午前9時の朝礼。工場の空気が一瞬で張り詰めた。
本社から赴任してきた新部長、神田覇斗がマイクを握り、作業員たちの前に立った。38歳。一流大学を主席で卒業し、海外の名門ビジネススクールでMBAを取得したエリートだ。ネイビーのスーツに高級腕時計。その瞳には、油と鉄の匂いが立ちこめるこの工場を見下すような光が宿っていた。
「今日から、この工場の改革を担当する神田だ。率直に言う。この工場は古い。非効率的だ。感覚や経験に頼る時代は終わった。これからはデータが全てだ。無能な人員は整理する。私の改革についこれない者は、この会社に必要ない」
社員たちは息を飲んだ。若手は顔を見合わせ、ベテランは眉をひそめる。第一声から、これがただの人事異動ではないと悟った者もいた。
朝礼が終わると、神田はタブレットを手に工場内を歩き始めた。社員名簿の学歴欄を確認しながら、獲物を探すように一人ひとりをチェックしていく。大卒、高卒、高卒……。その足が、精密機械加工エリアの前で止まった。
黙々と機械に向かう男がいた。柊誠市、48歳。この工場で30年、現場一筋で働き続けてきた男だ。白髪の混じった髪に、日焼けした肌。傷だらけの両手。それが積み重ねてきた時間を物語っている。
神田はタブレットの画面をスクロールした。その眉が不快そうに寄る。
「おい、お前」
柊は手を止め、振り返った。穏やかな目で相手を見つめる。
「はい。何かご用でしょうか?」
「30年もここにいるらしいな。中卒で」
「はい。そうですが」
周囲の社員たちが一斉に二人を見た。不穏な空気が漂い始める。
「学歴もない人間が、30年も同じ場所にいる。向上心がないのか、それとも能力がないのか」
ざわめきが広がる。しかし誰も声を上げない。本社から来た部長に、現場の作業員が意見できるはずもない。
柊は黙って神田を見つめていた。何を言われているのか、まだ理解が追いついていない。ただ、この男の目に軽蔑の色があることだけは分かった。
「申し訳ございません」
なぜ謝ったのか、自分でも分からない。ただ、そう言うしかなかった。神田は満足げに頷き、次のエリアへと歩き去っていく。
午後3時。神田は大会議室に全社員を集めた。プロジェクターに映し出された資料の冒頭には「人員適正化リスト」の文字。その下に、5名の名前が並んでいる。筆頭は柊誠市。
室内にざわめきが広がった。
「この5名は、学歴、保有資格、生産性の観点から総合的に判断し、会社への貢献度が低いと認定された人材である」
神田は得意げに説明を続ける。
「特に柊という社員については、中学卒業という最低限の学歴しか持たず、同じポジションに30年とどまり続けている。これは向上心の欠如であり、能力の限界を明確に示している」
会議室の空気が目に見えて凍りついた。柊は最前列の席で、自分が無能のレッテルを貼られる様子を、呆然と聞いていた。
隣に座っていた桐谷彩野が、32歳の若手リーダーが、怒りの炎を目に宿して立ち上がりかけた。柊はそっと彼女の腕に触れ、小声で「落ち着け」と告げる。桐谷は唇を噛み、悔しさを飲み込んだ。
神田はさらに続ける。手に取ったのは、柊が制作した精密部品のサンプルだった。わずか3センチほどの小さな金属部品。その中には、柊の30年が詰まっている。0. 001ミリ単位の精度が求められ、髪の毛の100分の1以下の誤差も許されない。少しでも手元が狂えば全てが無駄になる世界だ。柊は毎朝一番に手を温め、指先の感覚を確かめてから作業に入る。機械の音を聞き、振動を感じ、鉄の匂いを嗅ぐ。五感の全てを研ぎ澄ませてようやく完成する部品。
それを神田は、悪意のある笑みを浮かべて言い放った。
