長男の嫁・れ子は、私の退職祝いの席だというのに、高い寿司ばかりを注文し、腹が満ちたところで突然、箸を置きました。
「お母さん、年金が月8万円しかないなら、これから先、私たちを頼らないでください」
私は湯呑みをそっと置き、長男の工事と顔を合わせました。工事は皿を見たまま、小さく続けました。
「母さんも分かってくれ。俺たちには俺たちの生活があるんだ」
「つまり、今日から絶縁ということね」
「介護も援助も期待されると困りますから」
私は確認するように、もう一度だけ尋ねました。
「本当にそれでいいのね」
「もちろんです」
その時、れ子は笑いました。ただ、その笑顔が消える日が、こんなに早く来るとは、あの時は二人とも思ってもいなかったでしょう。
私の名前はさち子。65歳です。3ヶ月前まで、地元の食品会社で経理の仕事をしていました。夫は2年前に亡くなり、今は一人暮らしです。息子は二人。長男の工事は42歳で、妻のれ子と高校生の娘と三人で、駅前の高級マンションに住んでいます。次男の優太は37歳で、妻のエミと小学生の息子二人を育てています。
同じ息子でも、二人は昔から正反対でした。長男は要領が良く、困ると父親に頼る。次男は不器用でしたが、自分のことは自分で何とかする子でした。
私が階段から落ちて右足を骨折したのは、年金を受け取り始めたばかりの頃でした。入院手続きには保証人が必要で、私は迷った末、二人の息子に連絡をしました。最初に病室へ来たのは、長男の嫁のれ子でした。
花も見舞いの品も持たず、椅子にも座らずに言いました。
「保証人にはなれません。万が一、入院費を払えないなんてことになったら困るので」
「費用はもう払ってあるわ。形式上、家族の名前が必要なだけなのよ」
「でもお母さん、もう仕事をやめたんですよね。年金はいくらなんですか」
正直に「8万円」と答えると、れ子は目を丸くしました。
「8万円? 私の美容代より少ないじゃないですか」
その時、病室のドアが開きました。
「お母さん、遅くなってごめんなさい」
駆け込んできたのは、次男の嫁のエミでした。
「下で保証人の手続きを済ませてきました。退院の日も私が迎えに来ます」
れ子は急に笑顔になりました。
「それなら安心ですね。私は子どもの進学のことで忙しいので、あとはエミさんにお願いします」
そう言って、れ子は帰って行きました。次男の嫁は何も言わず、私の着替えを棚にしまい、冷蔵庫に水を入れてくれました。
夫が入院していた2年間も、そばにいてくれたのは次男夫婦でした。長男夫婦は一度も見舞いに来ませんでした。それでも夫は長男を責めませんでした。
「工事にも家庭がある。孫の教育には金がかかる」
そう言って、何度もお金を渡していました。長男夫婦が高級マンションの家賃を滞納した時も、保証人だった夫が立て替えました。それも一度ではありません。家賃、学費、車の頭金。その度に長男は「必ず返す」と借用書を書きましたが、返されたお金は一円もありませんでした。
私は何度も夫に言いました。
「もう助けるのはやめましょう」
夫は困ったように笑うだけでした。
「親だからな。一度くらい、あいつも返してくれるさ」
その「一度」は、最後まで来ませんでした。
私が退職する日、次男夫婦が迎えに来てくれました。その夜、ささやかな退職祝いを開いたところ、なぜか長男夫婦まで現れました。れ子は高い寿司ばかりを注文し、満腹になると私の年金の話を始めました。
「8万円では、いずれ生活できなくなりますよね」
「贅沢をしなければ大丈夫よ」
「でも、今後また怪我をしたら、介護が必要になったら、私たちに連絡されても困ります」
そして、れ子は急に言い放ちました。
「もう絶縁するしかないですね」
長男の工事が低い声で言いました。
「母さんには悪いけど、俺たちにも生活がある」
私は即座に頷きました。
「分かったわ。今日からあなたたちには何も頼みません。その代わり、あなたたちも私に何も求めないでね」
れ子は笑いました。
「求めるものなんて、何もありませんよ」
その言葉を、私ははっきり覚えていました。
それから2ヶ月後、朝の玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると長男夫婦が立っていました。れ子は挨拶もせず、家の前に止めてある車を指差しました。
「どういうことですか、あれ」
前日に納車されたばかりの、7人乗りの新しい車でした。
「優太たちに買ったのよ」
「私たちには何もないのに? 絶縁したでしょう」
「それとこれは別です」
「弟だけに500万円の車なんて、不公平です」
れ子は私を押しのけるようにして家に入り、部屋の中を見回しました。そこには、次男夫婦の荷物が置かれていました。退院後の私を心配し、しばらく同居してくれているのです。
れ子の顔色が変わりました。
「まさか、次男夫婦がこの家に住みつくつもりですか」
「私が頼んだの」
「でも、この家は将来、長男の工事が相続する家ですよ」
私は思わず聞き返しました。
「誰が決めたの」
「普通そうでしょう。工事は長男なんですから」
私は静かに、引き出しから一通の書類を取り出しました。
「この家は先月、優太に生前贈与しました」
れ子の笑顔が消えました。
「そんな勝手なこと、許されるんですか」
「私が働いて買った、私名義の家よ。誰の許可が必要なの」
そして、長男の工事が初めて口を開きました。
「でも母さん、年金8万円しかないんだろ。車を買うお金なんて、どこにあったんだ?」
「38年働いて、貯金がないとでも思ったの? 私は食品会社で最後の10年は経理部長を務めていました。退職金も、夫とは別に貯めてきた預金もあります。年金が8万円なのは事実ですけれど、財産がないとは一度も言っていません」
れ子は悔しそうに唇を噛みました。
「だったら、私たちにも同じだけください。工事だって息子ですよね」
「あなたたちは私に何も求めないと言ったわね。絶縁は介護の話よ。相続は別でしょう」
あまりの都合の良さに、私は笑ってしまいました。そして、もう一つの封筒を机に置きました。中に入っていたのは十数枚の借用書です。家賃の立て替え、車の頭金、孫の学費、生活費。合計、1280万円。工事の顔が青ざめました。
「これを全部返してから、権利の話をしなさい」
「父さんは返さなくていいって言ってた」
「いつ言ったの?」
「入院中に……」
「入院中に? あなたたちは一度も病院へ来なかったでしょう」
工事は黙り込みました。れ子が慌てて割って入りました。
「お父さんから電話があったんです。それも……」
