あの日、社長は笑いながら言った。『これでお前とも縁切れだな。もう帰っていいぞ。さようなら。』—四十七年間、会社のために身を粉にして働いてきた男への最後の言葉がこれだった。月給十八万円に減額され、有給二十日分も無給にされ、最後の給料は一万八千円。それでも私は黙って受け入れた。だが、私が会社を去った翌朝、従業員全員が社長室に集まった。そして、全員が退職届を社長に突きつけたんだ。『佐野さんの扱いを…

あの日、社長は笑いながら言った。『これでお前とも縁切れだな。もう帰っていいぞ。さようなら。』—四十七年間、会社のために身を粉にして働いてきた男への最後の言葉がこれだった。月給十八万円に減額され、有給二十日分も無給にされ、最後の給料は一万八千円。それでも私は黙って受け入れた。だが、私が会社を去った翌朝、従業員全員が社長室に集まった。そして、全員が退職届を社長に突きつけたんだ。『佐野さんの扱いを...

これでお前とも縁切れだな。もう帰っていいぞ。さようなら。

その言葉を最後の侮辱として、佐野誠は会社を出た。神崎社長の声には感謝も憎しみもなく、ただ邪魔者が去ったという安堵だけがあった。その横では息子の匠もこちらを見て笑っている。二人にとって佐野は最初から邪魔な存在でしかなかった。

だが、彼が出ていった翌朝、従業員全員が朝礼前に社長室へと集合した。

失礼します。

全員でどうした。もうすぐ朝礼だぞ。さっさと準備しろ。

社長は嫌悪感をあらわにしたが、従業員たちはそれに屈しなかった。彼らがこれからしようとしていることに、恐れをなしていなかったからだ。そして、その行動が思いもよらない展開を迎えることになる。

佐野誠は高校卒業後、中小製造業の桐流精密工業に四十七年間勤務してきた。今年で六十五歳になり、今も現役の製造技術担当社員だ。精密金属加工の職人技術を持ち、〇・〇一ミリ単位の調整ができる熟練工だった。独自の研磨技術と工具の改良ノウハウは業界でも一目置かれるものだった。従業員たちに技術指導を行い、全員が佐野を師匠として慕っている。真面目で温厚な性格で、先代の社長も是非会社に残ってくれと懇願したものだ。

しかし、その先代も体調を崩し、去年その座を息子に譲った。新社長となった神崎竜一は佐野を嫌っていた。

おい、さっさとやめろよ。いつまでしがみついてんだ。そんなに金に困ってるのかよ。

それを聞いて佐野は思わず耳を疑った。まさか会社のトップともあろう方が、そんな暴言を吐くなんて思いもしなかったのだ。理不尽な態度はほぼ毎日であった。

寒桶に片足突っ込んでるおいぼれは、そこまで金は必要ないだろう。

極めつけはその一言で、月給十八万円まで減額された。業界最低水準である。それでも佐野はやめるわけにはいかなかった。訳があって貯金はなく、年金だけでは暮らしていけない。それに、技術を次世代に伝承する使命でもあったからだ。

我慢する日々を続けながらも、佐野は文句を言わず黙々と仕事をこなし、定年退職まであと一週間という時期を迎えていた。

彼が桐流精密工業に入社したのは十八歳の春。先輩職人たちから一つ一つ丁寧に技術を学び、寝る間も惜しんで練習を重ねた。工具の持ち方、研磨の角度、力の入れ具合、全てに意味があり、何度も失敗を繰り返しながら少しずつ技術を体得していった。三十代半ばには社内で最も高度な加工を任されるまでに。特に佐野が得意としたのは曲面の研磨技術だ。複雑な三次元曲面を手作業で〇・〇一ミリ単位まで仕上げる。機械では不可能な、人間の感覚と経験だけが可能にする技だった。

彼の技術ノートには四十年分の記録が残されている。どの工具を使えばどんな仕上がりになるか。材質ごとの癖、季節による金属の変化、湿度の影響まで細かく書き込まれたメモは、まさに職人の財産そのものだった。このノートを若手社員たちに惜しみなく公開し、一緒に学んでいくのが佐野のスタイルだった。技術は独り占めするものではなく、次の世代に伝えていくものだという信念があったからだ。

