「お母さん、塩送りの件なんですけど、もっと金額増やせませんかね。物価も高いし、仕送りを増やしてもらわないと生活が苦しいんですよ。」
電話越しのみさ子の声は、どこか諦めを含んでいた。義母からの恆例の要求であることは分かっていたからだ。
「塩送り…家計の管理はひろさんがしてますので。でも、月15万円あれば十分すぎる額だと思うんですけどね。」
「まだ年金ももらってないんだから、足りないに決まってるでしょ。だったらパートでも始めたらどうですか?一日中家にいたって暇でしょうし、いい運動にもなりますよ。」
「いやよ!この年でパートなんて、みっともなくてできないわ。ああいうのはお金に困ってる庶民がやることでしょ。私は違うのよ。なんたって、息子がベストセラー作家の伊呂波なんですからね。」
「でも、ひろさんは家族をメディアに出さない方針ですし、お母さんのところにマスコミが来たことなんて一度もないじゃないですか。」
「それは今の話でしょ。これから変わるかもしれないわ。とにかく、仕送りが足りないから増やすように言ってちょうだい。月5万円プラスでいいわ。」
みさ子はため息をついて、電話を切った。そして、夫のひろに話を通すことにした。
「お母さんから、仕送り増額の相談が来たんだけど。月15万円で足りないなんてこと、ある?」
「持ち家で家賃はかからないはずよ。あの家だって、ひろが建ててあげたんじゃないの。」
「ああ…お父さんが亡くなってから、お母さんちょっとおかしいんだよ。ごめん。俺が家計管理をみさ子に任せてるから、これ以上は出せないって言っちゃったんだ。」
「私に丸投げしないでよ。あなただって、自分の母親なんだから。」
「本当にごめん。もうみさ子に連絡しないように、俺からも伝えるから。俺だって、自分の家族を大事にしたいと思ってるんだ。本当だよ。」
みさ子は、はあ、と深いため息をついた。「分かったわ。うまくやってね。」
しかし、それで終わらなかった。数分後、娘のみつがリビングに飛び込んできた。
「ねえ、やばい。おばあちゃんからLINEめっちゃ来るんだけど。『パパとママに、おばあちゃんを助けるようにお願いして』って。『母親が貧乏暮らししてるのを見て見ぬふりするなんてひどい』って言ってる。」
「でも、この前会った時、おばあちゃん全身ブランド服だったよね。あれ、何なの?」
「おじいちゃんの遺産を使い込んでるのかな?それとも、見栄を張るための見せかけ?さすがにそこまでは分からないけど…今回ちょっとしつこいわね。」
みさ子は思い出した。増額の話はこれまで何度もあった。しかし、いつも義父が間に入って止めてくれていたのだ。
「15万ももらっておいて、これ以上はひろたちの家計の負担になるからって。」
「15万でも十分負担だっつうの。1年で180万だよ。結婚してからずっと仕送りしてるんでしょ?」
「最初は5万円だったわ。原作ドラマがヒットしてベストセラーになった辺りから『少ない』って言い出して。5万を3年、10万を10年、15万になってから11年…かな。」
「5万を3年で180万でしょ。10万を10年で1200万。それに15万を11年で1980万。全部足したら…」
「3360万。」
「何、その額。ちょっと信じられないわ。」
「でも、そうなのよ。毎月これだけの負担を、私たちの家計から出してきたのよ。そう考えると、減額したいくらいなのよね。」
「だってお父さんが亡くなって、おばあちゃん一人になってるんだし。」
「それだよ。半額にしたっていいくらいじゃん。私、おばあちゃんに行ってきてあげる。」
「刺激しない方がいいわよ。あの人のやばさは、みつも知ってるでしょ?」
「いいや。言わないと気が済まない。」
そして、みつは義母に電話をかけた。数分後、リビングに戻ってきたみつの顔は、怒りで真っ赤だった。
「おばあちゃんに『仕送り減額になってもいい?』って聞いたら、『ちょっと何でよ。増やすって話はどうなったの?』って逆上されたわ。」
