土下座しなさい。お客様の前でこの役立たずが。
東銀行本店のロビーに男の怒鳴り声が響いた。副部長と名乗る男が、若い女性行員に向かって恫喝している。瞬間、フロアの空気が凍りついた。十数名の客が息を呑んだ。
「お前みたいな無能は銀行の恥だ」
男の手には湯気の立つ茶碗が握られていた。次の瞬間、その熱い液体が女性の肩から胸元にかけて浴びせられた。
「あっ……」
悲鳴すら上げられず、彼女は膝から崩れ落ちるようにして冷たい床に体をつけた。肩が焼けるように痛い。制服が茶色く染まっていく。
「全く使えないな。さっさと起きろ」
もう一人の男が冷たく言い放つ。周囲の客たちは目を伏せていた。
しかし、この光景は記録されていた。防犯カメラが全てを映していた。そして、この映像は間もなく一人の男の手に渡ることになる。
娘を踏みにじった者たちは知らない。自分たちがどれほど巨大な存在を敵に回してしまったのかを。そして、この後、その代償を支払うことになるということを。
東京・丸の内。高層ビルが立ち並ぶ一角に、一際大きなビルがそびえている。高山グループ。祖父の代から続く財閥で、企業は数百社に及び、日本経済を影から支える巨大な存在だ。その頂点に立つのが高山総一郎、五十八歳。しかし、彼は表舞台を避け、質素な服装で町を歩くことを好む男だった。
社長室のデスクの隅には、一枚の写真が飾られている。優しく微笑む女性が幼い娘を抱いている。総一郎の妻は十年前に病気で亡くなった。最後の時、総一郎は海外出張中だった。妻にはすぐに帰ると言いつつ、商談で帰国が長引き、そして間に合わなかった。病室で妻は総一郎に会うこともできず、最後の時を迎えた。
まだ話せる状態の時、妻が総一郎に電話で伝えた最後の言葉。
「さやをお願い。あの子が誇りを持って生きられるように」
総一郎は約束した。必ず娘を守ると。しかし、妻の最期に立ち会えなかった後悔の念が、今でも総一郎に残り続けていた。
それから十年。娘のさやは二十六歳になった。四年前の春、銀行員となる入行式の朝、スーツに身を包んださやが玄関で父と向き合っていた。
「お父さん、私、自分の力で働きたいの。大財閥のお嬢様としてじゃなく、高山さや、一人の女性として」
総一郎は娘の真剣な目を見つめた。亡き妻と同じ、真っすぐな瞳。
「お前は本当に母さんに似たな」
「お母さんもそう言ってくれると思う。だからお願い。誰にも言わないで」
「分かった。ただし、一つだけ約束してくれ」
「何?」
「辛いことがあったら、必ず私に話すと」
さやは少し考えた後、頷いた。
「うん。約束する」
そして総一郎は娘に小さな包みを手渡した。
「これを持っていけ」
開けると、刺繍入りのハンカチだった。
「これ、お母さんの……」
「母さんがお前に残したものだ。困った時はこれを握りしめろ。母さんがきっと見守ってくれる」
「ありがとう、お父さん」
こうしてさやは東銀行に入行することになった。同じ「高山」という苗字で勘ぐられないよう、父親のことを聞かれても「中小企業の会社員」としか説明せず、彼女が財閥の令嬢だとは気づかれないように就職した。
東銀行本店営業部。そこに三人の男がいた。
一人目は営業部長、戸塚健生。五十二歳。入行当初から上司に好かれる能力にたけた男だ。実力はないが、処世術だけは一流。上には徹底的に媚び、同期には愛想を振りまき、部下には優しい先輩を演じてきた。出世のためなら何でもする。そして二年前に営業部長の座を手に入れた。ここまで来るのに三十年かかった。次は支店長だ。そのためには数字が全て。権力を手に入れた途端、本性を表した。部下は数字を上げる駒でしかない。
二人目は副部長、真弓孝介。入行以来、ずっと目立たない存在だった。実力もなく、出世コースからも外れていた。しかし、戸塚が部長になった時、チャンスが来た。
「真弓、お前、俺の副部長にならないか?」
「本当ですか?」
「条件がある。俺の汚れ仕事を全部やれ」
「何でもします」
真弓は喜んで従った。彼は上司に媚びることしかできず、下には威張り散らすような態度で振る舞う。
そして常務取締役の波多野。若い頃から優秀で出世コースを歩んできた。しかし五十代で頭打ちになる。このままでは役員止まりだ。さらなる出世のためには、方針を変えることにした。問題を起こさないことが最優先。不祥事は全て見消す。数字さえ上がれば手段は問わない。戸塚のやり方は目に余るが、数字は上げている。組織のための多少の犠牲は仕方ないと自己弁護してきた。