毎朝六時に出社した彼は、工場の機械を点検する。若手社員が出社する前に、全ての設備が正常に稼働するよう準備を整えるのが日課だった。機械のわずかな異音も聞き逃さない。油の状態、ベルトの張り具合、刃の減り具合、全てを確認する。機械は言葉を話せない。だから人間が気づいてやらないといけない。それが佐野の口癖だった。若手社員たちが出社する七時半には、すでに工場全体の準備が整っている。そんな彼の姿を見て、若手たちも自然と早く出社するようになっていった。

製造課長の早川孝志は、佐野を最も尊敬している一人である。彼自身も十五年のキャリアを持つベテランだが、佐野の技術の前では頭が上がらない。

佐野さん、この研磨の角度を教えていただけますか。

ああ、ここは十五度が最適だ。それ以上だと表面が荒れてしまう。

なるほど。やはり佐野さんの技術は素晴らしいです。

そう言って早川はメモを取りながら、佐野の手元を真剣に見つめる。何度見ても新しい発見があり、それが佐野の技術の深さを物語っていた。

営業担当の柴田も、彼の技術があるからこそ取引先との信頼関係を築けていると感じていた。二十年来の営業マンである柴田は、何度も何度も取引先を訪ねてきたが、商談で最も効果的なのは佐野の技術を見せることだった。佐野の技術がなければ、政作所との契約は取れなかっただろう。

いや、君の営業力があってこそだよ。

柴田が政作所の工場見学を設定した際、佐野の実演を見た購買部長が即決で契約を決めた。この技術なら信頼できるという言葉と共に。以来、政作所は桐流精密工業の最大の取引先となっている。

佐野さん、この工具の使い方を教えてください。

まず持ち方からだ。やって角度を意識するんだよ。

製造担当の新人である水島明里は、入社以来佐野から直接指導を受けていた。明里は工業高校を卒業したばかりの十九歳で、製造業に女性が少ない中、技術を学びたいという強い意思で入社した。最初は工具の名前すら分からなかったが、佐野はそんな彼女に根気強く教えた。彼の手は大きく、明里の手は小さい。だが佐野は、手の大きさは関係ない。大切なのは感覚だと言って、何度も何度も繰り返し教えた。

丁寧に教えてくださって、ありがとうございます。

入社して一年、彼女は基本的な加工技術を身につけ、簡単な製品なら一人で仕上げられるまでになった。それも全て佐野の丁寧な指導があったからこそである。

そんな風に彼は、誰に対しても分け隔てなく接し、惜しみなく技術を伝えた。ベテランにも新人にも同じように真摯に向き合い、質問されれば必ず手を止めて実演しながら説明する。見て覚えろではなく、一緒に考えようというスタイルだった。それが彼の人生哲学であり、亡き妻の良恵も評価してくれていた部分である。彼女は生前よくこう言っていた。

あなたは優しい人だから、きっとみんなに慕われているのね。

佐野にとって、妻のその言葉が何よりの励みだった。良恵が病で倒れた時も、彼は毎日病院に通い仕事の話を聞かせ、彼女は笑顔で頷いていた。そして、そんな良恵の最後の言葉は、あなたの技術をたくさんの人に伝えてね、だった。以来、佐野はその約束を守り続けている。

一方で神崎は、佐野が若手に慕われているのが気に入らず、嫌がらせを続けてきた。元々専務という肩書きであった彼は、先代から初歩的な技術は教わっていたが、これが驚くほどに不器用だった。

なんだこれ。こんなの俺が覚える必要はない。下っぱの仕事だ。

そう言って以来、彼は一切機械に触れることはなかった。大学は有名な私立を卒業し、経営知識もあった。そのおかげで経営手腕はあったものの、職人の技術を理解していない。いや、理解する必要はないと決めつけていた。神崎にとって重要なのは利益であり、技術は単なる手段でしかないと。だが、取引先は佐野の技術を評価し、彼ではなく佐野を指名することが多かった。それが神崎のプライドを余計に傷つけたのである。