「だって、おじいちゃんは3ヶ月前に亡くなったんでしょ。二人分の仕送りで15万円だったんなら、半分の7万5000円にしないとおかしいでしょ。」
「『違う違う違う。そうじゃない』って。『物価高で増額して欲しいって言うなら、15万円で十分でしょ。倍になるんだから』って言ったら、『おばあちゃんがかわいそうじゃないの?』って。」
「全然かわいそうじゃないわよ。おばあちゃん60歳で元気なのに、働きもしないで子供にお金をせびってるんだから。ダサすぎるわ。私なんて、4月から就職したら家を出ることに決まってるし。お母さんたちに仕送りしようかって言っても、断られたくらいなのに。」
「普通、子供からの仕送りって、気持ちだけ受け取るもんじゃないの?もしくは、受け取るにしても、もっと感謝するとかさ。おばあちゃん、お母さんに文句ばっかりだし、見てて嫌な気分になるんだよね。」
その夜、今度はひろの携帯が鳴り響いた。義母からの鬼電だった。数分後、ひろは青ざめた顔でみさ子のところに来た。
「みさ子さん、お母さんに何言ったんだ?ものすごい怒ってるんだけど。」
「仕送り増額どころか、減額じゃないって送っただけよ。」
「何で?」
「だってそうじゃん。おじいちゃん亡くなってんのよ。じゃあ、おじいちゃん分なしにして半額の7万5000円が適正価格でしょって。」
「それはそうかもしれないけど…お母さんはカッとなりやすいんだ。俺が話すから、みさ子はお母さんに何も言わないでいいよ。ごめんね、本当に。」
「いい加減、母親離れしたらどうなの?そんなに尽くしてる息子、他にいないと思うよ。」
「だって、俺は一人っ子だし、父さんも死んじゃったし。」
「十分すぎるくらい尽くしてきたよ。お父さんが大事にすべきなのは、お母さんじゃなくて、私たちでしょ。しっかりしてよね。」
翌朝、ひろは義母に電話をかけた。しかし、義母は聞く耳を持たなかった。
「ごめん、母さん。編集と打ち合わせしててさ。仕送りの件だけど、やっぱり厳しいんだよ。」
「だから、何で?みつも家を出るんだから、その分浮くでしょ。」
「みさ子は専業主婦だから、俺が養わないといけないし。この家のローンも残ってるし、この前車も買い換えたばかりだし。作家の収入だって、毎年変わるんだよ。だから、ちょっと15万円が限界っていうか…」
「あの女ね。やっぱりあの女が悪いのよ。みさ子さんがいなかったら、ひろは私のためだけに尽くしてくれるってことよね。」
「それは…そんなの無理だよ。俺だって家族がいるんだし。」
「母親に一番尽くすのが、息子の役目でしょ。お父さんが死んだんだから。あんたがしっかり責任を持って、私に贅沢させなさい。」
「みさ子は、俺のマネージャーみたいなこともしてくれてるから…」
「あら、そうなの?じゃあ、これからは私がその役目をやってあげるわ。私、メディア取材を受けられるように、美容にも気を使ってきたのよ。任せなさい。」
「ちょっと待ってよ、母さん。頼むから、俺の話を聞いてよ。」
「話は急よ。すぐに、あんな疫病神とは離婚しなさい。」
その日の夜、みさ子の携帯に義母から電話がかかってきた。
「ねえ、みさ子さん。予定してた旅行なんだけど、ちょっと地元の友達がこっちに来るのと日程がかぶっちゃって、行けなくなっちゃったの。代わりに行ってくれないかしら?」
「ホテルに聞いたら、今なら部屋の変更も間に合うって。みつと二人で行ってきてくれるかしら?」
「そのお友達と行くんじゃダメなんですか?」
「こっちに住んでる友達も何人か呼んで、うちでホームパーティーをするのよ。あなた、専業主婦だし。みつも大学の授業なんて、適当に休めるでしょ。」
みさ子はため息をついた。「…みつに聞いてみます。」
数分後、みつに話すと、意外な返事が返ってきた。
「怪しくない?」
「そうよね。」
「でも、旅行は行きたいかも。私、もう家を出ちゃうじゃん。いきなり一人暮らしするんじゃなくて、在学中から慣らしておこうってことで、もう荷物もほとんど向こうに置いてあるしさ。お母さんと二人でゆっくり過ごせるのも、最後になるかもしれないじゃん。」