「これが柊の担当する部品だそうだ。正直に言おう。こんなもの、素人でも十分作れる」
乾いた音を立てて、部品がテーブルに投げ捨てられた。金属音が会議室に響き渡り、社員たちの間に衝撃が走る。桐谷の顔がみるみる紅潮する。若手たちは拳を握りしめ、唇を噛んだ。
しかし柊だけは、表情を変えなかった。ただ黙って、テーブルに転がる部品を見つめていた。
「時代遅れの技術にしがみつく人間など、会社には不要だ。リストにない社員もしっかりと肝に銘じておけ」
神田はそう言い放って、会議室を後にした。
会議が終わり、若手たちが心配そうに柊の周りに集まってくる。
「師匠、こんなのおかしいです! 本社に訴えましょう!」
「あの部長は、現場を何も分かっていません!」
柊は静かに笑った。
「気持ちはありがたい。だが、騒いでも仕方ない。俺のことは心配するな。それよりも、今日の仕事を終わらせよう」
夕暮れが工場をオレンジ色に染める頃。ほとんどの社員が帰宅した後も、柊は一人残っていた。いつものように機械を清掃し、工具を片付け、作業台を拭く。30年間、一度も欠かしたことのない日課。だが、今日は胸に違う感情が渦巻いている。怒りでも、悲しみでもない。静かに燃える決意の炎だった。
柊は自分の両手をじっと見つめた。傷だらけの職人の手。鉄を削る中で刻まれた無数の傷。機械油に焼かれた黒い染み。だが、この手が生み出してきた部品は、日本中、いや世界中の製品に使われている。
あの男は何も知らない。この手が生み出してきたものの価値を。
翌日、柊はいつもより30分遅く出勤した。それでも他の社員より早い時間だったが、30年で初めてのことだった。昨夜はほとんど眠れなかった。布団の中で、これまでの年月を振り返っていた。中学を出て、何も持たずにこの工場に入った。技術を教えてくれた先輩たちは、もうほとんどが定年退職している。俺は、受け継いだものを次に渡せたのか。その問いが頭の中で何度も繰り返される。
午前10時、内線電話が鳴った。会議室への呼び出しだ。柊は表情を変えず、道具を置く。周囲の社員が心配そうに見守る中、黙って会議室へ向かった。
扉を開けると、神田が腕を組んで待ち構えていた。隣には人事部の担当者が、居心地悪そうに座っている。机の上には一枚の書類。退職届だ。
「座れ」
柊は黙って椅子に座った。
「直接的に言う。お前には辞めてもらう。昨日の会議で発表した通りだ。人員適正化リストの筆頭、柊誠市。中卒で30年、同じポジション。向上心なし、能力の限界。会社に貢献できる要素が見当たらない」
神田は人事担当の方を向いた。
「なぜ無能の中卒を採用した? 今すぐ首だ」
その言葉は人事担当に向けられたものだったが、人事担当は何も答えられず、ただうつむいている。神田は退職届を柊の前に押し出した。
「今すぐサインしろ。退職金は規定通り払ってやる。さっさと消えて、二度と戻ってくるな」
柊は退職届を手に取った。しばらく黙って見つめる。薄い紙一枚。30年の終わり。だが、不思議と悔しさはなかった。怒りも湧かない。むしろ、心の奥底で眠っていた何かが目を覚まし始めている。
「分かりました」
その一言に、神田は満足げに頷いた。
「最初から素直に従えばいいんだ。中卒の分際で、長いこといやがって」
柊は淡々とペンを取り、サインを済ませた。人事担当が申し訳なさそうな表情で退職届を受け取った時、柊は鞄から茶封筒を取り出した。
「あと、これを人事部に預けておいて欲しい」
「これは?」
「私の仕事記録です。いつか必要になるかもしれません」
神田は鼻で笑った。
「中卒の仕事記録など、誰が必要とする? ゴミ箱に捨てておけ」