さやが入行して三ヶ月が経った頃、ある出来事が起きた。
その日、戸塚部長が大口顧客に投資商品を提案する商談があった。新人のさやも資料配布係として同席することになった。会議室で戸塚が説明を始めた。
「本日はお忙しい中ありがとうございます。では早速ですが、こちらの商品は利回りが……えっと」
戸塚の説明は要領を得ない専門用語ばかりで、資料のどこを見ているのかも分かりにくい。客は資料をめくりながら困惑した表情を浮かべている。
「あの、すみません。もう少し分かりやすく説明していただけますか?」
「お、はい。ですから、これはですね、え……」
戸塚は焦っていた。自分でも商品をよく理解していないのだ。資料を作ったのは部下であり、戸塚はそれを読んでいるだけだった。このままでは商談が失敗する。
さやは資料を作成した本人だった。黙って見ているわけにはいかなかった。
「失礼いたします。お客様、こちら図でご説明いたしますね」
さやはホワイトボードに立ち、簡単な図を描き始めた。専門用語を避け、客の立場に立った言葉を選んで、丁寧に分かりやすく説明した。
「ああ、なるほど。そういうことね。これなら分かりやすい。最初からこう説明してくれればよかったのに」
そして客はさやを見ていった。
「お嬢さん、ありがとう。とても分かりやすかったよ」
その瞬間、戸塚の顔が歪んだ。新人のくせに、俺より先に客に感謝されるだと。
商談は成功した。しかし、戸塚のプライドは深く傷ついていた。三十年かけて部長になった自分が、入行三ヶ月の新人に助けられた。それも客の前で。
商談後、客が帰った後。
「高山、さっきの対応、余計だったな」
「え?」
「俺が説明してる最中に、勝手に口を挟むな」
「申し訳ございません。ただ、お客様が困っているように見えて」
「言い訳するな。新人のくせに生意気だ。いいか。お前はまだ三ヶ月の新人だ。分かったような顔をするな。次からは黙って座ってろ」
「かしこまりました。差し出がましい真似をして申し訳ございませんでした」
さやは冷静に謝罪をした。しかし、その素直な対応も気に入らない。それ以来、戸塚のさやへの当たりは厳しくなっていった。
数日後、別の商談があった。今度はさやを同席させなかった。しかし、商談後、客が受付で言った。
「前回説明してくれた若い女性の方、いらっしゃいますか?」
「はい。営業部におります」
「その方に直接お礼を言いたいんです。とても分かりやすくて助かりました」
それを聞いた戸塚はさらに癪に障った。
それから本格的な嫌がらせが始まった。
「高山、お前、この数字どうなってるんだ?」
「申し訳ございません。しかし、これは私の担当では……」
「言い訳するな。お前のような無能がうちの銀行にいること自体が不思議だ」
周囲に聞こえるような声で言い放ち、さやの努力を一切認めようとはしなかった。副部長の真弓も、戸塚の機嫌を取るためにさやをいじめ始めた。
「高山、お前、デスク汚いな」
真弓は、さやのデスクに置いてあった刺繍入りのハンカチを手に取った。
「あ、それは……」
「私物は持ち込むな。ここは遊び場じゃない」
真弓はハンカチをゴミ箱に投げ入れた。
「待ってください! それだけはっ!」
亡き母がさやに残した大切なもの。さやが取り出そうとすると、
「やめろ。客の前でゴミあさりか」
「でも、これは母の……」
「私物でフロアを汚すな」
さやは震える手を止めた。涙をこらえた。周囲の客が気まずそうに視線をそらす。
その時、同期の女性行員がこの光景を偶然目撃していた。二階のフロアからロビーが見えたのだ。柊真帆、二十六歳。さやと同期入行で、入行式の日に初めて言葉を交わした。明るく社交的な性格で、誰とでもすぐに打ち解けることができる。職場でも周囲に溶け込むのがうまかった。そして柊は、さやが心を許せる親友で、唯一、父が高山グループの社長であることについても話している存在だった。
柊は衝撃的な光景を見て驚いた。
「さや……こんなの、嫌がらせのレベルじゃない。絶対におかしい」
柊は以前からさやが嫌がらせを受けていることを察していて、この時から密かに証拠を集め始めることを決意した。
一年が経ち、二年目に入った。さやへの嫌がらせはさらにエスカレートしていった。
「お前みたいな地味な女は、どうせ結婚もできないだろうから、せいぜいここで働き続けるしかないな」
