母は静かに微笑んだが、その目は笑っていなかった。レンの母、しず子は息子の緊張をほぐそうと茶を一口含んだ。しかしその喉はかすかに震えていた。
向かいの席には、婚約者のアイリ。その隣には、初対面の両親がいる。父の銅像は六十代半ば、白髪をきれいに撫でつけ、スーツの襟元に真っ赤なタイを締めている。母の雅代は、品のあるグレーの着物を身にまとい、目だけが笑わない笑顔を張り付けていた。
アイリはレンの方を見つめ、小さくうなずいた。昨夜の電話で交わした約束を思い出そうとした。しかし、彼女の指先はテーブルの下で強く結ぼうとして、すぐにほどけた。
「本日は、お忙しいところお時間をいただきまして、ありがとうございます。」
レンが深く頭を下げた。銅像は軽く顎を引いただけで、返事をしない。代わりに、音を立ててナプキンを広げ、膝の上に置いた。
「レンさん、と申いましたな。まずは、あなたがどのような人間か、教えてもらいましょう。この席にふさわしい方なのかどうか。」
声は穏やかだった。だが、その目はまったく笑っていなかった。
「かしこまりました。何なりとお尋ねください。」
レンは背筋を伸ばした。しず子が隣で固く握った拳に、彼は気づかないふりをした。
「今のお仕事は?」
「劇場エンタープライズ株式会社で、営業部長を務めております。現在はチームを率い、新規開拓と既存顧客の維持に努めております。」
「ふむ。部長職ですかな。まあ、中堅の会社の、中の上といったところか。」
雅代が口を挟んだ。その声には明らかな軽蔑が混じっていた。
「うちの娘は、大学卒業後、一流商社で働き、今では自分でプロジェクトを立ち上げるまでになりました。娘の肩書きに劣らない方でなければ、親としては安心できません。」
アイリが口を開きかけた。しかし、母の鋭い視線が、それを封じた。
「アイリ、あなたは黙っていなさい。これは、私たち親が、あなたの将来のためにちゃんと見極めているところですからね。」
レンは深く息を吸った。彼の心は、怒りに震えていた。しかし、その怒りを表面に出すことはなかった。何年も積み重ねてきた、自分の実力と実績。それを知っていれば、いずれ分かってもらえると信じていた。
「お言葉ですが、私は肩書きを守るために仕事をしているわけではありません。顧客の信頼を勝ち取り、結果を出すこと。それが私の誇りです。」
「ほう。では、それを数字で示していただきたいものですな。今、お前さんの営業部の成績は?」
「昨年度は、前年比百二十パーセントの売上を達成しました。また、新規顧客の獲得件数は、社内でトップです。」
レンはスーツの内ポケットから、一枚の資料を取り出した。何度も修正を重ね、前日の夜に仕上げたものだった。テーブルの上に置き、ゆっくりと押し出した。
銅像は、その資料をしばらく眺めていたが、ついぞ手に取ろうとしなかった。代わりに、口元を歪めて笑った。
「数字は嘘をつかない。しかし、数字を都合よく並べることは誰にでもできる。要は、人間性の問題だな。」
「私の何がお気に召さないのでしょうか。」
銅像は椅子の背に寄りかかり、両腕を組んだ。
「正直に言いなさい。お前さん、私の娘を、何の打算もなく選んだのか?」
空気が凍りついた。アイリが、力なく首を振った。
「打算など一切ありません。私はアイリさんという人を、そしてアイリさんの将来を一緒に歩みたいと心から思っています。」
「将来?将来というのはな、金のあるところにしか存在しないんですよ。」
銅像の言葉は、ひどく軽い口調だった。まるで、何の価値もないものを指で弾き飛ばすように。
「娘を、今のような暮らしから落とすつもりか?娘が大学時代に出会った上流社会の友人たちと、もう会えなくなるかもしれないぞ?娘には、それ相応の生き方がある。それは、お前さんじゃ作ってやれないんだよ。」
「父さん!」
アイリが思わず叫んだ。しかし、雅代がすっと手を挙げて制した。
「アイリ、あなたは黙ってなさい。お母さんたちは、あなたのために言っているの。」
「お母さん、どうして…」
「女はね、結婚してからが本当の人生なの。相手を選ぶのは、その人生の質を決めるのと同じことよ。今、あなたが分からないなら、将来必ず分かる時が来る。」
アイリは唇を噛み、うつむいた。レンは、その姿に耐えきれなくなった。
