病院の屋上から見える景色は、昔と変わらない。いや、私の気持ちが変わっただけなのだろう。二週間前に離婚が成立した。今日、元夫から慰謝料が振り込まれた。通帳に並んだ数字を眺めながら、私は深く息を吐いた。今まで見たことのない金額だ。これで終わったのだ。あの辛かった日々にも、ようやく決着がついた。
夫の浮気。散々な言動。私はこの男に振り回され続けた。毎日のように帰りを待っても、連絡の一つもなくなることが当たり前になっていった。傷つけられることに慣れてしまった自分がいた。でももうそんな日々ともお別れだ。これからは誰かの帰りを待つことも、カードの支払いの金額に怯えることもない。私はやっと解放されたのだ。
そう思うと、自然と目頭が熱くなった。嬉しいというより、ほっとしたという気持ちの方が強かった。長い長いトンネルをようやく抜けたような感覚だった。
私の名前は三百江。元夫の遊平とは、家の事情が複雑だった。彼の実家は病院を経営していて、私はそこで働いている。戸籍上は義母との縁が切れても、仕事の上では顔を合わせることが多い。病院の院長である義父の手腕と、患者を思う義理の両親の姿勢に心を打たれて、退職することはできなかった。
最初は辞めようと思った。病院に居づらくなるのは目に見えていたからだ。でも、私が辞めてしまったら困る人がいる。特に産婦人科の経験者が足りないこの病院では、私の存在は大きかったらしい。岐阜県の田舎で、産科医は慢性的に不足している。私に辞められては困るという、病院側の事情も分かっていた。
義理の母、岐阜は病院の会長だ。そして私の上司でもある。彼女は私を引き止めるため、ずいぶんと気を使ってくれた。あの人にそう言われると、断れなくなるのだ。迷惑をかけたくないという気持ちが、辞めたいという気持ちに勝ってしまった。
元夫の遊平は、医者ではなく普通のサラリーマンだ。彼はかつて医学部に挑戦したが失敗し、サラリーマンの道を選んだ経緯がある。私が医師として働いていることに、彼はずっとコンプレックスを抱いていたのだろう。それが原因で、あんなに散々な性格になってしまったのかもしれない。いや、今さらあの男のことを考えるのはやめよう。
ある日、義母から電話がかかってきた。今日は私が休みだということを、わざわざ確認してからの電話だ。用件は、夫のことだった。
「ゆりえさん、ちょっと大事な話があってね」
義母の声は普段より沈んでいた。嫌な予感がする。病院の事か、それとも義父の体調のことか。私はリビングのソファに腰を下ろし、電話に集中した。
「もしかして、岐阜さんのことですか」
「そうなの。実はね…夫の胃に、癌が見つかったの」
義父が胃癌になったことは、以前から聞かされていた。だが、その状況が思ったより深刻だということを、今の電話で知った。
「手術をすれば、治る可能性もあるの。だけどね、あの人の体力じゃ、手術に耐えられないかもしれないって言われてるの」
義母の声が、震えていた。私は言葉を失った。あの厳しくも温かい義父が、そんなに病と闘っているなんて。私は何も知らずに、あの人のうしろ姿を見たことを申し訳なく思った。
「病院のことも、あるしね。私、一人じゃどうしていいのか分からなくて。それでね、ゆりえさんに相談があって」
義母は一度休憩を挟んでから、続けた。
「病院を手伝ってくれないかしら。会長代行として、うちの病院に来てくれない?」
突然のことに、私は言葉を失った。確かに私は病院のことは何も分からない。会長代行なんて、私に務まるはずがない。
「でも、私なんかには…」
「あなたは患者さんのことを一番に考えている。それは私が保証するわ。それに、あの子にだって、あなたの実力を疑う者はいない。岐阜もあなたならっと信じているのよ」