しかし、柊の目には静かな光が宿っていた。それは、たとえるなら刃の前の静けさのような輝きだった。
柊は会議室を出て、自分のロッカーへ向かった。私物をダンボールに詰める作業は、思いのほか早く終わった。使い込まれた手袋と、古びた工具が数点あるだけだ。その工具は、入社時に会社の織田正会長から譲り受けたものだった。中学を出たばかりで何の取り柄もなかった自分を、「目に光がある」と言って採用してくれた人。恩師であり、自分の人生の全てを作ってくれた人だった。
ロッカーの前で立ち尽くす柊の元に、桐谷が走ってくる。
「師匠! 本当にやめるんですか? こんなの絶対おかしい! 私、本社に直訴します!」
涙声で訴える桐谷に、柊はそっと肩を掴んだ。ゴツゴツとした傷だらけの手。10年前、この手で桐谷に初めて旋盤の使い方を教えた。最初は怖がっていた彼女が、今では誰よりも精密な加工ができるようになった。
「お前がそんなことをする必要はない」
「でも……」
「いいか、桐谷。俺がお前に教えたこと、全部覚えているか?」
「はい」
涙声で答える。
「それがお前の中に生きている。それでいいんだ。技と血は同じだ。師匠から弟子へ。弟子からまた次の世代へ。そうやって受け継がれていくものなんだ」
「師匠……」
「俺の師匠がそうしてくれた。俺もお前にそうした。お前も、いつか次の者に渡せ」
桐谷は声を上げて泣いた。そこへ、若手たちが次々と集まってくる。
「柊さん、ありがとうございました! 俺たち、絶対に師匠の技を守ります!」
柊は一人ひとりの顔を見て、静かに頷いた。こいつらがいる。それだけで、30年は無駄じゃなかった。
工場の正門を出る時、柊は一度だけ振り返った。毎日通い続けた場所。30年、一日も欠かさず通った道。晴れの日も、雨の日も、雪の日も。この工場が自分を育ててくれた。だが、その目に悲しみはない。炎が宿っている。
まだ終わりじゃない。本当の勝負はこれからだ。
その夜、柊は自宅のアパートで、ダンボールに詰めた私物を見つめていた。使い込まれた手袋、古びた工具。30年間毎日使ってきたもの。これが自分の全てだった。
携帯電話が鳴った。画面に表示されたのは、織田正会長の名前。こんな時間に、会長が直接。柊は驚きながらも通話ボタンを押した。
「柊か。今、大変なことになっていると聞いた」
声には驚きと怒りが混じっている。
「会長……」
「本社から緊急の連絡があった。お前が退職届を出したと。何があったか、全て聞いた。すぐに取り消させる。明日の朝一番で本社に電話する。お前を辞めさせるなど、断じて許さん」
柊は少し驚いた。会長は何も知らなかったのだ。神田の暴挙を。
「いえ、会長。もういいんです」
「何を言ってる? お前は……」
「30年の会社のためにサインしてしまいましたから、もう覚悟は決めました」
「柊……」
「会長、今からお会いできませんか? 話があります」
しばらくの沈黙の後、織田が答えた。
「分かった。今すぐ来い」
柊は携帯電話を握りしめ、深く息を吐いた。そして、恩師の元へと向かう準備を始めた。
織田の自宅は、都心から離れた閑静な住宅街にあった。高級住宅が立ち並ぶ一角にある和風の邸宅。インターホンを押すと、家政婦が現れ、奥の座敷へと案内された。
しばらくして、杖をついた老人がゆっくりとした足取りで姿を現した。織田正、72歳。痩せ細った体だが、その目には若い頃と変わらぬ鋭い光が宿っている。柊の顔を見るなり、深い皺の刻まれた顔に複雑な表情を浮かべた。
「来たか」
「お忙しいところ、申し訳ございません」
二人は向かい合って座った。しばらく無言で茶をすする。窓の外では夕日が沈みかけ、オレンジ色の光が座敷に差し込んでいる。