お前、少し持ち上げられたからって調子に乗るなよ。お前みたいな老いぼれ、どこも必要としてねえんだよ。勘違いすんな。

そう吐き捨てたこともあったが、佐野は何も答えなかった。ただ黙って仕事を続けるだけだった。

たちが悪いのは、神崎の息子である匠である。匠は二十三歳で大学卒業後すぐに桐流精密工業に入社した。製造の現場経験はほとんどなく、父親同様に不器用であったため、先代は設計部門長に指名していた。しかし、知識もなくできるわけがない。そのためお飾りであるのは周知の事実だった。何もしなければいいのだが、匠は気が向いた時だけ設計図を書いてしまう。しかも設計ミスを頻繁に起こす始末。

この不良品のせいですよね。

いや、これは設計ミスで……。

そう言いかけて佐野は口を閉じた。匠は明らかに機嫌を悪くした。

俺のせいだって言いたいんですか。でも、製造で気づくべきでしたよね。

指摘はしたつもりですが……

証拠を出してから言えよ。この老いぼれ、本当に怖いんだけど、人に責任をなすりつけてこようとしやがって。

おいおい、冗談はそこまでにしておけよ。

息子の声を聞きつけた神崎が、そう言って匠を庇う。見ていた同僚たちは佐野に同情の目を向けることがあっても、誰も助けることはできなかった。逆らうとどんな制裁をされるか分からないからだ。今や匠も父の力を借りて専務についている。だが、その態度は加速していくばかりだった。

何度か早川が神崎に直談判しようと考えたが、その度に佐野に止められた。

早川君たちには未来がある。私のために立場を悪くする必要はないよ。

その言葉に早川は涙をこらえる。ならば、いつか必ず佐野さんの恩に報いる、と心の中で強く誓ったのだった。

さらに翌日、朝礼の時間を迎え、従業員は神崎の前に集合した。いつもなら簡単な業務連絡だけで終わるものだったが、この日は違った。神崎の表情は険しく、何か言いたいことがあるのが明らかだった。

佐野、お前よくやってくれたな。何も使えもしないくせに、ボーナスをもらったみたいだな。

その言葉に工場内の空気が一瞬で凍りつく。全社員が息を飲み、佐野を見つめた。

おい、そこのお前。

はい。

すると急に匠に指された明里は、戸惑いながらも返事をした。

もし、こんな老いぼれがお前より多くボーナスをもらっていたらどうだ。不満だよな。

え、いえ、佐野さんの技術は優れていますし、妥当かと思いますが。

いいえか。これは王だ。王量だ。

自分から聞いておいて、今度は佐野のことを褒める神崎。聞いていた佐野は、あまりにも理不尽な言葉に首を横に振った。

そんな……。

違うと言いたいなら、訴えられたくなかったらさっさとこの会社をやめな。

笑いながら自主退職を突きつけてくる。今まで誰よりも真面目に働いてきた男に対する、あまりにも理不尽な仕打ちだった。

退職金から、今までのミスに対する損害金も引いとくからな。

その一方的な通告に佐野は目を見開く。その声はわずかに震えていた。

マイナスのところを温情で退職金にしてやるんだ。感謝しな。

さすが親父。いや、社長優しすぎ。

ゲラゲラと笑う二人。佐野は思わず目の前が真っ白になった。退職金は、長年働いた者への最後の感謝の印である。それすらも神崎は佐野に与えようとしなかったのだ。

嫌なら裁判でも何でもしろ。まあ、勝てるわけないし。そんな金もないだろうがな。

その言葉には明確な悪意がある。確かに佐野に裁判を起こす資金はなかった。貯金がほとんど残っていない理由は、亡くなった妻への高額な医療費にあった。それを知った上で、神崎と匠は彼を嘲笑っていたのだ。