そんな下品な言葉を戸塚は平然と口にした。周囲の行員は聞こえないふりをするか、一緒になって笑うかのどちらかだった。
さやは毎日、歯を食い縛って耐えていた。父にこのことを伝えれば、高山グループの力でこの三人の首は吹っ飛ぶだろう。しかし、さやは自分の力だけで解決する道を選んだ。
「お父さんに心配かけたくない。私が選んだ道だから」
しかし、嫌がらせは止まらなかった。
三年目のある日、昼過ぎ、ロビーは客で混雑していた。さやは窓口で対応をしていた。その時、真弓がさやの窓口に駆け寄ってきた。手には湯気の立つ茶碗が握られている。
「高山、お前、さっきの案件、何だあれは」
「申し訳ございません。しかし……」
「言い訳するな。お前のせいでどれだけ迷惑がかかったと思ってるんだ」
周囲の客が息を呑む。戸塚も真弓の後ろに立っていた。
「高山、客の前で何やってるんだ? 土下座しなさい。お客様の前で、この役立たずが」
さやの顔が引きつる。周囲の同僚たちは目を伏せる。誰も助けない。
「聞こえなかったのか。土下座しろ」
さやは震える膝を折った。冷たい床に体をつける。そして次の瞬間、真弓が持っていた茶碗から、熱い液体がさやの肩から胸元にかけて浴びせられた。
「あっ……」
悲鳴すら上げられない。肩が焼けるように痛い。制服が茶色く染まっていく。それでもさやは土下座の姿勢を崩すことができなかった。
「分かったか? お前の代わりはいくらでもいるんだ。さっさと起きて着替えてこい。むしろ迷惑だ」
二人は笑いながら去った。さやはしばらく動けなかった。涙が床に落ちる。もう限界かもしれない。
さやは記録を始めた。ノート一冊に、日付、時間、場所、言われたこと。全て克明に書き留めた。証拠にするために。
そして、さやは行動を起こした。銀行の内部通報窓口に実名でメールを送った。
「東銀行営業部における理不尽な扱いについて。上司から日常的に罵倒され、先日は大切な私物を勝手に捨てられました。これは理不尽な扱いに該当すると思います。記録も添付いたします」
送信ボタンを押す手が震えていた。これで何か変わるはず。
数日後、コンプライアンス部から返信が来た。差出人はコンプライアンス部・川端。
「ご連絡ありがとうございます。詳細を確認したいので、来週面談の場を設けたいと思います」
さやは希望を持った。やっと動いてくれる。
しかし、その頃、コンプライアンス部長の川田孝志は、波多野常務の部屋にいた。
「常務、営業部の高山という女性から実名で通報が来ています。それと証拠資料も。実名だと。しかも証拠まで」
「ほう。何だって?」
「はい。罵倒や私物を捨てられたと」
「厄介だな。どうしましょうか、川端?」
「お前の息子、来年就活だったな」
「はい」
「うちのグループ企業に推薦してやる。安心しろ」
「ありがとうございます」
「だから、この件は穏便に処理しろ。本人には証拠不十分と伝えて、以後、気をつけろと言っておけ。それで終わりだ」
「承知しました」
川端は波多野の大学の後輩だった。出世の遅かった彼をコンプライアンス部長に引き上げたのは波多野だ。恩がある。だから逆らえない。これが組織で生き残る方法なんだ。
翌日、さやは川端との面談に臨んだ。
「高山さん、通報の件、確認させていただきました」
「はい。ありがとうございます」
「戸塚部長にも確認したところ、厳しく指導したことはあるが、理不尽な扱いには当たらないとのことでした」
「そんな。私、記録も……」
「記録、拝見しました。しかし、これだけでは十分な証拠とは言えません」
「でも、それは確かな記録なんです。見過ごせる内容ではないはずです」
「証拠として不十分だとお伝えしました。それに、本人が指導の範囲内だと言っている以上、こちらから強く言うことはできません。私からは以上です。ご理解ください」
さやは絶望した。地道に証拠まで残し、勇気を振り絞った訴えも虚しく散った。
「私はどうしたらいいの?」
三年間、さやは一人で戦い続けた。人事部に相談した。でも証拠がないと言われた。記録を集めてコンプライアンス部門にも実名で通報した。証拠も添付した。労働基準監督署にも相談した。でも、まずは社内で解決をと言われた。全てのルートを試した。でも、全部ダメだった。
しかし、さやは父には一度も相談しなかった。
「お父さんに心配かけたくない。それに、お父さんに頼ったら、私の負けだ」
電話にも出なかった。父の声を聞いたら、きっと泣いてしまう。全部話してしまう。
