披露が済んで、会場の片隅で両親と一緒にいたとき、私はまだドレスのままだというのに、もう現実がゆっくりと近づいてくるのを感じていた。あの日、私があの眼差しの意味に気づくまでは、まだ誰も知らなかった。結婚式が終わって、これからが私たちの新しい始まり。そう信じてやまなかった。
私、斎藤アトは二十九歳。同じ職場で働く二つ年上の田中詢と、近々結婚する予定だ。もともとは先輩と後輩の関係だった。私がミスをしたとき、彼は誰よりも早く気づいて、でも責めるのではなく、問題点を指摘して、一緒に解決へと導いてくれた。そんな彼に、私はいつしか惹かれていた。
職場恋愛は避けたかった。だから私の気持ちは心の中だけにしまっておくつもりだった。それなのに、まさか彼も同じ気持ちだったなんて。知ったときは、驚きと同時に、涙が止まらなかった。それから私たちは付き合い始め、やがてプロポーズを受けた。彼が私の指に指輪をはめてくれたとき、この人とずっと一緒にいられるんだと思うと、幸せで胸がいっぱいになった。
結婚式の準備期間は、本当に幸せな時間だった。彼は仕事で忙しいのに、嫌な顔ひとつせず、一緒に打ち合わせをしてくれた。初めて会った日から、お付き合いするようになってからも、彼は私にずっと優しくて、どんなときも手を差し伸べてくれる。プロポーズされてから始まった同棲生活。朝から晩まで一緒にいても、彼は変わらず優しかった。家事を分担しようと言ってくれたのも、彼の方からだった。料理、掃除、洗濯。どれも嫌がらず、文句の一つも言わずにやってくれる。この時代でもまだ「家事は女がするもの」と思っている人はたくさんいる。なのに彼は、二人で働いているんだから、一緒にやるのが当然だと言ってくれた。そんな彼と結婚できることが、心の底から嬉しかった。この関係は、結婚してもずっと続いていく。そう信じて疑わなかった。
結婚式前日は、本番を前にドキドキしてなかなか寝付けず、それでも何とか眠りについた。そして、いよいよ結婚式当日。私は純白のウェディングドレスに身を包み、待っていた。いよいよ結婚式。そう思うと、嬉しさと緊張で震えが止まらない。控え室に現れた両親は、私の姿を見るなり、涙を流して喜んでくれた。その姿を見て、私も釣られて泣きそうになってしまう。改めて両親に感謝の言葉を伝えると、両親は何も言わずに、ただ温かく抱きしめてくれた。
そんなとき、私のウェディングドレス姿を一目見たいと、義両親と、義理の妹のゆかさんが控え室に来てくれた。しんみりとした空気を、ゆかさんの明るい声が吹き飛ばしてくれる。
「お姉さん、すごく綺麗! おめでとう!」
ゆかさんは、本当に素直で明るくて、人懐っこい性格だ。すでに結婚していて、まだ小さくて可愛い娘さんもいる。私はゆかさんのことを、本当の妹のように可愛く思っていた。ゆかさんの感想に素直に嬉しくなってお礼を言っていると、ふと冷たい視線を感じた。視線の先には、義母がいた。何を言うでもなく、ただ真顔で私を見つめている。その視線は、とてもいいものには思えなかった。
私と目が合った義母は、慌てたように、何かを取り繕うように目をそらし、両親に挨拶をし始めた。このとき初めて、義母の態度に違和感を感じた。義母とは何回か会ったことがある。そのときの義母は、物腰が柔らかくて、優しい雰囲気の人だった。なのに今日の義母は、言葉には表せないけれど、なんだかいつもと雰囲気が違う。どう考えても、いい人には見えなかった。もしかして、私たちの結婚に反対だったのかもしれない。そんなことを思いながら、それでも私は結婚式を迎えることになってしまった。
式は順調に進み、同僚や友人に祝福されながら、素敵な結婚式を無事に終えることができた。私は、私の不安は勘違いだったのかもしれないと、そっと胸をなでおろしていた。しかし、その直後、義母に呼び出されたのだ。
「明日の朝から、実家に顔を出しなさい」
そう言われた。詢と同棲しているマンションは、実家の近くにあった。元々彼が一人暮らしをしていたマンションに、私が一緒に住むことになったのだ。正直、結婚式直後で疲れていたし、ゆっくり休みたかった。新婚なんだから、二人きりで過ごしたいという思いもあった。しかし義母は、「ゆっくり話したいこともあるし、距離も近いのだから来てほしい」と言う。嫁という立場で、嫌だと言えるはずもなく、私はしぶしぶ従うことにした。
翌日、眠い目を擦りながら義実家に向かうと、義父も義母も、歓迎ムードで私を迎えてくれた。
