電話が鳴ったのは、夜も遅い時間だった。画面には姉の名前。俺はバーで酒を飲んでいた。リンと一緒に。休みを満喫していた。
「大、今どこにいるの?」
「どこって、リンと酒飲んでるんだよ。こんな時間に」
「ふざけないで。お父さんが危篤なのよ。今すぐ病院に来なさい」
「はあ? マジかよ」
「お医者さんたちが必死に持たせてくれてるの。あなたにも死に目に合わせたいって言って。だから早く」
「はいはい。わかったよ」
電話を切ると、俺はグラスを傾けた。ついに親父も終わるのか。まあ、いい。これでやっと自由になれる。リンと二人で好きなように暮らせる。
「お父さんとの時間を作るために、秋人は頑張ってくれてたんだと思います。だから私のやるべきことは、ちゃんと天国へ送り届けることだと思っています」
病院の葬儀の打ち合わせで、母はそう言った。柴田さんという弁護士が同席していた。親父の高校時代からの親友らしい。母は彼にすべてを任せているようだった。
「秋人はいい奥さんをもらったな。あなたなら安心して旅立てるよ」
柴田さんは母にそう言った。陰でどうせ親父の遺産の管理でも頼まれてるんだろう。俺には関係ない。俺がもらうのは遺産だ。それだけだ。
二週間後、俺は母と対峙していた。
家の鍵を変えさせたのは俺だ。業者に頼んで、新しい鍵を母に渡さなかった。この家はもう母の居場所じゃない。親父の遺産を手に入れたら、母は用済みだからだ。
「ちょっと待ちなさいよ。あなた、自分が何を言ってるか分かってるの?」
「当たり前だろ。俺は真面目に言ってるんだ」
「お父さんがいなくなって、これからは一緒にやっていかないといけないんじゃないの?」
「そんなのゴメンだね。あんたの世話なんて。介護なんて、俺もリンも嫌なんだよ」
母は顔色も変えずに言った。
「この家は今日から俺のもんだ。親父の遺産は全部俺がもらうからな」
「誰がそんなこと決めたのよ」
「俺が決めたんだよ。遺言書を書けば全部俺のものになるんだ」
「遺言を捏造しようっての?」
「ああ、そうだよ。親父の真似をして書いて、実印を押せばいい」
母はそこで初めて、少しだけ笑った。
「まさか、そんなに馬鹿だったなんてね」
「何がだよ」
「遺言書が本人によって書かれたものかどうかは、きちんと鑑定されるのよ。あなたがどれだけ真似たって、すぐにバレるに決まってるでしょ」
俺は言葉を失った。そんなこと、考えてなかった。
「とにかく遺産は、どんな手を使っても全部俺のものにするからな」
「お父さんが長くないって聞いて、すぐに帰ってきたのはそのためだったの?」
「それ以外に何があるんだよ」
「気づかなかったのは、私もバカだったわね」
「親父が遺産を渡さずに3年も粘りやがったのが悪いんだ。俺のことを思うなら、さっさと死んでいればよかったんだ」
その瞬間、母の目が冷たく変わった。
「そう。それがあんたの本音ってわけね」
「そうだよ。だからあんたもさっさと消えてくれ。もう家族じゃない」
「分かった。出て行くわ」
「ああ、とっとと行け。後悔しないようににな」
「するかよ」
それから一週間後、母から電話がかかってきた。
「新しい家は見つかったか? どうせ安い部屋で暮らしてるんだろうけどな」
「そうね。お父さんがいなくなって、本当に寂しいと思ってるわ」
「はあ? そっちの話じゃない。経済力の話をしてるんだよ」
「そっちは問題ないわ。あなたに心配されることはないから」
「あのさ、遺産の話なんだが。親父の資産って、どうやったら分かるんだ?」
「どうしてそんなことを知りたいの?」
「全部俺のもんなんだから、把握しておかないとまずいだろ」
「そんなこと、あなたが気にする必要はないわ。無駄なことをしてないで、仕事を探しなさい」
「黙れよ。説教なんてするんじゃねえ。お前はもう、俺の母親じゃないんだ」
「まあ、そういうことになってたわね」
「それに俺は仕事なんてする必要はないんだよ。親父の遺産で悠々自適に暮らすんだからな」
母は少し間を置いて、静かに言った。
「あなたは一円足りとも相続できないわよ」
「はあ? 何言ってんだ? 親父は不動産も株も現金も、めちゃくちゃ持ってたじゃねえか。それがあったから俺たちはいい暮らしをしてたんだぞ」
「それは確かにそうよ。でも、お父さんはガンが見つかってから、治療で満足に動けなくなってしまったでしょ」
「それが何だよ」
「だからお父さんは、遺産の全てを私に生前贈与したのよ。それで私に全ての管理を託して、亡くなったの」
「ウソだろ」
「本当よ。だからお父さんが亡くなっても、遺産はゼロってこと」
「ふざけるな! こんなの聞いてないぞ」
