幼い頃からずっと俺のことを可愛がってくれていた祖母が、俺の目の前で静かに息を引き取ったのは、高校を卒業する直前のことだった。両親を幼い頃に事故で亡くし、それからずっと祖母と二人で暮らしてきた俺にとって、この世で唯一の肉親だった。祖母の遺影の前で、俺は涙が枯れるまで泣いた。泣き疲れて記憶が朦朧とする中で、ふと思い出したのは、こんな日々がずっと続けばいいと思っていた中学校の頃の自分だった。
環境は悪くなかった。いや、良かったと言ってもよかった。両親がいないことを気の毒に思ったのか、施設の先生たちは本当に優しく、同じ境遇の子供たちもいた。ただ、学校行事で普通の家族を見ると、胸が締め付けられるような、どうしようもない寂しさに襲われることがあった。そんなある日、施設で同じように育った年下の子供たちが、学校でいじめられているのを見かけた瞬間、俺の中で何かが変わった。その時からだ。俺の人生の目標は、ひとりぼっちで誰にも頼れないあいつらを、この手で守っていくことになったのは。
そうして足を踏み入れた世界で、社長は俺に仕事のいろはを教えてくれた。人脈の広さ、商談の進め方、金の動かし方。気がつけば俺は、小さな会社を経営するまでになっていた。そんな貧しかった時代に、結婚するんだと笑顔で報告しに来てくれたのは、会社で一番かわいがっていた後輩の真美だった。年齢は一回り離れているが、誰に対しても分け隔てなく接し、笑顔を絶やさない、素直な子だった。正直、俺も悪い気はしていなかった。いや、彼女の存在が、心の支えになっていたのだと思う。
「高橋さんがいたから、頑張れました」
そう言ってはにかむ後輩を見て、俺は嬉しくなる反面、猛烈な不安を覚えた。彼女は若い頃から苦労してきたからか、俺と同じ匂いがしたからだ。同じ傷を持っているような気がした。施設で育った境遇がお互いに何か共感する部分があったのかもしれない。それが俺に彼女を守りたいと思わせた理由の一つでもあった。
二人で支え合い、一つの家庭を築いていこう。そう心に誓ったのも束の間、彼女のお腹に子供ができるのが一年も早かった。嬉しかった。本当に嬉しかった。初めての我が子だった。
生まれてきた娘は、当時流行っていたドラマのヒロインからとって「真知」と名付けた。真知は本当にいい子に育った。人見知りせず、誰にでも笑顔を振りまき、保育園の先生からも評判だった。家では俺の作る料理を「美味しい」と笑顔で食べてくれる。そんな彼女を見ていると、施設で過ごした孤独な日々が嘘のように思えた。仕事も順調で、家には温かい妻と娘がいる。この幸せが、いつまでも続けばいい。俺はそう信じて疑わなかった。
しかし、転機は突然訪れる。
帰宅するといつもリビングでくつろいでいるはずの妻は、異様に出かける回数が増えていた。最初は料理教室に通い始めたせいだろうと思っていた。出会った頃から妻は「お料理勉強したいんだよね」と口にすることが多かった。しかし、その頻度は徐々にエスカレートし、週に三回、四回と増えていった。
「なあ、真美。料理教室、週に四回も通う必要あるのか?もう習うことなくねえか?」
すでに夕食の支度の時間であるにもかかわらず、妻は薄いブラウスの上からキャミソールを着て、鏡の前でくるりと一回転してみせた。少し化粧気が増えた気がする。
「いいでしょ、別に。それに、高橋さんは休みの日は休みで自分の好きなことしてるじゃん」
そう言って、妻は部屋を出ようとした。最近の妻は、前までとどこか様子が違う。会話が素っ気ないし、食事もおざなりになることが増えた。もしかすると、と思っていたところに、一本の電話が入った。
「高橋の家の旦那ですけどね、俺がですね」
「もしもし、どちらさまですか?」
「あー、すいません、真知ちゃんの友人です。真知ちゃんの家、高橋さんですよね?ちょっとお母さんに用があって電話したんですが」
友人を名乗る男からの電話は、取り次ごうとした俺に「いや、いいです。また今度にします」と一方的に切られてしまった。真知の学校の友達の親か、それとも何かの勧誘か。その時は深く考えなかった。