あまりにも無情な言葉の数々に、佐野はもう何も言えなかった。これ以上騒ぎを大きくしても、他の従業員に迷惑をかけるだけだと判断し、その場から静かに立ち去っていく。

待ってください。

若手社員や明里がその背中に声をかけ呼び止めたが、彼は振り向かなかった。

更衣室で帰る支度を済ませ、意気消沈していた佐野の元に早川が駆けつけてきた。

佐野さん、大丈夫ですか。さすがにひどすぎますよ。あの二人、出るとこ出ましょうよ。

いや、いいんだ。でも、退職金が老後の頼みだったからね。有給をもらって、今後のことを考えさせてもらうよ。

そう言って彼は力なく笑い、残っていた有給休暇の消化を申請することにした。これまで働いてきた佐野には、使いきれなかった有給休暇が積み上がっている。若手が休む分、自分が穴埋めをしていたのだ。結果として二十日分の有給休暇が未消化のまま残っていた。労働基準法では、未消化の有給休暇は退職前に取得する権利がある。佐野はその権利を行使しようとしていた。

向かった総務の窓口で申請書を提出すると、担当者は困惑した表情を浮かべた。担当の事務員は三年目の若い女性だ。彼女も佐野の人柄を知っており、いつも優しく接してもらっていた。だからこそ、この申請を神崎に提出しなければならないことが辛かった。

佐野さん、この申請は社長の承認が必要になります。

分かりました。よろしくお願いします。

佐野は彼女にも心配させまいと、穏やかに微笑んだ。

そして、その日の夕方、彼は神崎から呼び出しを受け、再び会社へ赴いた。社長室のドアをノックすると、中から入れという声が聞こえ、佐野は社長室に入る。そこにいた神崎は机に足を投げ出して座っており、佐野を見下すような目で睨んだ。部屋には匠の姿もあり、父親の横に立って腕を組んでいる。

有給休暇を取ろうとしてるんだって。お前、何考えてんだ。

権利として……と佐野が説明しようとすると、神崎が手を振って遮った。

認めん。せっかく温情で損害金までゼロにしてやったのに。

まあまあ、老いぼれの最後のお願いだし、聞いてやろうよ。

珍しく佐野の肩を持つ匠。神崎は一瞬だけ驚いた顔を浮かべるも、彼の悪意に気づき、不敵な笑みを浮かべる。

そうだな。いいだろう。認めてやるよ。

そのやり取りを見て佐野は不審に思いつつも、有給消化を認めてくれたことに安堵した。

ありがとうございます。

だが、休暇を消化した最終出勤日。いつものように朝礼で従業員が集合する中、神崎が佐野を前に呼び出した。

佐野は付けで退職だ。お疲れさん。

そう言って給料明細と封筒を渡す。佐野は受け取り、早々に下がろうとした。

今、開いて見てみ。受けるから。

すると匠が確認するように促してきたので、嫌な予感がしてたまらなくなった。そして給料明細を確認すると、そこには驚きの記載がされていた。なんと、佐野が取得した有給は全て無給扱いになっていたのだ。

これはどういうことですか。

彼の反応を見た神崎と匠は大笑いしている。

労働基準法に違反するのでは。

さすがの佐野も、こればかりは強気の姿勢に出る。有給休暇は賃金を支払った上で休暇を与えるものだ。それを無給にするのは、明らかな法律違反である。

違反って、就業規則に書いてあるんだよ。会社の判断により有給を無効にできるってな。

確かに桐流精密工業の就業規則には、そのような違法な条項が存在していた。誰も気づかないように、神崎が数年前に勝手に追加したものである。従業員に就業規則を配布する際、その部分だけ小さな文字で記載していた。その書類を佐野に見せつける。

しかしかし、それはあまりにも……。

佐野が抗議しようとすると、神崎がそばにあった机を叩いた。

だから言ってんだろうが。嫌なら裁判でも何でもしろ。お前みたいな貧乏人に、弁護士雇う金があるならな。素直に従えよ。どうせ勝てないんだから。

匠も横から口を挟む。結局、有給休暇は無給扱いとなり、最終月の出勤日数は三日間のみとなった。二十日分の有給休暇は全て無給で処理される。長年働いて、最後の給料はたったの一万八千円であった。

これが佐野に対する桐流精密工業の評価だ。お前にその額を払うのももったいないけど、優しい社長で良かったな。

しかし、その侮辱に今まで聞いていた従業員たちの怒りが頂点に達する。早川の顔は紅潮し、今にも飛び出しそうな勢いだった。柴田は匠を睨みつけ、明里は泣きそうになっている。他の従業員たちも拳を握りしめていたが、誰も声を上げることはできなかった。しかし、この理不尽を決して許さないと、従業員の心に火をつけた瞬間だった。

