「ねえ、裕介、明日休みでしょ。一緒に買い物行かない?」
「え、仕事で疲れてんのに、休みくらいゆっくりさせてくれない?」
「私、もう妊娠八ヶ月なんだよ。ベビー用品そろそろ買いに行きたいの」
「そんなの一人で行ってこいよ。俺が行く必要ある?」
「裕介は父親でしょ。子供のためにベビーカーとか選びたいって思わないの?」
「全然思わん。そんな暇があるなら疲れを取りたいわ。まあ、一日中家でゴロゴロしてる彩佳にはわかんないだろうけど」
「その言い方、最低だよ。私が妊娠して退職したのって、裕介の提案だったんだけど」
「そうだっけ?」
「そうだよ。私は育休取って、出産後は復職したいって言ってたのに。自分の都合ばっかりじゃなくて、たまには家族の都合も優先してよ」
「悪い悪い。てか明日は温泉旅行に行くから無理だわ。また今度な」
「旅行? 先週もそう言って旅行に行ってたよね。私、妊娠八ヶ月なんだよ。これからどんどんお金がかかるのに、毎週のように旅行されては困るの」
「お前、嫁なんだから金の管理くらいしっかりしろよ」
「こんな風に使われてたら管理も何もないでしょ」
「知らん。金が足りないなら節約でも何でもして何とかしろ」
「節約するのは私だけなの? あなたは働いてるからって自由にやりたい放題で」
「ふざけてんのはお前の方だろ。妊婦のお前と休日一緒にいるのは息が詰まるんだわ」
「え、それ本気で言ってるの?」
「つわりだとか体調がとか、何かあるたびにうるせえし。子供がお腹蹴ったよとか言われても興味ねえよ」
「それでも父親なの?」
「うるさいな。俺は疲れてるんだよ。週末くらい一人で旅行させろ」
私が黙ると、彼は急に声のトーンを変えた。
「あ? 急にどうした? また座り込むのか?」
「座り込みじゃないよ。……旅行? いいよ、行けば」
「ああ? なんだ急に考えが変わったの」
「普段から裕介は頑張ってくれてるもんね。気分転換くらい好きにしたら」
「お、悪いな。じゃあ明日はしっかり気分転換してくるわ」
その日はそれで終わった。私はスマホを手に取り、ある人物にLINEを送った。
十分後、私はシ太君と落ち合っていた。彼はかつて私の部下だった青年で、今も会社で何かと情報をくれる頼れる存在だ。
「シ太君、さっきのLINEって本当なの?」
「本当すよ。俺が姉さんに嘘つくと思います?」
「思うわよ。実際、あんたが私の上司だった頃、何回嘘ついたか覚えてる?」
「あ、そうでしたっけ?」
「そうよ。あんた、仕事はできるくせにサボりばっかりで……何だったっけ? 『仕事はサボってる時が一番楽しい』とか言ってなかった?」
「ひどいなあ。でも当時の上司からは『有能なノビ太』って評判だったんすけど」
「まあ、サボりこそしても仕事は誰よりも早かったからね。注意しづらいのなんの」
「そうやってサボってばっかの俺を見放さなかったのは姉さんだけすよ」
「あんたの能力を買ってたからよ。一応は社長の息子だしね」
「『一応』は余計っす」
そう。シ太君はこの会社の社長の息子だ。だからこそ入社当初は周りから距離を置かれ、近づく者は皆、彼の立場目当てばかりだった。
「で、もう一人の問題はどうなってるの?」
「もう一人の問題、っすか。同期のマリすね。さっきのLINE見て驚いたわよ。あの子、やりたい放題やってんだって」
「そうなんすよ。姉さんの後で部長になった人にも媚び売りまくりで、おかげでマリがサボった分の仕事は全部こっちに来てるんすよ。車内一のサボり魔の俺が、全然サボれてないんすから」
「怒ることじゃないでしょ。それより、最近はお気に入りのサボりスポットも使えないって言ってなかった?」
「そうなんすよ。あそこに選客がいるんす」