「そうね。じゃあ、今回はお言葉に甘えて行ってきましょうか。」
「と言っても、料金はこっちで支払いだし。なんなら、仕送りのお金で行くつもりだったんだろうし。借りは作らないけどね。」
翌朝、二人は旅行に出発した。義母の「支払いは現地払いだからよろしくね」という言葉とともに。
数分後、義母はほくそ笑んだ。「二人とも、私の作戦通り旅行へ出かけるわよ。あとは全部、こっちの思い通りに進めるわ。」
一方、その頃。ひろの元に、義母からの怒号の電話が入っていた。
「ひろ、あんた今日絶対うちに寄りなさいよ!子供の教育がなってないわ!あんな失礼な娘に育つなんて、嫁も孫も最悪よ!誰のおかげで稼げる男に楽な生活を送らせてもらってると思ってるわけ?私がひろを産んだおかげでしょ!感謝しなさいよ!」
「何なの?」ひろは頭を抱えた。
「早く出なさいよ!小説家なんて一日中家にいるんでしょ!無視しないで!」
そう言っている間にも、ひろのLINEは義母からのメッセージで埋め尽くされていった。
一週間後、旅行から帰ってきたみさ子とみつは、自宅の鍵が開かないことに気づいた。
「お母さん、これはどういうことですか?家に入れないんですけど。」
門の前に立つのは、勝ち誇った笑みを浮かべる義母だった。
「寄生中(きせいちゅう)の嫁の外出中に、家の鍵を変えておきました。もっと早くこうすればよかったのよ。あんたがいるせいで、私がひろに贅沢させてもらえないんだから。」
「ひろも、同じ考えということですか?」
「当たり前でしょ。他人の嫁より、血の繋がった母親の方が大事に決まってるわ。息子の稼ぎを当てにするダメ嫁はいらないのよ。消えてくれる?」
みさ子は、一瞬言葉を失った。しかし、すぐに気持ちを切り替えた。
「…そうですか。分かりました。ではお達者で。」
「あら、聞き分けがいいのね。言っておきますけど、あなたの荷物は全部庭に出しておきましたから。勝手に持っていくといいわよ。」
「了解です。お手数をおかけしました。」
みつが、堪えきれずに叫んだ。「ざけんなよ!二度とそのツラ見せないでちょうだい!」
数分後、ひろに電話をかけた。しかし、ひろの返事は情けないものだった。
「いつか、母さんどうしてる?」
「私に連絡してこないでくれる?見損なったよ。お父さん、最低だから。」
「今は、ばあちゃんの好きにさせておけば、そのうち熱も覚めるから。あと、ばあちゃんちは賃貸に出すことにしたんだよ。その家賃収入を全部ばあちゃんに渡したら、静かになるはずだから。母さんに伝えてくれないか?今、俺、母さんにLINEできないんだよ。」
「ばっかみたい。付き合ってらんないわ。」
みさ子は電話を切り、みつに向き直った。
「お母さん、本当に私の部屋に来なくていいの?」
「大丈夫よ。仕事部屋に借りてたところがあるから、しばらくそこに居候(いそうろう)するわ。荷物はレンタルロッカーに預けておけばいいし。それより、やることが山積みで、そっちの方がめんどくさいわ。」
「お父さん、あんな人だけど、本当に私のことはよく助けてくれていたのよ。」
「こんな状況になっても、まだお父さんと夫婦でいたいと思ってるの?」
「お父さんとは高校時代からの付き合いで、出会って30年になるわ。私が高2で、彼が高1の時から交際して、お父さんが大学を卒業した年に結婚したの。出会って半年で付き合ってるから、本当に30年近くなるのね。」
「そのお父さんが、唯一ずっと切り離せずに苦しんでいたのが、おばあちゃんだったのよ。」
みつは眉をひそめた。「マジで何なの、あのおばあちゃん?」
「ひろから聞いた話では、おじいちゃんとは再婚で、血の繋がりはないそうなの。本当の父親は知らなくて、再婚する前の間はシングルで育ててたらしいわ。おばあちゃんは水商売もやってて、その日の機嫌でひろにひどいことをしていたらしいの。」
「最低だね。」