佐野が工場を出ようとすると、神崎は佐野と呼び止めた。

まだ何かあるのか。

佐野はそう返事して立ち止まり振り返ったが、その声には疲労が滲んでいた。神崎の隣にはまた匠の姿もあった。

お前が使ってたロッカーとデスクの清掃代として、一万五千円払え。

使用していたロッカーとデスクは確かに古くなっているが、その理不尽な要求に思わず呆れてものも言えない。

会社の備品だ。綺麗にして返すのは当たり前だろう。

神崎は最後まで佐野から金を絞り取ろうとしていた。

嫌なら給料から差し押える。どっちがいい。

差し押さえられるか、自主的に払うか。どちらを選んでも、佐野に残る金額はたったの三千円。仕方なく佐野は財布から一万円を取り出して支払った。

最後の給料三千円じゃん。やば。

これでお前とも縁切れだな。もう帰っていいぞ。さよなら。

その言葉を最後の侮辱として、佐野は会社を出た。最後まで神崎の言葉には感謝もねぎらいもなかった。ただ、邪魔者が去ったという安堵だけ。二人にとって佐野は最初から邪魔な存在でしかなかったのだ。

事務室の前を通り過ぎる際、事務の遠藤さおりが心配そうに彼を見つめていた。彼女は入社五年目の事務で、佐野にはいつも優しくしてもらっていた。書類の処理を間違えた時も、彼は責めずに、誰にでもミスはあるよと言ってくれた。そんな佐野がこんな仕打ちを受けるなんて、とたまらず彼女は声をかけようとした。だが言葉が出てこない。何と言えばいいのか分からなかった。

ありがとうさん。お元気で。

そんな彼女の気持ちを察し、佐野は微笑んで声をかける。その笑顔はこれまでと変わらないものだった。ふと、そばに置いてあった災害義援金の募金箱が彼の視界に入る。被災地支援のための募金箱で、もう何年も前の震災だが、まだ復興活動は続いていた。募金箱には、被災地の子供たちに笑顔を、と書かれている。自分よりもはるかに不幸な人生を送っている人たちがいる。そう思うだけで胸が張り裂けそうになった。手元には三千円。それでも誰かの役に立つならばと、佐野は全て募金箱に入れた。

佐野さん、そんなに入れて大丈夫だったんですか。

見ていた遠藤は、驚いた表情で彼を見つめる。たった今、理不尽な仕打ちを受けたばかりだというのに。

少しでも役に立てればと思いまして。

その笑顔には後悔も未練もなく、ただ誰かの役に立てたという満足感だけがあった。佐野は技術を惜しみなく教え、若手を育て、会社を支えてきた。最後の瞬間でさえ、その姿勢は変わらない。遠藤は涙をこらえながら、彼に深くお辞儀をした。

今まで会社のためにご尽力くださって、本当にありがとうございました。

彼女の声は涙でかすれていたが、せめて感謝の言葉を伝えた。佐野は軽く手を振って、今度こそ会社を後にしたのだった。

その後、仕事を終えて家に帰宅した遠藤は、SNSに投稿した。有給を勝手に無給にすり替えられた人がいる。投稿には桐流精密工業の名前は出さなかったが、内容は十分に衝撃的だった。佐野のプライバシーを守りながら、事実だけを伝えることを選んだのだ。投稿は瞬く間に広がり拡散された。その数は想像をはるかに超えていき、コメント欄には怒りの声が殺到した。こんな会社があるなんて信じられない。労働基準法違反では。この会社を許してはいけない。など、相次ぎ、瞬く間に数千件に達していた。彼女の投稿は予想以上の反響を呼んだのである。

翌朝、従業員全員が朝礼前に社長室へと集合した。

失礼します。

全員でどうした。もうすぐ朝礼だぞ。さっさと準備しろ。

神崎は嫌悪感をあらわにする。しかし、従業員たちはそれに屈することはなかった。早川は昨夜の出来事を思い出しながら、胸ポケットに手を入れる。実は昨夜、仕事が終わった後、従業員全員が早川の自宅に集まり、今後のことを話し合っていたのだ。

