65歳のすみ子は、友人とのヨーロッパ旅行から十日ぶりに戻り、スーツケースを引きずりながらマンションの玄関に立っていた。海外の余韻がまだ体に残っている。鍵を開けてドアを押し入れた瞬間、甘い焼き菓子の匂いと、聞き慣れない笑い声が廊下に流れてきた。
リビングのドアの隙間から覗くと、丸いテーブルを囲んで女性たちがティーカップを傾けていた。息子の嫁のなお、その母のれ子、そして友人たち。新品のカップを掲げたれ子が振り返る。
「まあ、すみ子さん、お帰りなさい。あなたがなかなか帰ってこないものだから、使っていなかったお部屋をお茶会スペースにしてみたの」
「誰の部屋だったかしら?もう忘れちゃったわ」
なおが笑いをこらえきれない様子で続ける。
「これくらい明るくしないと、この家って本当に地味なんですよね。高い旅費を払えるなら、家具にももっと気をつけましょうね。私たちが使いやすいように整理しておきましたから、もっと喜んでくださいよ」
れ子の声に合わせるように、周囲の友人たちも笑い声を上げる。
十日間留守にしている間に、私の部屋は消えていた。白い壁紙、ガラスのキャビネット、薄いカーテンだけが揺れている。ベッドもタンスもなくなり、私の荷物はベランダの段ボール箱に押し込まれていた。
なおが軽く手を振りながら告げる。
「お母さんの家具は古臭かったので処分しておきました。ベランダの段ボールは、必要なら整理してくださいね。それにね、お母さんのお香の匂いって、けむったいんですよ。お客さんが来たら恥ずかしいでしょ。アクセサリー類は不利まで出しておいたので、売上は後で生産しますね」
私は旅先で膨らんだポーチを握りしめたまま、言葉を失った。慌てて息子のゆとに電話をかけると、軽い声が返ってきた。
「母さん、一部屋くらい、いいじゃないか。海外旅行に行く余裕はあるくせに、心に余裕はないんだな」
その言葉が胸に刺さった。私はじきを握りしめたまま黙り込んだ。
その夜、私はベランダで段ボールを開き、封筒に入れてあった家計ノートを取り出した。旅の写真データよりも、ノートに残された数字と文字の方が、ずっと現実を突きつけてくる。ノートには、四十二歳で夫を失ってから、一人で支え続けてきた支払いが並んでいた。ゆとの課購入やサゴケア、資格取得費用。れ子の療用費と引っ越し支援。どの項目にも、私の小さな文字が詰まっていた。
なおは今夜はロフトの収納スペースで休んでくださいと、折りたたみベッドと小さなダンボール用具を押し付けた。
「お母さんの体調を気にしてあげているのは私たちぐらいでしょう」
私は段ボールを抱えてはしごを登り、天井に近い狭いスペースで毛布にくるまりながら夜を過ごした。
翌朝、ロフトからはしごを降りると、丸いテーブルには四人分の朝食が整っていた。ゆと、なお、れ子、そして孫のまさ。私の席だけが用意されていない。
「お母さん、台所のカウンターで食べていただけます?リビングに匂いが残ると、お茶の香りが台無しになってしまうので」
まさが「今日はれ子おばあちゃんと遊びましょうね」と手を引かれてしまう。
家の中を選んでいると、れ子が近づいてきた。
「すみ子さん。あなたのお洋服は別で洗っていただけます?客の香水も動かさないでくださいね」
なおがわざと大きな声で笑いながら付け加える。
「母も若いお客様を呼びたいみたいでして、昭和の匂いが残ると台無しなんですよ」
夕食時、私は台所で冷えたおにぎりをかじりながら、リビングの笑い声を聞いていた。遅れて帰宅したゆとが顔を出す。
「母さん、しばらくは我慢してくれないか?れ子さんたちも片身が狭かったんだし、ロフトぐらいで済むならさ」
視線はリビングの明かりに向いたままだ。私は指先に力が入り、ノートの角が手のひらに食い込む。震える手で新しいページを開き、短く書いた。
「もう十分。我慢はここまで」
ロフトへ戻っても眠れず、私は古い手帳をめくる。夫が残した名刺を見つけた。「困った時は先生に相談しなさい」と書かれた名刺。朝一番で伺いますと留守番電話に伝言を残した。
夜明け前、私は法律事務所へ向かった。夫の親友である桜魔弁護士は静かに頷き、封筒を差し出す。
「すみ子さん。ご主人から託されたものです。税金や管理費は処理済みで、引っ越し業者も待機させています」
封筒には庭の写真と、足屋の邸宅の権利書、定期預金の残高証明書、そして手紙が入っていた。
震える指で筆跡をなぞると、夫の声が耳元で蘇るようだった。
「すみ子、困った時はこの家に戻って来い。私がいなくても、お前の居場所はここで守っている」
私は深く襟を正し、静かに息を整えた。
「あなた、ごめんなさい。あなたの言葉に甘える日が来てしまったようです」
翌日、午前。玄関のチャイムが鳴り、引っ越し業者が現れた。
「すみ子様。お荷物を運ばせていただきます」
