「結婚に口出ししたくないのは分かってるんだけど、あの子はちょっと引っかかるのよ」
母がそう言ったのは、顔合わせの食事会が終わって数日後のことだった。俺はリビングのソファで、母の言葉に眉をひそめた。
「なんでそういうこと言うんだ。光が母子家庭だからか?」
「そうじゃない。それならうちもそうでしょ」
「じゃあ何が気に入らないんだ」
「顔合わせのとき、お金の話しかしなかったじゃない」
「そりゃ現実的な問題だろ。式も結婚生活も、これから金がかかるんだぞ。あっちはいくら出してくれるのかって話も必要なんだ」
「あなた、あちらのお母さんはうちと同列では話せないわ。うちは会社を経営してるけど、向こうは社長じゃない。そもそも、結婚資金をこっちに全額要求するのがおかしいんじゃない?」
「誰もくれなんて言ってない。貸してほしいって言っただけだ」
「そうね。でも海外で挙式したいなら、もう少し貯めてからでもいいんじゃない? 出会ってまだ三ヶ月でしょ? 焦りすぎよ」
「時間なんて関係ない。俺には光しかいないんだ」
母は「夢中になる気持ちは分かるけど、少し冷静になってから考えなさい」と言った。俺はカッとなって言い返した。
「一人息子を取られるのがそんなに嫌か」
「そういうんじゃないの。ただ、直感というか、雰囲気というか……うまく言えないけど」
「あんまりだ。俺が選んだ女を、直感で否定するなんて」
「ごめん。本当は祝福しないといけないって分かってるの。でもね」
「もういい。祝ってもらわなくていいから」
俺はそれで電話を切ろうとした。母は必死に引き留めようとした。
「待って。ちゃんと会って話しましょう」
「無理だ」
そうして俺は、母と決裂した。
翌日、光が家にやってきた。
「お母さん、光です」
母は少し驚いた顔をした。「食事会以来ね。どうしたの?」
「レオさんから聞きました。喧嘩なさったとか」
母は「恥ずかしい話だけど」とだけ答えた。光は深く頭を下げた。
「もしかして、私が結婚相手なのがお気に召さないんでしょうか?」
「え? いいや、そうじゃなくて」
「顔合わせのとき、母が飲みすぎてしまって、恥をかいてしまったものですから。きっとよく思われていないんだろうなって……」
光の母は母子家庭で苦労してきたらしい。光は、自分たちの生活の匂いが出てしまったのだと言った。母は違うと言いかけたが、光は続けた。
「会社を経営するお母さんとは、家庭の背景も収入も違います。それは事実です。私の母が苦労してきたのは確かですけど、だからといって私が責められる資格もありません。表に出なかったとしても、私自身にも至らない点はあったと思います。娘として、母の無礼をお詫びします」
母は、何も言えずに黙って光を見ていた。光はそこで初めて、ストンと涙をこぼした。
「でも、レオさんを思う気持ちだけは誰にも負けません。必ずレオさんにふさわしい女性になれるよう、日々努力します。どうか、温かく見守っていただけませんか」
母は微かに息を吐いた。それから、柔らかい声で言った。
「私の方こそごめんなさい。あなたがこんなにしっかりしたお嬢さんだと思わなかったの。心配のあまり、余計なことを言ってしまったわ。親というのはね、そういうものなのよ」
「そう言っていただけて、安心しました」
「あなたになら、息子を任せてもいいかもしれないわね」
「お母さん、必ず彼を立派に支えます。今すぐでなくても、いつか、私を嫁と認めていただけると幸いです」
母は、初めて笑った。
「言葉遣いが、レオよりずっとしっかりしてるわ」
「お金がないからと馬鹿にされたくなくて、勉強だけは必死に頑張ってきましたから」
「私も若い頃は苦労したから、その気持ちは分かるわ。これからよろしくね」
「ありがとうございます」
翌日、俺は母に頭を下げた。
「光のこと、認めてくれてありがとう」
「私の方こそ、誤解してたみたい。ごめんなさい」
この流れで、俺は言い出しにくい話を切り出した。
「ハワイで式を挙げたいと思ってるんだ」
「そうなの?」