そして四年目、ついに最悪の事態が訪れた。
週が開けると、戸塚部長と真弓部長がさやを会議室に呼び出した。そこには波多野常務の姿もあった。三人の幹部に囲まれ、さやは嫌な予感を抑えることができなかった。
会議室のドアが閉まると同時に空気が一変し、波多野が口を開いた。
「君への顧客情報の漏洩疑惑だ。先日、重要顧客の個人情報が外部に流出した形跡がある。調査の結果、君のアクセス履歴が残っていた」
身に覚えのない罪に、さやは愕然とした。
「そんなこと……」
「証拠があるのだ。言い逃れはできん」
戸塚と真弓は薄ら笑いを浮かべながら、さやの反応を楽しむように見つめていた。
「君には二つの選択肢がある。今すぐ自主退職届を書くか。それとも、懲戒解雇の上で警察に通報されるか」
「私、そんなことしてませんっ」
頭の中を様々な感情が渦巻く。悔しさ、怒り、そして深い絶望。三年間、歯を食い縛って耐えてきたことが全て無駄になろうとしている。
真弓が追い打ちをかけるように口を開いた。
「そういえば君のお父さん、確か中小企業の平社員だったっけ? こんなことで娘の人生が台無しになるなんて、可哀想に、さぞ悲しむだろうね。もう初めから底辺の家庭で育った娘だ。うちの銀行には最初から釣り合いじゃなかったんだよ」
「そうそう」
三人の下品な笑い声が会議室に響く。その瞬間、さやの心の中で何かが音を立てて折れた。
さやは無言で会議室を出た。廊下を歩きながら、もう涙をこらえることができなかった。三年間頑張った。でも、もう無理。
トイレに駆け込み、個室で膝を抱えた。
「お父さん、ごめんなさい。私、もうダメかもしれない」
震える手で携帯電話を取り出す。しかし、父の番号を押すことができなかった。お父さんに頼ったら、私の三年間は何だったの?
涙が止まらない。その時、トイレのドアをノックする音がした。
「さや? いる?」
同期の柊真帆の声だった。個室から出ると、柊が心配そうな顔で立っていた。
「さっきから様子がおかしかったから。何かあった?」
「真帆……私、もうダメかも」
「え? どうしたの?」
「濡れ衣を着せられた。客情報の漏洩だって」
「そんな。さやがするわけない」
柊は震えるさやの肩を掴んだ。
「さや、お父さんに相談した?」
「できない。お父さんに頼ったら、私の三年間は何だったの?」
柊は少し考えた後、静かに言った。
「さや、私、実は大学の先輩が高山グループの関連会社で働いてるの。その先輩を通じて、高山グループの人に相談できるかもしれない。……でも、さや。もう十分頑張ったよ。三年間、一人で戦った。誰も助けてくれなかった。もう、誰かに助けを求めてもいいんだよ」
その言葉に、さやの涙が止まらなくなった。
「それに、私、実は証拠を集めてたの。さやが苦しんでるの、ずっと見てたから。密かにスマホで録画したりしてたの。それに、前に辞めた先輩から防犯カメラの映像ももらってる」
「防犯カメラ?」
「うん。さやが土下座させられたシーン、全部映ってる」
さやは驚いた。
「さや、この証拠、高山グループに送らせて。お父さんに全部知ってもらおう」
「でも……」
「さやは十分頑張った。もう一人で抱え込まなくていいんだよ」
さやはゆっくりと頷いた。
「ありがとう、真帆」
数日後、高山グループ本社、社長室。専務の日下部誠の元に一通のメールが届いた。差出人はグループ企業の社員からの紹介という形だった。件名は「東銀行・高山さや様について」。本文には、さやが受けてきた三年間の理不尽な扱いの詳細と、証拠映像が添付されていた。
日下部は映像を再生した。熱いお茶が浴びせられ、さやが床に膝をつき土下座をしている映像が映し出される。日下部の顔が蒼白になった。
「お嬢様……」
日下部はすぐに総一郎の執務室に向かった。
「失礼いたします」
総一郎は窓際に立ち、都心の夜景を見つめていた。
「どうした?」
「お嬢様のことで……」
総一郎は青ざめた顔の日下部を見て、何事かと振り返る。
「これをご覧ください」
日下部がタブレットを差し出すと、総一郎は画面を見つめた。熱い茶が浴びせられる映像。娘が床に膝をつき、土下座する。画面の中のさやは、一度として言い返すことなく、ただ耐え続けていた。映像を見終えた総一郎は、しばらく何も言わなかった。ただ、その拳が白くなるまで握りしめられていた。
「さやが働いている銀行か。こんなことをされているのか」
「はい。東銀行本店です。グループ企業の社員からの紹介で届いておりました」
