夫がSNSに私の写真を載せている。それだけのことが、こんなに面倒を呼ぶなんて思わなかった。きっかけは、あの女が私の夫に話しかけたことだった。
「なあ、木ノ上レイナって人、知り合い?」
帰宅するなり、優太が何の前置きもなくそう言った。私は一瞬固まってしまった。聞きたくない名前だった。レイナ。高校時代の親友だった女だ。いや、もう親友でも何でもない。あいつに彼氏を奪われて、絶縁した。
「…何で、その名前を」
「職場に派遣で来てるんだよ。俺の妻の知り合いだって言って、話しかけられて。松本さんって、レイナちゃんだよな?って」
私は頭の中が真っ白になる感覚を覚えた。優太の言葉は続く。
「家、どうして知ってるんだろうなって不思議に思ってさ。俺のSNS見たのかな」
私はSNSというものに疎い。自分ではやっていないし、興味もなかった。だから優太が何を投稿しているのか、まともに見たことがなかった。だが、レイナの話を聞いて、嫌な予感がした。
何でレイナが優太と私が夫婦だと知っているのか。あのレイナが。私と絶縁した、あのレイナが。
私はいても立ってもいられず、高校時代に仲の良かった友人に相談した。事情を話すと、友人は少し考え込んでからスマホを操作し、画面を見せてきた。
「多分、これじゃない?」
そこに映っていたのは、優太のSNSのアカウントだった。友人は、優太が投稿した写真を数枚めくって見せてくれた。そこには、私の顔がはっきり写った写真が何枚もあった。私とのツーショットもあれば、食事の写真もあった。これを見れば、私と優太がかなり親しい関係だと分かる。そして、それが妻だとも勘違いされかねない内容だった。
「ごめん、私もSNSに疎くて…まさか、こんなに公開してるなんて思わなかった」
「ううん、私も気づかなくてごめん。でも、多分レイナって子は、これを見て辿り着いたんだと思う。ゆうたんが投稿してるんだから」
友人は申し訳なさそうに言った。確かに、これなら説明がつく。私は謎が解けて少しほっとした反面、自分の知らないところで夫が私の写真を公開していたことに腹が立ってきた。
「危機感がなさすぎる」
私はその日、帰宅した優太に言った。
「SNSに載せた私の写真、全部消して」
優太は驚いた顔をした後、面倒くさそうに言った。
「は?何でだよ。今時SNSなんて当たり前だろ。気にしすぎだって」
「気にしすぎじゃない。あの写真、どうやって撮ったか分かってる?私、知らない間に撮られてたんだよ。寝てる時の顔とか、載せられてた。そんなの、普通じゃない」
「別に隠すようなことでもないし、別に良くない?」
「良くないから言ってるの!」
私は譲らなかった。優太も負けじと反論したが、結局私が食い下がると、不機嫌そうに「分かったよ」とだけ言って、渋々写真を消してくれた。これが私たち夫婦の、初めての喧嘩だった。
あの衝突以来、私たちの間にはぎこちない空気が流れるようになった。言い争うことはない。ただ、どこかよそよそしい。以前のような、何でもないことで笑い合える関係は、そこにはなかった。
そして、最近は優太の帰宅時間が遅くなった。出張も増えた。今まで月に数回あるかどうかだったのに、だ。
「最近、帰り遅いんだね」
ある日、私は思い切って聞いてみた。優太はスマホを見たまま、素っ気なく答える。
「仕事が立て込んでるんだよ」
「…そう。無理しないでね」
「うん」
会話はそれで終わりだった。昔の優太なら、何か聞かれれば、もっと気さくに話してくれた。でも今は、目も合わせてくれない。
あの時のことを、私は反芻する。レイナのことを、強く言いすぎたかもしれない。確かに、あの言い方はきつかった。でも、私の写真を勝手に公開されたことが、それほど怖かったのだ。私は、自分の知識のない分野のことを、ただ無防備に公共の場に晒されることに対する恐怖を、うまく言葉にできなかった。
数週間後、私は意を決して優太に謝ることにした。
「この前は、言いすぎた。ごめんね」
優太は一瞬こちらを見たが、すぐに視線を逸らして「…別に」とだけ言った。その冷たい反応に、私は完全に言葉を失ってしまった。確かに私が悪かったとはいえ、思っていた以上に突き放された気分だった。
私は、優うちの趣味仲間から聞いた話を思い出す。最近、優太が趣味の集まりに顔を出していないらしい。休日になると以前と変わらず出かけることが多いのに、だ。私はそれを聞いて、嫌な予感がした。
優太のSNSを、私は初めてまともに見た。そこには、私には全く見覚えのない写真が並んでいた。おしゃれなレストランの映える料理の写真。観光地の風景写真。そして、そこには決まって、女の影があった。私ではない、知らない女の。優太の隣には、きまって私ではない女が写っていた。