「光の母さんへの親孝行も兼ねたいんだ。どうやら海外旅行に行ったことがないらしくて」
「いいと思うわよ」
それから俺は、勇気を出して言った。
「実際に計算したら、八百万くらいかかりそうなんだけど……いいかな?」
「いいわよ」
「出してくれるのか?」
「貸すだけよ」
「相変わらず厳しいな」
「あなたの結婚なんだから、自分で払いなさい」
俺は笑った。
「分かってる。でも嬉しいよ。三十九歳で高齢出産してから、ずっと手のかかる子だっただろ」
「そうだったわね」
「ごめん。でも、ここからは自分の力で生きていくよ」
「うん。頑張りなさい」
母はそのあと、秘書の飲み山を呼び出した。
「頼みがあるの。社長、何でしょうか?」
「息子がハワイで結婚式を挙げることになったの」
「それはおめでとうございます」
「段取りを組んでもらえないかしら」
「お任せください。社員旅行から町内会の旅行まで、数々のプランを担当してまいりました。すべて好評で『旅行といえば飲み山』と評判の男でございます」
「自慢はそのくらいにしましょうか」
「失礼しました」
息子の連絡先を教えると、飲み山は「かしこまりました」と応じて、その足で光のもとへ向かった。
「あんたが飲み山?」
「はい。どちら様でしょうか」
「レオの婚約者だけど」
「ああ、光様でいらっしゃいますか」
「そう」
光は、鼻で笑った。
「確か、私とあなたが話すのは初めてだと思うけど」
「そうですね」
「義母の秘書なら、私がどう使おうが自由でしょ」
飲み山は、決して怒らなかった。
「私は社長に雇われております。あなたとの間に雇用関係はございません。最低限の礼儀はわきまえていただきたいです」
「生意気な秘書ね。レオが社長になったら、クビにしてあげる」
「その予定は、いつ頃ですか?」
「いずれそうなるに決まってるじゃない」
光は、スマホを取り出し、何かを打ち終えると、意味ありげにこちらを見せつけた。それは、俺が社長になったら飲み山をクビにする、というLINEだった。光は送信取り消しをしたつもりだったが、飲み山は素早くスクリーンショットを撮り終えていた。
「あなた、さっきから送信取り消ししてるけど、気付いてないみたいね。無能な秘書もいいところだわ」
「ああ、なんてこと」
光は焦り、すぐに手のひらを返した。
「あんたに頼みがあるの。悪い話じゃないわよ。レオが社長になったら、役員に迎え入れてあげる」
「私は、社長を裏切ることはできません」
「じゃあ、今ここで少し話でもしない? 駅前のお寿司屋さんで待ってるわ。支払いは、あんたよ」
「意味が分かりませんが、すぐに参ります」
光は、さらに要求を重ねた。
「キャッシュで百万持ってきて」
「許可もなく急には無理です」
「じゃあ、次に会うときまでに用意しといて」
飲み山は深くため息をついた。
「参りましたね」
数日後、ハワイ挙式の準備が着々と進んでいた。母の八百万で、全部揃った。俺は母に礼を言った。
「本当にありがとう」
「いいのよ。せっかくだから、楽しみましょうね」
ところが、その時だった。光が、何気ないふりをして言った。
「お母さん、式には来ないでほしいの」
「え?」
「だって、ババくさいし。見た目がいかにもおばあちゃんでしょ」
「六十九歳だから否定はできないけど、これでも頑張って若作りしてるのよ」
「痛々しいです」
光は続けた。
「うちの母は二十歳のとき私を産んでるから、まだ四十八歳なんですよ。見た目も感覚も若い。それに比べてお母さんは、ちょっと……ね」
「何が言いたいの?」
「今日、式の写真を撮るじゃないですか。お母さんが一緒に写ると、変な感じになっちゃうじゃないですか。ちょっとやだなって」
「お前……」
「町内会の旅行じゃないんだから、留守番してなさいってことですよ」
母は、唇を噛んだ。だが、光はさらに続けた。
「もしかして秘書の飲み山に命令して、全部キャンセルさせようとか、ヒステリックに怒ったりしませんよね」
「……なんで、あなたが飲み山の名前を知ってるの?」
