「有名大卒のエリートを採用する。中卒のお前は首だ」
小松は履歴書を指でつつきながら、ねっとりと笑った。何年も待っていた。これで中卒の牧瀬に頼らずに済む。営業企画部に中卒がいるなんて、格が下がる思いだった。履歴書を高々と掲げ、勝ち誇った声をあげる。
「国際討論会はこいつでパーフェクトだ。牧瀬、お前の時代は終わったんだよ」
中卒だと笑われても、俺は黙って成果を積み上げてきた。何十年も誰よりも真面目に働き、言語を学び、会社を支えてきた。終わったかどうかを決めるのは、あいつじゃない。俺の努力を笑ったやつは、必ず払わせてやる。
俺の名前は牧瀬弘道。五十二歳。学歴は中卒だ。
田舎の小さな工場に勤める父と、パートで稼ぐ母の間に生まれた。裕福とは言えない家だった。高校進学の話を持ち出すたび、父も母も黙り込む。我が家では、無言が「否定」を意味する暗黙の了解になっていた。つまり、俺を高校に行かせる余裕はないということだ。
「ごめんね、弘道。うちにはね、あなたを進学させるだけのお金がないの」
母が申し訳なさそうに言ったのを、今でも覚えている。当時、工場は不況の影響で製造ラインがしばしば止まり、父は自宅待機を言い渡されることが多かった。出社日が減れば、収入も減る。専業主婦だった母が近所のスーパーでパートを始めるようになったのは、その頃だ。父は仕事がないことを不満に思い、母はいくら働いても生活が楽にならず苛立っていた。
そんな両親を見て、高校に行きたいと言えるはずもなかった。進学は断念した。けれど、どうしても諦められないものが一つだけあった。英語の学習だ。英語の授業がとにかく好きで、その時間だけは真面目に受けていたおかげで、テストの点数も良かった。進学を断念して勉強への意欲は失われたが、英語への興味だけは消えなかった。
中学三年の秋頃、国内大手の「小ノグループ」が、中学生と高校生を対象にした英語コンテストを開催した。若き才能を発掘するためのものだ。優勝すれば就職のオファーがもらえるかもしれないという噂も流れていた。得意の英語をアピールできると知り、就職先が決まっていなかった俺は応募した。しかし、出場したものの入賞すらできなかった。インターナショナルスクールに通うような、恵まれた高校生たちの英語力には到底敵わなかった。
「やっぱり金がないと、英語力もつかないのかもな」
一人呟いて、自分を慰めるしかなかった。
だが運というものは、どこに転がっているか分からない。俺の英語の発表を見ていた小ノグループの影響力を持つ社員が、アルバイトとして働かないかと声をかけてくれたのだ。こうして中学卒業後、最初はバイトとして小ノグループで働くことになった。すぐに正社員へ登用され、営業企画部に配属された。それから三十五年以上が過ぎた。
その間に身につけたのは英語だけではない。グローバル展開する会社で、取引先の全ての国で使われる言語をマスターした。中国語、韓国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ロシア語、タイ語、インドネシア語、アラビア語など、合計十五か国語に及ぶ。これだけの語学を身につけた社員は、俺の他に一人もいない。最初は趣味と興味だけだったものが、いつしか仕事になっていた。
「牧瀬さん、またお願いしますよ。今回の中国側の責任者、英語がほとんど喋れないらしくて」「東南アジアの部品メーカーとのオンライン会議なんだけど、ニュアンスが難しくてさ」
部署の垣根を超えて、翻訳や通訳の依頼が日常的に舞い込むようになっていた。だが、営業企画部での肩書きは相変わらず平社員のまま。出世に興味がないし、部下を持ちたいとも思わないが、部内での評価は散々なものだった。あちこちから引っ張りだこの平社員をよく思っていない者もいる。その筆頭が、部長の小松嘉也だった。
「おい、牧瀬」
ある日の夕方、海外出張の準備で資料をまとめていると、背後からねっとりとした声が飛んできた。
「お前は一体、年に何回出張すれば気が済むんだ? デスクの上の封筒や資料を指でつつく。物流企画部の契約書チェックに、製造部のマニュアル翻訳か。お前の所属は一体どこだ?」
「もちろん営業企画部ですよ」俺は笑って返した。小松に絡まれるのは今日が初めてではない。こんなやり取りは慣れっこだ。
「向こうも困ってるみたいですし、部長も許可してくれたじゃないですか」
小松はむっとして黙り、やがて言った。「俺が拒否したら、営業企画部が非力だと言われるだろうが。ここは完璧な部署でなきゃならねえんだ。なのになんでお前みたいな中卒が、しかも部署内の誰よりも出張しやがる」
小松が不機嫌な理由は分かっている。中卒の語学オタクがしょっちゅう海外に行くのが、心から気に入らないのだ。だが、営業企画部を背負う立場としては、拒否すれば部の評価が下がると信じている。だから渋々俺を行かせる。その結果、不満が募って俺に当たる。負の連鎖から抜け出せないでいた。
