家庭裁判所の薄暗い廊下で、すれ違った元夫が愛人と腕を組みながら私に言い放った。「お前みたいな地味な女に何の価値もないんだよ」。私は書類をバッグにしまいながら、穏やかに微笑んだ。15年の結婚生活、2人の子供。私は家にいただけの無能な女。そう呼ばれて、まさかあの瞬間、裁判所の正面玄関に黒塗りの高級車が滑り込んでくるなんて、彼は夢にも思わなかっただろう。ドアを開けて現れた老紳士を見た途端、彼の顔か…

家庭裁判所の薄暗い廊下で、すれ違った元夫が愛人と腕を組みながら私に言い放った。「お前みたいな地味な女に何の価値もないんだよ」。私は書類をバッグにしまいながら、穏やかに微笑んだ。15年の結婚生活、2人の子供。私は家にいただけの無能な女。そう呼ばれて、まさかあの瞬間、裁判所の正面玄関に黒塗りの高級車が滑り込んでくるなんて、彼は夢にも思わなかっただろう。ドアを開けて現れた老紳士を見た途端、彼の顔か...

家庭裁判所の薄暗い廊下に、冷たく響く声が反響した。離婚調停の初回を終えたばかりの元夫、霧原達也は、愛人の南と腕を組みながら、ばったりとすれ違った元妻の雅子に向かって捨て台詞を吐いた。

「お前みたいな地味な女に何の価値もないんだよ」

年齢より若く見えるものの、くすんだカーディガンに膝までのスカートという質素な服装の雅子は、受け取った書類をバッグにしまいながら、穏やかに微笑んだ。

「ええ、そうかもしれませんね」

その落ち着き払った返答に、達也は鼻で笑うと、愛人の腕を引き寄せて誇らしげに言った。

「これで俺も自由だ。新しい人生を始められる」

その瞬間だった。裁判所の正面玄関に、黒塗りの高級車が滑り込んでくる。運転手が慌ててドアを開け、中から一人の老紳士が姿を現した。達也はその姿を見た瞬間、顔面から血の気が引いていくのがわかった。

「え……嘘だろ?」

雅子は相変わらず穏やかな口調で言った。

「達也さん、私が本当に欲しかったのは、お金でも地位でもなかったんですよ」

老紳士は達也を見つめると、荘厳な声を抑えて言った。

「私の娘に、何をしているんだね」

その言葉を聞いた瞬間、達也の膝から力が抜け落ちた。アパレル業界の頂点に君臨する「桐生アパレル」の創業者、財界の重鎮・桐生重治。彼のひとり娘が、他でもないこの地味な女性、桐生雅子だったのだ。彼はこれまで、明確な地位を示そうとすることなく妻の実家の事情を詮索することもなく、15年間の結婚生活でその事実を知ることはなかった。自分の価値観だけで妻を評価していたのだ。

家庭裁判所の調停室。ブラインド越しに差し込む日差しが床に影を落とす、静かな部屋だった。そこで家事調停委員を務める三村千尋は、手元の資料に目を通しながら当事者の到着を待っていた。司法試験を目指す傍ら、経験を積むために調停委員をしているのだ。

やがてドアが開き、一人の女性が入室してくる。ベージュのカーディガンに、膝丈の落ち着いた色のスカート。化粧っ気のない顔。42歳という年齢を感じさせない清楚な雰囲気でありながら、どこにでもいる普通の主婦という印象だった。

「桐原雅子さんですね。こちらへどうぞ」

「よろしくお願いします」

席に着く仕草、資料を受け取る手の動き。千尋は一瞬、違和感を覚えた。どんなに質素な服装をしていても、隠しきれない品格が漂っている。背筋をピンと伸ばし、両手を膝の上で自然に組む姿勢。長年の鍛錬で身に付いた、気品だった。

「では、まず状況を確認させていただきます。15年間の結婚生活で、お子さんが2人いらっしゃいますね」

「はい。12歳の長男と、8歳の長女です」

「ご主人からの離婚の申し立てということですが、原因は何でしょうか」

「夫の不貞です」

淡々とした口調だった。世間ではよく聞く話だが、この女性の様子は他の依頼者とは明らかに違う。悲しみや怒りではなく、静かな諦念にも似た空気を纏っている。

「では、親権についてお考えをお聞かせください」

「私が引き取ります。それについては、夫も同意しています」

「分かりました。では、財産分与についてですが」

資料に目を落とした千尋は、不意に手を止めた。雅子の左手首に古びた腕時計が目に入った。革のベルトは使い込まれて色が変わり、傷も目立つ。だが、そのダイヤルのデザインと針の形状には見覚えがある。以前、何かの雑誌で見た超高級ブランドの、しかも最高級ラインのモデルだ。定価は数百万円はするはずである。