「選客?」
「甘い香水の匂いとタバコの匂いが充満してて、最悪っすよ」
「なるほどね。サボり魔のあんたも色々と苦労してるのね」
「それもこれもマリのせいっす。あいつ、明日は旅行ですって」
「ああ、旅行ね。いいわね、羨ましい」
「そういえば姉さんは那さんとは最近どうっすか?」
「あの人も旅行だって。今朝、家を出る時に着替えも出してたみたいで、今日は明日の旅行のためにホテルに泊まるって連絡が来たわ」
「ありゃ、旦那さんも旅行すか。気遇なこともあるもんすね」
「本当にね」
話はそこで変わり、彼は声を潜めた。
「ああ、そうそう。近々、人事移動があるかもって話が出てるんすよ」
「人事移動? この時期に?」
「何でも、うちの部署のお偉いさんがやらかしたらしくて。姉さんお気に入りの『車内ニート君』が、何かしらの情報を掴んだらしいっすよ」
「ああ、あの『やればできる車内ニート君』ね」
「そう、そのニート君。俺す」
「わかってるわよ。色々とありがとう」
「いえいえ。姉さんには恩があるんで、このくらい気にしないでください」
「サボり魔のあんたが珍しく頼りになるわね」
翌日、私はマリに連絡を取っていた。
「まりちゃん、久しぶり。旅行楽しんでる?」
「え? 彩佳さん、なんで私が旅行中って知ってるんですか?」
「シ太君と世間話してた時に話題に出たのよ。あの子、怒ってたわよ」
「シ太君が怒ってたって言われても、心当たりないですけど」
「そんなこと言って。相変わらず周囲の男性社員に媚び売ってるんだって。シ太君に仕事を押し付けられたって言ってたわよ」
「え、媚び売ってるとかひどい。お願いしたら勝手に動いてくれるだけですよ。私って可愛いから」
「ああ、そう。でも真面目で厳しいだけの彩佳さんにはわかんないか」
「確かにまりちゃんって可愛いもんね。うちの旦那も、まりちゃんには優しかったし」
「ちょっと含みのある言い方やめてください。そんなんだから裕介部長も嫌気が差してるんじゃないですか? よく愚痴ってますよ。彩佳さんは口うるさいから一緒にいるのが辛いって」
「え、そうなの? まりちゃんは裕介と仲がいいのね」
「まあ、私って相談とかしやすいタイプらしいんで」
「ごめんなさいね。うちの旦那が迷惑かけちゃって。上司から家庭の愚痴を聞かされるのは困るでしょう」
「全然ですよ。むしろ力になれるなら嬉しいっていうか。でも別に旦那さんを狙ってるとかじゃないですよ。私、今彼氏いるんで」
「彼氏? どんな人なの?」
「年上で包容力があって、仕事もできるんです。ホテル代も交通費も彼が全部出してくれて、ほんと包容力ある彼氏最高です」
「そうね。でも本当に大丈夫かしら?」
「どういう意味ですか?」
「その彼氏って年上なんでしょ? 若いのに付き合って、足元をすくわれたりしないかなって」
「余計なお世話です。他人の心配する暇があったら、自分の心配してください」
「確かにね。最近は裕介と喧嘩ばっかりで、私もまりちゃんみたいに温泉旅行とかで気分転換したいわ」
「いいですよ。温泉で一日中ゴロゴロしてるよりは健康的で」
「まりちゃんて今どこの温泉に行ってるの? そこまでいいなら、今度旦那と行きたいから教えてほしいの」
「いいですよ。後で温泉の公式サイトを送ります。まあ、裕介部長は忙しい方なんで、彩佳さんと行くかはわかんないですけどね」
翌日、シ太君は出張帰りの裕介に話しかけた。
「部長、出張お疲れ様です」
「ああ? なんだよ、シ太。お前は今日休みだろ。何の用だ?」
「勘弁してくださいよ。にしても、せっかくの土日に出張とか最難なんすね」
「まあな。仕事だから仕方ないだろう」