「レオじゃ頼りにならないから、私が式場とのやりとりを全部してたんです。だから、飲み山さんとも何度も話しました」
母は、心の中で踏みとどまった。
「だとしたら、飲み山が私を裏切るわけがない」
「あれ? 飲み山さん、もうこっち側に付きましたよ。レオが社長になったら役員にしてやるって言ったら、まんまと食いつきましたよ。秘書の忠誠心がちょろすぎて笑っちゃいます」
母は、鋭く光を睨んだ。
「その嘘が通じると思ってるの?」
「そりゃ、通じなくてもいいんですけどね。せっかくのハワイ式なのに、気分が悪くなるような雰囲気にはしたくないじゃないですか」
「……そう。じゃあ、私は欠席するわ」
母は静かに言った。光は勝ち誇ったように笑った。
「賢明な判断です」
そのあと、母は俺に言った。
「あの子がここまでやる女だとは思わなかった。私はハワイには行かない」
「何言ってるんだよ。母さんのために結婚するようなものだろ」
「いいえ。あの子が、私抜きで行きたいって言ってるの」
俺は、母の言葉を最初から信じなかった。
「光がそんなこと言うわけない。母さんが光を陥れようとしてるんだろ」
「私は何もしてないわ。あの子が、私を式から排除したがってるの」
「母さんこそ、最初から光を嫌ってるじゃないか。光が言ってたぞ、母さんが光と飲み山さんのLINEを偽造して、別れさせようとしたって」
「何? そんなのは全部あの子の作った作り話よ」
「もういい。母さんが光を悪者にしようとするのは、もうたくさんだ。お前の勝ちだよ、母さん。これで終わりにしよう」
母は、その話を飲み山に伝えた。飲み山は、静かに言った。
「社長、私にお任せください。私は昔から、困ったときの飲み山と言われてまいりました」
「異名がいくつあるのよ」
「最後には、なんとかするということでございます」
「……任せるわ」
「ただし、百万ほど使う許可をください。後ほど回収いたしますので」
「なんとなく読めたわ。任せる」
数日後、飲み山は俺の前に現れた。
「ぼっちゃま、少しよろしいでしょうか?」
「ああ、飲み山さん。挙式の件、動いてくれてるそうでありがとう」
「社長がハワイに行かないことは、ご存知ですか?」
「ああ。母さんが光のLINEを偽造したんだろ。光が悪者にされてるんだ」
「信じたのですか?」
「母さんは最初から光に反対してたしな。全然あり得る話だよ」
飲み山は、深々と頭を下げた。
「先に謝っておきます」
「何を?」
「結婚前の女性がお金を使うとしたら、エステや美容室かなと思いまして、付き添いをさせました。光様は、レオ様より若い男に焼肉を食べさせ、高級ブランドの財布を買ってあげ、超高級ホテルに消えて行きました」
「……そんなわけあるか」
「写真もございます。見る勇気があるなら、お見せしますが」
俺は、飲み山の手を払って立ち上がった。
「飲み山さん。母さんに何か言われて、証拠を捏造したんだろ」
「確かに私は、お母様の秘書であり、片腕です。ですが、同じくらいぼっちゃまの幸せを願っています」
「だったら、なんでこんなことするんだ」
「では、このまま光様との結婚を進めるのですか?」
「……それは」
「ぼっちゃまのお気持ちが一番です。私もそれを尊重します。ですが、もし不安なら、自分で確かめてみてはいかがでしょう。それ以上に確実な方法はありません」
俺は、飲み山の目を見た。その目は、嘘をついていなかった。
数日後の深夜、飲み山のスマホが鳴った。光からの呼び出しだった。
「こんな時間に、何でしょうか?」
「あんた、もう寝てたの? 呑み助ね」
「飲み山は、すでに日本酒を飲んでベッドに入っておりました。それで?」
「追加で二百万持ってきて」
「酔っていらっしゃいますか?」
「友達が独身最後のパーティーを開いてくれて、高いシャンパン入れたら、みんな逃げちゃったのよ。決済してよ」
「私は、あなたの秘書ではありません。社長が引退されれば、私も一緒にやめます」
「じゃあ、新しいイケメンと一緒にやるんじゃないの?」