「部長、私がどこを手伝っても、最終的には小ノグループ全体の成績アップにつながるんだから、いいじゃないですか」
しかし小松は鼻で笑った。「そういう問題じゃねえんだよ。中卒にばっかり通訳やらせてるなんて言われてることに、お前は気づいていないのか?」
「そんな風に言われているんですか?」俺が呆れて返すと、小松はますます勢いづいた。「そうだよ。営業企画部は中卒の語学オタクに頼らないと海外案件も回せないらしいってな。部としてメンツ丸つぶれなんだよ」
そんな陰口を聞いたのは初めてだった。「でも海外案件が円滑に進んでいるのは事実でしょう。それを評価してくれても」
「評価? 冗談じゃねえ」机を叩く音がフロアに響き、周囲の社員が驚いて肩を揺らした。「お前があちこち飛び回ってるから、うちの部署がまるで中卒の牧瀬頼みみたいに見えるんだよ。大卒揃いの営業企画部で、そんなの許されるわけねえだろう」
評価を真っ向から否定されて、少し悲しくなった。さらにヒートアップした小松は不満をぶちまけ続けた。「また牧瀬さんに助けてもらっていいな、だとよ。営業企画部は中卒でも優秀なら出張に行けるんですね、って言われてんだ。俺はその度にどれだけ内心ムカついていると思う?」
小松の気持ちが全く分からないわけではない。管理職として、複雑な心境なのだろう。だが不満を俺にぶつけるのは筋違いだ。それに「中卒」と詰められる不満は、俺にもある。
黙り込む俺に、言いたいことを言えた小松はくるりと背を向けた。やっと終わりかとほっとしたその時、振り返った小松がにやりとして言った。「国際討論会が心から楽しみだ」
俺はこの時、出張の準備に忙しく、数日後に迫った国際討論会のことなどすっかり忘れていた。
国際討論会まであと三日。海外の系列会社から代表が一人ずつ集まり、通訳を交えて意見交換する場だ。小ノグループの名物イベントの一つで、開催には力が入っている。
海外出張から戻ったばかりの俺は、討論会の資料整理に追われていた。慌ただしい日々が始まるが、仕方ないことだ。そんなある日、昼礼の後に隣の席の後輩が、恐る恐る声を潜めて言った。
「牧瀬さん、あの、討論会のスケジュールとか、もう確認しました?」
「スケジュール? いや、総務からは何も来てないけど」
後輩が不思議そうに眉を寄せる。「おかしいな。俺たちには昨日の夜にメールが来たんですが。詳細なスケジュールとか、参加国の一覧とか、通訳の人向けの注意事項もありましたし」
嫌な予感がした。まさか俺だけに来ていないのか。そんな馬鹿なと思いながらメールを開くが、新着は何も届いていない。総務のミスか。自分に言い聞かせるように呟いた。しかしその数分後、さらに不快な出来事が起こる。
製造部の主任が、驚いた表情で駆け寄ってきた。「牧瀬さん、どういうことですか? 急に通訳担当変更って連絡が来たんですが」
「え、変更ですか?」
「通訳は新入社員が担当しますので、牧瀬さんへの依頼は控えるようにって、営業企画部長から通達が回ったんですよ。ほんの数分前のことです」
頭が痺れたようになった。通訳担当の変更なんて話は全く聞いていない。「本当に大丈夫なんでしょうか? あっちの国の担当者、牧瀬さんじゃないとニュアンスが伝わらないから、よろしくって前から言われているのに」
主任の言葉が途中で途切れる。不審に思って顔を上げると、視線の先に小松が立っていた。腕を組み、余裕たっぷりの表情で小松が話しかけてくる。「まだこんなところでうろうろしてるのか」
「部長、どういうことですか? 通訳担当の変更なんて」
「俺の判断で担当を変更したに決まってるだろう」言い終わる前に遮られた。「国際討論会での通訳は会社の顔なんだ。会社の方針に沿った、立派な人材でなければならない。つまり、中卒のお前はお呼びじゃないんだよ」
フロアの空気が一気に凍りついた。「で、でも」
「でもじゃない。中卒の平社員より、世界的なフォーラムにふさわしいエリートを登用する。これは組織として当然の判断だ」
また学歴のことを言うのか。俺は呆然とした。中卒という一言で、全てが否定される。これまでの努力は何だったのか。惨めな気持ちになる。
「では、私にだけメールが届いていないのも部長の判断ですか?」
「察しがいいな。そうだよ」まるで勝ち誇ったように笑う。「お前にはもう、国際討論会に関する権限も責任もない。無駄に首を突っ込まれても迷惑だからな。そんな奴にメールを送る必要がどこにある?」
周囲の社員たちは気まずそうに目をそらした。主任でさえ何も言えずに立ち尽くしている。これが小松のやり方なのか。俺を討論会から排除するだけでなく、社内全体に「俺は不要だ」という空気を広めようとしているのだろう。
「部長、私、三十五以上この会社のために働いてきたんです。その成果や実績を」