「アイリさんから、何か言いたいことがあるなら、聞きたいです。」
アイリは顔を上げた。しかし、その目はレンを見ないまま、テーブルの上のグラスに注がれた水をじっと見つめている。
「私…、私は…。」
「アイリ、ここはお父さんとお母さんに任せなさい。」
雅代の一言が、その場の空気を決定づけた。しばらく沈黙が続いた後、レンは静かに立ち上がった。
「分かりました。本日は、お忙しいところありがとうございました。」
隣で、しず子が慌てて立ち上がろうとした。しかし、レンの手が静かにそれを制した。
「申し訳ありませんが、私はこれで失礼します。アイリさん、あなたの幸せを願っています。」
「れ、レンさん…」
アイリの声は、かすかで小さかった。しかし、そのろくに視線も合わせられない姿を見て、レンはそれ以上何も言えなかった。彼は深く一礼すると、そのまま席を離れた。
しず子は、目に涙を溜めたまま、何度も頭を下げてから息子の後を追った。
レンがそのまま店を出ようとしたとき、走り寄る足音が聞こえた。
「待ってください!」
振り返ると、アイリが息を切らせて立っていた。彼女の目には、涙が滲んでいる。
「アイリさん、さっきのことは気にする必要は…」
「違うんです。お父さんたちは、いつもああなんです。でも、私の気持ちは違います。私は…。」
「アイリさん。」
レンは静かに首を振った。
「あなたの気持ちは、分かっています。しかし、お父さんの話を聞いて、確信しました。このまま結婚しても、あなたを幸せにすることはできない。今の私には、あなたの家族を納得させるだけの何かが、足りないということだ。」
「そんなことない!レンさんは十分頑張ってるじゃないですか!一体何を言わせたいんですか!」
「社長令嬢を、ただの営業マンがもらうことの意味を、あなたがもっとちゃんと考えるべきなんじゃないかな?」
レンの口調は、自分でも驚くほど冷たかった。アイリは、その言葉に言葉を失った。
「今日、きちんと決着しておきましょう。アイリさんは、親の言う通りにした方が身のためです。今まで本当にありがとう。」
そう言うと、レンは振り返らずに歩き出した。アイリは、その背中をただ呆然と見つめていることしかできなかった。
その日の夜、アイリは自室でベッドにうつぶせになっていた。枕に顔を埋め、泣いているのか、それとも何かを必死に心に言い聞かせているのか、どちらとも分からない姿だった。
そこに、軽いノックの音がした。
「アイリ、入るわよ。」
雅代が、部屋の扉を開けて入ってきた。ベッドの端に腰を下ろし、娘の震える背中を見つめた。
「アイリ、分かっているのでしょう。あの男のことは、忘れなさい。」
「お母さん…。」
アイリはゆっくりと体を起こした。目は真っ赤に腫れていた。
「どうして言葉が通じないの?どうしてあの人を追い出すようなことを言ったの?」
「言った通りよ。あの人の将来は見えている。何の後ろ盾もなく、あの年齢まで中堅の会社をうろうろしている男に、何ができるっていうの?あなたが何不自由なく育てた娘を、あんな男に任せられるわけがないでしょう。」
「じゃあ、私の気持ちは無視するの?」
「気持ち?アイリ、お母さんはあなたに言ったわね。十年後に後悔しない選択をしなさいって。あなたは若い。若いうちの一時の気持ちを、一生の添い遂げに勘違いしてはいけないのよ。」
アイリは何も言えなかった。母の言葉は、的を得ているところがあったからだ。彼女の中で、レンへの気持ちは本物だと思っている。しかし、その思いが親に認められなければ、何の意味も持たないのかもしれない。
「もう遅いから、今日はゆっくり休みなさい。明日からは、新しい人生を始めるべきよ。」
母が部屋を出ていった後、アイリは再び枕に顔を埋めた。
一方、レンは自宅のマンションのベランダで、冷たい風に当たっていた。水を一口含み、空を見上げる。
「レンさん、大丈夫?すごい顔色だよ。」
彼の唯一の親友で、同僚でもある森川忠志が声をかけた。彼はレンが自暴自棄になっていることを察し、無理やり酒に誘い出していた。しかし、レンはグラスを一度口に付けただけで、ずっと黙っていた。
「正直に言えよ。アイリさんのこと、まだ引きずってるんだろ。」
「多分、俺が彼女の周りにいる人たちと、住む世界が違ったんだと思う。」