翌日、以前から付き合いのあった探偵事務所に電話をしていた。
「もしもし、もしもし。ああ、俺だ」
翌週、探偵から連絡があった。喫茶店で手渡された写真には、タワーマンションの一室から出てくる、見覚えのあるコートを着た女と、スーツ姿の見知らぬ男が写っていた。写真の隅に日付が写っている。それは、妻が料理教室に行くという曜日と見事に一致していた。
「無理に詮索はしなかったが、ご主人の稼ぎで生活している専業主婦としては、少し不釣り合いな趣味だと思ったんでね」
報告書は何ページにもわたった。そこには、若い男と頻繁に会っていること、一緒に高級料理店に入っていく姿、連れ立ってラブホテルらしき場所に入っていく写真まであった。俺は、もう二度と元には戻れないことを悟った。
「…わかった。しばらくそっとしておいてくれ」
探偵との会合を終えたあと、俺は一目散に家路を急いだ。
家に着くと、真知がソファで宿題をしていた。普段なら「おかえりなさい」と飛びついてくるところだが、今日はどうしたことか、目を腫らしている。
「か、帰ってきてたのか?」
「お母さんは?居ないのか?」
「……出かけた。今日は遅くなるって」
そう言うと、真知は俯いた。震えている。悲しみか、怒りか、それとも単に悲しいのか。愛する娘が、この家からも気を使うようになっている。
その時、玄関の鍵が開く音がした。バタンと大きな音を立てて、真美が入ってくる。
「高い、今お腹空いてるんだけど。何か作ってよ。あー疲れた」
案の定、彼女はホテルで過ごすかのようにソファにうつ伏せになり、スマホを触り始めた。今日の食事当番が彼女であることなど、完全に頭の片隅にもないようだった。
「遅かったな。また料理教室か?」
「うん。覚えたての料理をね、今度みんなにふるまおうと思って」
「そうか。それで、とうちゃん、まなみちゃんの家に行ってみたいんだけど」
牛乳をコップに注ぎ、無理やり冷静を装った。ただ、なぜだか自分の声が少し震えていた。真美が「へ?」と神妙な顔をしてこちらを向く。
「だから、次の日曜日でいいからさ、お前の家に挨拶に行こうと思って。結婚の報告ってやつ?」
すると、先ほどまで真っ青だった顔が少し強張った。しかし、数秒後には「そうだね」と妙に素直に応じた。
「じゃあ、代わりに俺もそっちの家族に会いに行くよ。料理教室の先生とか、知り合いとかも呼んでさ、ちょっとした顔合わせでもしようよ」
「先生?呼ぶの?」
「ああ、お世話になってるんだろ?知り合いを紹介してよ。俺の嫁さんの、大切な人でしょ?」
俺の言葉に、真美の顔が恐怖で歪んだ。
「い、いいよ!急に言われても、その……先生も忙しいだろうし」
「そうか?じゃあ、その若いイケメンの先生のほうは?」
真美の動きが止まる。手に持っていたコップをテーブルに落としそうになった。俺は、探偵からもらった写真を数枚、一枚、また一枚とテーブルの上に広げた。真美の顔色が青ざめる。
「何よ、これ……誰から手に入れたのよ。ストーカー?」
「ああ、そうかもしれないな。お前の、その若い男ってのは、本当に料理教室の先生なのか?」
部屋にいた真知くんが声を出すと、真美の肩が大きく跳ねた。
「パパ、それ、私が言ったんだ。お母さんね、パパが居ない日によく車でお迎えに来てもらってたよ。あと帰ってくるのにお酒の匂いをさせてることも多かったし」
娘の言葉を聞いた瞬間、真美が顔を真っ赤にして逆上した。
「黙れ!お前が!お前が何も知らないくせに!」
初めて見せた真美の本性に、娘は泣き出してしまった。俺は咄嗟に娘を部屋から上げ、リビングの扉を閉めた。
「次の日曜だ。お前の両親も呼べ。話をつけるぞ。今、呼べ」
「お父さん、違うの、お父さんは関係ないじゃん!」
「関係なくないだろうが!何年、これで飯を食ってきたと思ってるんだ?」
俺の怒鳴り声に、真美は観念したのか、静かにスマホを触り始めた。
「……わかったよ。日曜日ね」
そう言ってスマホを置き、俺をジッと見つめた。その瞳は、もう怒りに向いているのではなく、いつの間にか抜け殻のようになっていた。