「中卒が何を偉そうに。俺が採用した新しいエリートは有名大卒で、語学も堪能なんだよ。お前よりレベルが上だ」と、小松は続けた。「ここは小ノグループだ。学歴が物を言う場所なんだよ」
そう言い放つと、今度は主任に向き直った。「製造部への連絡は俺からも入れておく。牧瀬への依頼は今日から一切禁止だ。討論会後も、国際案件は全て新入りに任せるからな」
部長に主任が反論できるはずもない。「承知しました」小さく答える主任の傍で、俺は言葉を失った。ここまで露骨な排除は過去にない。メールを止め、担当から外し、他部署にも使うなと指示する。その理由は、ただ俺が中卒だというだけだ。
「牧瀬」小松が最後通告のように告げた。「お前の時代は終わったんだよ。中卒は中卒らしく、社内で地味に生きてりゃいいんだ」
その言葉は、どんな罵倒よりも重かった。同時に、小松が俺を徹底的に排除しようとしていることも理解してしまう。俺の努力は何だったんだ。休日は図書館に通い、ラジオ講座で学べる言語は何度も繰り返し聞いて習得した。語学が好きで努力を重ねたからこそ、今の俺がある。学歴で誰にも敵わない俺の、唯一の武器だった。
国際討論会まであと二日。出社しても心が落ち着かず、座っているだけでも胃の奥が重くなった。昨日の担当変更だけでも衝撃だったのに、今日はさらに理解不能な出来事が続いた。
朝一番に、総務から「今日、営業企画部フロアの席替えが行われる」というメールが届いた。そんな話は誰からも聞いていないのに、俺以外の社員は何事もなかったかのように落ち着いている。よくメールの宛先を見ると、なぜか総務は俺だけに送っていた。そして指示された俺の席は、窓からの景色がよく見渡せる、通称「窓際席」だった。部署内の噂では、あそこに座らされた人間はほどなくして会社を追われるという曰く付きの席だ。
混乱しながら席を移動していると、総務の若手社員が気まずそうに近づいてきた。「牧瀬さん、あの、すみません。急なことなんですが」彼は言いにくそうに口を開いた。「小松部長から、牧瀬さんはグローバル案件から完全に外すと。部内でも個別作業を中心にしてほしいと指示がありまして」
「個別作業ですか?」
「はい。通訳業務は必要ないから、席だけあればいいと。それに牧瀬さん、体調不良なんですってね。お大事になさってください」
俺はぎょっとして聞き返した。「ちょっと待ってください。体調不良って何のことですか?」
「小松部長から、牧瀬さんはもう高齢だし、あちこち具合の悪いところもあると聞きましたよ。通訳は体力勝負なところがありますから、今まで大変でしたよね」
やられた。もう小松は俺に仕事を任せる気がない。深いため息をつき、総務の社員と別れて新しい席に戻った。新しい席では、誰も俺に話しかけてこない。視界に入りにくい場所にあるせいか、声もかけづらいのだろう。まるで隔離されているような気分だった。
さらに追い打ちをかけるような電話が製造部からあった。「牧瀬さん、明日の委員会の件なんですが」
「ええ、どうしました?」
「今日、小松部長が来て、牧瀬さんを会議に呼ぶなと。あいつはもう関係ないからって」
言葉が詰まった。通訳である俺のいない委員会が、果たして成立するのか。だが反論しても無駄だ。「分かりました。部長の指示なら、従ってください」
電話を切った途端、屈辱で手が小刻みに震えてきた。これは排除ではない。もはや俺の存在を消す方向に、事が進められている。
午後になると、小松が満足げな笑みを浮かべながらフロアへ戻ってきた。そして、窓際席に移動した俺の席をわざわざ見に来る。「お前の席、いい感じになったな。ここは落ち着く場所だろ」
「部長、どういうことですか? 席替えなんて本当に必要だったんですか?」
小松は肩をすくめた。「必要に決まってるだろう。もう今後は国際チームと連携する必要がないんだからな。一番端で十分だ」
国際チーム。俺が三十年以上支えてきたフィールドであり、自分の領域だとばかり思っていた。なのに小松は、その領域から俺を排除しようとしている。あちこちの部署に、俺外しの命令を朝から出してきたのだろう。
「おお、それとな。今日からお前のメールアドレス、国際関連のメーリングリストから外しておいたから」
「え、勝手にですか?」
驚く俺に、小松は子供をあやすように言った。「ああ、もう関係ない仕事だろ」
俺は言葉を失った。国際討論会に関する情報は、これで完全に断たれてしまった。
夕方になり、人事部から面談するので来てほしいというメールが届く。用件には「業務調整に関するヒアリング」と書いてあった。指定された会議室に入ると、担当者が申し訳なさそうな顔で出迎えてくれた。「牧瀬さん。小松部長から、牧瀬さんを通訳業務から完全に外すことと、今後は補助業務中心にという指示が出ていまして」
「補助業務?」