「昨日はお疲れ様。今日は前から気になっていたカフェがあるの。みんなで食べに行きましょう」
義母の後ろから、ゆかさんと娘さん、それにもう一人、親戚らしき子どもが、嬉しそうな声をあげている。どうやら、私たちの結婚式に合わせて、実家に寄りついていたらしい。そして、しばらく実家でゆっくりしていきなさいと、夫からも言われているそうで、数日間、実家に泊まることになった。今日の義母の様子はいつも通りで、昨日の違和感は私の勘違いだったのだろうか。そう思って、私は少し安心していた。
ゆかさんと娘さんは、人気のカフェだと聞いて、とても嬉しそうだ。そのカフェは雑誌にも掲載されたことがあるらしく、なかなか予約が取れないらしい。そんな素敵なカフェに、私も誘ってくれていたのだ。それを知って、私は自分が義母を疑っていたことを恥ずかしく思った。罪悪感を感じながら、素直に義母にお礼を伝えると、義母は笑顔で「いいのよ」と言ってくれた。
予約の時間まで、私は実家で過ごし、義父の運転でカフェへ向かった。義父も、普段はなかなか行けないような場所だからか、なんだか少しワクワクしているように見える。カフェに着くと、その評判通り、とても素敵な店だった。店内は落ち着いた雰囲気で、料理やドリンクの種類も豊富で、どれも美味しそうだ。周りを見ると、運ばれてきた料理の写真を撮っている人たちがたくさんいる。私たちも、負けじとメニューを広げて選ぶことにした。
みんなが嬉しそうにメニューを選んでいる姿を見ていると、私も自然と笑みがこぼれた。それぞれ食べたいものを決めて、注文を済ませる。料理が運ばれてくるのを待っている間も、和やかな時間は続いた。しばらくすると、注文した料理が次々と運ばれてくる。私とゆかさんはフレンチトーストを頼んでいた。それを見た義母が、眉をひそめて一言。
「あら、あなたたち、お昼にそんなデザートみたいなものを食べるの? なんだか食生活が心配だわ」
嫌味な言い方だ。でも、ゆかさんは気にする様子もなく、「軽くて美味しいですよね!」と、私に気を使うことなく軽く流してくれた。運ばれてきた料理はどれも可愛く飾り付けられていて、写真映えするものばかりだ。みんなで楽しく食事をしていると、義父の携帯が鳴り、義父は席を立った。すると、ゆかさんの娘さんもトイレに行きたいと言い出し、席を外した。その瞬間、義母の態度が、はっきりと変わったのだ。
「あなたは、夫である詢の体調も管理しないといけないのよ。昼間っから、あんな甘いものばかり食べて」
そう、義母は険しい顔で言い放った。そして、さらに続ける。
「嫁としての自覚、全然ないんじゃない? 家事もできないんじゃないかしらね」
グチグチと、止めどなく嫌味を言い続ける義母。私はどう対応したらいいのか分からず、隣を見る。詢に助けを求め、目で訴えた。しかし、詢は全く気にする様子もなく、ただ黙々と料理を食べている。義母の小言は止まることなく、最後には「ちゃんと婚姻届を提出したのか?」という話まで始まった。
その瞬間、昨日の式の日、私が婚姻届を旦那に渡したときのことを思い出した。式の最中、受付で名前を書くとき、私は渡すのを忘れて、そのままにしていたのだ。そのことを思い出し、私は冷や汗をかいた。慌ててポーチを漁るが、そこに婚姻届はなかった。
「あ…」
「え? 何? ちゃんと出したの?」
義母の声が、一段と鋭くなる。
「い、いえ、それが、まだ…」
「はあ!? 何言ってるのよ! しっかりしてよ! うちの息子を貰うって、どういうことなの!?」
義母は立ち上がり、声を荒げた。レストランの注目が、一気に私たちに集まる。私は恥ずかしさと情けなさで、目の前が真っ暗になった。そんな私を見て、義母は「はあ…」と、ため息をつきながら、ディナーの後のように、再び座った。
「まったく…。いい? 来週中には、絶対に出すのよ。分かったわね?」
そう言って、義母は私を睨みつけた。何も言えずにうつむく私を、周りの客たちが好奇の目で見ている。まるで、私だけが悪者みたいじゃないか。私はただ、足元の床だけを見つめていた。
しばらくして、義父が戻ってきて、ゆかさんの娘さんも席に戻ってきた。義母は、何事もなかったかのように、また優しい笑顔に戻っていた。その変わり身の速さに、気持ち悪ささえ感じる。私は、もう何を食べても味がしなかった。
家に帰ってから、私は詢に言った。
「ねえ、あなた。もしかして、母さんに私、嫌われてるのかな…」