「それでも、時々優しくして抱きしめてくれた時のことや、手料理のオムライスを作ってくれたことが忘れられなくて。『お母さんの役に立ちたい』『偉いって褒めて欲しい』って気持ちが消えないって、彼自身も随分悩んでたのよね。その結果が、これなんだと思う。」
「同情するところはあったとしても、それでもおばあちゃんを選んじゃダメでしょ。自分の妻と子供を選べないなんて。」
「うん。だから、私の立場をはっきりさせてやろうって決めたわ。今までお互い甘えて、依存みたいになってたんだと思うの。嫌だけど。すっごい嫌だけど。やるしかないわね。」
一ヶ月後。みつがスマホを見ながら叫んだ。
「ねえ、このネットニュース何なの?『伊呂波(いろは)』を見ろ。『作家デビュー20年を目前に衝撃の正体を暴露』って。なんであんたの顔が出てるの?ひろでしょ。伊呂波はひろなのに。なんでこんな嘘をつくの?名誉毀損だわ。編集者に訴えてやるわよ。」
みさ子は、静かに言った。
「私なんですよ。本当は。」
「は?」
「むしろ編集部に確認してもらえれば、全部確認が取れて楽なんじゃないですか。『お金に汚い粘着質な義母が連絡をしてくるかもしれません』と伝えてあるので。」
義母は、電話越しに絶叫していた。「嘘よ!嘘よ!嘘よ!じゃあ、ひろは何だって言うのよ!」
「私の影武者として、顔出しやインタビュー取材に応じてくれていました。編集者とのやり取りは、全部私ですよ。」
「なんで、そんなことする必要があるのよ!」
「私、人が苦手なんです。もはや嫌いまでありますね。両親が3歳の時に離婚して、山暮らししてた祖父に引き取られて、中学2年生になるまで山で暮らしていました。学校までは歩いて2キロ。学年分けはなし。全部で5人。そういう環境で育っていたのに、祖父が亡くなって親戚の家に引き取られて。大勢の人、山育ちとは全く違う人間社会に、私は適応できなかった。」
「そんな私が唯一心を休めることができたのが、映画、ドラマ、漫画、小説でした。作家になって、人間と関わらずに生きていこうと決めたんです。」
「じゃあ、なんでひろと結婚なんかしたのよ。」
「ひろが申し出てくれたんです。『先輩はきっと売れっ子作家になる。売れっ子作家になったら人付き合いは必須だから、僕が全部片付けますよ』って。もちろん、そんな下心丸出しの理由を受け入れたとかではなくて。元から私の小説を読んだ時、一番的確に感想をくれる人だったし、まだ何者でもなかった私に唯一『小説家の才能がある』と手放しで褒めてくれたんです。穏やかで優しくて。山の人たち以外で、唯一信頼できると思ったから交際しました。」
「で、高校を卒業してバイトをしながら小説を投稿し始めて、運良く出版社に拾われたはいいものの、人と喋るのが死ぬほどダメで。ストレスで倒れた私を見かねて、ひろが『高校時代の約束だから』と私の影武者マネージャーを引き受けてくれることになりました。彼が私に出した条件は、一つだけでした。『代わりに僕が売れっ子作家だって、母親にだけ嘘をつかせて欲しい』と。『そうしたら、やっとお母さんに褒めてもらえると思う』って。まっすぐな目でね。」
義母は絶句した。「そんな…バカじゃないの?」
「バカであっても、それが当時の彼にとっての最善策で、私もそれに乗りました。でも、さすがに家を追い出されてまで、大人しくしている理由はないので。これを機に、火を噴かせることにしたんです。これから、メディアにもどんどん私の夫と義母のことについて話しますから。」
「そんな!やめて!絶対にやめて!」
「私のことより、ご自分の生活を心配されてはいかがですか?生活費の口座、お金が1円も残ってないんで。」
「は?」
「そもそも、私がひろにお給料を渡すシステムで、ひろ自体はどこにも就職してません。彼は『全部みさ子が稼いだお金から。お袋に仕送りしてもらうなら、俺は月8万くらいもらえれば十分』って自分で言ったんです。だから、彼の年収は100万ですよ。」
「信じられない。手だわ。」
「いや、月の仕送りが丸ごと彼の給料になれば、それなりになりますから。それだけ息子から取ってるって、気づかなかったんですか?嫌ですねえ。逃げ場がないって。」