そう言って丁寧に頭を下げた。ゆとが慌てて飛び出してくる。
「母さん、これどういうこと?引っ越しなんて、誰が手配したんだよ」
なおが叫ぶ。
「どこへ行くつもりなんですか?」
れ子は強がった口調で言い放つ。
「出ていくならご自由に。私たちはここでやっていきますから」
荷物の搬出が終わる頃、黒いセダンがエントランスに止まり、運転手が告げた。
「すみ子様、これより足屋の邸宅へご案内いたします」
なおが息を飲む。
「足屋……」
れ子も目を見開き、言葉を失った。
私は玄関で息子たちを軽い別れの印で見つめ、ノートを抱えて車に乗り込んだ。
夫が守り続けてくれていた家に移り、私は庭のバラに水をやりながら穏やかな朝を迎えるようになった。昼は友人たちと体操や読み聞かせを楽しみ、自治会の集まりでは「あの一家、本当はすみ子さんに頼りきりだったんだってね」と噂が聞こえてくる。
私はただ微笑み、「私は私の暮らしを整えるだけです」と答えた。
ある日、玄関のチャイムが鳴った。モニターには息子のゆと、嫁のなお、孫のまさ、そして杖をついたれ子の姿が映る。
「母さん、ごめん。俺たち、自分たちでなんとかできると思ってた。でも家事も回らないし、れ子さんも体調を崩してしまって」
ゆとの声は震えていた。なおも言葉を探す。
「すみ子さん、私……」
私は彼らを庭のベンチに案内し、「座って外の風に当たりましょう」と促した。れ子は目をそらし、なおは指を揉み続ける。
まさが膝に飛び込んでくる。
「バーバ、宿題一緒に見てほしい。僕、バーバの家に住みたいな」
私は頭を撫で、「今度、庭で勉強会をしようね」と約束した。
ポケットから小さな鍵を取り出し、まさに手渡す。
「これは庭の門の相鍵。パパとママと相談して、遊びに来る日を決めたら連絡してね。でも鍵はパパとママ。それかられ子さんには絶対渡しちゃだめよ」
まさは無邪気な笑顔でこくこくと頷き、ゆととなおは気まずそうに視線を落とした。
私は彼らをまっすぐ見た。
「私が十日、家を開けただけで、あなたたちは勝手に部屋を改装し、荷物はベランダに放り出した。夜勤明けに目をこすりながら払った支払いも、あなたたちのために諦めた時間も、全部踏みにじったのよ。その責任は自分たちで背負いなさい」
すみ子の気迫になおが唇を震わせる。れ子は強がりを崩さないように声を張り上げた。
「何が無駄でしたわ。私たちのことは私たちでやりますから」
私は襟を正した。
「てっきり謝罪に来たのかと思いましたけど。れ子さん、あなたは何しに来たんですか?呼び出しておいて、謝罪の一言も言えないなんて、本当に恥ずかしい。謝罪があれば考える余地もあったかもしれません。でも今、決めました。私はあなただけは一生許しません」
れ子は唇を保とうとしたが、杖を握りしめた手が明らかに震え、顔色が失われていく。私は玄関の扉を開け、「もうあなたたちと話すことはありません」と告げた。
なおを見る。
「なおさん、あなた、残念な母親を持ったわね。もし素直に謝れる人だったなら、結果は違っていたかもしれないのに」
れ子が「ちょっと、あんたね」と声を荒げた瞬間、なおが腕を掴んだ。
「お母さん、もうやめて。帰るわよ」
私は「お気をつけて」とだけ言って、二人を見送った。
扉が閉まる音を聞きながら、胸のうちで静かに呟く。
「これでおしまい。私は私の暮らしを守っていく」
まさは週に一度、遊びに来るようになった。近所の人たちと庭でお茶会を開く日も増えた。日溜まりのテーブルで季節のケーキを切り分けながら、穏やかな時間を味わう。庭のハーブの香りが風に流れ、友人たちの笑顔を見るたび、肩の力がほけていく。
移り住んでからしばらくして、あの日交わした「庭で勉強会をしようね」という約束を守るため、まさが一人で遊びに来るようになった。私は開いたノートに「バーバの家の庭で見つけた星」「今日の宿題、自分でやった」と踊る幼い文字を添えていく。
胸の奥でそっと呟いた。
「この先は、敬意と感謝を知る人たちと歩いていこう」
まさが小声で言う。
「れ子ばあちゃん、最近、いろんな人の家に行って『助けてください』って言ってるんだって。僕、少し怖かった」
「そうなのね」と私は頷き、まさの手を握った。
「でもね、まさ。困った時に助けたいと思えるかどうかは、自分がどれだけ相手を大切にしてきたかで決まるの。だからあなたは、誰かの気持ちを踏みにじるような生き方はしないでね」
まさは真剣な顔で頷き、「分かった」と言った。
灯りの光が静かに揺れる中、私は深く息を吸った。あの日、ロフトで握りしめたノートは、今や穏やかな日々を書きとめるためのものだ。夜風が庭の草を撫で、遠くで鉄道の音が小さく響く。この静けさを守ると決めた瞬間、胸の奥に温かな明かりがともった。
灯りを確かめ、ゆっくりと屋内へ戻った。明日も、自分の手で整えた暮らしが、静かに続いていく。