日下部は静かに続けた。
「メールに添付されていた資料によると、お嬢様は三年間、様々な方法で訴えてこられたようです。人事部への相談、コンプライアンスへの実名での通報、労働基準監督署への相談。全て記録されていました。全て、一人で」
「……もみ消しか」
「はい。通常ではありえません。コンプライアンス部長と常務取締役が癒着していると思われます」
総一郎は再び窓の外を見つめた。その表情は怒りと同時に悲しみが滲んでいる。
「娘は私に一度も相談しなかった」
総一郎の目から一筋の涙が流れた。
「娘は一人で戦っていたんだな」
総一郎はすぐに娘に電話をかけた。最初は出なかったが、何度かかけた後、ようやくさやが電話に出る。
「さや、久しぶりに食事でもしないか」
「お父さん……」
父の声を聞いた途端、急に心細さが込み上げてきた。
「うん。分かった」
週末の夕暮れ。都内の静かなレストラン。総一郎が選んだのは、かつて妻と三人でよく訪れた思い出の店だ。テーブルには亡き妻が好きだった花が飾られている。
さやは少し痩せたように見えた。目の下には薄い隈があり、無理に作った笑顔の奥に疲労の色が滲んでいる。
「仕事はどうだ?」
「うん。大丈夫。順調だよ」
最初はそう答えていたが、父の穏やかな目に見つめられているうちに、言葉が途切れがちになっていく。
「さや、本当のことを話してくれ。お前、ずっと一人で戦ってたんだな」
その言葉に、さやの目から涙がこぼれ落ちた。
「お父さん……」
「知っている。全部知っている」
さやはもう答えることができなかった。
「お父さん、ごめんなさい」
震える声でそう言うと、次々と言葉が溢れ出した。
「私、毎日毎日、酷いことされて。だからノートに記録を書き続けたの。それで人事部にもコンプライアンス部門にも労働基準監督署にも相談した。でも、まずは社内で解決をって。全部試したのに、全部ダメだった」
さやの言葉は次第に嗚咽に変わっていった。総一郎は席を立ち、娘の隣に座ると、何も言わずにその肩を抱いた。
「お母さんのハンカチも捨てられちゃった。邪魔だって言って、副部長が目の前でゴミ箱に投げ入れたの。取り出そうとしたら、私物でフロアを汚すなって怒鳴られて……ごめんね、お父さん。私、お母さんの大切なものを守れなかった」
総一郎は娘の手をそっと握った。五十八年間、数えきれない商談をこなして巨大企業へと成長させた戦略家の企業家の手が、怒りと悲しみで震えていた。
「謝ることはない。お前は何も悪くない」
「でも、私……」
「お前は十分に頑張った。三年間、一人で戦い続けた。それだけで十分だ」
さやは父の胸に顔を埋めた。
「さや、お前が生まれた日、母さんは言ったんだ。この子には自分の人生を生きてほしい。財閥の娘としてじゃなく、一人の人間として誇りを持って生きてほしい、と」
さやの目からまた涙がこぼれる。
「だから、お前は何も間違ってない。母さんもきっと誇りに思っている」
「お父さん……」
「ただ、父親として一つだけ後悔している」
「何を?」
「もっと早く、お前の痛みに気づくべきだった」
総一郎の目から一筋の涙が流れた。
「仕事ばかりで家族を顧みなかった。母さんが生きていた頃もそうだった。病気が分かってからも、私は仕事を優先した。最後の時、私は商談で海外にいて間に合わなかった」
「お父さん、それは……」
「母さんが最後に私に言った言葉を覚えている。『さやをお願い。あの子が誇りを持って生きられるように』と。私は妻に約束したんだ。必ず娘を守ると。しかし、今回も私は気づくことができなかった。父親として、夫として、情けない」
さやは父の胸に顔を埋めた。
「今度こそ、父親としてお前を守らせてくれ。もう二度と、大切なものを守れないという後悔はしたくない。お父さんに任せろ」
さやは何も言わず、ただ父の胸で泣き続けた。五十八歳の男と二十六歳の娘。二人の間には、言葉にならない絆がある。
その夜、総一郎は日下部を呼んだ。
「日下部、東銀行について調べろ。全てだ」
「承知いたしました」
「証拠はすでにある。さらに詳しく調べろ。過去の被害者、もみ消しの実態、コンプライアンス部長と波多野の関係。全てだ」
「すぐに取りかかります」
数日後、日下部が報告に来た。
「常務、詳細が揃いました」
日下部は分厚いファイルを差し出した。