「今度はその方に、直接請求するおつもりですか?」
「よく知ってるじゃん。美景最高。早くお金持ってきて」
「私は、社長の資金を預かる立場です。レオ様にご連絡ください」
「それだけはやめて」
飲み山は、俺に電話をした。俺は、運転しながら言った。
「飲み山さん、あの店の前にいる」
光は、高級クラブから出てきた。その目の前に、俺が立っていた。
「……レオ」
「光。なんでホストクラブにいるんだ」
「これは、その、付き合いで」
「飲み山さんから聞いたぞ。お前、もう五本もシャンパン開けたらしいな。代金はいくらだ?」
「やだ、やめて。私、ホストで遊ぶようなキャラじゃないの」
「キャラがいくつもあると、使い分けるの大変だろ。義母にすり寄ったり、清楚な女を演じてみたり、ホストで遊んだり。目が回るよ」
光は、裏口に逃げようとした。だが、飲み山がそこに立っていた。
「飲み山、あんた裏切ったの?」
「言ったでしょう。私は社長の秘書です」
俺は静かに言った。
「母さんは全部知ってたんだ。でも、お前を信じた。俺のために折れたんだ。それを、お前は調子に乗って、母さんを式場から追い出そうとした」
「ち、違うの」
「お前が要求した百万、ホストの請求、全部母さんが肩代わりする寸前だった。俺は母さんに貸してもらったんだ」
その夜、俺は光と別れることを決めた。
「お前が求めてるのは、俺じゃない。若い男と金だろ。もう、婚約は解消だ」
「待ってよ。レオ!」
「俺と結婚しても、お前の欲しい未来は手に入らない。それに、母さんに借りた金もある。俺は働いて返す」
翌日、俺は母に頭を下げた。
「ごめん。母さんが正しかった」
「よかった。女を見る目のない息子だと思って、がっかりしてたけど、ギリギリで気づいてくれたわね」
「ああ。もう、光とは終わりにした」
「そう。それで、光にはもう連絡しなくていいの?」
「ああ。それは、ちょっと待って」
光には、まだ借金が残っていた。光の母親も、光のために借金をしていた。母は言った。
「あの親子はお金のためなら何でもするようね。私からは、もう何も言わない。請求書はまとめて送っておくわ」
それから数日後、母が俺に言った。
「光は結局、ホストクラブに入り浸って借金を重ねて、それを返すためにまた悪い男に引っかかったらしいわ。今は、サラ金からの借金で、支払いに追われてるみたい。それで夜の世界に飛び込んだけど、お客さんを横取りするルール違反を犯して、クビになったとも聞いたわ」
「……もういいよ。俺は今、動物園で働きたいんだ。資格を取るために、勉強してる」
「それは、いい夢ね」
「母さんを支えてくれて、ありがとう。飲み山さんにも感謝してる」
俺は給料が下がるかもしれないことと、母の会社を継がないことを、母に話した。母は笑って言った。
「継がせないわ。今からあんたを育て直しても間に合わないもの。うちには、信頼できる優秀な社員がたくさんいるから」
「……いいのか?」
「あなたが選んだ道なら、私が止めはしない。ただ、光の分まで、しっかり生きなさい。それが私への一番の親孝行よ」
俺は母に、温泉旅行をプレゼントした。
「今日は、そのお詫びと感謝も兼ねて。母さん、一緒に行こう」
「あら、嬉しいわね」
そして母は、飲み山に言った。
「あんたがいてくれたから、助かったわ」
「いえ。私が社長のためにできることは、これくらいですから」
「それでね、あんたの奥さんへのお土産に、ハワイ旅行をプレゼントしようと思ってるの。あんたがプランを組んでちょうだい」
飲み山は、一瞬目を丸くして、それから深々と頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます。この飲み山、期待に応えてみせます」
俺は、新しい会社で経験を積み始めた。給料は減ったけれど、毎日が充実していた。母は相変わらず、誰よりも頼もしい社長だった。
光は、どこかで借金に追われる毎日を送っているらしい。もう、俺には関係のない話だった。