首をかしげる俺に、担当者は言いづらそうに告げた。「はい。資料印刷とか文書整理とか、部の皆さんのサポート業務になります」
三十年以上、通訳として業務の橋渡しをしてきた俺が、突然雑用係になるのか。「部長からは、役職もない中卒に最前線を任せるのは不適切だと聞きまして」
胸の奥が突き刺さるように痛んだ。小松が部長として就任してから、中卒だという理由で様々な圧力をかけられてきた。だが、ここまで悪質なのは初めてだ。怒りで全身が震えそうになる。
「それと」担当者が、さらに言いにくそうに目を伏せた。「来月から、契約形態の見直しも検討する」
一瞬、時間が止まったような気がした。「契約見直しとは、まだ退職ではありませんが」
「ええ。ですから、移動もしくは退職勧奨の可能性が」
小松が俺の退職まで視野に入れていた。さすがに気づかなかった。つまり、部長は俺を本格的に首にしようとしている。
デスクに戻ると、小松が気色満面の笑顔で俺を迎えてくれた。「おお、牧瀬。人事との話し合いは終わったかね」
そんなに会社から追い出したいのか。憂鬱な気分になりながら、俺は黙って窓際の席に戻った。
国際討論会前日。窓際席に追いやられた俺は、雑用を片付けながら静かに時間を過ごしていた。そんな時、フロアの奥から浮かれた声が聞こえてきた。「ふ、完璧かつ優秀だ。見ろ、この履歴書を」
見ると部長室のドアが半開きで、書類を手にした小松がニヤニヤしている。「有名大卒のエリートだ。ああ、ようやく中卒の牧瀬なんかに頼らなくて済む。明日の討論会は、この若き才能に任せればパーフェクトだ」
きっと俺にわざと聞こえるように言っているのだろう。挑発して、「もう辞める」と言わせたいのだ。だが、その履歴書には興味が湧いた。一体誰の履歴書だろう。気になった俺は、小松が部屋を離れた隙に中へ入り込んだ。誰も見ていないのを確認してから、そっと履歴書を覗き込んでみた。
そこには「牧瀬幸」という名前が。それを見た瞬間、俺の心臓がどくんと大きく脈打った。あまりのことに、腹の底から笑いが吹き上がる。
「あっ……」笑いをこらえようとしたが、無理だった。声が止まらず、体が震えて涙が滲んでくる。実を言うと、幸は俺の息子である。確かに有名大学を卒業しているが、卒業してから何をしていたかと言えば、いわゆるニートだった。もちろん語学の勉強もしていないし、通訳としての実務経験もない。まさかそんな息子を、小松が俺の代わりの通訳として当てにしているなんて。
他の通訳者なら明日の討論会で活躍するだろう。だが息子では無理だ。明日の失敗は確定したようなもの。俺が笑いが止まらないでいると、小松が険しい顔で戻ってきた。「おい、何がおかしい。ああ、そうか。中卒は頭のネジが外れてるんだったな」
「い、いえ、すみません。ちょっと壺に入ってしまって」笑いを抑えきれず、机に手をついて呼吸を整える。小松は勝ち誇ったように履歴書を掲げた。「ふん。何がおかしいのか知らんが、明日からはこの有名大卒のエリートを採用する。中卒のお前は首だ。はぁ」知らないというのは罪なことだな、と心から思った。
息子の英語力は、多分英語すらまともに喋れないだろう。テストはできるが、喋るのがとにかく苦手で、元妻の美子と「なぜこうなったのか」と何度も一緒に首をひねったものだ。そんな息子に、人前での通訳などできるはずがない。
翌日、朝八時。新入社員用のスーツに身を包んだ息子が、緊張でガチガチになりながら出社してきた。ネクタイは曲がり、名札が裏返しになっていることにも気づかない。スーツも革靴も新品の下ろし立てだが、体に全く馴染んでいない。どこから見てもエリート通訳者には程遠い姿だった。しかし何も知らない小松は、笑顔で迎えていた。
「いやあ、君。今日から君が我が部署のスターだ。討論会は君の英語力が頼りだからな」
「は、はい。あ、あの」息子が何か言おうとするのを、小松が遮る。「遠慮せず言ってくれ。英語はネイティブ並みなんだってな」
「え? ネイティブ?」息子の顔が真っ青になる。「ん? どうした?」
「じ、実は大学、とんと行ってなくて。英語も、コンビニの外国人のお客さんとちょっとだけ話しただけなんです」
「はぁ?」
息子の告白に、俺は笑いをこらえすぎて涙が出そうだった。この先、小松がどうなるのか。息子には申し訳ないが、なんだか楽しみになってくる。まず間違いなく、今のような得意げな態度は取れないだろう。
討論会の開始時刻が近づき、息子は緊張で顔面蒼白のまま控室へ移動する。そのぎこちない姿に、周囲のスタッフも困惑していた。「あの人、本当に通訳? 新人っぽいけど大丈夫かな」「私も資料で名前を見たけど、通訳経験はないみたいで」しかし小松はそんな声に気づかないふりをし、胸を張って言った。「優秀な人材だから安心しろ。経験がなくても、なんせ有名大卒だ。中卒とは違うのだよ」