日曜日。気が付けば、リビングには妻の両親と、義理の母、そして真知が並んでいた。
「今日はどういう話だ?気になるじゃないか」
義父が苛立たしげに口を開く。隣に座る義母も心配そうな顔をしている。そして、テーブルの上には、例の写真が広げられていた。
「これは何だ?まさか、お前の浮気相手というわけではないよな?」
義父が写真を手に取り、声を震わせた。それを見た真美は、ついに耐えきれなくなったように机に突っ伏した。
「全部、私が悪いんです。この男にイカされたのも、全部私が……」
泣き崩れる真美を、義両親は信じられないものを見るような目で見ていた。しかし、状況を理解した瞬間、義父は立ち上がった。
「真美、こっちを向きなさい。この男のことを、どう思っているんだ」
「どう思ってるも何も……ただ、料理を教わってるだけで……それ以上のことは……一回、流れで体を許してしまったことがあるだけなんです」
「この泥棒猫が!」
義父に怒鳴られ、真美はびくっと体を縮めた。
自分の身に何が起きているか、理解するのに少し時間がかかった。そうか、俺はもう、この家でやっていくことは、できないのかもしれない。いや、もちろん、そうすることもできた。相手の男に慰謝料を請求し、真美と立て直すことだって。
しかし、その夜、真知がすっと立ち上がり、俺の隣に来て手を握った。
「ねえ、パパ。私と二人で暮らそうよ。私、パパと一緒にいたいな」
娘の言葉が、最後の一押しになった。もう、こんな生活に荷物をまとめる必要はない。俺はリビングを出て、自分の部屋のクローゼットから、スーツケースを引っ張り出してきた。
「高橋さん?どういうこと?」
「決まってんだろ。真知と二人で出ていくんだ。お前は、自分の好きな奴と勝手に暮らせばいい」
「ちょっと、正気なの!?」
「俺は正気だ」
そう言って、娘に目を向けると、娘は小さく頷いた。
翌日、俺と真知はスポーツバッグを一つ持って、家を出た。
それから一週間後、俺の元に一枚の封書が届いた。差出人を見て、一瞬手が止まる。妻の字だった。内容は、弁護士を立てての離婚の申し立てだった。シンプルな内容だった。そして、娘の親権について、高橋側にあることを認める、と書かれている。金輪際、口出しもしない、ということらしい。
そこには、一枚の同封しを入れておくと言う。凍りつく思いがした。心の準備が全くできていなかった。
妻からの手紙には、正直、驚いた。こうなる以上、娘を渡す気はない。裁判でも何でもしてやる、という気迫がその言葉の端々から伝わってきたからだ。
それから大ごとになり、調停に発展するかと思われた。真知も真知で、学校を休みがちになり、いつも塞ぎ込んでいた。家に帰ってくるたびに、何か言いたげに視線を送ってくる。しかし、次の家事をすることに忙しく、そのままにしていた。
「高橋さん、本当にいいんですか?向こうは娘さんを取り返すつもりでいるっぽいですよ?このままじゃ、泥沼の親権争いですよ」
当時、散々お世話になった元会社の後輩が、気を遣って声をかけてきた。
「ああ、わかってる。俺は絶対に真知は渡さない。あの男、許せない」
「真知ちゃんがつらい思いをするのは、目に見えてるのになあ。……すみません。高橋さんだからこそ、お義母さんの気持ちも分かる気がするんです」
「気にすんな。ところで、例の件は?」
「もう逃げ切れないですよ。奥さん、もう家に帰ってきてないです。男と会ってるかどうかは、現時点ではなんとも」
「あっそ。じゃあ、こっちもそうさせてもらうとするか」
数日後、俺の元に一本の電話が入った。弁護士からだった。
「高橋さん。大変なことになりました。奥さんと、お子さんが一緒にお出かけになったらしいんです。その相手の男と一緒に」
血の気が引くのを感じた。真知を、追いかけた。電話の先の弁護士は早口で続けた。
「お子さんも一緒です。家を出て、3時間が経過しています。警察に届を出ます?それとも、こちらの手配で…」
「お願いします。すぐ、警察に」
