母さんと子供たちはこの家に残る。お前だけ出ていけ。
二十九年連れ添った夫が、私の両親が残してくれた家で言い放った。娘はうつむき、息子も何も言わない。隣では夫の母が口元を歪めて笑っていた。
「あら、自分の子供にまで見捨てられたのね。この家に必要ないのは、あなたってわけよ」
私は最後に、本当にそれでいいのかと夫に尋ねた。夫は「ああ、出ていくのはお前だけだ」と、それだけだった。私は「分かりました」と答えるのが精いっぱいだった。
私の名前は小林直、五十五歳。この家は、以前に亡くなった両親から私が受け継いだものだ。名義は初めから私一人にある。それでも私は、この家を私の家ではなく、家族四人の家として大切にしてきた。
娘は二十六歳、息子は二十三歳。二人とも働いていたが、勤め先が近いこともあって、実家から通っていた。
夫の母が同居し始めたのは、半年前のことだ。夫の父が亡くなり、一人では広すぎると言って、その家を売ったのだ。夫は「次の住まいが決まるまで、俺の母さんをうちに済ませたい」と言った。「落ち着くまででいい、家族として支えよう」と、私もそのつもりだった。
ところが一カ月もしないうちに、夫の母は家の中のものを勝手に動かし始めた。両親の写真も、棚の端に追いやられていた。
「あの、この写真、どうしてここに?」
私が尋ねると、夫の母は新しく飾った自分と息子の写真を眺めながら、涼しい顔で言った。
「古い写真ばかりだと暗いでしょ。家の雰囲気を変えてあげたのよ」
「でも、これは私の両親の写真です。動かすなら、一言言ってください」
「そんな怖い顔しないで。私だって、ここで暮らす家族なんだから。居心地良くして何が悪いの?」
言葉を失った。その夜、夫に相談しても、返ってきたのはため息だけだった。
「写真の置き場所くらいで騒ぐなよ。母さんは家族になろうとしてるんだ」
「置き場所だけの問題じゃない。私の両親を、まるで暗いものみたいに扱ったのよ」
「言葉を取るな。母さんに悪気はない」
夫は、自分が母に勝手なことを許したことには目もくれず、私の受け取り方が悪いと言うかのようだった。
週末、家族五人で夕食を囲むと、夫の母は食卓の真ん中に座り、私に次々と指図した。
「お醤油がないわよ」
「お茶がさめてるわ。入れ直して」
仕事から帰って料理を作っても、私だけが席に着けない。娘と息子の前でも、二人はその態度を隠さなかった。ようやく私が座ろうとすると、今度は食べ終わった皿を差し出された。
「なお子さん、先に片付けてちょうだい。みんな、もう食べ終わるでしょ」
娘が箸を置いた。
「お母さんだって、まだ食べてないじゃない。どうしてお母さんだけが片付けるの?」
夫の母は、相変わらず笑顔のまま言った。
「私はなお子さんに頼んでるの。あなたは口を挟まないで」
「でも、料理を作ったのはお母さんだよ」
「嫁が後片付けをするのは、当たり前でしょ」
夫が鋭い口調でさえ切った。
「母さんを立てろ。片付けくらい、先に済ませればいいだろう」
娘は夫の母を見つめた。息子も何か言いかけたが、私は首を振った。その場を収めることしか、考えられなかった。けれど、私が黙れば黙るほど、二人は大胆になっていった。
数日後、今度は両親の写真が押し入れへ入れられていた。父と母が使っていた和室では、夫の母が押し入れの中身を廊下に引っ張り出している。
「何をしているんですか?」
「この部屋を私の寝室にするの。今の部屋は狭くて落ち着かないのよ」
「ここは両親の思い出を残してる部屋です。勝手に決めないでください」
夫の母は、額縁に入った両親の写真を持ち上げて言った。
「亡くなった人のために一部屋開けておく方が、おかしいでしょ」
私は写真を取り返した。そこへ帰宅した夫が、私の手からその写真を奪うようにして棚に置いた。