「世界が違うだって?そんなもん、金の話をややこしく言ってるだけだぜ。」
「そうかもしれないな。だが、現実は目を背けたもの勝ちだ。彼女の方から、身を引くと言ってくれたんだ。」
「はあ?!アイリさんが?」
「ああ。『家族のために離れます』って、泣きながら。」
忠志は、はぁ、と深いため息をついた。
「お前な、全然分かってねえな。もし、お前が根本から彼女を守れなかったらどうする?あの瞬間、彼女がどれだけ辛い選択をしたか、想像してみろよ。」
そう言われて、レンは初めてアイリの言葉を思い出していた。振り返って見せたその横顔には、どこか決意の表情とも言えるものが浮かんでいた。
「…そうかもしれない。でも、もう遅い。」
その日から、レンは仕事に没頭した。朝一番に出社し、一番遅くまで資料と向き合った。残業も休日出勤も当たり前。動き続けることで、何かから逃げていた。
そんなある夜、午前二時を回った頃、彼はまだ会社の一室で新規企画書を書いていた。
携帯が震えた。着信は、アイリからではない。その数年、一度も変わることのなかったあの頃の通話ボタンが押されていた。彼は迷いながらも、応答した。
「…もしもし、どうしたんだ。こんな遅くに。」
「レンさん…。今、大丈夫ですか?」
「少しだけなら。何の用だ?」
「約束、してくれませんか?もう二度と、私の前から消えないって。それだけ言いたくて…。」
レンは、受話器を握る手に力を込めた。
「アイリ、俺にはお前を幸せにできる確信がない。お前の家族が納得してくれるとも思えない。」
「そんなの、私が決めること。レンさん、いや、もう隠さなくてもいいはずよ。」
「…何を言ってるんだ。」
「聞こえたの。おばさまが言ってたの。あなた、幼い頃に色々あったんでしょ?昨日、こっそりおばさまに会ってきたの。私に本当のことを話してくれますようにって。」
レンの息が止まる。あの日、しず子の目に浮かんでいた哀しみ。幼い頃の記憶の断片。
「頼む、もう切るぞ。」
「待って!あのね、私はあなたがそういう育ち方をするしかなかったこと、ちゃんと理解したわ。あなたは悪くない。あなたが自分の力で今の地位を掴んだこと、私は心の底から誇りに思ってる。あのとき、結婚を断ったのも、私のことを考えてくれていたからでしょ?」
レンは、声を絞り出した。
「お前が…何も知らずに育ってきたことに、すがりたかっただけだよ。」
「じゃあ、今知ったわ。私は自分の目で見て、自分の耳で聞いたことを信じる。あなたと一緒にいることが、私の選んだ人生よ。」
「また、親の承諾もなしにそんなことを言い出すのかよ…。」
「承諾が要るの?だったら、今すぐお願いしに行くわ。向こう三年分の利益は保証するから。」
その勢いに、レンは思わず苦笑いをもらした。彼の中で、何か古いものが静かにほどけていくのを感じた。
「…そうか。それじゃあ、また明日から、ちゃんと迎えに行ってもいいんだよな。」
「当たり前でしょ。私がレンさんを選んだんだから。」
電話を切った後、レンは深く息を吐いた。パソコンの画面には、未完成の企画書が表示されたままになっている。彼はそれを見つめ、少しの間考え込んだ。
翌朝、二人は再び顔を合わせた。今度は、あの高級ホテルではない。二人がよく待ち合わせた、小さな喫茶店。
「昨日はちょっと取り乱しました。プロポーズの返事、まだ聞いてないですけど。」
アイリはコーヒーカップの取っ手に指を絡め、いたずらっぽく微笑んだ。
「あれがプロポーズだったのかよ。まあ、今のはなし。もう一度、改めて言わせてくれ。」
レンはカップを置き、背筋を伸ばした。
「アイリさん。僕と、結婚してください。何も持っていない男だけど、君を絶対に幸せにしてみせる。」
アイリは、目をぱちぱちとさせた後、口元を綻ばせた。
「ええ、よろしくお願いします。ずっと、待ってました。」
レンは安心した表情のまま、少しだけ照れくさそうに笑った。二人はお互いの顔を見合わせ、小さく笑った。これから、まだまだ超えなければならない壁はたくさんある。しかし、その一歩を踏み出せたことで、二人の未来は確実に動き始めた。
あの日、高級ホテルの顔合わせの席で婚約者とその家族から投げつけられた言葉の数々。それらはすべて、レンを強くするための試練だったのだと、そう思える日が来るのは、まだ少し先のことである。