「当たり前でしょ。あんたの狙いは、とっくに見破ってたんだから。あなたが遺産目当てに帰ってきたことを、お父さんも私も分かってたの。だから話し合って、相続できないようにしたのよ」
「こんなの親のやることかよ」
「あんたが自ら嵌まりにいったんでしょ。私たちはこんなことを望んでなかったわよ」
「ふざけんな」
「まあ、これでお父さんの遺産があんたに行くことはなくなったわ。だから家族を養うために、あんたはしっかり働きなさい。それが夫であるあなたのやるべきことでしょ」
そこで電話は切れた。
その一週間後、柴田さんが俺の前に現れた。
「大地君。久しぶりだね。柴田だ」
「どうして連絡先を知ってるんだ」
「お母さんに聞いて教えてもらったんだよ」
「あんたもグルなんだろ。俺が遺産をもらえないようにしたんだよな」
「秋年に相談されてね。弁護士として助言はさせてもらったよ」
「やっぱりな」
「君を責めるのは違うと思うよ。今回のことは、君の自業自得だ」
「まあいいよ。遺産については、もらえるのが後になるだけだ」
「そうだね。それは別にいいとして」
「何の用だ?」
「お母さんが、君に対して損害賠償請求をしたんだ」
「はあ? 何でそんなことをされなきゃいけないんだよ」
「分からないのか? 君はお母さんを家から追い出しただろう。鍵を勝手に変えて、一方的に入れないようにした。そのせいでお母さんはホテル暮らしをして、新しいマンションを契約しないといけなくなった。家具も買い直した。これはとんでもない損失だよ」
「ふざけんな。そんなの俺は一円足りとも払うつもりはねえぞ」
「それは君が悪いことだよ。遺産だけをもらいに帰ってくるなんて、ひどすぎる。お父さんは君のことをいつも心配していたのに」
「心配なんてしてるわけねえだろ。それなら金を寄越せってんだよ。何も援助せずに見捨てたくせに、親父面されても困るんだよ」
「援助しなかったのは、君に自立してほしかったからだ。自力で働いて、稼げるようになってほしかったんだ」
「そんなもん、いらねえんだよ。金持ってるくせに、ケチくせえ」
「いい加減にしろ。亡くなった人を悪く言うのは立ちが悪いぞ」
「黙れ」
俺は柴田さんに詰め寄った。
「あのババアの居場所、教えろ」
「なぜだ」
「俺が直接制裁して、黙らせてやるよ。そしたら訴えてこなくなるだろうしな」
「ふざけるな。そんなことを許すわけがないだろう」
「てめえは関係ねえだろ。出しゃばってくんな」
「いいか、よく聞け。ゆかさんに近づくことは許さない」
「はあ? なんでお前がそこまで口出しするんだよ。これは家族の問題だろ」
「俺は秋人とゆかさんのことを託されたんだ。秋人からな」
柴田さんは静かに言った。
「俺と秋人は高校からの付き合いだ。野球部で、秋人はピッチャーで、俺はキャッチャーだった。どれだけ辛い練習でも、あいつと一緒に乗り越えてきた。そして甲子園出場という夢を勝ち取った、大事な仲間なんだよ」
「それがどうした」
「その仲間から託された願いを、俺は命をかけて守るつもりだ。だから、どんなことがあってもゆかさんを守り抜く。わかったか」
「うざってえなあ」
「秋人は誰にでも優しくて、誠実な男だった。だからあいつのためなら何を犠牲にしても動くっていう人間が、たくさんいるんだ。金のためなら家族すら平気で捨てるお前とは大違いだよ」
俺はその場を離れた。話にならない。
そして、さらに一週間後。今度は郵便が届いた。
「おい、これはどういうことだ?」
母に電話をかけた。内容証明郵便だった。そこには、俺が家から出て行けと書いてあった。
「そりゃそうでしょう。だってそこは、あんたの家じゃないんだから」
「ふざけるなよ。俺はあの人の息子だぞ」
「かもしれないけど、そこはもう私の家なの。言ったでしょ。全部の資産関係は私の名義になってるって。家ももちろんそうよ」
「待てよ。あんた、こんな大きい家が必要なのか?」
「必要ではないわね。柴田さんが勧めてくれたマンションに越したんだけど、こっちの方が私には合ってると思うわ。部屋は小さいし、周りにはコンビニも病院もあるしね。何かあった時に安心できるのは、この家だから」
「そこに今度は住むってことだろう? なら俺を追い出す必要はないはずだ」
「でもその家は、私にとって夫との思い出のある大事な家なのよ。だから定期的に帰ってきて、掃除とかしたいと思ってるのね」
「だったら鍵を送るよ。それでいいだろ」
「いやよ。私と夫の思い出の家に、他人が住んでるなんて嫌だもの」
「他人って言い出したのはそっちだろ。私はもう他人なんでしょ」
「だったら、あなたはその家に住む資格はないわ。もし住みたいのなら、家賃を払ってもらう。月50万くらいでどうかしら。それなら認めるわ」
「そんなの払えるわけないだろ」