織田が湯呑みを置いた。その手が微かに震えている。
「なあ、柊。なぜ黙って辞めた? お前なら声を上げれば、現場の全員が味方に着いただろう。桐谷も若手たちも、みんなお前を慕っている」
「だからです」
「何?」
「若手たちを巻き込みたくなかった。俺が騒げば、あいつらは本社と対立することになる。神田の人員適正化リストには、俺以外にもあと4人の名前がありました。もし俺が抵抗すれば、次はあいつらが狙われる」
織田は黙って聞いている。
「桐谷も他の若手たちも、まだこれからです。30年やってきた俺と違う。あいつらの30年は、これから始まるんです。俺が表に立って辞めれば、若手は守られる。それが俺にできる最後の仕事だと思いました」
織田の目に、悔しさと感動が入り混じる。
「しかし、会長。それだけじゃないんです」
柊の目に、静かな炎が宿った。
「あの男は、俺の技術を見ていない。学歴しか見ていない。中卒だから無能。30年同じ場所にいるから向上心がない。そう決めつけた」
「ああ」
「だったら、見せつけてやりたいんです。学歴じゃない。この手で積み上げてきたものを」
織田の目が大きく見開かれた。
「30年、黙って働いてきました。師匠の教えを守って。職人は口で語るな、手で語れと。でも、手で語っても、見ようとしない者には届かない。それが分かりました。だから今回は、世間に語ってもらいます。俺の技術の価値を、世間が証明してくれる」
織田は深く息を吐いた。そして、ゆっくりと頷いた。
「令和の名工としてか」
「はい。もう隠すのはやめます。解き放ちます」
「10年間、断り続けてきたのに」
「男には時があるでしょう。会長」
その言葉に、織田の目に涙が滲んだ。
「そうだ。時がある。お前は30年黙って技を磨いてきた。誰にも自慢せず、ただ黙々と。それがお前のやり方だった」
「はい」
「分かっている。だがな、今は違う。学歴で人を測る愚か者に、本物の技術者の姿を見せつけてやれ。お前の技術は、この国の宝だ。もう隠すな」
柊は深く息を吐いた。30年間、ずっと心の奥にしまい込んできたもの。大手メーカーからのヘッドハンティング。業界団体からの表彰。数々の栄誉ある賞。全てを断り続けてきた。肩書きや名誉で仕事をするのではない。技術で証明する。それが信念だった。だが、今は違う。
「経済産業省からの連絡は、すでに来ている」
「はい」
「令和の名工。お前は10年間、毎年候補に上がりながら断り続けてきた。しかし、今回は」
「受けます。そして、あの男に教えてやります。技術の価値は、学歴じゃないってことを」
二人は無言で顔を見合わせた。男と男の、言葉にならぬ約束。
「柊」
「はい」
「お前は、私の誇りだ」
その言葉に、柊の目頭が熱くなった。中学を出たばかりで、何の取り柄もなかった自分。この人は信じてくれた。「目に光がある」と言って採用してくれた。
「ありがとうございます。俺も、会長に拾ってもらえて本当に良かった」
「礼を言うのは私の方だ。お前がこの会社を、今まで続けてこられた」
翌朝、神田は上機嫌で出社した。昨日、長年の懸案だった厄介払いが完了した。これで効率化の第一歩だ。残りの4人を片付ければ、本社での評価はさらに上がる。
工場に入ると、神田は異変に気づいた。いつもなら機械音が響き渡っているはずの精密加工エリアが、不気味なほど静まり返っている。まるで心臓が止まったかのような異様な静寂。
製造部の管理職が、慌てた顔で駆け寄ってくる。
「部長! 大変です!」
「何が大変だ? 朝から騒ぐな。要点だけ言え」