学歴重視もここまで徹底しているのは、純粋にすごいと思った。だが、ここまではまだ前哨戦に過ぎなかった。
会場には各国の代表と取引先の要人がずらりと並び、報道カメラも数台入っている。成功すれば会社の評価は跳ね上がるが、失敗すれば国際問題になるほどの大イベントだ。世界各国の株主たちも注目していることだろう。やがて司会者が開会を告げ、息子の名前が呼ばれた。「本日の通訳は、小ノグループより牧瀬幸です」
場に立つ息子の手は震え、原稿を持つ指がカタカタと音を立てていた。俺は客席の後ろから、息を詰めて見守る。最初の議題は各国代表からの英語での簡単な自己紹介で、通常、初心者でも何とかなるレベルだ。アメリカ代表が流暢な英語で話し始める。彼はワンフレーズ話したところで、息子にアイコンタクトを送り、通訳するように促した。だが息子は、最初の一文を聞き取れなかった。
「え? あ、あの……ハウ。あの、聞こえなかったので、もう一度お願いします」
日本語で返した息子に、会場がざわついた。小松の顔が引きつる。カメラマンがひそひそ声で話し出した。「おい、通訳さん、大丈夫か?」俺は思わず目を覆った。嬉し泣きではなく、情けなくて泣きたくなった。
次にフランス代表が発言した瞬間、息子はパニックに陥った。フランス代表がアメリカ代表と同じく話したところで、息子に向かって軽く頷く。「あ、あの、フランス語は、その、無理です」
絶叫に近い声で言う息子に、小松が激して返した。「約せよ、早く」「無理ですって」
会場がざわめく。司会者が慌てて助けを出そうとするが、すでに議論は完全に止まっていた。それでも何とか会は進み、イラン代表が情勢について発言した。
「我々の国、イラ……」
「イイイラクですね。違う、イランだ。国名を間違えるとは何事だ」
参加者の表情が一斉に険しくなった。これはただのミスでは済まされない。国際会議で国名を間違えるのは、屈辱にも等しい行為だ。会場の空気が一気に凍りつく。息子は原稿を落とし、震える手で拾い上げながら、泣き出しそうになっていた。
「ぼ、僕にはできない。無理だ」
小松も真っ青になり、席で頭を抱えていた。「な、なんでだ。履歴書には英語の資格ありと書いていたし、面接でも語学が得意と……」
一体、息子との面接でどんな話を聞いたのか。俺はため息をついた。各国代表がざわざわと席を立ち始める。このままでは話し合いにならない。「失礼極まりない」という声が飛び交う。
困り果てた様子の司会者が、俺のいる方を見ながら言った。「小ノグループの皆様、補佐の通訳の方はおられませんか?」
小松は唇を一文字に結び、返事もしない。補佐などいるはずもなく、誰も手を挙げない。小松は自分の手で、俺という本物の通訳を排除したのだ。無理もないだろう。
俺はゆっくりと立ち上がった。会場中の視線が、俺に注がれたのが分かった。次の瞬間、息子が俺を見つけ、驚きと安堵が入り混じった声で叫んだ。
「父さん!」
その瞬間、会場の空気が一変した。場で震えていた息子は、俺の姿を見つけるなり助けを求めるように叫んだ。その一言で、会場全体の視線が俺に集まる。ざわめきが広がり、各国代表までもが驚き始めた。
司会者が問いかける。「補佐通訳を務めていただける方でしょうか」
俺は深く頷き、ゆっくりと場へ歩みを進めた。しかし小松が顔色を変えて叫ぶ。「ま、待て、牧瀬。お前はもう通訳じゃないだろう」
だがその声は、凍りついた国際会場のざわめきに掻き消された。場に立った俺は、震える息子の肩に軽く触れた。「よく頑張ったな。もう大丈夫だ」
息子は泣きそうな目をしながら、小さく頷いた。司会者が改めて開会を告げる。「では続けましょう。先ほどの議題から」
アメリカ代表が再発言を始めると、俺は即座に通訳した。「まず第一に、我が国が懸念している点は……」続いてフランス代表が話し出す。「我々はすでに準備が整っており……」さらにイラン代表。「我々が国際社会に求めるのは……」
会場が静まり返った。誰一人、息をするのを忘れていたかのように、俺の声だけが広いホールに響いた。やがて、こんな声が聞こえ始める。
「彼は何者だ? アジア圏の通訳者か?」「いや、なんだかレベルが違う」「すごいな。全言語を即座に通訳しているぞ」
そんな賛辞の声を聞き、小松は呆然と座席に崩れ落ちていた。「な、なんだ、あいつ? 中卒のくせに」小松はなおも偏見を捨てきれない様子だったが、目の前の圧倒的な現実に、目を見開いて立ち尽くしていた。
討論会は完全に軌道に乗り、各国の議論もスムーズに進む。報道カメラマンは俺にシャッターを切りまくり、SNSでは「謎のスーパー通訳者」として話題になり始めているようだった。討論会終了後、会場は拍手喝采に包まれる。
「本日の成功は、代打を買って出てくれた牧瀬通訳のおかげです。深く感謝いたします」