「だったら今すぐに荷物をまとめて、家を出ていきなさい。あと、お父さんの私物を勝手に持ち出したり、売ったりしないこと。そんなことしたら訴えるから。私はあの人のものは全部把握してるから、バレないなんて思わないで」
「……分かったよ。出てくって」
「素直でよろしいわ」
だから、俺は家を出た。だが、そこで終わるわけにはいかない。
「別にいいさ。耐えてれば、遺産は必ず入ってくるんだから」
母からの連絡で、俺はそう言ってやった。
「何を言ってるの?」
「そうだろ。絶縁なんて法的効力は何もないんだ。あんたが相続した遺産を、あんたが死んだら俺が相続する資格がある。だからどうあっても、その資産は俺のものになるんだよ」
「なるほど。だから素直に受け入れてくれたってわけね」
「ああ、そうだよ。別に俺の方から、その時を早めることもできるけどな」
「バカなことはやめなさい」
それから一ヶ月後。俺は毎日、母にメッセージを送り続けた。
「おい、ババア。まだ生きてんのか? さっさとあの世で親父に会いに行った方がいいんじゃねえか」
「そうやって毎回、飽きずによく送れるわね」
「こうやってれば、いつか本当にぽっくり逝ってくれるかもしれねえからな。もしご希望があれば、俺が手伝ってやるぜ」
「毎日毎日そんなLINEが送られてきて、本当に気分が悪いわ」
「だったらブロックすればいいだろ。そんなこともできねえのかよ」
「確かに。そろそろブロックしてもいい頃かもしれないわね」
「何を言ってんだ。ブロックしたって、こっちは諦めたりしねえからな。電話番号だって知ってるし、住所だって探偵を使えば突き止められるぜ」
「そこまでして遺産が欲しいのね」
「当たり前だ。金さえもらえれば、何でもいいんだよ。もし半分くらいの遺産を渡すって言うなら、もう関わらないでいてやってもいいぜ」
「そんな交渉には乗らないわよ」
「ああ、そうかよ。バカなやつだな」
「だってそもそも、あんたには遺産をもらう資格なんてないんだから」
「バカか。絶縁なんて法的効力はないって言ってるだろ」
「違うわよ。相続欠格だからよ」
「なんでそんなことを」
「重大な不法行為を行った人は、相続の資格を失うっていう法律があるのよ」
「重大な不法行為?」
「そうよ。例えば、毎日毎日嫌がらせや脅迫めいたLINEを送り続けるとかね。これはもう全部、記録として残ってるわ。私に危害を加えようとしてた文面もね」
俺はようやく気づいた。あのメッセージを送らせたのは、わざとだったんだ。
「お前、このために俺にLINEを送らせてたのか?」
「そうよ。おかげさまで証拠は十分揃ったわ。だから今後はブロックさせてもらう。あと、探偵を使ったりとか、そんなことはしない方がいいわよ。もし私に何かあったら、柴田さんが動いてくれるはずだから。あの人は警察にも知り合いがたくさんいるから、あなたを逮捕することだって可能よ」
「じゃあ、俺は本当に財産を受け取れないのか?」
「そうよ。だから諦めて、働きなさい」
「ふざけんな。そんなこと今さら言われても、もう34だぞ。まともな就職なんてできるわけないだろうが」
「お父さんはずっと、あなたにきちんと働きなさいと言ってたわよ。その言いつけを無視してたのは、どこの誰よ。あの人はずっとあなたのことを思って、厳しい言葉をかけてたの。全部、あなたに幸せになってもらいたかったからよ」
「俺が悪かった。頼むよ。心を入れ替えるから。正直、マジで金がきついんだ。リンの奴がすげえ金遣いが荒くてさ」
「そんなの知らないわ。自分でどうにかしなさい。この先、自分がどれだけお父さんのおかげで恵まれていたかを噛みしめながら、生活しなさい」
その日から、母との連絡は途絶えた。
結局、遺産を受けられないと分かった俺は、真面目に仕事をしようと就職活動を始めた。しかし、長年親父に甘えて、まともに働いてこなかった俺には、ろくな職歴も経歴もなかった。どこからも相手にされなかった。
さらにリンのクレジットカードで多額の買い物をしていたことが発覚し、その返済に追われることに。そこから夫婦関係は悪くなっていった。
結果、今はいくつものアルバイトを掛け持ちしながら、母への慰謝料や生活費を払っている。それでも赤字が続いたことで、闇金に手を出してしまった。現在は借金から逃げ回る生活を送っている。
一方で、母は新しいマンションで一人暮らしを始めたらしい。柴田さんが生活のことを細かく気遣ってくれているおかげで、何不自由なく暮らしているという。
ただ、やはり夫がいなくなった寂しさは、なかなか埋められるものではないのだろう。生活が落ち着いたら、夫との思い出の地を巡る旅を始めるつもりだと、母は言っていた。
そこでまた新しい思い出ができたら、いつか夫にも伝えてあげたいと。