千尋は何気なく視線を外し、書類に目を戻した。

「桐原さん、何か分からないことがあれば、遠慮なく聞いてくださいね」

「ありがとうございます。三村さんはとても丁寧で優しい方ですね」

「いいえ、これが私の仕事ですから」

「そうですか。でも、ありがとうございます」

穏やかに微笑む姿を、千尋は複雑な気持ちで見つめた。調停委員としてこれまで数多くの離婚案件を担当してきた。怒りに震える女性、涙を流す女性、諦めきった表情の女性。だが、雅子のような女性は初めてだ。夫から捨てられ、不貞の被害者であるにも関わらず、その瞳には一欠片の恨みも悲しみも見当たらない。むしろ、全てを見通したかのような深い静けさが宿っていた。

その不思議な余裕が、千尋の心に引っかかった。この女性には何か隠された秘密がある。直感的にそう思ったが、この時点ではまだ真実を知る由もなかった。

それから数日後、二回目の調停が開かれた。今日は夫である達也の陳述が予定されている。調停室に入ってきた達也は、高級ブランドのスーツを身にまとい、金縁のメガネをかけ、腕には贅沢を隠さない高級な時計を光らせていた。

「霧原ロジスティックの部長、霧原達也です。お忙しいところ恐縮ですが、手短に済ませていただけますかね」

千尋に名刺を差し出しながら、誇らしげに肩書きを述べる。その会社名を聞いて、千尋は内心驚いた。霧原ロジスティックといえば、日本有数の財閥である霧原グループの中核企業の一つだ。グループ全体の売上高は数兆円規模に上り、物流、不動産、金融、エネルギーと多岐にわたる事業を展開。国内の一部に複数の関連企業を上場させている巨大財閥である。その会社を裏で支えているかと思われた人物が、こうしてスーツに金縁メガネで決め込んだ中年男、それがどう見ても責任者としての器量があるようには見えなかった。

千尋は泰然とメモを取り、淡々と口を開いた。

「お忙しいところありがとうございます。本日は、財産分与と養育費について、ご主人のお考えを伺いたいと思います」

「ええ、それについてははっきり言わせていただきます」

達也は椅子に深く腰を沈め、足を組んで天井を見上げた。傲慢な態度だ。

「あの女には15年も世話をしてやったんだ。感謝される筋合いはない。財産を分け与える必要など一切ない」

「それは、どういうことでしょうか」

「稼いできたのは全て私です。あの女は家にいただけの無能で役立たず。働きもしないで、のうのうと暮らしていただけだ」

千尋は表情一つ変えずに淡々とメモを取る。だが、この男の上から目線の言葉の一つ一つが、彼女の心に恐怖と嫌悪感を刻み付けていく。

「では、妻としての家庭を守るという役割については、どうお考えですか」

「家庭だと? それはつまり家事や子供の世話をすることでしょう。そんなものは誰にでもできます。私の収入で贅沢させてやっていたくせに、それで何が『家庭を守る』だ。結局はノータリンで役立たずだったということだ」

千尋は心の中で呟いた。

「この人、本当に自分の妻を一人の人間として見ていないのね…」

調停官として、感情を表に出すわけにはいかない。だが、聞き流せる範囲を超えている。

「それでは、養育費についてはいかがお考えですか」

「最低限で十分です。私が払ってやる必要があること自体がおかしい」

「最低限、というと具体的には」

「算定表通りで構いません。それでものもったいないくらいです」

「まあ…では、財産分与についてはいかがでしょうか」

「財産分与? この15年間の私の労働の対価です。すべては私のもの。あの女には、離婚の同意書にサインしてくれることへの御礼として、最低限の金額で十分でしょう」

そう言って、達也は笑った。

「あの女にこれ以上の金を渡す必要はない。もし不服があるなら、弁護士を立てて争え、と伝えてください。相手が誰であろうと、私は一切の妥協をするつもりはありません」

千尋は静かにペンを置き、少し眉をひそめた。明らかに理不尽な要求である。

「わかりました。しかし、子育てはこれからのことが大きいと思います。お子さんの成長に合わせて、養育費についても見直しが必要になるかもしれませんが、それでもよろしいですか」