佐野さんへの仕打ちを見てもうこの会社では働けない。全員でやめよう。そして、佐野さんと一緒に新しい会社を作るんだ。

柴田の言葉に全員が頷き、明里も賛成する。

佐野さんがいない今の会社に、未来はありません。

そして今に至り、早川をはじめとした従業員全員が胸ポケットから退職届を取り出すと、それを神崎に突きつけた。

佐野さんの扱いを見ていや、もっと前からこの会社に未来はないと判断しました。

その言葉に神崎の表情が変わる。

はあ。何を言ってるんだ。

そう言って彼は笑おうとしたが、予想外の状況にうまく笑えない。

私たち全員、本日付けで退職させていただきます。

お、お前ら正気か。やめたらどうやって生活するんだ。

神崎のその声は、わずかに震えていた。それもそのはず。受注している製品は納品できず、取引先との信頼関係は完全に崩壊。最悪の場合、製造ラインの完全停止。いや、会社の終わりを意味していたからだ。

証拠は全て記録済みです。

すると今度は前に出た柴田が、自身のスマートフォンを取り出し、これまでの神崎と匠の数々の悪事を記録した音声を流した。その瞬間、神崎の顔が見る見るうちに蒼白になっていく。証拠を取られていたとは思っていなかったのだ。

労働基準監督署への通報も準備済みです。

さらに明里の手には、労働基準監督署への通報書類が握られていた。それを見て神崎は怒りをあらわにする。

ふざけるな。これは立派な脅迫だぞ。お前ら、訴えてやるからな。覚悟しとけ。

もう朝礼の時間だけど、何してんの。

朝礼の時間になっても誰も集まってこなかったためか、匠は呑気に社長室へやってきた。しかし、その場の異様な空気を察すると困惑の表情を見せる。

え、どうしたの、みんな。

そんな彼をよそに、早川の合図で従業員全員が一斉に自身のスマートフォンを取り出す。一体何をするのかと神崎が目を見張っていると、彼らの画面には社長と書かれた連絡先があった。その下には、本当にブロックしますか、の文字がある。それを従業員たちは一斉にタップして、神崎をブロックしたのだ。