「でも奥さん妊娠中すよね。心配じゃないすか?」
「大丈夫大丈夫。彩佳だったら別に一人でも問題ねえよ。お前だってあいつの元部下なら知ってんだろ」
「確かに彩佳さん、仕事もできて真面目で一人でもやっていけそうっすよね」
「そういうこと。てかマジで何の用だ? 仕事関係ならお断りだぞ」
「仕事関係ってわけじゃないんすよ。実は俺、今親父と一緒に旅行に来てるんすよね」
「旅行? シ太の親父さんってことは、うちの社長だろ」
「にしてもこの温泉旅館いいっすね。ご飯も美味しいし、温泉も最高っす」
「そうなんだよ。マジで飯も温泉も良くて」
「え、こんないいとこ知ってんなら教えてくださいよ。親父も気に入ってるみたいで、部長にお礼したいって言ってますよ」
「いや、ちょっと待て。もしかして俺が泊まってる旅館に社長が……」
「正確には、部長とマリが泊まってる旅館すよね。出張経費を使って旅行すか? いいっすね。是非お話を聞かせてもらえないっすか?」
「嘘だろ? なんで社長が……」
「まあまあ、細かいことは後で。親父と一緒に旅館で待ってますから、マリと一緒に戻ってきてもらっていいすか? 色々とお話しましょう」
同日、私は帰ってきた裕介に言った。
「裕介、旅行楽しかった?」
「……楽しかったわけないだろ」
「え、そうなの? なんかテンション低いね。何かあった?」
「お前には関係ない。黙ってろ」
「何があったのか、当ててあげようか?」
「ふざけてんのか」
「会社を首になったんでしょ? 出張費の不正利用で」
「は? お前、なんで……」
「シ太君から聞いたわ。社長と一緒に現場を押さえたんだってね」
「あいつ……くそ」
「怒ってるところ悪いけど、こっちの用事だけ先に伝えておくね。あんた、もう帰ってこなくていいから」
「は? ふざけんなよ。俺が首になったからか? 旦那が首になった程度で捨てるとか、お前最低だな」
「首になったからじゃないよ。会社の経費を使って不倫旅行をしてたから、帰ってこなくていいって言ってるの」
「不倫? 何言ってんの? 俺がそんなことするわけないだろ」
「さっきも言ったよね? シ太君から聞いたって。まりちゃんも一緒だったんでしょ? それも聞いてるわよ」
「マリとは偶然だよ。不倫なんかじゃない」
「残念だけど、その言い訳は通らないのよね。だって、あんたがいる旅館を教えてくれたのはマリちゃんだから」
「は? なんだよそれ」
「彼氏と温泉旅行って自慢してきたのよ。だから旅館の場所を聞いて、シ太君に私が伝えたの」
「つまり……全部お前のせいってことか?」
「うん。私のせいって言った? そうね、私がシ太君に情報を売ったからバレたのよ。旦那が首になるかもって分かってて、よくもまあ。最低だわ」
「ふざけるのも大概にしてくれよ。その態度、間違ってるよね? こっちが今どれだけ怒ってるか理解できてないの?」
「それは私の台詞よ。妊娠した妻を置いて、会社の経費で不倫旅行。いいご身分ね」
「違う。俺は不倫なんてしてない。お前は勘違いしてるんだよ」
「勘違いだったら良かったわね。でも証拠はもう上がってるのよ」
「証拠?」
「まず、あんたが経費を不正利用した証拠。加えて、マリちゃんと車内で隠れてイチャイチャしてた証拠。写真もあるわよ」
「車内? なんでそんなもん……お前……」
「シ太君のお気に入りのサボりスポット、会社の非常階段の辺り。あそこって少し奥に入ると周囲から見えないのよね。最近はそこに行くと『選客』がいるんだって。甘い香水の匂いの女と、タバコの匂いがついた男。あんたとマリちゃんでしょ」
「じゃあ、その時の写真をシ太に撮られてたって……あそこならバレないと思ってたのに」