義母の言葉に、胸の奥が熱くなった。私を理解してくれる人がいる。そう思えたことが、ただただ嬉しかった。
「病院のことだけじゃないの。もしよかったら、あの子のことも助けてやってほしいの。遊平の嫁は、あなたにしか務まらないと思うの」
その言葉は、少し重かった。確かに私は遊平の妻だった。でも、もう別れたのだ。今さら、どうしろと言うのだろう。それに、あの男のことは…
「お母さん、私、遊平さんとは離婚したんです。それに、あの人とは距離を置きたいんです」
正直に言うと、義母は深く息を吐いた。
「そう…だわね。ごめんなさい、無理をお願いしたわ。病院のことだけで十分よ。あの人のことは、私が何とかするわ」
そう言って、義母は笑った。だが、その笑顔はどこか寂しげで、私は胸が締め付けられる思いがした。義母は、私のことを実の娘のように可愛がってくれていた。それなのに、遊平が台無しにしてしまった。申し訳ないという気持ちと、あの男への怒りが湧き上がってくる。
結局、私は義母の頼みを承諾した。病院のため、患者さんのため。そう思うと、あの男を気にしている場合ではないと思えた。
あれから私は、病院の執行役員として働き始めた。今まで通りの仕事をしながら、経営のことや雑務もこなす毎日。目が回るほどの忙しさだけど、充実している。私を支えてくれるスタッフたちにも恵まれた。
毎日毎日座り込みの会議の連続だった。病院の規模は大きく、診療科も多い。経営方針を決める会議、人事の相談、スタッフとの面談。慣れないことだらけで、正直へとへとだった。でも、患者さんのためだと思えば、頑張れた。私が患者さんを思うのと同じくらい、患者さんを想う人たちがここにはいるのだ。
そうしているうちに、私の存在は少しずつ病院内で受け入れられていった。岐阜前会長から信頼されていることも、大きかったのだろう。私の頑張りを、皆さんは温かく見守ってくれている。
病状はよくなくて、岐阜会長は入院生活を続けていた。私はできる限りの時間を作って、病室に見舞いに行った。
「会長、頑張ってくださいね。みんな待ってますから」
私がそう言うと、義母は弱々しく笑った。
「ありがとうね。ゆりえさんがいてくれて、本当に助かってるわ」
「そんな、私ができることなんて、何も…」
「そんなことないわ。あなたが来てくれるから、病院の雰囲気が良くなったの。患者さんたちも、あなたの顔を見るのを楽しみにしてるわよ」
義母にそう言われて、私は何も言えなかった。嬉しくて、悲しくて、胸の中がぐちゃぐちゃだった。手術をすれば治る可能性もある病気だ。一度家に帰れば、強気でいられる。それなのに、病床に彼女の姿を見ると、涙が出そうになる。
病院からの帰り道。携帯が震えた。画面には、着信拒否をしていないものの、絶対に出たくない相手の名前が表示されていた。遊平だ。
しばらく出ようか迷ったが、何度も電話してくるので、仕方なく出ることにした。
「おう、元気にしてるか」
いきなり馴れ馴れしく話してくる。あの頃とまるで変わらない。虫ずが走るとは、まさにこのことだ。
「それで、何の用ですか」
冷たくそう答えると、遊平は声を潜めるようにして言った。
「いやさ、聞いたんだよ。母さんから。お前が病院を継ぐんだってな」
「ええ、病院のことを手伝うことになりました。それだけです」
「はっ、せいぜい頑張れよ。ところでさ、俺、この間巣篭もって結婚することになったんだわ」
「そうですか。それはおめでとうございます」
「ああ。でもよ、今金がねえんだわ。慰謝料であんまり貯金が減っちまって」
あんまり、とは何だ。あれは、私への慰謝料だ。あんたが私に払ったお金だ。
「だからさ、俺を病院に雇ってくれよ。役付きでさ。まあ、何か適当に頼んでくれよ」
こいつ、正気でこれを言っているのだろうか。今まで私を散々苦しめておいて、この上、病院で雇えだと?
