母さん、助けてくれよ。もう母さんしかいないんだ。
玄関で泣き崩れる息子と嫁。結婚式も出産も孫の誕生日も、私たちは一度も呼ばれなかった。ずっと私は外の人だった。でも今は私たちにすがりたいと言う。
私は静かに首を振った。
ごめんね。今日でやめるわ。
これは親を卒業した母が辿ってきた物語である。
私の名前は裕子。夫のかずやといつも通りの夕飯を囲んでいた。そこへ息子のた志が真顔で腰を下ろす。
母さん、父さん、俺結婚するから。
え、これまで一度も恋人がいるとも聞いていない。いきなり落とされた結婚の二文字に、喜びより先に戸惑いが押し寄せた。
そ、そうなの?どうしてもっと早く?
自分でも分かるほど声が震えていた。息子は淡々と言う。
もう式場も新居も決めてある。向こうの親が全部段取りしてくれてるから。
向こうの親が全部決めた。その一言が私の胸に冷たく刺さる。式場も新居も、相手のこの顔も知らないのに。
隣で夫が気楽に笑う。
そうか。よかったな。向こうの親御さんが仕切ってくれるなら安心じゃないか。
息子はどこか誇らしげですらあった。私たちの意見はいらないの。思わず言葉が漏れる。
それって私たちの出る幕はないってこと?
食後、夫はお茶をすりながら言う。
そんなに考え込むなよ。た志も大人だ。自分で決めりゃいい。
でも向こうの親が決めてるって、私たちは必要ないみたいじゃない?
親なんて最後は見守るだけだ。仕切ってくれる人がいるなら楽でいい。
それ以上、私には何も言えなかった。その夜、布団に入っても目は冴えたまま。夫の言葉も一理ある。だが、その瞬間から裕子は家の中でも一人きりになったように感じ始めた。
結婚から半年ほど経った頃。
母さん、赤ちゃんができたよ。
電話越しの息子の声に、裕子の胸がふっと温かくなる。
まあ、やっとおばあちゃんになれる。
結婚の時は置いて行かれるようで辛かったけれど、孫の誕生なら一緒に喜べる。私はそう信じた。
だが現実はまた向こうの親中心だった。里帰りが増え、出産に付き添うのも嫁の母。
え、私は?
向こうのお母さんが病院に入るから。
出産の時は向こうのお母さんが付き添ってくれてるから大丈夫。
まただ。式場も新居も出産も、息子の節目はいつも知らないところで決まっていく。
夜遅く、無事生まれたよと電話が入る。
よかった。今から行こうか?いや、感染症が怖いから落ち着いたらね。
初孫を抱いたのも、隣で見守ったのも、全部あの人なんだ。喜びより先に深い寂しさが胸を満たした。
会いに来てと連絡が来たのは、生後二ヶ月を過ぎた頃。小さな服やおもちゃを用意し、裕子はそわそわ落ち着かない。夫も珍しくネクタイを締め直す。
チャイムを押すと、嫁が冷たい表情で出てきた。
すみません。まず手を洗ってアルコール消毒をお願いします。
もちろんよ。赤ちゃんのためだものね。
手を拭いた直後。
それと、今日はまだ抱っこはご遠慮ください。外から来た人に抱かれるとちょっと心配なので。
外から来た人。その一言が裕子の胸の底まで突き刺さる。少しくらい大丈夫だろうと夫が取りなすと、息子も謝る。
ごめん、父さん。俺もそう思うんだ。しばらくは触れないでほしい。
ソファーでは孫がすやすやと眠っている。手を伸ばせば届く距離が、果てなく遠く感じられた。
帰り道。
今は神経質になる時期なんだろう。そのうち抱けるさ。
夫の言葉に私は黙ったまま。でも胸の中では、見えない扉が一つ静かに閉まった。
孫が生まれて一年、会えたのは数えるほどしかなかった。それでも初めての誕生日くらいはきっと一緒に祝える。そう信じていたところに、息子から連絡が入る。
来週誕生日のお祝いをするから、よかったら来てほしい。
本当にありがとう。
当日、嫁の実家のリビングは飾り付けで華やかだった。親族が集まり、笑い声が響く中、私と夫は端の席にそっと座った。
さあ、みんなで写真を撮りましょう。嫁の母が明るく声をあげる。孫を抱いた嫁。その周りに嫁の家族が並んでいく。私と夫も輪に入ろうと一歩踏み出した瞬間。
ごめん。今日は向こうの家族で記念写真を撮るから。
息子の声が静かに遮った。
え、後でみんなの写真も撮るから、とりあえず向こうの家で一枚ね。
嫁の母は悪びれず笑う。裕子たちは一歩下がるしかなかった。シャッター音と共に中央では孫がロウソクを握り、周りでは嫁の家族だけが笑っている。みんなで写真をと言われることは、最後までなかった。
帰りの車内。しばらく沈黙が続いた後、私のスマホにメッセージが届く。賑やかに笑う嫁の家族。元気にロウソクの火を吹き消す孫。どの一枚にも私たちの姿はない。怒りよりも深い虚しさが広がる。
スマホを伏せ、裕子はぽつりと呟いた。
私、もう親をやめる。
ハンドルを握るかずやの手がぴくりと震える。
裕子、何を。
だってそうでしょう。式場も出産も初誕生日でさえ、全部向こうの親が決めた。私たちはどこにもいなかったのよ。
息子の人生から、母親としての私はとっくに外されてた。だったらもう親でいる必要なんてないじゃない。
その夜、私の中で母としての何かが静かに崩れ始めていた。
誕生日の屈辱から数週間、私は夫との静かな日々に意識を向けるようになった。朝は散歩、昼は手芸、夜はドラマ。息子夫婦の話題は口に出さない。親をやめると口にしてから、心の中に距離を置く覚悟が根付いていた。
そんな夕方、料理をテーブルに置いた瞬間、スマホが震える。表示された名前は息子だった。私は迷いながら通話ボタンを押した。
もしもし。
聞こえてきたのは、かつての冷たい声ではなく弱々しく追い詰められた声だった。
母さん、助けてくれないか?