「精密加工の工程が、完全に止まっています。柊さんがいなくなって、誰も作業をこなせないんです」
神田は鼻で笑った。
「馬鹿な。あんな単純作業、マニュアルがあれば誰でもできる。他の作業員を回せ」
「無理です。柊さんの技術は誰にも代えられません。マニュアル化できるものではないんです」
その言葉を聞いても、神田は事態の深刻さを理解できなかった。中卒の技術など大したものではない。そう決めつけている。
午前中だけで、取引先からの問い合わせが殺到した。大手自動車メーカーの購買担当者、航空機部品メーカーの品質管理責任者、医療機器メーカーの開発部長。いずれも柊の精密加工技術を頼りに、長年にわたって取引を続けてきた優良顧客だ。
「柊さんはどこだ? いつ復帰する?」
「現在、人員の再配置中だ。代わりの担当者が対応する」
神田は苛立ちを募らせながら答える。
「柊さん以外では困る。品質が保証できない。契約の見直しを検討せざるを得ない」
次々と帰ってくる厳しい声に、神田の表情が曇り始める。ただの中卒作業員が一人いなくなっただけで、なぜこれほどまでに大騒ぎするのか。
そこへ桐谷が詰め寄ってきた。
「まだ分からないんですか?」
声を震わせながら訴える。
「師匠がどれほどの技術を持っていたか、どれほど多くの人に必要とされていたか!」
「学歴もない人間を持ち上げるな。お前も同類か。代わりなど、いくらでもいる」
神田が怒鳴り返した瞬間、スマートフォンが鳴り響いた。画面には、本社専務の名前。嫌な予感が背筋を駆け抜ける。
「神田。今すぐニュースを見ろ。何をやったか、分かっているのか?」
神田は何のことか分からず困惑する。専務の激怒の声が頭に響き渡り、何か恐ろしいことが起きているのではないかと、顔が青ざめていく。
昼休み、社員食堂は異様な熱気に包まれていた。普段は雑談や笑い声で賑わう場所が、今日は水を打ったように静まり返っている。全員の視線が、壁に設置された大型テレビに釘付けになっている。
画面には生放送のニュース番組。アナウンサーが興奮気味に原稿を読み上げている。速報のテロップが画面を横切る。
「令和の名工、発表!」
「経済産業省は、本日の製造業を支える卓越した技術者を表彰する『令和の名工』を発表しました。今年選出されたのは、精密加工技術の第一人者として知られる柊誠市さん、48歳です」
画面に、柊の顔写真が大きく映し出された。
食堂に雷が落ちたような衝撃。時間が止まる。誰もが息を飲み、画面を凝視している。
「柊さん? あの柊さんが……」
信じられないという顔で、社員たちは互いに顔を見合わせる。桐谷は両手で口を抑えた。体が震える。
「柊さんは中学卒業後、18歳で地元の製造会社に入社。以来、現場一筋で技術を磨き続けてきました」
中学卒業、現場一筋。その言葉が食堂中に響く。
「保有する特許は23件に上り、そのうち5件は業界標準技術として、世界中の製造現場で採用されています」
画面には次々と映像が流れる。柊が開発した技術の概要図。その技術が使われている製品。自動車のエンジン部品、航空機の精密機器、医療用の機器。日常生活に欠かせない重要製品ばかりだ。
「嘘だろう?」
「知らなかった。俺たち、何も知らなかった」
同じ職場で働いていながら、誰も柊の本当の実力を知らなかった。いや、柊は一度も自慢しなかった。黙々と仕事をし、後輩に技術を教え、朝早く出勤して遅くまで残る。その謙虚さが、実力を覆い隠していた。
桐谷の目から涙が溢れ始める。10年間、毎日教わっていた。でも師匠は一度も、こんなことを口にしなかった。ただ黙々と技を教えてくれた。それがどれほど価値のあることだったのか、今初めて分かった。