「病院は遊平さんの雇い主じゃありません。病院が教えることになったら、私の一存では決められません。病院の運営会議で決めることですから」
「なんだよ、つれねーなー。俺のことは前から知ってるだろ?」
「あなたを病院に関わらせるつもりはありません。病院には、あなたのような非常識な人間はいりません」
そう言って、私は電話を切った。そして、着信拒否の設定をした。もう、あの男に振り回されるのはごめんだ。
それから一週間後、義母から電話があった。
「ゆりえさん、話があるの。今、いいかしら」
「はい、どうしましたか」
「遊平のことなんだけどね、結婚することになって、三日後くらいに挨拶に来るみたいなの。それで、もしよかったら、あなたも会ってあげてくれない?」
義母にしては、ずいぶんと気を使った言い方だ。私は、義母と親睦を深めることを選ぶことにした。
「分かりました。では、その日にお会いします」
その日、病院の控え室で、私は義母と待っていた。部屋の扉がノックされると、義母が立ち上がる。
「どうぞ」
扉が開くと、そこには見慣れた顔があった。遊平と、そして…私の知らない女性。いや、彼女は知っている。私の実の妹だ。
私と同じような顔の形をした女性、金。妹だ。
「どうも、お姉ちゃん。久しぶりだね」
へらへらと笑いながら、金が言う。大学を辞めてから、ずっと遊んで暮らしていると聞いていた。まさか、思わぬところで再会した。
「お前ら、知り合いなのか?」
遊平が、僕らの顔を見比べる。金は構わずニコニコしながら、
「うん、私がゆうちゃんの新しい妻になる、金でーす。お姉ちゃん、元気そうだねー」
そう言って、私の存在など気にする様子もなく、豪快に笑った。何が面白いのか、何がおかしいのか。妹は昔から、いつもこんな調子だった。
「ちょっと、遊平さん。どういう用?」
堪らず、私は遊平に詰め寄った。
「だから、結婚するっつってんだよ。会社の先輩の紹介でな。まあ、金のことは知ってるんだろ? なら説明はいらねーか」
「あなた、まさか妹と…」
「別に悪くないだろ。俺たちは恋愛の結果、結婚するんだ。お前みたいに、何かとややこしい女より、金の方が素直でいいんだよ。お前みたいに腫れ物に触るように扱わなくていい女なんだよ」
言葉が、めちゃくちゃ止まらなくなった。怒りで頭の中で何かが千切れそうになる。
「よくもそんな…」
私の心の中の何かが、ぶちっと切れる音がした。今までの恨み言を、全部まくしたててやろうか。いや、違う。もう、何を言っても無駄だろう。
「お前こそ、この人のどこがいいんだ?」
「そこは姉に言われる筋合いはないね。どこがいいも何も、好きなんだから、仕方ないでしょ?」
そう言って、金は遊平の腕にすがりついて見せた。
「ちょっとあんた、愛の告白はよしてくれよ。照れるだろ」
照れも入り乱れて、抱き合って見せる二人。吐き気がした。こいつらは、よくもまあ、私の前で。
義母は何か言おうと口を開きかけたけど、その言葉を飲み込んだように見えた。部屋の中に、気まずい沈黙が流れた。
「そうだ、お姉ちゃん。今日は病院の様子を見に来たんだけど、どう? うまくやってる?」
金が、私に馴染みにやっている。何が目的なのか分からない。これ以上、邪魔者の私がいるのもあれだ。所作を示すことにした。
「病院のことは、私が教えたからいいわ。ありがとう」
義母が、すっと立ち上がって、そう言った。
「本当に大した者だからね。あんたの話は、よく聞いているんだよ。病院のためだったら、身を削る思いで尽くしてくれているって」
義母の言葉に、金の顔が一瞬ひきつった。図星だったのか、妹は何か言いかけたけど、黙った。
「ねえ、そろそろ行こうよ。病院の院長が相手をするような用事は、もう終わってるはずだし」
金が、そう言って遊平の腕を引っ張る。
「ああ。じゃあ、俺らはあっちで宿を取ってあるんだわ。近々、またな」
そう言って、二人は部屋を出て行った。バタンという、やや乱暴な音を残して。
部屋にしばらく重い空気が流れた。義母が小さくため息を吐く。
「ごめんね。あの二人のことは、気にしなくていいのよ」