「母さんに部屋を譲れ。それが嫌なら、お前が出ていけばいい」
その直後、夫は娘と息子まで呼び出し、私だけが出ていくよう告げたのだ。
「お前も母さんも言うことを聞け。そうすれば、この家にいさせてやらないこともない」
それが夫の言葉だった。私は娘と息子を見た。二人は目を伏せたまま、何も言わなかった。義母が勝ち誇ったように笑っている。
二人が自分で選んだのなら、無理に連れてはいけない。私はそう思い、必要最低限のものを鞄に詰めた。夫の母は玄関まで付き添ってきた。
「母親より家を選ばれた気分はどう? もう戻ってこないでね」
私は何も返せず、駅前のホテルへ向かった。部屋に入った途端、立っていられなくなった。夫だけじゃない。二十数年間、育ててきた子供たちにも否定された気がした。涙は出なかった。
部屋の時計を見つめながら、考える。二人が私のいない暮らしを望んだのだと。
その夜、ドアを叩く音がした。立っていたのは、娘と息子だった。娘は部屋に入るなり、深く頭を下げた。
「お母さん、ごめんなさい。あれは、本心じゃない」
「え?」
息子が続けた。
「お父さんが俺たちも残ると勝手に言ったんだ。あの時、姉ちゃんが俺を見た。何かあると思って、合わせたんだよ」
娘が震える声で言った。
「その場で否定したら、お父さんたちは私たちの前でも口を閉ざす。味方だと思わせておけば、家を奪う話を続けると思ったの」
娘の声は詰まった。
「お母さんを傷つけると分かってた。ごめん」
娘が話してくれたのは、その日の昼のことだった。夫に呼び出され、私より先に家に着くと、夫の母がこう言ったのだという。
「この家はいずれ、あなたたちのものにもなるの。だからお父さんとここに残りなさい」
そして、得意そうに夫からのメッセージを見せた。
「子供たちを残して直子を追い出せば、家は俺のものになる。名義を返させたら、母さんの好きな部屋を作ればいい」
しかも夫は「なお子とはもう話がついている」と嘘まで書いていた。娘はその画面を自分の携帯電話で撮っていた。
「私は、お母さんがそれに同意してないって知ってた」
娘の言葉に、私は目頭が熱くなった。
「私たち、しばらくあの家に残る」
「いいえ、もう十分よ。二人まで嫌な思いをする必要はないわ」
「嫌な思いをしてきたのは、お母さんの方だろ」
息子が力強く言った。
「俺たちは自分の食事も選択も、自分でやる。あの二人の世話はしない。それだけだよ」
娘も頷いた。
「お母さんがいなくても、本当に困らないの?」
「自分たちで選んだ生活をする。危険を感じたら、すぐに嫌だと言う。それだけは約束する」
私は二人を信じることにした。翌朝、私は仕事へ向かう途中で、息子に促されるようにして、駅前の短期賃貸の部屋を借りた。二人は、あの家に残ることにした。ただし、あの二人の思い通りになるつもりはない、と。
最初の夜、私は自分のためだけに簡単な夕食を買った。誰かの注文を待つこともなく、誰かに急かされることもなく、温かいうちに食べられた。それだけで、少しだけ息ができた。
次の日から、私は離婚と家のことを、相談窓口で確認し始めた。どの手続きが必要で、どんな権利があるのか。両親が残してくれた家を、私は手放すつもりはなかった。
その間にも、夫と夫の母は何も気づいていないようだった。子供たちまで味方に付いたと思い込んで、安心していたのだ。
ところが、最初の夜から当てが外れた。
仕事から帰った夫が、何も並んでいない食卓を見て怒鳴った。
「夕飯はどうしたんだ?」
「今日は作りません」
娘が冷たく言い放った。
「私も、帰りに外で食べてきた」
息子も続く。夫は「何を言ってるんだ」と顔を赤くしたが、義母は呆れた顔で言った。
「嫁の代わりに、あんたたちがやればいいんでしょ」
「そうよ。私たちはあんたたちの召使いじゃないわ」