数十分後、ひろの元に義母からの怒号の電話が入った。
「私を騙したのね!何が人気作家よ!俺は母さんのこともみさ子のことも考えて、これが一番いいと思ったんだ。」
「冗談じゃないわよ!あんたのせいで、さらし物にされるのよ!みさ子さんがいなかったら、あんたなんて無職のおっさんじゃないの!」
「俺のことは、金づるでしかないのかよ。」
「何言ってるの?当たり前でしょ。」
「ああ、本当に最悪。前々から、こんな子供産まなきゃよかったと思ってたけど、ここまで最悪なんてね。私って本当についてないわ。とにかく、絞り取れるだけ絞り取らないとね。私が住んでた家、賃貸に出すんじゃなくて売りに出すわ。そのお金は慰謝料として全部私によこしなさい。それで縁を切ってあげる。人気作家じゃないあんたなんて、用済みだから。」
数十分後、みさ子の元に、ひろから電話がかかってきた。
「これから、お母さんとあなたのことをインタビューで話していくけど、構わないかしら。名誉になるようなことじゃなくて、ただ事実を話していくだけだけど。抗議したいなら、それはそれで受け止めるから。編集者に連絡して。」
「抗議したいことなんて、何もないよ。みさ子の功績が、みさ子のものになるだけだし。」
「悔しくないの?あなたは今までずっと、私の代わりに色んな面倒を引き受けてくれてたのよ。これからは全部自分でやることになって、今にも吐きそうっていうか、やる気も削がれるし。」
「そういう苦手なことに労力を使うのが、こんなにストレスだとは思わなかったわ。あなたは毎日、ものすごく大変なことをこなしていたのよ。」
「俺にとっては、ストレスでも何でもなかったよ。みさ子が売れていくために俺にできることがあるんだって、嬉しかったし。」
「それでも、ひろは私とみつじゃなくて、お母さんを選ぶのよね。さっき、もういらないって言われたわ。『こんな子供産まなきゃよかった』『自分はついてない』って。母さんに建てた家を売却して、そのお金を慰謝料として払わせてくれだって。」
「ひろは、それでいいと思ってるの?また『母さんはそういう人だから』って受け入れるつもりじゃないでしょうね。」
「俺にできることなんて、一つもないよ。全部、みさ子に乗っかってきたんだから。」
「また、そんなこと。」
「それでも、俺だって我慢できないことはあるさ。実は、父さんから『もう母さんのことを見切るなら、これを使いなさい』って残してもらっていたものがあるんだ。それを使うことにする。」
「それって、一体?」
「俺に任せてくれないか?いつもみさ子に全部助けられて、かっこいいところを一度も見せられなかったから。」
みさ子は、少しだけ微笑んだ。「分かった。そっちはそっちで、頑張って。」
数日後。義母の元に、一本の電話がかかってきた。
「いつになったら、家の売却が進むのよ!もう家の外にも出られないくらいマスコミが来てるのよ!ああ、ストレスでどうにかなりそう!早く引っ越したいの!」
「あの家の名義は、俺になってるから。母さんには、1円も払わないよ。」
「はあ?何言ってんの?誰に向かって口を聞いてんのよ!」
「それから、母さんには今まで送ってた金額を返してもらうから。」
「ちょっと待ってよ!何言ってんの?バカじゃないの?もらったものなんだから、返すわけないでしょ!仕送りに返済義務なんてあるわけないじゃない!借金じゃないんだから!」
「生前、父さんと交わした契約書があるんだよ。『仕送りは贈与ではなく、貸し付けにする』ってね。貸し付け主である俺が返済を希望すれば、仕送りはそこで終了。今までの仕送り記録は全て控えてあるし、書類も正式なものだから。」
「ま、待ちなさいよ!私はそんな書類知らないわ!あの人が勝手に作ったものでしょ!だったら、私は関係ないわ!」
「父さんが死去した後、遺産を全て相続したでしょう。遺産っていうのはね、お金に関する全てのことが相続されるんだよ。残されているお金、つまり借金だって、それに含まれる。貸し付け主は、返済義務は母さんに移ったんだ。」