「見直す必要はない。私は決定した。折衷の話をしても、結論は変わりませんよ」

その圧のある一言に、千尋はついつい身を緊張させてしまう。まるで相手の人格を否定するかのような尊大さ。これが自分の妻を「家にいただけ」と言い張る男の本質なのだろう。

千尋は一つだけ質問をした。

「では、本日はこれで失礼します。こちらで出た内容については調停委員の記録に残すことになりますので、また改めて」

「ええ。しかし、私はもう結論が出ています。三村さん、お手数ですが手続きを進めてください」

「承知しました。でも、やはり調停は当事者同士の対話です。互いに納得のいくまで話し合われるのがよいと思いますが」

「私は納得してます。私の要求呑むか、出て行くか。それだけです」

千尋は心の中でため息をつき、合議室へと戻った。隣の椅子で、別の調停委員を担当していたベテランの先輩が資料を読みながら呟いた。

「あれが霧原グループの部長様か。豪傑なことで」

「相手の女性がかわいそうですね。15年もあんな男に尽くしてきて、何の評価もされなかったのか」

「それが、調停の中で一切言い返さないらしいんだ。何か企んでいるのか、それとも気が弱いだけなのか」

千尋は腕を組んで、目を閉じた。誰も気づいていないが、雅子には何かある。あの時計。そして、彼女の背後に漂う品格。あれは生まれが違う。まさか、何かのスパイか? 何か隠しているのは確かだ。千尋は頭を振って自分の思考を打ち消した。

その日の夜、千尋は自宅のリビングで、昼間のやり取りを思い返しながら、検索エンジンに手を伸ばした。霧原グループの社史を読み漁った後、ふと頭に浮かんだ人物名を検索してみる。かつて彼女が子供の頃、父から聞いた名前。何かの占いで有名な財界人。もしかしたら。雅子の旧姓を確認しておくべきだったか。

翌日、デスクに置かれた調停の記録書類には、桐原雅子の旧姓メモが添えられていた。

「三村さん、この前の件、少し調べ物が出てきたの。」

声を掛けてきたのは、昨日合議室で話をした先輩職員だった。

「何ですか?」

「あの桐原雅子さん、ご実家は『桐生』っていうみたいよ。ほら、あの有名な」

千尋は息を呑んだ。

「桐生グループの…アパレルの?」

「そう。日本を代表するアパレルメーカー。しかも、創業者は財界の重鎮として知られている桐生重治という人物。噂では、跡取り娘である雅子さんは、若い頃からお見合いを重ねることを嫌って、大恋愛の末に家を飛び出して一般人と結婚したんだってね」

千尋は手元の書類を握りしめ、ちらりと向かいのオフィスの写真を見た。前に立っていたのは、あの傲慢な男、全く気の毒にも思えない男、そして彼が支払うはずのない高級な時計を光らせていた男。頭の中で、全ての歯車が噛み合い始める。

「調停はまだ三次も残っている。あの男が、この事実を知らない限り、雅子さんは何も言わない。何を言わないことはないけれど…」

「あの女性はもう決めてるんでしょうね。自分が動くときは、今じゃないってことね」

その夜、千尋は自分の直感が間違っていなかったことを確信した。

数日後、三回目の調停が開かれた。相変わらず、達也は高圧的だった。

「養育費は減額するぞ。貰えるものだと思われては困る」

千尋は隣で黙っている雅子を見て、小さく息を吐いた。長年連れ添った相手に、こんな言葉で傷つけられ続けてきたのか。だが、雅子の表情は相変わらず読み取れない。

雅子は静かに鞄から一通の封筒を取り出した。

「達也さん、印鑑はお持ちですか」

「何の話だ」

「15年前の、結婚の時の誓約書。あなた、実家に出したでしょ。私の父に。『一生妻を不幸にしません、お世話になります』って。二度と両親に会わないから、嫁にはいりたいって、懇願したそれよ」

達也の顔が蒼ざめる。

「何を…」

「私の父は、もうあなたに会う気はないと思う。でも、もし三回目の調停が決議不成立になって、裁判になったら、どうなると思う? あなたの浮気の証拠なんて、山のように揃ってるわよ。あなたがどれだけ私をないがしろにして、どれだけの女と関係を持ったか。調停委員の方たちの前で、全部話します」