そう言って、私の目を見て微笑んだ。優しさが逆に胸に染みる。
「いいえ、こちらこそ。大丈夫です。病院の仕事に、支障は出させませんから」
私は口元を無理やり笑顔にさせて答えた。
それからの数日間は、病院の仕事に集中した。考えるのは、病院の事。患者さんの事。私の役目は、ここにいることだ。
そうやって、だましだましやっていくのだと思っていた矢先。病院のある医師が、不意に切り出した。
「会長が、あなたにお話があるって言ってましたよ」
何の用だろう。最近、体調を崩していた義母のことかもしれない。病室へ向かうと、義母は病室のベッドの上に体を起こして、窓の外を見ていた。
「お母さん、どうかしましたか?」
「ああ、ゆりえさん。ちょうどいいところに。少し坐ってくれないか」
促されるまま、隣のパイプ椅子に座る。しばらく沈黙が流れた後、義母はゆっくりと口を開いた。
「あなたが病院に来てくれて、もうすぐ一年になるわね」
「はい。おかげさまで、いろいろ学ばせてもらってます」
「ううん。私の方こそ、あなたに本当に助けられてる。私一人では何もできなかった。病院のためだけじゃないわ。私自身のために、あなたがそばにいてくれた。それは愛しい実の娘といるのと同じくらいの力になったの」
義母の目が、潤んでいるように見えた。私も何だか、こみあげてくるものがあった。
「あなたは、もう自分の人生を十分に苦しんできた。そろそろ、自分の幸せを選んでいいんだよ」
義母が、そう言って私の手を握った。
「病院のことなら心配いらない。あなたが幸せになれる道を選びなさい」
その言葉を聞いて、私は全てを察した。義母は、私の意思を確かめようとしているのだ。私が病院を辞めたいと思っているのではないかと。
確かに、考えなかったわけではない。でも、今の私に病院を辞める理由はどこにもない。
「お母さん、私が病院を離れることはありません。私はここで、この病院のために働きたいんです」
私がそう言うと、義母は安心したように微笑んだ。
「ありがとう。あなたのその言葉で、安心したよ」
それから数日後、病院に見慣れない男の人がお見舞いに来ていた。病院の前で、彼とばったり会った。夏の陽差しの中で、病院の入口に立っていた彼は、私を見てふっと笑った。
「ああ、あなたが三百江さんですね」
「はい。もしかして、会長の…?」
「ええ、岐阜の息子の知り合いです。私は林と申します。以前、この病院でお世話になっていました」
穏やかな物腰の男性だ。遊平とは、えらく違う雰囲気の男だ。彼は病院をじっと見上げて、何かを懐かしむように言った。
「ここはいい病院だと思っています。皆、親切ですからね」
「そう言っていただけて、嬉しいです」
私が応じると、彼はふっと年齢の割には少し無邪気な笑顔を見せた。
「会長から、あなたのことをよく聞いていますよ。病院のためなら、どんな苦労も厭わないって。その姿に、皆が救われているって」
「私なんて、まだまだです」
「いえ。会長もあなたに任せておけば、安心だと言っていました」
そう言って、彼は病院の中へと入っていった。どうやら義母の顔見知りのようだ。
その夜、病院の帰り際、私は義母のためにコンビニで飲み物を買って病室に寄った。
「座って、ゆりえさん」
病室に入るなり、義母が手招きした。
「さっき林さんと会った?」
「はい。病院を見に来られていました」
「どう思った?」
何のことを聞いているのだろう。私が答えあぐねていると、義母はにっこりして言った。
「あの人はね、うちの病院に務めていた医師の息子さんなの。今は東京の病院で働いているらしいの。若いのに、実力は確かな人よ。どうかしら、あなたの相手に」
思わぬ話に、私は息を呑んだ。
「ちょっと、お母さん。私、そんな気は…」
「ふふ。まだ言いかけよ。でも、病院に人が来るのは悪いことじゃないよ。もし、あの人が悪い人だと思ったら、私がおかしいと思う」
義母の言葉に、私は何も言えなかった。本当に、この人は私のことを心配してくれているのだ。
「今度、病院に見学に来るみたいなの。その時に、また話をしてみたらどうだい?」
「…考えておきます」