続きは裁判でも何でも、弁護士を通して話しましょう。それでは私たちはこれで失礼します。

早川は軽く頭を下げると、その場から去る際、入口付近にいる匠を冷めた目で見た。以前とは違うその態度に、匠はいつもの強気が嘘のように固まっていた。

何があったの。

困惑する匠だが、神崎は顔を真っ赤にし、言葉にならない声で悔しそうに叫ぶのであった。

工場を出た早川は、すぐに佐野に電話をかけた。何度も技術的な相談で電話をかけた番号だ。そして今日、最も重要な報告をするために、この番号にかける。

佐野さん、お疲れ様です。早川です。

お疲れ。どうしたんだ。今って朝礼の時間じゃなかったか。

電話の向こうから、佐野の穏やかな声が聞こえた。比較的元気そうな声に早川は胸を撫で下ろすと、話を本題へ移す。

実は今、退職届を出してきたんです。

え。何を言っているんだ。

佐野の信じられない声が聞こえたが、早川は言葉を続けた。

私だけではありません。従業員全員です。

ええ。

衝撃の事実を聞いて、思わず声をあげる。それがどういう意味を持つのか、佐野は次第に分かっていくと、自分のせいで従業員たちの職を失ったことに責任を感じた。

俺のせいで……。

いえ、これは僕たちの意思です。それに、佐野さんは知らないかもしれませんが、今回の件はSNSで拡散されています。

早川の言葉を聞いても、佐野はピンとこなかった。SNSをほとんど使わないため、まさか自分の行動が話題になっているとは思わなかったのである。

遠藤さんが投稿した内容が拡散されたんです。桐流精密工業の悪評が、瞬く間に広がっています。

SNSの拡散力は想像以上だった。会社名を伏せていても、桐流精密工業だと特定されていたのだ。わずか一晩でその評判は地に落ちたとも言える。

地元新聞社とテレビ局も来てます。

すごいことになっているのは伝わったよ。

しかし佐野は信じられない思いだった。まさかここまで話が大きくなっているなんて思わなかったからだ。

佐野さん、俺たちからお願いがあります。

どうした。急に改まって。

先ほどから驚きの連続で、佐野の頭の中がまだ整理されていない中、早川の声は妙に真剣だった。

みんなで新会社を立ち上げます。どうか俺たちの社長として、これからも面倒を見てくださらないでしょうか。

その言葉に自分の耳を疑った佐野は、電話越しで何度か間を置いた。

俺が社長。そんな大役を自分が務められるのか。

思わず息を飲む佐野に、早川は言った。

佐野さんの技術指導が必要なんです。どうかお願いします。

早川のその声は懇願するようだった。電話の向こうからは、従業員たちの声も聞こえ、佐野の返事を待っている。その沈黙に、佐野の目頭は次第に熱くなっていた。自分を慕ってくれている者たちがいる。それが何よりも嬉しかったのだ。

わかった。喜んで引き受けるよ。

ありがとうございます。

電話の向こうから、歓声が聞こえる。

佐野さん、ありがとうございます。一緒に頑張りましょう。佐野さんがいれば、絶対に成功します。

その数々の声を聞いて、佐野の涙腺はついに崩壊してしまった。会社を立ち上げることは決して簡単ではないことは、重々承知している。資金も必要で、取引先も確保しなければならない。だが、彼らと一緒なら、そんな不安も乗り越えられると佐野は思ったのだった。

一方、桐流精密工業では取引先からの問い合わせが殺到していた。事務室にある電話が鳴り止まない。遠藤も退職してしまい、匠が次々とかかってくる電話に対応していた。しかし、その内容は全て同じである。取引先からの問い合わせと、契約解除の通告だった。

SNSで経営について問題があると聞きましたが。

取引先は中堅の機械メーカーだった。桐流精密工業とは十年以来の取引がある。しかし、担当者の声は明らかに不審感に満ちていた。

申し訳ございません。現在、社長が対応を検討しておりますので。

匠は決まり文句で答えるしかなかった。だが、その答えに説得力はない。

従業員が一斉退職したというのは本当ですか。

ええ、どこで。い、一部の従業員が退職したのは事実ですが。

バレてはいけないからとっさに嘘をついたが、取引先の不審感は増すばかりだった。

それでは、今後の納品に影響が出ますよね。申し訳ございませんが、契約解除させていただきます。

そう言って一方的に電話は切れ、言葉を失う匠。さらにこの状況は続いた。

今後の納品に影響はありますか。

現在、状況を確認しております。

しかし、実際には製造は完全に停止している。神崎と匠だけでは何も作れない上に、納品は不可能だ。

納品が遅れると困るんですけど。

その後も匠は必死に対応したが、次々とかかってくる電話に追いつけなくなっていた。意図的に拍車をかけられたとも知らずに。実は早川がやめる直前に、最後の挨拶として、従業員全員がやめることを取引先に伝えていたのだ。心配になった取引先からの確認の電話は、鳴むことを知らない。桐流精密工業は、全ての従業員と同時に取引先を次々と失った。

そしてさらに追い打ちをかけるように、ある場所から電話がかかってきたのだ。

桐流精密工業様ですね。労働基準監督署の美並と申します。

その言葉を聞いて、神崎の顔が見る見るうちに蒼白になる。聞かされたのは匿名からの通報だった。その通報は有給休暇の無給化と未払い残業代についてのもので、調査します、との告げがあった。