私は詳しい事情を話し、娘の捜索を依頼した。あの女、まさか本当にやるとは思わなかった。息子の真知を、あの男に会わせるなんて。今まで以上に、私は冷静になっていた。
翌日、事件は起きた。
「パパ、見て!あれ、お母さんじゃない?」
外で仕事を終え、帰路についていた時のことだ。真知が前方を指さした。見覚えのある車が、駅前のコインパーキングに止まっていた。真美だ。助手席には、男が乗っている。
「まさか…」
アクセルを強く踏むと、前方にビルの影が迫った。急ブレーキの音が響き、交差点の手前で車が止まった。次の瞬間、前方の男性が大きくよろめき、目の前で何かが落ちてきた。セルシオ、それは俺の車だった。そして、その奥で、赤い信号を無視した車が、交差点に突っ込もうとしている。
「しまっ…、うわああああ!」
ガシャン。耳を劈くような金属音。弾みで倒れた、という表現があるが、正にその光景が目の前で繰り広げられた。警笛、悲鳴、割れる窓。事故の瞬間に何が起こったのか、最初は分からなかった。だが、見慣れた車から、長い髪の女が千鳥足で出てきて、髪を振り乱しながら歩いてくるのを見て、我に返った。
「ちょっとあんた、あんた誰よ!あんたのせいで子供が!」
そう叫びながら、したたかにぶつかっていった女性の顔を見て、俺は青ざめた。その言葉の口調のことを息子を通じて知っていた。そして、後部座席を見た。あの女が、俺の娘を。いや、俺の娘を連れ去り、あの男と会っているに違いない。
どうやら、妻は事故を起こしたらしい。強い衝撃で相手の車のドアがへこみ、乗っていた女性が首を押さえてうずくまっている。後部座席のドアが開き、おそるおそる出てきたのは、やはり真知だった。涙で顔をくしゃくしゃに腫らし、立っているのがやっとの状態でふらふらと車道を歩き出した。そして、死んだような目で俺を見つめた。
「パ、パパ……」
娘が地面に膝から崩れ落ちた。その瞬間、頭に血が上るのが分かった。こうなることは分かっていたんだ。女捨てたら、どんだけマシか。男のクセにボンボン持ってやがる。そして息子の手を乱暴に払った。
「触るんじゃねえよ」
聞こえるか聞こえないかの声でそう言うと、娘の手を引いてその場をあとにした。はて、これが正しいのか?正しいに決まってる。この家の男は、この家の女は。こうしている間にも、自分を殺してる。自分の役目を果たすために、被害者ぶるってわけだ。
家に着くなり、俺はソファにドカッと座った。すると突然、リビングの扉が開き、袖を濡らした小デブの男がずかずかと入ってきて、俺の胸ぐらを掴んだ。
「おい、おいおい、テメェ、何してくれてんだよ。テメェの女がよぉ、車で追突して逃げたんだよ。ああ?テメェが後ろからぶつけたんだろうが!
追ってきた加害者の男に頭を掴まれ、冷たい床に押さえつけられながら、ふと、我に返った。事の重大さに、声を失った。
そして、男は真知に触ろうとした。
「触るんじゃねえぞ、この!」
男を引き剝がそうと、息子の体が大きく傾ぐ。
「離せっ!てめえ、ふざけんな!」
体を捻り、足を振り払おうとするも、若さゆえの馬鹿力に敵わない。男がすさまじい力でタックルし、二人はもつれ合いながら床に転がった。
「おいおい、ちょっと待て、パパ!こいつはちょっとおかしい!この狂人!」
「うるせえ!人の娘を事故に遭わせやがって!」
机の脚に激突した男が叫ぶ。その光景を、あたりでは近所の連中の姿もちらほら。警察が来る前に、どうにかしないと。どっと疲れが押し寄せ、脱力した。そんな時、男が叫んだ。
「これはスリだ、不良だ!こいつらを警察に突き出してやる!」
男は必死の形相で、弁護士を呼ぶと喚き散らした。警察官に、今の状況を説明している。醜態を晒す、というのは、まさにこのことだ。自分たちの不利な状況に、男は手のひらを返すように土下座した。被害者の男の態度に、俺は吐き気がしてきた。
「わかりましたよ、わかりました。俺が悪かった。落ち着いてください。警察を呼ばれないように。ええ、保険とかじゃなくて、本当にすみません。」
男は嫌な感じにペコペコと頭を下げた。そして、顔を上げるなり笑った。