ニュースはさらに驚くべき事実を伝えた。
「柊さんはこれまで、大手メーカー数社から年収3000万円を超えるヘッドハンティングを受けていましたが、その全てを断り続けてきました」
画面に企業ロゴが表示される。日本を代表する自動車メーカー、世界的な電気メーカー、最先端の医療機器メーカー。誰もが知る一流企業の名前がずらりと並ぶ。
食堂のざわめきがさらに大きくなる。
「3000万円を断った? なぜ?」
「なぜ断り続けたのかという質問に対し、柊さんはこう答えたそうです」
画面にテロップが表示される。
「自分を見い出してくれた恩師がいる。この会社で、技術を次の世代に伝えていきたかった。学歴も肩書きもない自分を信じて採用してくれた会長への恩返しがしたかった」
その言葉を聞いた瞬間、食堂内の雰囲気が一変した。感動の涙を流す者。拳を握りしめて唇を噛む者。黙って天井を見上げる者。それぞれが、柊という男の生き様に心を打たれていた。
その時、食堂の入り口に一人の男が立っているのを、誰かが気づいた。神田だった。彼は信じられないものを見るような目でテレビの画面を凝視している。顔面は蒼白。自分が首にした男。中卒だと馬鹿にした男。無能だと罵倒した男。その男が今、日本を代表する技術者として全国ネットのニュースで称えられている。
「業界では『神の手』と呼ばれる柊さん。その技術は国内だけでなく海外からも高く評価されており、アメリカやドイツの製造業界からも視察団が訪れるほどです」
画面には、海外の技術者たちが柊の作業を見学している写真が映し出される。誰もが真剣な表情で、柊の手元を見つめている。
神田は、自分が何をしてしまったのかようやく理解し始めていた。学歴が全てだと信じて生きてきた。数字とデータだけが真実だと思い込んでいた。しかし、目の前のテレビが映し出しているのは、その価値観を根底から覆す現実だった。学歴など関係なく、ただひたすらに技を磨き続けた男が、日本の宝として認められている。そして自分は、その宝を追い出した。
神田のスマートフォンが再び鳴り始めた。画面に表示されたのは、本社役員室の番号。
「神田。今すぐ会議室に来い。お前がどれだけ重大なことをしでかしたか、分かっているのか?」
神田は顔面蒼白のまま、ふらつく足取りで食堂を後にした。その背中を見送る社員たちの目に、同情の色など欠片もなかった。
午後2時、本社から3名の役員が緊急来社した。専務取締役を筆頭に、人事担当常務、総務担当執行役員。険しい表情で工場に乗り込んでくる。彼らは神田を会議室に呼び出すなり、激しい叱責を浴びせ始めた。
「神田。どういうことか、説明してもらおうか」
声を荒げ、力任せに机を叩く。バン。その衝撃でペン立てが倒れ、ボールペンが床に散らばった。
「なぜ柊君を退職させた? お前、あの男が何者か分かっているのか?」
「それは、学歴が……」
「学歴? 学歴だと?」
資料を広げながら冷たい声で続ける。
「柊君の退職が報道された直後から、主要取引先12社のうち7社が契約の見直しを示唆してきている。そのうち3社は即時打ち切りだ」
神田の顔がさらに青ざめる。
「取引先の言い分は全て同じだ。『柊さんの技術があるから取引していた。その技術者を学歴だけで切り捨てる会社とは、もう付き合えない』とな。被害総額は、年間売上の約3割。数十億円規模だ。最悪の場合、会社の存続そのものが危うい。分かっているのか」
「業界団体からも抗議が来ている。日本製造業連盟、精密機械工業会、技能継承推進協議会。『国宝級の技術者を学歴だけで追い出すとは何事か。製造業全体への冒涜だ』そうだ。もはや一企業の問題を超えた、深刻な事態だ」