翌日、その言葉通りに労働基準監督署の立ち入り調査が実施された。過去十年分の未払い残業代と、違法な有給無給化が発覚する。

神崎社長、これは重大な労働基準法違反です。

そ、そんな……。

未払い残業代と有給未払い分で、総額三千五百万円の支払い命令を出します。

そんな金額、払えるわけが……。

支払いができない場合は、財産の差し押さえを行います。

さらに銀行からの融資も打ち切られることに。

御社の信用状況を鑑み、融資の継続は困難と判断いたしました。

せめて運転資金だけでも。

申し訳ございませんが、既存の融資も返済していただく必要があります。

そして神崎は資金繰りが悪化し、完全に追い詰められていった。

一方で佐野の元には、早川から連絡が入った。

佐野さん、新会社の準備が整いました。社名は佐野プロジェクトです。

え。俺の名前なの。

ええ、会社の顔ですから。

早川の弾んだ声に、佐野は照れ臭そうにしながらも、まんざらでもないようであった。

期待に答えるよう、頑張るよ。

それから三ヶ月後、佐野プロジェクトは順調にスタートを切った。佐野は社長として、従業員への技術指導も行っている。給料も以前よりずっと良くなり、おかげで佐野の生活には余裕が生まれ、老後の不安も解消されつつあった。六十五歳になろうと、彼は自身の技術向上を惜しまない。指導する中で、新たな技術や改善案を見つけ出していく。そして、佐野の独自技術が従業員全員に伝授され、製品品質は飛躍的に向上した。業界で注目され、以前取引先だった会社も定期的に工場を訪れ、品質管理を確認。ここでも彼の技術は絶賛され、新会社で再び契約を結ぶことが後を絶たなかった。

佐野さん、相変わらず素晴らしい技術だ。あなたの指導力の賜物ですね。

いえ、そんなことは。従業員全員が一丸となって最高品質を作り上げたい、その思いからです。

佐野は胸を張ってそう告げた。四十七年間の苦労が、ようやく報われた瞬間だった。

一方、神崎は労働基準監督署から支払い命令を受けた三千五百万円の支払いに追われていた。支払い能力がなくなった今、自宅と会社の土地建物を差し押さえられることに。もちろん桐流精密工業は廃業し、神崎は自己破産を申請。支払い命令も、未払い賃金立替払い制度を利用してどうにかするつもりであった。

どうするんだよ。

うるさい。自分で考えろ。

さらに神崎と匠の親子関係にも亀裂が生じ始める。修復することもなく、二人は絶縁状態に陥っていった。

それから半年後のある夜、佐野が孫とコンビニに買い物に来た際、レジに並ぶと不意に店員と目が合う。その瞬間、彼はひどく驚いた。

いらっしゃいませ。

なんと、神崎が店員として働いていたのだ。佐野は噂に聞いていたが、まさかここのコンビニで働いているとは思いもしなかったのである。孫の前だということもあり、佐野はそれ以上何も言葉をかけなかった。孫の選んだアイスをレジに置き、楽しそうに会話するだけ。

ありがとうございました。

神崎は消え入りそうな声でそう言うと、楽しそうに去っていく二人の背中を横目で見ることしかできなかった。

その後、佐野プロジェクトは設立三年で、創業当初よりも従業員の数が三倍以上に増えていた。佐野の技術を受け継いだ従業員たちは独自の改良を加え、特許十件以上も取得している。その成果もあって、業界誌に佐野プロジェクトの技術が特集され、全国から見学依頼が殺到した。

良恵、君の言葉のおかげで、楽しい毎日を過ごせているよ。

そんなある日の夕方、佐野は自宅の仏壇の前に座り、優しく微笑んでいる妻の写真にそっと声をかけた。毎日充実していることを報告していると、突然スマートフォンが鳴る。画面を見ると、娘のみずほからの着信だった。

お父さん、今度の週末も子供を連れて遊びに行くね。

遊園地がいい。

それじゃあ遊園地に行こうか。

やった。

遊ぶ約束をし、電話を切った後、佐野は窓の外を見つめた。夕日が町を照らしている。

人生、最後まで何があるか分からないものだな。

そう呟いて微笑んだ。そして、思い出したように佐野は特集された業界誌を、写真の横に飾った。

興味ないかもしれないけど、暇だったら読んでほしい。

おめでとう。頑張ったね。

佐野は良恵の声が聞こえた気がした。だが、すぐに空耳だろうと彼女の写真を見つめる。それはいつもより明るく笑っているように見えた。

今日もいい一日だった。週末には娘や孫が遊びに来る予定。

その夜、新たに始めた趣味の日記にそう記す。そして佐野は静かに眠りに着いたのだった。とても穏やかな表情で。

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