「過去三年間で営業部から退職した若手行員、十二名のリスト。そのうち八名が理不尽な扱いを理由に挙げています。コンプライアンス部長の川端孝志は、波多野常務の大学の後輩。波多野から息子の就職を約束され、内部告発をもみ消す役割を担っていました。さらに、波多野が『多少厳しくしないと若い連中は育たない』と発言している録音も入手しました」
総一郎は報告書を読み終えると、目を閉じた。娘は三年間、こんな環境の中で歯を食い縛って働いてきたのか。その想いが父としての胸を締めつける。同時に、娘を傷つけた者たちへの怒りが、冷たい決意へと変わっていくのを感じていた。
「そして、波多野常務が高山グループとの取引拡大を強く望んでおり、非公式のルートを通じて、接触の場を設けたいと打診してきております。相手は実務担当者クラスを想定しており、総一郎様のお顔は知らないようです」
総一郎はしばらくした後、指示を出した。
「その接待を受けると伝えろ。出席者は私一人。名前は伏せたままで構わない」
「承知いたしました」
日下部はその意図を正確に理解し、深く頷いた。
「準備を整えろ。高山グループと東銀行の取引、全ての資料を用意させろ。この銀行がどれほど高山グループに依存しているか、示す必要があった」
都内の高級料亭。波多野常務は上機嫌であった。高山グループとの取引拡大が実現すれば、自分の銀行内での地位はさらに盤石なものとなる。数日前、波多野は非公式のルートを通じて高山グループに接待の申し入れを行った。相手は実務担当者クラスが来ると聞いている。総帥の意向を探り、有利な条件を引き出すことができれば大成功だ。戸塚も真弓も同席させたのは、部下の前で自らの手腕を見せつける狙いがあった。
「常務、本当に来ますかね?」
「来るさ。我々との取引は向こうにとっても重要だからな」
「さすが常務。高山グループとのパイプを作れるなんて」
三人は自信満々だった。予約された個室で待っていると、やがて一人の男が案内されてきた。質素なジャケットを羽織った初老の紳士である。中年の男は静かに微笑んだまま、懐から名刺入れを取り出した。
「申し遅れました。私はこういうものです」
一枚の名刺を丁寧にテーブルの上に置く。波多野は何気なくそれを手に取り、そこに印刷された文字を読んだ瞬間、驚きを隠せなかった。
高山グループ代表取締役社長 高山総一郎
「ところで、波多野常務。あなた方の銀行に、私の娘が務めているそうですが」
「娘」という言葉の意味を理解するのに、三人は数秒の時間を要した。そして理解した瞬間、戸塚の顔は土気色に変わり、真弓は文字通り椅子から崩れ落ちた。
「高山さや。あなた方が毎日のように罵倒し、熱い茶を浴びせ、土下座させた、窓口係りの女性」
名刺を持つ波多野の手が震え始めた。顔面蒼白になり、唇が青ざめていく。総一郎の声は穏やかだったが、その手は震えていた。怒りではない。娘の痛みを思うと、胸が張り裂けそうになるのだ。
「『底辺の家庭で育った娘』『中小企業の平社員の子』。そう笑った相手。あの子は私の一人娘です」
戸塚と真弓も、その顔を覗き込んで名刺の文字を確認した途端、まるで幽霊でも見たかのように固まった。
「そ、そんな。まさか。あの高山が……知りませんでした。本当に」
しかし、総一郎は冷たい目で三人を見下ろした。
「知らなかった? では、知っていれば踏みにじらなかった、と?」
その言葉に、三人は何も言えなくなった。
「あなた方は私の娘の尊厳を踏みにじった。それだけではない。亡き妻が娘に託したハンカチを、ゴミのように捨てた。妻との約束を守れなくした。父親として、夫として、これだけは許すことができない」
振り返った総一郎の目には、父としての悲しみと、財閥総帥としての冷徹な決意が同居していた。
「数々の暴言や、人を見下した発言。あなた方の価値観では、人の価値は肩書きと家柄で決まるわけだ」
総一郎は懐からタブレット端末を取り出し、テーブルの上に置いた。画面には、さやが熱い茶を浴びせられ、土下座を強要されている映像が映し出されていた。
「『土下座しなさい。お客様の前で。この役立たずが』」
はっきりと聞こえる、戸塚の笑い声も記録されていた。
「この映像だけではありません。過去三年間の理不尽な扱いの被害者のリスト。コンプライアンスへの実名での通報をもみ消した証拠。コンプライアンス部長と波多野常務の癒着の証拠。そして、今回私の娘に濡れ衣を着せるために捏造された証拠の詳細。全て揃っています」
「そ、そんなものが……」
波多野の顔がさらに蒼白になっていく。