そう言うのが精一杯だった。
数日後、林さんは約束通り病院にやってきた。私は病院のロビーで、彼を迎えることになった。
「お忙しいところ、すみません」
「いえ。病院見学、ご一緒します」
その後、病院の中を案内した。彼はフムフムと一つ一つに相槌をしながら、真剣な表情で見学していた。患者さんに優しく声をかけている姿を見て、この人は本当に医者なのだと思った。患者さんが笑顔になるのは、きっとこういう先生だからだ。
「病院の雰囲気がいいですね。皆さん、楽しそうに働いています」
「そう言っていただけると、嬉しいです」
「ええ。うちの病院とは大違いだなあ」
そう言って、林さんは穏やかに笑った。院内を一通り見学し終わったあと、私は彼を院長室へと案内した。「それで、どうでしたか」
私が聞くと、彼は真剣な表情で言った。
「素晴らしい病院だと思います。患者さんを見る目が、昔と変わっていない。あの頃と何も変わっていません」
人を見る目。その言葉に、どきりとした。
「実はね、三百江さん。俺は昔、この病院の門を、どれほど悔しい思いをしたか分からない」
林さんは、遠い目をした。
「医者という仕事をしていれば、どうしても献身的になることが求められる。だけど、この病院の患者さんを思う姿勢を見ていると、自分が恥ずかしくなります」
「林さん…」
「病院に来る前は、病院っていうのは医者が上で患者が見下される場所だと思っていたけど、ここは違うんですね」
その言葉を聞いて、私は林さんに対する印象が大きく変わった。真っ直ぐで、誠実な人だ。大事な何かを教えてもらった気がした。
病院を案内した帰り道、林さんが言った。
「また、病院を見学してもいいですか。今度は、病院の外も」
「病院の外ですか?」
「ええ。病院の外の、この街を。もしよかったら、この街でおすすめの場所を教えてもらえませんか」
次の休みに、私の案内で街を案内することになった。病院を離れると、林さんは本当に楽しそうに話した。学生の頃の失敗談、医者を目指したきっかけ、どんなことでも話題は尽きなかった。私は、こんなに人と話すのは久しぶりだと思った。
そして、あっという間に時間が経った。帰り際、林さんは私の目を見て言った。
「今日は、ありがとうございました。とても楽しかったです。また、病院に行ってもいいですか」
「はい。いつでも」
そう言うと、林さんはいたずらっぽく笑って言った。
「病院だけじゃなくても、会えますか?」
少し考えて、私は頷いた。
「そうしてもらえたら、本当に嬉しいです」
それから林さんとは、病院ではなくても、時々会うようになった。病院の話、患者さんの話。彼はいつも、私の話を真剣に聞いてくれた。それは自然と、お互いを意識するように変わっていった。
ある日、病院の会議の後、岐阜会長が私を引き止めた。
「ゆりえさん、最近、幸せそうだね」
「ええ、そうでしょうか」
「こちらまで、幸せな気持ちになるよ。誰かいい人がいるのかい?」
義母の問いかけに、私ははっきりと答えた。
「はい。大切な人、林さんです。将来のことはまだ分からないですけど、これからゆっくりと、歩いていけたらいいなと思っています」
義母は、嬉しそうに何度もうなずいた。
「それは良かった。あなたが幸せになるのが、私の何よりの願いだよ」
病院からの帰り道、スマホが震えた。林さんからだ。
「もしもし」
「もしもし、今、大丈夫ですか? ちょっと言い忘れてたんですけど、結婚してください」
「え? 今、なんて」
「病院の前で言った方が良かったかな? それとも、変な言い方だったかな? ちゃんと正式に言い直すよ。三百江さん。僕と結婚してください」
夕暮れに染まる病院の前で、私は携帯を握りしめたまま、しばらく立ち尽くしていた。そして、こみあげてくるものを必死に飲み込んで、一言だけ告げた。
「…はい。よろしくお願いします」
病院の窓には、夕日がきらきらと反射していた。あの辛かった日々が、私を一人の医者にしてくれた。あの人のことも、あの女のことも、全てを許したわけじゃない。だけど、今はそう思える自分がいた。今日という日を、きっと私は忘れないだろう。