どうしたの?た志。
もう限界なんだ。向こうの親が家のことも子育ても全部口出ししてきて、俺何も言えない。嫁も向こうの味方で、俺のやり方ばかりで、俺完全に孤立してる。
あれほど向こうの親が決めたと言っていた息子とは別人のようだった。夫が隣で耳を寄せる。
た志、お前やっと分かったのか?
その声には父としての怒りがにじむ。押し込めてきた痛みが浮かび上がる。
母さん、俺間違ってた。全部向こうに任せたのがいけなかった。今更だけど助けてほしい。俺にはもう母さんしかいないんだ。
その一言が私の古い傷を強く揺らした。助けを求められた嬉しさ、怒り、悲しさが一度に押し寄せる。
夫が静かに言う。
裕子、無理に答えなくていい。あいつが自分で巻いた種だ。
短い沈黙が永遠のように長く感じられた。
た志。
自分でも驚くほど落ち着いた声が出た。
あなたの気持ちは分かったわ。
だが、その先の言葉は喉の奥で揺れ続けている。このまま手を伸ばしたら、私はまた都合のいい親に戻る。深く息を吸い、心の奥の何かを静かに持ち上げた。ここでの返事が、親としての最後の決断になるかもしれない。
息子の必死の声は夜になっても頭から離れなかった。夫が静かに言う。
お前がどうしたいかだ。助けてもいいし、断ってもいい。正しい答えなんてない。
翌日、再びた志から着信が入る。私は目を閉じ、深く息を吸い、通話ボタンを押した。
た志、私はね。
不思議と声は震えなかった。
私はもう親としての役目を終えたのよ。
母さん、そんなこと言わないでくれ。本当に困ってるんだ。
困った時だけ親を思い出すなんて、あまりにも都合が良すぎるわ。
息子は何も言い返せなかった。
数日後、息子夫婦のことを意識的に手放し、静かな二人暮らしを取り戻しつつあった頃、夜遅く見慣れない番号から着信が入る。
はい、もしもし。
お母さん、どうか助けてください。た志の嫁から絞り出すような泣き声。
両親が二人とも体調を崩してもう誰も助けてくれないんです。た志は仕事でミスをして帰れない日ばかりで、家のことも育児も全部一人でもう限界なんです。
これまで頼りきっていた向こうの親がまとめて倒れたという。
お願いします。お父さんとお母さんに頼るしかないんです。
震える声は胸の奥で冷たさと熱さが混ざり合う。通話を切った後、しばらく動けなかった。
夫が静かに問う。
裕子、どうする?
まだ答えは出てないわ。
だが心の奥では何かが確かに動き始めていた。立場がゆっくりと反転していく気配。私は窓の向こうを見つめながら、自分でも気づかないほど強い目をしていた。
翌朝、食事を終えた頃、玄関のチャイムが鳴る。扉を開けると息子と嫁。二人とも顔色が悪く、嫁は目を腫らしていた。
お母さん、お願いします。もう私一人で子供を見られなくて。
私は黙って二人を見つめた。胸の奥にあの時の痛みが蘇る。あの時、私たちはいないものにされた。夫と視線が合う。この瞬間、立場は完全に逆転していた。
私は静かに口を開く。
あなたたち、私に何をしてきたか覚えてる?
嫁は震えながら頷く。
式場の下見に誘われたのはあなたの母親だけ。出産の日も、初めて孫を抱いたのも全部向こう。私は写真で知ったのよ。
た志の肩が落ちる。
誕生日も私たちの席はなかった。ずっと外の人間扱いされてきたの。
嫁は膝から崩れ落ち、泣きながら謝った。
本当にすみません。
私は立ち上がり、一言告げる。
謝れば済むと思ってるのね。でももう遅いの。
た志が叫ぶ。
母さん、頼む。一度でいい。
私は目を閉じ、首を振った。
親はね、無償で許す存在じゃないの。あなたたちが選んだのは向こうの親よ。帰りなさい。
玄関の空気が凍る。ドアが閉まる音だけが響く。そして夫がそっと肩に手を置いた。
三年後、私は夫と穏やかな日々を送っていた。ある午後、玄関のチャイムが鳴った。立っていたのはた志と嫁。そして成長した孫。二人は深く頭を下げる。
あれから月に何度か孫の顔を見せに来るようになっていた。言葉ではなく行動で示すようになり、私はそれを受け入れた。
その瞬間、孫が裕子の手をそっと握ってきた。
親としての役目は終わった。でも家族であることは変わらない。私も理解している。そして、祖母としての人生はまだ続いていく。
柔らかな午後の光が、静かに家族を包んでいた。
