのに。まあ、今となっては私はこの方が嬉しいです。パチンカス夫と妖怪不倫男と縁が切れるんですから」

「あんたこそ、料理もまともにできない脳なしのくせに、偉そうなことを言うんじゃないわよ」

「仕方ないじゃないですか。軽い麻痺があって、包丁が握れないんですから。子供の頃の病気の後遺症です。夫には話してたし、結婚の許可ももらってたって言われてましたから、てっきりご存じかと思ってました」

「知らないわよ」

「だから、あんなに嫌がらせをしてくるんだと思って、心底引いてたんですよね。知ってたらあんなことさせなかったでしょう」

「夫はあえて黙ってたんでしょうね。私が料理ができないことを知ってたら、絶対に失敗すると思ったんでしょう。でも、あのおせちは一体誰が作ったの?」

「あれは私の兄が作りました。脱サラして料理人をやってるんです。本人は絶対に言いませんけど、多分私のためです。頼んでもないのに、タッパーにおかずを詰めて持ってきてくれるんですよ。料理ができない私が夫に捨てられないように、胃袋を掴む役割を買って出てくれてるんです」

「お兄さんの店って繁盛してるの?」

「それなりに。メニューは4. 2で評判もいいです。でも絶対にだめですよ」

「まだ何も言ってないわ」

「どうせお金を貸してとかでしょ。到底、年金で返せる借金じゃないですよ」

「一発逆転を狙うんじゃなかったの?」

「息子の愛人が当たり外れだったわ。仲良く遊んでたんでしょ?パチンコのためにうちの家を売れと言い出したの。断ればいいじゃないですか。家は息子名義だから、勝手に抵当に入れてお金を借りちゃってるのよ」

「もう、笑うしかないですね」

「何を笑ってるのよ」

「人を邪険に扱って、バカにして、見下してた人が転落していく姿を見るのは、にやけちゃいますよね。私って性格悪いなあ」

「最低ね」

「母さんに言われたくないです。私のますます家もなくなるかもしれない。どうやって生きていけばいいの?」

「働くしかないんじゃないですか。兄の店がちょうど従業員を募集してますので、応募してみては?」

「雇っていただけるかしら?」

「聞いてみましょうか」

「お願いできる?」

「ちょっと待ってくださいね。私、料理も洗い物も得意だし、きっとお役に立てると思うのよね。都会は最低賃金も高いし、それなりにもらえるんじゃないかしら」

「お待たせしました。いいそうですよ」

「本当?良かったわ」

「コキ使ってやる、と兄が申しております。地獄の老後スタートです」

その後、元々パチンコに興味のなかった順一は、金遣いの荒い彼女と別れようとした。しかし、彼女が勝手に彼の家を抵当に入れて借りた八〇〇万円を回収するまでは別れることができず、今も別れられないでいるらしい。会社も辞めさせられ、深夜は清掃のアルバイトをしながら、わずかな千円を握りしめてパチンコ屋に通っていると、義母から聞いた。幸せそうで何よりです。

義母は兄の店で本当に容赦なく働かされ、二週間後のある日、営業中に逃げ出した。兄がどれだけコキ使っていたのか、想像を絶する。田舎の家には順一とパチンコ女が住み着き、戻ることはできない。今は、兄の店よりも労働環境の悪い飲食店で住み込みをしながら、少しずつだが親戚への返済を続けているそうだ。

私は料理が得意な男性に出会えるよう婚活を頑張っている。ただ、兄の存在がハードルを上げている気がして、ちょっと心配だ。

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