「あそこに住人がいるって知らなかったんだね。というか、嫁が働いてた会社で車内不倫とか気合い入りすぎでしょ。バレないと思ってたことに驚くわ。そんな人と離婚しないとかありえないから」
「ちょっと待ってくれ。会社も首で、損害賠償も請求されるんだぞ。なのにお前にも見捨てられたら……」
「よかったわね。これからは週末もずっと一人よ」
数日後、シ太君が事務所にいると、裕介が怒鳴り込んできた。
「おい、シ太。よくもやってくれたな。お前のせいで俺は首、離婚、家も追い出されたんだぞ」
「ああ、そうすか。でもそれって自業自得っすよね」
「は? お前が彩佳に余計なことを言ったから、こんなことになったんだろ」
「着替え妄想がやばいっすね。そもそも姉さんみたいな素敵な奥さんがいて、その上お子さんもできて幸せいっぱいじゃないすか。その状況で会社の金を使ってまで不倫した部長の責任だって分かってます」
「それはそうだ。お前、一応は社長の息子だよな」
「『一応』は余計っすけど。それが何か?」
「だったら今回の件、お前の方で揉み消してくれよ。お前なら社長に直談判できるだろ。それでいい感じにごまかしておいてくれ」
「バカすか? 俺の大事な姉さんを裏切ったあんたのために、そんなことしませんよ」
「大事な姉さんだって? はっ、笑わせるな」
「姉さんは、俺が社長の息子って立場で周りから距離を置かれてた時、近づく奴がみんな俺の立場目当てばかりだった時、真正面から俺を見てくれたんです。『周囲の反応に腐ってる暇があるなら実力で見返せ』って。それがめちゃくちゃ刺さったんすよ」
「他人の思い出話なんて興味ないわ。勝手に盛り上がってんな。これだからポンコツは」
「喧嘩売ってんすか?」
「姉さんは俺に活を入れて、俺の能力を正当に評価して上に掛け合ってくれました。俺の出した業務の効率案が通ったのも、姉さんのおかげです」
「だからそれが何だって言うんだよ。お前はサボれれば何でもいいんだろ。今回の件を揉み消してくれたら、俺がいくらでもサボらせてやる」
「分かってないっすね。黙認されるサボりは、もうサボりじゃないんすよ」
「は?」
「サボりって、やることやってすっきりした気持ちでやるから気持ちいいんすわ。あんたに追い詰められた俺の今の状況、何がサボりっすか。姉さんが結婚したのも妊娠したのも、自分のことのように嬉しかったんすけどね。その相手がこんなクズ以下のポンコツとは、がっかりっすわ」
「お前、いい加減にしろよ」
「いい加減にするのはそっちっすね。あんたみたいな無能の下じゃ、サボりも気を使うんすよ。気持ちよくないんすわ。それにあんたのせいで今回、俺がどれだけ業務外で働いたか。サボり魔に頑張らせる上司とか、上司失格っすよ。さっさと消えてください」
一週間後、今度はマリが私の家に訪ねてきた。
「ちょっと、何よこれ? 慰謝料請求通知? なんで私に?」
「何でも何も、裕介と不倫してたからでしょ」
「だからって高すぎない? 百五十万って何よ?」
「こっちは離婚してるのよ。不倫が原因でね。しかもシ太君が調べてくれたところによると、もう一年くらい前から不倫してたんでしょ? 私が車内にいた頃から。私の妊娠を知りながら関係を続けたなら、妥当な金額だと思うけど」
「シ太君が調べた? あいつ、どこまで邪魔すれば気が済むのよ」
「いつもの腹立たしい口調はどうしたの? カルシウム足りてないんじゃない?」
「バカにして。旦那に捨てられたからって、当て付けみたいに慰謝料請求? そっちの方がダサいんですけど。女の嫉妬、見苦しいわ」
「捨てたのは私よ?」
「不倫されてる時点で、捨てられたのはそっちでしょ。強がり?」