すると詢は、噛んでいた箸を止めて、少し困ったような顔で言った。
「気にしすぎだよ。母さんは、ああ見えて、人一倍、俺のことを心配してるんだよ。初めての息子の嫁だから、色々言いたいこともあるんだろうけどさ。お前は、気にしなくていいんだよ」
そう言って、また笑った。その一言で、私の心は救われたような気がした。やっぱり、この人は優しい。私が妻になるんだから、頑張らないと。そう思い直すことができた。
しかし、その数日後、義母から電話がかかってきた。
「良かったら、お義母さんと一緒に、洋服を見に行かない?」
神戸に住む義母は、大阪に住んでいた私と、北新地のような高級な場所で、ショッピングに付き合ってほしいらしい。前のカフェの一件があったので、少し憂鬱だった。しかし、断ることもできず、私は従うことにした。
待ち合わせ場所で待っていると、義母は16時には帰ると話していた。神戸に帰る前に、どうしても行きたい場所があるらしい。服を見ながら、お茶でもどうかという話になり、みんなで喫茶店に入った。メニューを見ると、フレンチトーストという一際目立つ文字が目に入った。あの日、義母に「甘いものばかり」と言われたことを思い出し、私は心の中で罪悪感を感じながらも、「私はこれをください」と注文した。
「あら、結局、甘いものが好きなのね」
義母は、笑いをこらえるように言った。また始まった。そう思いながら、私は静かに義母を一瞥した。しかし、次の瞬間、義母はすごく優しい笑顔で、
「ふふ、私も甘いものが好きなんだよね。いいわよ、若いうちに、たくさん食べなさい」
そう言って、フレンチトーストも一口もらって、微笑んだ。その姿を見て、私は自分がいかに狭い心を持っていたか、思い知らされたような気がした。この人は、私が思っていたよりも、もしかしたら、はるかに寛容な人なのかもしれない。カフェで嫌味を言われたときとは、何かが変わっていた。
その夜、実家から帰ってきた詢が、ソファに座る私の隣に来た。
「なあ、今日、母から聞いたんだけど」
「お前、フレンチトースト、食べたんだって?」
「う、うん。ごめん、悪かった?」
ちょっと怒られるかと思って、顔を上げると、詢はにやっと笑っていた。
「いや。母さん、すごく嬉しそうだったぞ。『お嫁さんと、お揃いのものを食べた』って」
「お揃い…?」
「ああ。母さん、昔は甘いものが大好きだったんだって。父さんに、太るからやめろって言われて、ずっと我慢してたらしい。今日久しぶりに食べたら、やっぱり美味しかったって、すごく満足そうだった」
それを聞いて、私はハッとした。義母のあの嫌味は、もしかしたら、私を責めていたのではなく、昔の自分を思い出していたのかもしれない。そして、私と一緒に食べたかったのかもしれない。そう思うと、胸のつかえがスッと取れたような気がした。
「あのとき、カフェで言われたこと…」
私が呟くと、詢は「ああ、あのデザートの話?」と言って、笑った。
「母さん、俺のことを心配して言ってるんだよ。きっと、お前が忙しくて、夫である俺の食事を疎かにしてると思ったんだろうな。でも、俺は大丈夫だって。お前が家事を全部やってくれてるから、むしろ前より健康的になったくらいだよ。なあ、母さんにも、ちゃんと感謝の気持ちがあるんだぜ。あの人、本当は照れ屋なんだ」
詢はそう言って、私の手を握った。信頼してくれている。それが分かって、私はようやく、心から笑えた。
私は、次の日の朝から、毎日、義母に連絡を取るようにした。「今日のお昼、こんなものを食べました」「今度、お母さんが好きなお店に行きませんか?」そんな、他愛のないことばかり。すると義母からも、気の利いた返事が返ってくるようになった。私たちの間には、最初はなかった、穏やかで温かい時間が流れ始めていた。
あの日、義実家で過ごした日々。私は、義母の本当の優しさを知ることができた。義母は、義母なりに、これから家族になる私を、必死に受け入れようとしてくれていたのだ。姑と嫁という難しい関係かもしれない。でも、分かり合おうとすれば、ちゃんと通じ合えるんだ。結婚式の日に見せた、あの冷たい視線は、私が勝手に悪い思い込みをしていただけだったのかもしれない。
もしくは、あれも、義母なりの緊張だったのか。私の肌の白さに見惚れて、悲しくなっていたのかもしれない。そこにあるのは、私を思う気持ちと、家族としての絆。今では、私も義母のことが、心から大切な家族だと思えている。