各国の代表者たちが、次々と握手を求めてくる。その輪の中で、息子は涙を流しながら俺を見つめていた。「父さん、すごいや。本当に」
「お前も途中までよく頑張った。立派だったぞ」
息子は鼻をすすりながら、こくりと頷いていた。しかし討論会の控室では、成功に湧くスタッフたちをよそに、小松が一人青ざめて震えていた。「ま、まずい。一体、会社にどう説明すればいいんだ?」
そこへ重い足音が近づいてくる。やってきたのは、息子の祖父であり、俺の元義父である「小野勝」だった。そして、この小ノグループの社長でもある。小野は控室に入るなり、息子を顔を真っ赤にして叱りつけた。「こ、お前、なんで応募したんだ?」
「おじいちゃん……」
小野は怒りで震えながら、小松を睨みつけた。「小松。なぜ、俺の孫が国際討論会に通訳として出ているんだ? 誰が許可して、あんなニートの孫を採用した?」
「え? に、ニート? 孫? え、そんな……」慌てふためく小松に、小野が冷たく告げた。「社長である俺の許可なく勝手に採用した罪は重い」
「ち、違うんです。だって、語学が得意だと……」
しかし小野は小松の言い訳を鼻で笑い飛ばした。「ふん。幸は大学は出たが、一度も働いたことがない。英語もフランス語もできんことくらい、俺は知っとるわ。それを知らずに通訳者として採用するとは、貴様、正気か?」
小松はがたがた震えた。小野はさらに声を張り上げた。「しかも牧瀬を体調不良と偽って追い出しにかかっていたそうだな。牧瀬を排除するために、無能な新人を通訳に据えた。その結果が今日の有様だ。国際的に大恥をかいたわ」
「ち、違います。これは……」
しかし小野が一喝して小松を黙らせた。「黙れ。責任は全て貴様にある。追い出されるのは、お前の方だ」
控室が一瞬で静まり返った。小松は膝から崩れ落ち、声も出せない様子だったが、誰も助けるものはいない。小野は俺の方に向き直り、静かに頭を下げた。「牧瀬。今日の討論会を救ってくれて、本当に感謝している。お前は、俺が本来守るべき家族だった。小松などに粗末に扱われる男ではない」
涙が出そうな言葉だった。息子も泣きながら、一緒に頭を下げている。「牧瀬、今後の会社はお前の力が必要だ」
小松が怯えた声をあげる。「し、社長、まさか……」
「そうだ。牧瀬を元の通訳業務に戻す。文句のあるものは、誰もおらんだろう」
小野の鋭い言葉に、小松はなす術もなく沈黙した。小ノグループのトップの一言が控室に響いた後、関係者は全員その場に固まっていた。小松はまるで魂が抜けたように、その場に座り込んでいる。
「小松。お前の処分は、後ほど正式に役員会を通して発表する。逃げられると思うなよ」
だが小松は、王城(亡者の間違いか)の悪い癖でまだ言い訳をしようとした。「し、社長、私は悪くないんです。あいつが、幸が思ったより使えなくて、バカたれで……」
「幸は俺の孫だ。あいつの能力くらい、家族である俺が一番知っとるわ。とんだ小心者だ。通訳として立てるわけがないだろうが」
小松は口をパクパクさせるだけで、もう何も言えない様子だ。討論会を俺ではないエリートに任せたいと願ったのは分かる。だが、そのエリートが息子だった時点で、小松の未来に明るい要素は何ひとつ残されない結果となった。今日の討論会が失敗することも、小松の失態を小野が怒ることも、俺には昨日の時点で分かっていた。
「失礼します!」という高い声が響き、控室の扉が勢いよく開く。息子の母であり、俺の元妻である「牧瀬美子」が乱入してきた。
「ちょっと、幸がテレビで恥をかいたって、どういうこと? 誰のせいなのよ」
「母さん、来なくていいって言ったのに」
美子は息子の言葉を無視し、小松に詰め寄った。「うちの子を、何勝手に通訳の席に座らせてるのよ。幸はね、真面目だけど繊細な子なのよ。心の準備もできていないのに、あんな大舞台に立たせるなんて」
たじたじになりつつ、小松が言い訳をする。「い、いや、あの、語学が得意だと聞いたので」
「得意なわけないでしょ。うちの子、自己紹介すら噛むのよ」
部屋が静寂に包まれる。美子はテレビを見てここに来たのだ。俺が元妻と顔を合わせると、彼女は言った。「あなたも、幸を勝手に採用して、勝手に通訳にして、本当に腹が立つわ」
「俺も怒っておる。孫を採用し、勝手に国際討論会の通訳に立たせた罪は重い。この男が全ての元凶だ」
小松は涙目で震える。「こんなことになるとは思わなかったんです。私には家族もいるので、どうか……」
「家族の心配など後回しだ。まずは会社に詫びろ」
涙の言葉も、小野と美子の見幕によって掻き消される。小松は、改めて自分のしでかしたことの重大さに気付くことになるのであった。
やがて小野が深く息をつき、俺の前に立った。「牧瀬、今日は本当に見事だった。あの国際討論会は、お前でなければ最後まで持たなかっただろう」
「長く会社にいたので、どうしても放っておけませんでした。中卒なのに出しゃばって、すみません」