「ま、待ってください。それは誤解です。わ、私たちはただ指導を……」
必死に言い訳しようとするが、声が震えて言葉にならない。総一郎は冷たく言い放った。
「誤解? 指導? その言い訳が、金融庁にも通じるといいですね」
「き、金融庁……」
三人の顔が土気色に変わった。もう言葉を失っていた。
「では、その価値観に従って、あなた方自身がどれほどの価値があるのか、これからじっくりと確認していただきましょう。代償を支払ってもらいましょうか」
総一郎の反撃は、静かに、しかし容赦なく実行された。
接待の翌日、高山グループは東銀行との全取引について見直しを行う旨を正式に発表した。融資枠の凍結、決済口座の他行への移管、そしてグループ企業への通達。「東銀行との取引継続について、各社の判断に委ねる」。財閥総帥からの事実上の警告であることは、誰の目にも明らかだった。
市場の反応は迅速だった。東銀行の株価は取引開始と同時に急落した。絶妙のタイミングで情報がリークされた。東銀行本店営業部における組織的な嫌がらせの実態。常務取締役によるもみ消し、コンプライアンス部長の癒着、そして今回の騒動の引き金となった事件の概要。大手財閥が取引停止を決めた背景には、深刻な人権問題があったことが示唆されていた。
東銀行の頭取は事態の収拾に奔走した。波多野を呼び出し、激しく叱責する。
「貴様のせいで、銀行全体が危機に陥っている。どう責任を取るつもりだ」
怒号が役員室に響き渡った。波多野はただ頭を下げることしかできなかった。
金融庁への内部告発も同時に行われていたことが発覚し、銀行は監督官庁からの調査にも対応を迫られることになった。
追い詰められた波多野は、戸塚と真弓に責任を押し付けようとした。
「私は二人の嫌がらせの実態を知りませんでした」
しかし、日下部が収集した証拠の中には、波多野自身が発言している録音が含まれている。「多少厳しくしないと、若い連中は育たない」。嫌がらせを黙認どころか、容認していた証拠であった。
戸塚と真弓は、今度は波多野に責任を転嫁しようと試みた。
「わ、私は上からの指示に従っただけなんです」
「自分は常務たちの意見に逆らえなくて……」
互いが互いを売り、責任をなすりつけ合う、見苦しい争いが繰り広げられた。
さらに、コンプライアンス部長の川端も処分の対象となった。
「貴様は、実名での内部通報をもみ消した。それどころか、波多野常務と癒着していた」
「それは、組織のために……」
「組織のため? 笑わせるな。金融庁から指摘が入っている。内部通報制度が機能していない、とな」
川端も、波多野と同じ運命をたどることになった。
東銀行側から高山グループへ、正式な謝罪の申し入れがあったのは、それから間もなくのことだった。頭取自らが出向き、深々と頭を下げた。総一郎はその謝罪を静かに聞いた後、一言だけ返した。
「謝罪は私にではなく、娘にしてください。私が求めているのは、二度とこのようなことが起きない体制です」
頭取は約束した。
「徹底的なコンプライアンス改革を行います。被害者全員への謝罪と補償を行います。そして、加害者たちに相応の処分を下します」
総一郎はその言葉を聞き届けると、一つだけ条件を加えた。
「処分については、私の娘の意思を確認させてください。最終的な判断は彼女に委ねたいと思います」
処分が正式に決定したのは、それから一週間ほど経った頃のことであった。波多野は取締役の職を解かれ、辞任。長年に渡る嫌がらせの黙認と隠蔽の責任を問われ、退職金は大幅に減額された。六十一歳という年齢も相まって、かつての実力者は一夜にして業界から放り出される形となった。
戸塚健生と真弓孝介に対しては、より厳しい処分が下された。解雇である。二人の名前は業界内でブラックリストに載り、どの金融機関も採用を拒否することが事実上確定した。五十代で職を失い、経歴に重大な傷を負った二人に、再起の目はほとんど残されていなかった。
コンプライアンス部長の川端も、部長職を解かれた上、地方支店への左遷が決定した。出世のために魂を売った男の末路である。
そして、さやへの正式な謝罪の場が設けられることになった。場所は東銀行本店の応接室。かつてさやが土下座を強要された、まさにその建物の中であった。