娘の言葉に、夫は声を失った。義母が何か言おうとしたが、娘は立ち上がった。
「この家を守りたかったのは、お父さんじゃなくてお母さんだった。私たちは、もう騙されない」
そして、二人は自室に籠もった。残された夫と義母は、しばらく呆然と立ち尽くすしかなかった。
翌週、夫から「話し合いをしたい」と連絡が来た。私は弁護士を準備していたので、早速その場を設けた。夫は「母さんを追い出すから、家に戻ってきてくれ」と言った。
「お前が戻ってくれば、前のようにうまくやっていける。母さんだって、悪かったと言ってる」
「遅いわ」
私はきっぱりと言った。
「私はもう、あそこには住めない」
「じゃあ、どうすればいいんだ」
「話は弁護士を通して。私は離婚するつもりです」
「離婚だって?」
夫は血相を変えた。
「何言ってるんだ。この年になって、何ができるんだよ」
「何ができるかじゃないわ。何を選ぶか、よ」
私はその場を立ち上がった。後ろで夫が何か叫んでいたが、振り返ることはしなかった。
「ば家を譲ると言ったのは、あなたでしょ」
数日後、娘から短いメッセージが届いた。家の中で何が起きているのか、綴られていた。
「お父さんとおばあちゃんが、言い争ってる。お母さんが出ていってから、二人ともずっとピリピリしてる」
「食事もまともに作らないし、掃除もしない。全部、私と弟に回ってくる。お父さんは『お前たちの分はお前たちでやれ』って、あの二人は何もやらない」
私は娘に返信した。
「あなたたちは家を出ることを考えなさい。私からも、少しお金を折り込むから」
「ううん、大丈夫。私たちは自分たちで選んだ。もう少しだけ、あの家にいる」
そう言われても、胸は痛んだ。それでも、私は戻らなかった。
三週間後、夫の母から電話が来た。声には、以前の余裕がなかった。
「なお子さん、お願い。帰ってきて」
「家の中がめちゃくちゃなの。みんな、自分のことしかしないのよ。息子は仕事を理由に何もしないし、子供たちは言うことを聞かない」
「私、一人じゃ無理よ。お願い、戻ってきて」
「私が戻って、また全員の世話をしろと?」
「そうじゃなくて、私、あなたがいないとダメなのよ」
「それは、私が召使いだからですね」
「違っ……」
「私は、あなたがた家族の奴隷ではありません。この電話は、これで失礼します」
私は電話を切った。その夜、娘から又メッセージが届いた。
「お母さん、よく言ってくれた。今、家の中がすごく静かで、実は一番いい状態。」
「義母さん、何か言ってた?」
「何も言ってなかったよ。昨日、出て行った。『息子に捨てられた』って、荷物をまとめて、お父さんも止めなかった。」
「そう。」
「うん、今はお父さんだけ。ちょっと、可哀想なくらい」
私は返信を読んで、携帯を置いた。何も感じなかったと言えばうそになる。けれど、それ以上に、私はこれから先の自分のことを考えていた。
一ヵ月後、私は夫との離婚が成立した。家は、私の両親の遺産であり、私の名義であることに基づき、私のものになった。夫は、長男から「出ていけ」とまで言われ、ようやく渋々家を出た。
私は家に戻ることにした。娘と息子も、そのまま住みたいと言った。
「家族だから、じゃなくて、お母さんと住みたいんだ」
息子が言った。
「俺、もう子供じゃない。自分の道は自分で決める。でも、帰る場所はここがいいと思ったんだ」
娘も頷いた。
夕暮れ時、私は久しぶりに、居間の縁側に座った。庭の木々が風に揺れている。両親が守ってくれたこの家が、ようやく私の家になった気がした。
大事なものを取り戻せたのは、私がいったん全てを失う覚悟をしたからだ。譲るものは、譲った。守るべきものは、もう迷わない。
「お母さん、夜ごはんできたよ」
娘の声に、私は立ち上がる。
そこには、台所でエプロンを着けている、家族の姿があった。