「ああ、そうか。ごめんね。私のお下がりで満足するまりちゃんには、わかんないか」
「は? ていうか聞いたわよ。損害賠償の金額」
「損害賠償? 何の?」
「会社の経費を不正利用した分よ」
「いや、あれは裕介部長が勝手にやったことで、私は関係ないし」
「知らなかったわけないよね。出張費で旅行してたんでしょ? その場合、いくらかの金額はあなたの負担になるのよ。ざっと百万ね」
「百万? 慰謝料百五十万もあるのに?」
「ちなみにこれだけじゃないから」
「は? あなた、裕介以外の人とも関係を持ってたんだって」
「へ?」
「佐々木係長とか、他部署の田渕君とか。佐々木係長は既婚者だよね」
「なんでそのことを……」
「裕介の不倫が分かってすぐに調べたんだってさ。まりちゃんの性格からして、相手は一人ではないだろうと思ってね。もしかして、そいつらからも慰謝料請求されるの?」
「佐々木係長の奥さんからは、私と同じくらいの額を請求されるだろうね」
「こんなの聞いてない。私、こんなことになるなんて思ってなかったの」
「ついでに、損害賠償の金額も上がるからね」
「は? なんで?」
「あなたのせいで車内でこれだけの問題が起きたのよ。追加で五十万だって」
「嘘でしょ? 慰謝料が合計で三百万、損害賠償が百五十万? 無理。払えない」
「安売りした媚が高くついたわね。まあでも大丈夫でしょう」
「大丈夫って何が?」
「だって、ほら、包容力のある彼氏さんがいるんでしょ? きっとその包容力で包んでくれるわよ。まあ、あっちも燃えてるんだから、火が燃え移るだけなんだけど」
数日後、今度は裕介の両親が私の実家に来た。私の両親は土下座されて、ただ困惑していた。
「さっき、あんたのご両親がうちに来たわよ。『息子のせいでご迷惑をおかけして申し訳ない』って、土下座されたわ」
「それが何だよ」
「本当に救いのない人ね。あんたの非常識な行動のせいで、親にまで迷惑をかけたのよ。反省とかないの?」
「うるせえよ。こっちはそれどころじゃないんだ。親にも縁を切られるわ、会社から損害賠償二百万請求されるわ、しかもお前とは離婚。家を追い出されて、今はボロアパート暮らしだ」
「あら、もう新居が見つかったの? おめでとう」
「バカにしてんのか?」
「バカにしてんのはそっちでしょ。さっきから聞いてたら、まるで自分が被害者みたいな言い分よね」
「俺の話を聞いてたのか? どう考えても俺が被害者だろ」
「あんたが被害者? へそで茶が湧くような冗談はやめてくれる?」
「じゃあ誰が被害者なんだよ」
「一番の被害者は、お腹の子でしょ」
「は? なんで?」
「この子は生まれる前に父親がいなくなったのよ。しかも最悪な理由で。父親として最後までその役目を全うできなかった責任を取りなさい」
「責任とか勘弁してくれよ。お前からの慰謝料だって二百万あるんだぞ」
「知りません。養育費は月に三万ね」
「は? ふざけんなよ」
「これでも相場通りの金額よ。かなり良心的でしょ? あんたの今の状況も考慮して、請求できるギリギリのラインを選んだの」
「そんなの払えるわけないだろ」
「いや、待てよ。養育費って、払わなくても別に捕まったりしねえよな」
「もしかして逃げる気? 最低ね」
「なんとでも言え。こっちは生活ギリギリなんだ。自分で育てるわけでもねえし、ガキのために払う金なんてねえんだよ」
「そう。残念ね」
「どうした? 養育費が取れなくて、そんなに残念か?」
「あんたが今住んでるボロアパート、誰が保証人だっけ?」
「は? あ、縁を切る前に最後の情けってことで、うちの親が保証人になってくれてる」