「そんな…嘘よ!そんなのありえない!とぼけないで!」
「仕送りは、最初の3年間が毎月5万、合計180万。次の10年間は毎月10万、合計で1200万。さらにその後11年間は毎月15万、合計で1980万。全部合わせると、3360万だ。今までこれだけの額を受け取っておきながら、母さんは『金がない、金がない』と言ってたんだよ。どんだけ派手に使ってたのか知らないけど。これ、全部借金だからね。」
「そんなの借金じゃない!息子からの仕送りが借金になるわけない!母さんに対して、ひどいと思わないの!育てた恩を忘れたわけ!」
「父さんと再婚するまで、まともなことなかったじゃないか。それでも、俺は母さんが好きだった。子供って、きっとそういう生き物なんだと思う。ずっとずっと母さんに褒めてもらいたくて、愛してもらいたかった。でも、やっと目が覚めたよ。時間かかりすぎちゃったかもしれないけどね。」
「待って!お願い、待って!私はちゃんとあなたを愛してるからね!」
「息子の稼ぎを当てにするダメ親は、消えてくれ。二度とその顔を見せないでくれよ。さよなら、母さん。」
数ヶ月後。みさ子の元に、ひろから連絡があった。
「家の売買、決まったんですって。みつから聞いたわよ。いくらになったの?」
「耳が早いね。立地の良さと物価高騰の影響もあって、3800万になったよ。」
「すごい。仕送り分より高い。黒字じゃないの?」
「売却金は、全部みさ子に返すよ。みさ子が建てた家なんだから。」
「それはありがたいけど。あと、今の家の名義はみさ子でしょ。どうする?賃貸でも販売でも。」
「もうここはマスコミに知れちゃって、落ち着いて生活できないからさ。俺もウィークリーマンションに移ったし。」
「そうね。売却しちゃおうかな。ていうか、お母さんはどうしたの?」
「うちの庭に不法侵入しようとしたから、警察呼んで連れてってもらった。窓ガラスを割ったり、散々だったよ。」
「わあ。」
「どっちにしろ、母さんには3360万の返済義務があるからね。知り合いの繊維工場の住み込みパートにねじ込んできた。しっかり監視して、給料から天引きさせますって約束してくれたよ。」
「へえ。頼りになる人もいたもんね。それもこれも、ひろの人柄と人脈か。」
「大げさだよ。これしかなかったんだって。」
「ねえ、本当に離婚でいいの?」
「うん。一度、けじめをつけたいんだ。みさ子こそ、いいの?俺をマネージャーとして雇うなんて。」
「正直、ひろ以上の人材が見つからないのよ。30年一緒にいるんだもん。知らない人と話すだけで疲れるのに、それが1日に何人も来る日があるのよ。医者から、薬を大量に出されちゃった。よく眠れない日も増えたし、筆に影響が出てるのよ。」
「分かった。影武者はもうやめるけど、みさ子のサポートは続けさせてもらうよ。俺も、何か自分でできる仕事を見つけないとな。」
「今みたいな考えになってから、結婚し直して欲しかったけどね。」
「それは、本当にすみませんでした。」
「もう謝らなくていいわ。結果で示してちょうだい。それじゃあ、また打ち合わせで。」
その後、義母は勤めている繊維工場から何度か脱走未遂を繰り返し、足を骨折したらしい。身動きも取れないまま、大人しく働き、返済の日々を送っている。ひろは律義に、その返済金をみさ子に送金してくれている。
みさ子はその後、売れっ子小説家としてメディアやインタビューに引っ張りだこになり、ついには自傳を出版することまでなってしまった。今まで静かに暮らしていたので、このギャップにはまだまだ追いつけそうにない。
ちなみに、ひろとは慰謝料なし、財産分与なしで離婚。お互い夫婦としてのけじめをつけて、ビジネスパートナーとして再出発することになった。娘のみつは、今までの話を聞いて納得してくれたのか、ひろとも交流しているようだ。
お互い、また夫婦に戻りたくなる時が来るかもしれない。でも、それはまた別のお話だ。