千尋は目を見張った。雅子は決して声を荒げない。

「あなたの会社の前で、配れってことじゃないから。でも、あなたの人生がこれで終わりたくなければ、ある程度公平な条件で離婚していただくしかないわ。そして、私と子供達には二度と会わないで、って、それが私の付け合い方よ。

達也は机の上に手をつき、立ち上がった。

「お前… テメェ…」

「私、これでも一応、二人の子の教育費をずっと自分で積み立てていた。それに、この10年、何もせずに家にいた訳じゃないわ。あなたには一度も言わなかったけれど、投資で少しくらいは働いていた。あくまで少額だけどね。ああ、そんな必要、やっぱりなかったかしら」

千尋は、雅子の腕時計を見た。あの高級な時計。彼女の実家の桐生グループが誇る高級ブティックの一つ。この日本で最も有名なアパレルメーカーの一つ。

達也の顔色を何度も変えながら千尋を見た。

「調停手続きを進めなさい。私は何も、あんたたちと話すことはない。三回目の調停は、今回は続行。次回からは、条件だけの調整をしなさい。私の要求はこれだけ。一所懸命働いて、あなたに何ができるか、身を持って分からせてやりなさい」

千尋は深く息を吐いた。調停委員としての役目は、公正さを保つこと。だが、遂にここで、雅子が動いた。

調停が終わった後、千尋は雅子に声をかけた。

「桐原さん、お子さんは…幸せにしてあげてくださいね」

「もちろんです」

「お父様に、何て言われたのですか」

雅子は優しく微笑み、目を伏せた。少し迷ってから、静かに口を開く。

「おじいちゃん、ってところかしら。私も、子供も。私は、自分の選んだ道を悔いたりはないけれど、この15年、両親に心配をかけっぱなしだったのは確かだもの」

「わかりました。裁判所からは私は続けられないのですよね」

「ええ。きちんと自分で決着をつけたいの。無理を言って、ありがとう」

千尋は微笑み、頷いた。この女性の選択、それは静かで、しかし確かな意思だった。

その後、調停は不成立となり、事件は地方裁判所へ。当然の結果である。だが、雅子は千尋の言葉を大切に守り抜き、自分たちの新しい生活を始めるべく、子供を連れて桐生家に戻った。最高法院で、和解が成立した。養育費は額を大幅に増額され、財産分与も、相応の額が認められた。霧原達也はせめてもの腹いせに法廷内で暴れ、最期まで不機嫌のままだった。とはいえ、もはや彼には何の力もなかった。

千尋は調停を終え、身支度を整えた。窓の外を見ると、桐生グループの高級車が裁判所を後にするところだった。車内で、助手席に座る古びた腕時計を身に着けた雅子が、こちらに微かに微笑みかけたような気がした。

「お疲れ様、千尋さん」

後方の席から。

誰だろう。振り返ると、隣の席でスマホを操作していた千尋の上司が顔を上げた。

「今の、桐原さんの言葉、面白かったなあ」

「聞こえてました?」

「誰でも知ってる有名人じゃないですか。家を出てからは、何も奪わなかった女が、元年も経ってから旦那に会ったら見違えるような強さを持ってて、しかも庭の草むしりから、税理士に相談できるような女になってた。一体、何があったんだか」

「何も。たぶん、少し気が楽になったんだと思います」

千尋は、胸の奥で、自分が調停委員を続ける意味を、改めて噛み緰めていた。それは、社会で虐げられている誰かを救える仕事であると同時に、自分自身も、この仕事から学ぶことが何よりも多いということを、再発見する出来事だった。

数日後、千尋の元に一通の封書が届いた。差出人は桐生雅子。透かし入りの高級な便箋には、丁寧な文字で一通の手紙が綴られていた。

「先日はありがとうございました。おかげさまで、穏やかな気持ちで新しい生活を始められることになりました。こんなに恵まれた日々は、初めてかもしれません。長くかかってしまいましたが、やっと、私は私の人生を歩き始められるような気がしています。あなたが、私に言葉をくれたこと、ずっと忘れません。どうか、あなたもお元気で」

千尋は手紙を机の引き出しにしまい、依頼を受けていた署名を机の上に置いて、パソコンの画面を閉じた。司法試験への道のりはまだ長い。それでも、自分が守れるものがここにある。

彼女は、机の上に置かれた手紙を見つめながら、今度こそ、心から静かな安堵を覚えていた。

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