小野は笑った。「中卒だから何だというのだ。語学ができるだけじゃない。お前は信頼できる。それこそが、次期社長に必要な資質なのだよ」
いきなりの言葉に、俺は驚いた。美子も、幸も驚いた顔で俺を見ている。「お前の父さんは、誰よりも努力し、誰よりも人を助けてきた男だ。学歴がどうだの、肩書きがどうだの。そんなものは牧瀬には関係ない」
美子も黙って俺を見つめていた。昔、結婚生活がうまくいかなかった頃の彼女ではなく、母親の顔をしている。「あなた……ありがとう。幸を助けてくれて」
息子が震える声で言った。「父さん、僕……父さんみたいになりたい。語学は無理でも、人の役に立てる大人になりたいんだ。父さんは中卒って言われるのが嫌なんだろうけど、僕は、ニートって言われるのが何より辛かったから」
その言葉だけで、胸がいっぱいになる。「幸。ゆっくりでいい。お前はまだ若い。これから何度でもやり直せる」
息子は俺の言葉に頷き、涙を拭った。小野は社員たちが見ている前で宣言した。「牧瀬弘道を国際部門の統括責任者に任命する。次期社長候補として、通訳業務に復帰させる。また、幸には新人研修からやり直させる」
室内が拍手に包まれた。小松だけが青ざめ、静かに壁にもたれかかっている。「小松。お前は明日から地方営業所へ飛ばす。二度と国際案件に関わらせん」
「へ、ひどいです。私は、私は……」
そんな小松を小野が叱りつける。「牧瀬を侮辱した時点で、お前の未来は決まっていたのだ。大切なのは学歴ではない。そのことをしっかりと飲み込め。いいな」
小松は言葉もなく、崩れ落ちていた。
会場を出ると、ちょうど夕日が沈む手前だった。かつて小松に追いやられた窓際席から見えた景色よりも、はるかに美しく見える。学歴も肩書きも関係ない。努力は裏切らないし、誰かの役に立つ日は必ず来る。そう呟いて、俺は静かに拳を握った。
この日は、五十二歳で中卒のサラリーマンだった俺が、人生の頂点へと登り始めた記念すべき日になった。まさか、若い頃の勉強漬けの日々が次期社長になる道に続いているなんて、思いもしなかった。いつまでニートを続けるのかと思われていた息子も、俺を尊敬し、一緒に働きたいと言ってくれる。幸は社会というものをまるで知らない、赤ん坊のような立場だ。俺や周囲がしっかり育ててやる必要がある。気を抜けないな。
その時、俺のスマホがメッセージの着信を知らせてきた。開いてみると、元妻の美子からだ。「幸をよろしくお願いしますね」
そのメッセージに返信はしなかったが、俺は笑みを浮かべ、「任せろ」と呟いた。
翌日、小松の処遇が公式発表された。国際部門への重大な背信行為により、地方営業所への移動を命じる。社内ネットに掲載された瞬間、オフィス中がかすかなざわめきに包まれた。だが、同情の声は一つもなく、代わりにこんな声が聞こえてきた。
「ああ、やっとですね。中卒とか関係ないのにって、俺ずっと思ってた」「牧瀬さん、本当に良かったです」
同僚たちの言葉に、俺は胸の奥がじんと温かくなった。小松は送別会すら開かれず、ひっそりと会社を後にしたらしい。後日、地方営業所の社員から、小松が学歴でマウントを取ろうとしたが失敗し、速攻で浮いているという噂が聞こえてきた。それについて俺は何も言わなかった。同じ失敗を繰り返すのも、彼の人生だと思ったからだ。
その日の夕方、新しく割り当てられた広いデスクで、息子が真剣に研修資料を読んでいた。「父さん、僕、本当にゼロからやり直すよ。語学じゃなくても、会社の役に立てる人間になる」
「焦らなくていい。社会人はこれからだ。一歩一歩やればいい」
息子は力強く頷いた。その後ろで美子が、少し不器用な笑顔を浮かべていた。ジジである小野に挨拶に来た帰りだという。「ありがとう。本当に……あなたのおかげで、やっと前を向けたみたい」
「いや、あいつ自身が向き合ったんだよ」
俺の言葉に、美子は少しはにかんだ。「これからも、幸のことよろしくお願いします」
互いに干渉しすぎず、しかし確かに繋がっている。離婚した夫婦の距離感としては、それで十分だった。
夜、小野が俺のデスクにやってきた。「牧瀬。国際部門はお前が引き継ぐべきだ。次期社長の件も、進めよう」
「そんな……恐れ多いです」
しかし小野は譲らなかった。「恐れるな。学歴で会社の顔は作れん。だが、信用でなら作れる。お前はその信用を、誰よりも積み上げてきたんだからな」
その言葉で、小松に否定された俺の全てが、今初めて正しく評価されたように感じた。会社を出ると、夕焼けが空を染めていた。息子が隣に立ち、静かに言った。
「父さん。父さんみたいになるのに、どれだけの時間がかかるだろうね」
「幸は、幸の道を探せばいい。焦らなくていいからな」
息子は目を輝かせて、俺の言葉に頷いている。その息子の姿を見て、努力も挫折も孤独も悔しさも、全て報われたと感じた。