応接室にはさやと総一郎、そして日下部が座っていた。向かい側には頭取と、処分が決定した三人の元幹部たちが並んでいる。波多野の顔からはかつての傲慢さは完全に消え去っていた。目はうつろで頬はこけ、わずか数日で十歳は老け込んだように見える。戸塚は目を伏せたまま、一言も発することができない。真弓に至っては、入室した瞬間から体を震わせ、涙を流し続けている。
頭取がまず口を開き、銀行を代表して深い謝罪の言葉を述べた。そして、三人の元幹部たちに個別の謝罪を促した。波多野、戸塚、真弓が次々とさやの前に進み出て、床に膝をついた。かつてさやに強要したのと、全く同じ土下座の姿勢である。
「高山様、この度は誠に申し訳ございませんでした」
「お許しください」
「許してください。私が間違っておりました」
三人の声が静まり返った応接室に響いた。さやは三人の土下座を、しばらく無言で見下ろしていた。やがて、さやは静かに口を開いた。
「謝罪は受け取ります。ただし、それで終わりではありません。私以外にも被害者がいます。過去三年間、あなた方に傷つけられ、銀行を去っていった人たちがいます。全員に、同じように謝罪をしてください」
三人は額を床につけたまま、何度も頷いた。
「そして、今日ここに来る前に決めたことがあります」
総一郎が娘を見つめる。
「私はこの三年間の記録と、証言者の陳述書を合わせて、改めて労働基準監督署に実名で通報します」
波多野が顔を上げる。
「お父さんの力を借りて、あなた方を追い詰めた。それは事実です。でも、二度と誰も同じ目に会わないように、私は自分の名前で戦います」
その姿を見つめながら、総一郎は小さく息をついた。娘は復讐に溺れることなく、正しい怒りを貫いた。それが何より誇らしい。
謝罪の場が終わり、銀行を後にする際、さやは振り返ることなく歩き続けた。背筋を伸ばし、顔を上げて。
銀行の正面玄関で、総一郎が娘を待っていた。
「よく頑張ったな」
その一言に、さやの目から涙がこぼれた。今度こそ、悔しさや悲しみではない、温かな涙だった。
季節が移り変わり、外路樹の葉が色づき始めた頃、さやは東銀行に残ることを決めた。
「本当にいいのか? 高山グループに来れば、もっと……」
「お父さん、ありがとう。でも、私、ここに残りたい。私が辞めたら、何も変わらない。私が残って、この銀行を変えたい」
総一郎は娘の真剣な目を見つめた。
「そうか。お前らしいな」
「四年間、苦しかった。でも、だからこそ分かることがある。この銀行を、誰も苦しまない場所にしたい」
総一郎は娘の頭にそっと手を置いた。
「お前は本当に強くなったな」
ある休日の午後、総一郎とさやは久しぶりに二人で食事をしていた。場所はあの夜と同じレストラン。亡き妻が好きだった花が、今日もテーブルに飾られている。さやは父の手を握った。総一郎も握り返した。五十八歳の男と二十六歳の娘。二人の間には、言葉にならない絆が流れていた。
そして、同期だった柊真帆は、新しいコンプライアンス部に異動することが決まった。
ある日、銀行のカフェテリアで、二人は向かい合って座っていた。
「ありがとう、真帆。あなたがいてくれたから、私は戦えた」
「お互い様だよ。私もさやがいてくれたから、頑張れた」
柊は少し照れ臭そうに笑った。
「それにね、さや。私、あの時のこと、ずっと後悔してたの。もっと早く動けばよかったって。さやが苦しんでるの、分かってたのに。一年目から見てたのに」
「真帆……」
「でも、今度は違う。誰かが苦しんでたら、すぐに動く。それが私の仕事」
さやは柊の手をそっと握った。
「一緒に頑張ろう」
「うん」
その夜、総一郎は書斎で一人、紅茶を飲んでいた。窓の外では、夜景が高山グループのビルを照らしている。総一郎は机の上に置かれた、亡き妻の写真に目をやった。優しく微笑む妻の姿がそこにあった。
「見ていてくれよ。……ありがとう。お前が私にさやを託してくれて。お前が私を父親にしてくれて。不器用な父親だったかもしれないが、今回だけは、少しは父親をできた気がする」
写真の中の妻は、今日も優しく微笑んでいた。まるで「よく頑張ったね」と言っているかのように。
新しい季節が訪れ、新しい物語が始まろうとしていた。五十八歳の男は、ようやく父親になれた気がした。妻の写真の横には、さやが銀行の新プロジェクトで発表している様子の写真が飾られていた。希望に満ちた笑顔で、前を向く娘の姿。その写真を見つめながら、総一郎は静かに微笑んだ。父親としての役目はまだ終わらない。しかし、娘はもう、自分の力で歩いていける。その確信が、総一郎の心を満たしていた。