「賃貸契約の更新時なら、保証人をやめることもできるわよね。そしてあんたが住んでるアパートの更新は半年ごと。つまり、養育費を払わなかったら半年であんたはその家から追い出されるってこと」
「うちの親まで味方につけてたのか。最初から俺が逃げられないように……」
「あんたの考えることなんてお見通しよ。せめてもの償いとして、あんたの監視役を買って出てくれたご両親には感謝してる。おかげで私も安心して子育てに専念できるもの」
「そんな……」
「これで分かったでしょ? 私はもちろん、あんたの両親も私やこの子の味方よ。父親としての責任を放棄してあんたを許すほど、親は生やさしくないのよ」
一週間後、私はシ太君と会っていた。
「シ太君、元気にしてる?」
「大丈夫っすよ。俺、こう見えてサボるのだけは得意なんで」
「自慢することじゃないでしょ。というか、まだサボり魔は治ってないの?」
「直すようなことじゃないすからね。むしろ面倒な上司や仕事を押し付けてくる同僚が消えて、絶好調すよ」
「裕介とマリちゃんね。あの二人、別れたんだっけ?」
「マリが部長以外の男とも関係を持ってたってバレたすからね。お互いに修羅場の真最中だったんで、一瞬で終わったすよ」
「マリちゃん、まだ裁判やってるんでしょ?」
「すね。姉さん以外の人からも慰謝料請求されて、泥沼らしいっすよ」
「それはいい気味ね」
「信頼性はさすが姉さんす」
「私、裕介もマリちゃんも許す気なんてないから」
「いや、あの二人を許せるような人はいないんじゃないすか。てか出産は大丈夫そうっすか?」
「うん、まあ、まだ予定日まで数ヶ月あるからね。つわりも落ち着いてきたし、問題ないわ」
「ならよかったっす。ちなみに出産後のご予定は?」
「うーん。実家に帰る予定だから、面倒を見てもらいながら仕事を探そうかな。これからはシングルマザーになるんだし、私も働かないと」
「じゃあ、いい職場を紹介しましょうか」
「え、いいの?」
「うす。実はうちの会社、最近部長が首になって人手不足なんすよ」
「それって……いいの?」
「もちろん。社長である親父にも相談したら、むしろお願いしたいって」
「ありがとう」
「大事な姉さんへの恩返しっすよ。それに俺としても、姉さんの下なら気持ちよくサボれますし」
「そっちが本音でしょ」
「あ、バレバレっすか?」
「バレバレよ。まあでも、サボり魔の問題児と一緒に仕事するのも悪くないか。まだ当分先になるけど、復職したらまたよろしくね」
「おす。俺も全力でサボりますんで、お任せください」
「褒めてないよ。一気に気が抜けたわ」
「姉さん、人生にゆとりは大事ですよ」
「あんたはゆとりすぎなの。でも……そのゆとりを少しは見習おうかしら。これからは仕事も育児も、ゆとりを持ってこなしていかないとね」
その後、泥沼の裁判を繰り広げていたマリは無事に敗北した。裕介も養育費から逃げられない状態で、二人揃って多額の請求を受け、それを返済するために苦しい日々を送っている。どちらも家族や友人、会社の同僚からすでに見捨てられ、二人仲良く一人きりの生活を送っているらしい。その生活が、裕介の言っていた「疲れの取れる生活」なのかは分からないけれど。
私の方はというと、騒動から数ヶ月後に無事に娘を出産し、実家で両親の力を借りながら育児をし、落ち着いた今は復職している。社長の好意もあって、役職は部長のままの復帰だ。頼れる部下のシ太君のサボり魔っぷりは相変わらずだが、私が早く娘との時間を過ごせるよう、業務の効率化を図ってくれている。おかげで復職してからはかなりゆとりを持って働けている。
これから先、子育ても仕事も大変なことは多いだろうが、いつも心にゆとりを持って、ゆっくり確実に前に進んでいきたいと思う。