「あー、よかった。じゃあ、これで話は終わりだ。奥さんも無事だし、これから警察に事故の相談をしに行きますわ。お気をつけて」
そう言って、男は速足で去って行った。加害者が事故処理で逃げた、そう確信した。
数時間後、リビングの時計が深夜十二時を回った頃、玄関から鍵が開く音がした。
「おい、ちょっとあんた、何考えてるのよ。何ですか、うちの旦那に手出してるの?」
義母が、今にも爆発寸前の形相で、真美に詰め寄っていた。
「そこで黙ってないで、あんたが何とか言いなさいよ!」
義母に責められたことで、真美はついに折れたのか、堰を切ったように泣き崩れた。
「だってだって、私、高橋さんに見捨てられるのが怖くて。この家に居場所が無くなるのが怖かったんです!でも、私、どうすればいいか分からなくて、どうせ高橋さんは私のことなんて、大事に思ってないんでしょ!」
首をひねるようにして、前々から俺に対する不満をまくし立てた。俺は切れた。
「だったら、何で、家を出て行ったんだ!てめえが、あの男と出て行ったからだろうが!お前、子供を置き去りにして、あの若い男と一緒になったんだろうが!」
「うるさい!何言ってんのよ!」
「お前なあ、何言ってるか分かってるのか?」
俺の血相に、真美が一歩後ずさった。俺は続けた。
「俺と真知を、こんな目に遭わせた張本人の分際で、とうとう被害者面かよ」
「被害者面?あんたに何が分かるのよ!」
「分かってるさ。お前がいつも文句ばかり言ってて、実は働いてる男に弱いタイプだってことくらいな!」
「よくも、よくもぬけぬけと!」
怒り狂った真美が、壁の装飾品を手当たり次第に投げ始めた。それを義母と義父が取り押さえ、俺は押さえる側に回った。家中の時計が、音を立てているのが聞こえる。
「もういい、出て行け。全部終わったよ」
ソファに深く座ると、娘の泣き声が聞こえた。
「パパ、パパ、嫌だよ、パパ」
腕の中で娘に泣かれながら、俺は娘の髪を撫でてやることしかできなかった。真知にとっては、何よりも母の姿は衝撃的だったに違いない。娘にこれ以上傷ついてほしくない。この家を出ていく決断をした。
黙って立ち上がり、荷物をまとめ終えると、一枚の紙切れを机の上に置いた。「離婚届」と、何も書かれていない欄。下の名前だけが、俺の名前であり、彼女の嫁入り前の姓だった。
「俺からは以上だ。好きなように生きてくれ」
もう二度と戻ってくることはないだろう。真知は大人しく従っていた。しかし、娘の方が、ぽつりと呟いた。
「お母さん、最近、毎日泣いてたで」
娘は何かを言いかけて、口を閉じた。それから、堰を切ったように娘は言った。
「私は、お母さんが、家に居なくなっちゃった理由、知らないよ。私、学校で聞いたんだ。お母さん、会社の人がどうとか」
その言葉で、全てを悟った。
「そうか。そうだったんだな。……分かったよ、パパは」
もう、この家に未練はない。自分の居場所はここではない。そう思い、膝に力を入れた。
「さあ、行こう。二人で、新しくやり直そう」
玄関を出た瞬間、今度は娘の手が俺の服の裾を掴み、その場にしゃがみ込んだ。
「パパ、ごめんね。私、パパの思い出のいっぱい詰まった家で、育ちたかった」
何も言えなくなった。知らない間に、娘は大人になっていた。どれだけの孤独を抱えて、この家を出て行ったのか。そう思うと、胸が張り裂ける思いだった。
「パパはな、真知さえ生きててくれたら何もいらない。それだけだ」
娘に手を引かれ、家を出た。
あれから数年が経った。真知は地元の大学に進学し、一人暮らしをしている。あの日のことは、あの男に会うことは二度とできないほど、あれから全く違う生活をしている。
月日が流れ、あの時の男から手紙を受け取った。見知った筆跡だった。そこには、あの事故のことを詫びる文章と、遠くの町で静かに暮らしていると書かれていた。最後に一枚の写真が同封されており、そこには若い頃の真美と、母が写る、あの家の玄関の写真だった。
一瞬、胸の奥が強く締め付けられたが、もうあの場所には二度と行けない。背を向け、娘が待つ家路を歩き出した。