神田の手が小刻みに震えている。その時、会議室の扉が開いた。杖をついた老人が、ゆっくりとした足取りで室内に入ってくる。織田正会長だった。
本社の役員たちは即座に立ち上がった。
「会長!」
緊張した面持ちで頭を下げる。創業者であり業界の重鎮でもある織田の存在感は、この場にいる誰よりも圧倒的だった。織田は役員たちを手で制すと、神田の正面までゆっくりと歩み寄った。
「神田君」
「会長……」
「学歴で技術は測れん」
穏やかだが、一言一言に重みがある声。それが会議室全体に響き渡る。
「柊さんは確かに中卒だ。しかしな、あの男の技術は、日本のどの大学教授よりも、どの研究機関の博士よりも、価値がある。お前には、それが分からなかったんだな」
「は……何も言い返せず、ただ俯いて小刻みに震えている。
「数字と肩書きだけで人を判断する。その傲慢さが、お前の目を曇らせた」
「申し訳ございません」
「柊さんはな、朝早く出勤し、遅くまで働き、一度も自分の功績を誇らなかった。その謙虚さこそが、本当の技術者の姿なんだ」
神田の目から涙がこぼれ始めた。それは自分への憐れみではない。自分の愚かさへの後悔と、悔悟から流れ出た涙だった。学歴という物差しでしか人を見ることができなかった自分。現場の価値を理解しようともしなかった自分。その傲慢さが、取り返しのつかない事態を招いてしまった。
「柊さんに、謝りたい」
絞り出すように言った。
「土下座してでも、もう一度だけ……」
織田は首を横に振った。
「遅い。彼はもうこの会社にはいない」
「会長……」
「お前が謝る機会は、永遠に失われたんだ」
その言葉が、神田の心に深く突き刺さった。会社のために尽くしてきた人間を、たった一言で追い出した。その罪の重さを、神田は今になって初めて理解した。
しばらくの沈黙の後、専務が口を開いた。
「処分を言い渡す。部長職からの即時解任。三階級降格して一般社員への格下げ。そして、地方の営業所への左遷だ。詳細な始末書の提出と、損害を受けた取引先への謝罪訪問も命じる。取引関係の修復が不可能となった場合、損害賠償請求の対象となる可能性がある」
神田はもう何も言えなかった。一流大学を卒業し、MBAを取得し、輝かしいエリートコースを歩んできた神田のキャリアは、たった一人の中卒技術者を侮辱したことで完全に崩壊した。
数週間後。地方の小さな営業所。神田は机の片隅で、電話を握りしめていた。取引先への謝罪訪問、23社目。何度頭を下げても、返ってくる言葉は同じだった。
「あの神田さんですか? 柊さんを首にした方ですよね」
「申し訳ございません。何とかもう一度だけチャンスを……」
「うちは柊さんの技術を信頼して取引してたんです。その方を学歴だけで切り捨てるような会社とは、もう付き合いません」
ツー、ツー、ツー。電話が切れる音だけが、静かな事務所に響いた。
数週間後、神田は会社を辞めた。人事担当が辞表を受け取る時、わずかに目を伏せた。同情ではない。軽蔑だ。
「退職金は、規定により大幅に減額されます」
「分かっています」
「次の就職先は、お決まりですか?」
「いえ……」
これまで積み上げてきた輝かしい実績も虚しく、神田の会社人生はそれで終わりを告げられた。
その数ヶ月後。地方の小さな町。油と鉄の匂いが充満する作業場で、神田は作業着姿で立っていた。一流大学を出てMBAを取得し、高級スーツに身を包んでいた男は、もういない。
「神田さん、旋盤の使い方、分かりますか?」
「いえ……」
「じゃあ、田中さん、教えてあげて」
神田の前に現れたのは、60代半ばの作業員だった。田中と呼ばれた男は、神田を一瞥すると、からかうように言った。