地方営業所に飛ばされた小松は、そこで早々に限界を迎えていた。新天地は小ノグループでも最小規模で、内部統制が全く機能していない職場だった。現場の作業員が事務所エリアでパソコンを操作することもあれば、事務が現場作業に従事する従業員もいる。つまり、肩書きに関わらず臨機応変に対応しなければならない。
本社のように「指示されたことだけやる」という雰囲気ではなく、現場の作業員や事務と協力し合い、密に連携する必要がある。小松の脳は、この状況にすぐに馴染めるほど柔軟ではなかった。
「え、えっと。この書類は、誰が作ってくれるんだ?」
「あなた、書類の作り方も分からないんですか? 本社ではどうされてたんです?」
慌てて小松が言い訳をする。「そ、そんな細かいことは、部下がやっていたから」
「ここでは誰でも自分の手を動かさないと、だめですよ」
皮肉ではなく、本気でそう言われた。やがて小松は現場で浮き始めた。学歴をちらつかせる癖が抜けず、「大卒だ、高卒だ」と言い出すたびに、冷たい視線を浴びる。ちなみにこの営業所には、中卒など珍しくもない。それどころか、中卒でありながら小松をお前呼ばわりする現場作業員がたくさんいた。
「学歴より、仕事できるかどうかだろう。本社では偉そうだったんだって。ここじゃ通用しねえよ」
誰も小松の味方をせず、擁護もしなかった。孤立無援になった小松は、仕事も上手く進められない。毎日のように本社に相談の電話をかけるが、その度に「自分で判断してください」「営業所の業務は営業所で完結させてください」と断られた。ある夜、一人暗い事務所に残った小松は、独り言のように呟いた。
「牧瀬のせいだ……あいつさえいなければ」
だが、そんな恨み言を言っても状況は変わらない。小松の目が絶望の色に染まりきるまで、それほど時間はかからなかった。
あの国際討論会から数ヶ月が過ぎた。あれから小ノグループの国際部門は、その姿を大きく変えていた。俺が統括責任者に就任してから、語学研修と通訳育成プログラムが本格始動したのだ。とうとう俺も後進を育てるべき立場になったんだな、と思うと感慨深い。
フロアの一角では、様々な言語が飛び交う。「英語講座お願いします」「インドネシア語にも興味があります」。社内の空気は活気に満ち、明らかに以前とは違っていた。小野はそんな様子を見て、しみじみと言った。「お前がいるだけで、会社の雰囲気が変わるな。学歴でも役職でもない、お前という人間の力のおかげだ」
俺は肩をすくめた。「俺はただ、好きなことをやってるだけですよ」
小野は笑いながら肩を叩いた。「やはり、次期社長はお前しかおらん。俺もいろんな人間を見てきたが、お前ほど『学歴が全てじゃない』と思わせてくれた人間はいなかった」
以前から言われていた言葉だが、何度言われても嬉しいものだ。この会社がどれほどの成長を見せるのか、自分の手で舵を切るのも面白いかもしれないと、最近俺は感じ始めている。
息子も新人研修を粘り強く受けていた。机に向かう姿勢は誰よりも真剣で、分からないところは素直に質問し、同期とも積極的に交流している。ある日の帰り道、息子が照れくさそうに言った。
「父さん、僕、最近会社が楽しいんだよ。父さんが守ってきた場所で、俺も頑張りたい」
「そうか」親としては、その言葉が何よりの贈り物だった。母親の美子とも適度な距離を保ちつつ、穏やかなやり取りが続いている。美子から届くメッセージは短くはあるが、どこか優しい。「今日も頑張っていましたね。あなたも体に気をつけて」返信しない日もあったが、それでもいい。家族の形は、一つではない。
そして春、本社の新年度会議で壇上に立った小野は、全社員の前で宣言した。
「国際部門の改革は成功した。全て、牧瀬がやってくれたおかげだ。今年度より、牧瀬弘道を常務に昇格させる」
会場がどよめき、次の瞬間大きな拍手が湧き起こった。俺は壇上で、胸が熱くなった。中卒でも、努力すればここまで来られる。遠回りばかりの人生が、今や次期社長という太い道につながっている。
息子も涙を浮かべ、誇らしげに手を叩いていた。会議後、小野が小声で囁いた。「まあ、次は本当に社長だぞ。心せよ」
「はい」俺の心から、湧き上がるものがあった。その重みも喜びも、丸ごと受け止めたいと思える。
その後、夕暮れの屋上で風に当たっていると、やってきた息子が決意したように言った。「父さん、僕は父さんの会社を一緒に支えたい」
「そうだな。まずは三年。焦らず行け」
夕日が沈むのを見ながら、俺は静かに息をついた。五十二歳、中卒。だが俺は、中卒のまま会社の未来を築き始める。一度は小松にへし折られそうになった俺の人生を、あの討論会で自らの手で引き寄せた。だから今は、小松への恨みはもうない。
努力は裏切らないし、遠回りでもいい。誰かを助けながら歩いていけば、人生は何度だって輝く。俺の人生は、ここからが本番だ。