「俺は高卒だ。学歴、全然大したことないけど、いいかな? 冗談だよ。さ、こっち来て。基礎から教えるから」
神田はその背中を見つめた。かつて自分が見下していた人たち。学歴がないと切り捨てた人たち。その人たちに、今、頭を下げて技術を教わっている。
「お願いします」
「おう。まずは手の動かし方からだ。機械ってのはな、学歴じゃ動かせないんだ」
その言葉が、胸に突き刺さった。
夜。一人でアパートに戻った神田は、テレビをつけた。偶然流れていたのは、製造業特集の番組。そこに映っていたのは、柊誠市の姿だった。テレビの中の柊は、若手たちに囲まれて、穏やかに笑っている。
「技術は人から人へ。それが俺たちの仕事です」
語る柊の目には、揺るぎない光があった。
神田はテレビの前で、膝から崩れ落ちた。
「柊さん……すみません。すみません」
声が震える。涙が溢れる。だがその謝罪が届くことは、二度とない。学歴だけを武器に生きてきた男が、学歴など何の意味も持たない世界で、自分の愚かさと向き合い続けている。
その頃、柊の元に一通の手紙が届いた。差出人は織田正会長。丁寧に折りたたまれた便箋を開いた柊は、そこに綴られた内容を読み、しばらく言葉を失った。
技術顧問としての正式な就任要請。若手育成プログラムの責任者就任の辞令。給与は現役時代の3倍。だが、柊の心を動かしたのは金額ではなかった。便箋の最後に、織田の達筆な字で添えられていた。
「お前の技術を、次の世代に伝えて欲しい。この会社を、お前の手で立て直して欲しい。これが私の最後の願いだ」
柊は便箋を胸に当て、目を閉じた。遠い昔のことが、鮮やかに蘇ってくる。中学を出たばかりで何の取り柄もなく、将来への希望も持てなかった自分。織田は一目見て言った。「お前の目には光がある。その光を、この工場で輝かせてみろ」と。恩に報いることができたのだろうか。目頭が熱くなるのを感じながら、柊は頷いた。
工場に戻った日。正門に姿を現した柊を見た瞬間、桐谷が叫んだ。
「師匠!」
走り出す。若手たちも一斉に駆け寄る。
「お帰りなさい! お帰りなさい、師匠!」
涙でぐしゃぐしゃの顔で笑っている。
「柊さん! 待っていました! 戻ってきてくれたんですね!」
口々に叫ぶ声が工場に響く。柊は照れ臭そうに頭をかいた。
「騒ぐな。俺はただ、やるべきことをやるだけだ」
だが、その目は優しく、温かな光を宿している。
「師匠……本当に、本当に……」
桐谷は言葉にならず、ただ涙が溢れてくる。柊はその肩に、ぽんと手を置いた。
「泣くな。お前はもう一人前だ」
「はい……」
柊は若手たちを見渡した。
「いいか、みんな。学歴は関係ない。大卒だろうが中卒だろうが、大事なのは、何を積み上げてきたかだ。俺の技は、お前たちの中に生きている。だから胸を張って生きろ。技を次に渡せ」
「はい! 必ず!」
若手たちが力強く頷く。その光景を、会長室の窓から織田が見つめている。頬に一筋の涙が伝う。
「やったな、柊。お前は、私の誇りだ」
夕日が地平線に沈もうとしている。工場の屋上で、柊は長年見続けてきた風景を見下ろしていた。茜色に染まる町。遠くに見える山並み。変わらない景色でも、自分は変わった。30年間隠してきたものを、解き放った。
柊は自分の両手をゆっくりと見つめた。傷だらけの手。皺だらけの手。だが、この手だけは嘘をつかなかった。ただ技を積み上げてきた。この手だけは。
学歴もない。華々しい肩書きもない。だが、俺にはこの手がある。
風が吹く。少し冷たい秋の風。これからも、この手で伝えていく。それが、柊誠という男の生き方だった。