手が震えた。心臓がドキドキと音を立てる。脱力感と、絶望感に似た何かが全身を包んでいく。私は優太のアカウントから、同じ女のアカウントを特定した。プロフィールには「レイナ」の名前。彼女もまた、優太と同じ日付、同じ場所の写真を投稿していた。料理の写真が重なる。場所が重なる。これは、偶然で片付けられるはずがない。
私は、自分を落ち着かせようとした。頭の片隅では、何かの間違いだ、と思おうとしていた。でも、確信はあった。優太は、レイナと関係を持っている。
私は優太に、レイナを呼び出させて、三人で話し合いの場を設けることにした。優太は最初、嫌がったが、何事も話し合って決めよう、と私が食い下がると、しぶしぶ承諾した。
喫茶店の個室。ソファに座る私は、正面の優太を見る。隣に座るレイナは、私と目が合うと、小馬鹿にしたように笑った。
「あーあ、バレちゃったね、ユウタ」
レイナは、全く悪びれる様子がない。優太が無言で俯く。「ユウタ」呼びが、二人の関係を如実に物語っていた。
「レイナ、あんた…」
「何?松本さん。久しぶりだね、元気だった?」
飄々と言うレイナに、私は怒りで体が震えた。
「あんた…いつから、優太と」
「え?何のこと?」
「とぼけないで」
「とぼけてないよ。私、あなたの旦那さんと仲良くさせてもらってるだけだし?必要なのは、あなたが身を引くことだと思うけど」
「…何を言ってるの?」
「だって、二人は昔のことを知らないんだよ。ユウタは私のことを愛してくれてるし、私もユウタのことが好き。それに」
レイナは、私の指に光る結婚指輪を見て、嘲るように笑った。
「新居、いいね。高級マンションなんだって?あなたは賃貸で我慢させられてたのに、可哀想にね」
私は、ようやく少し落ち着きを取り戻していた。レイナは、優太を手に入れた勝ち誇った女の顔をしている。彼女は、自分がどれだけ愛されているかを、これ見よがしに話し始めた。
「私ね、優太に愛されてるんだよ。お前は男を知らないんだよって、いつも言われるの。ね、優太?」
優太は何も言わない。ただ、俯いたまま。レイナはそんな優太の腕に自分の腕を絡めて、私に見せつけるように言う。
「それにね、私、ちゃんと働いててよ。それなりに給料ももらってるし、最悪俺が養ってやるって言われた時は、本当にこの人に付いていこうって思えたなぁ。なあ、優太」
私の「最悪私が養えるから」という言葉は、確かに以前、優太に言ったことがある。それを、レイナは知っている。かつての私が、優太に向けていた愛情の言葉を、彼女は自分に向けられた言葉にすり替えて、自慢げに語る。
「ねえ、優太。ちゃんと話してよ。どうなの?私のこと、愛してる?」
レイナがそう迫ると、優太はビクッと身体を震わせた。それでも彼は顔を上げようとしない。
「…悪い、レイナ。今日は帰るわ」
「え、何で?まだ話は」
優太は何も言わずに立ち上がり、そのまま店の外へ出て行ってしまった。レイナは置いて行かれて、立ち尽くす。
「ちょっと、優太!待ってよ!」
そう言って、私を睨みつける。
「邪魔が入ったから、今日はこれで終わりにしてあげる。次に会う時は、ちゃんと離婚届持ってきてよね」
そう言い残して、レイナも店を出て行った。一人残された私は、しばらくテーブルに突っ伏して動けなかった。
家に帰ると、優太がリビングにいた。ソファに深く座り、私を見ている。
「…ごめん」
私が先に口を開くと、優太はゆっくりと話し始めた。彼は、私とすれ違ってから寂しさを感じていた。そんな時、スナックでレイナと偶然再会した。昔、俺の彼女だった女だ。彼女の方から声をかけてきて、飲みに行くうちに、つい関係を持ってしまった。
「別に、遊びのつもりだったんだ。最初は。でも、手を出してから、どうでもよくなった部分もあって…」
優太は何かに憑かれたような目をしていた。この感情は、私の知っている優太ではない。私は、こういった浮気の経験は初めてではあったが、意外と冷静に話を聞いている自分がいた。
「…私、てっきりあんたがレイナに入れあげてるもんだとばかり思ってた」
「だから、違うって言ってるだろ。ちょっと一緒にいただけだ」
「一緒にいただけ?あの写真は何?観光地に、ランチ。SNSで堂々と公開して。私の存在を煽ってるのかと思ったぐらいよ」
「…悪い。バレない方が悪いんだよ」
私は、はっと何かが切れるのを感じた。
「…バレなければ良かったって、マジで言ってるの?」
「あー、もう、イライラするな。お前がSNSなんてちゃんと見るから悪いんだろ」
「あんたと最低だよ」
私はそう吐き出すと、優太は舌打ちをしてリビングを出て行った。バタンと乱暴にドアが閉められる。
あの光景は、何がどう間違えても、私を選ばなかった男の姿だった。私は、彼が私に向けていたものではなく、するりと逃げ出した男に対して、抱いていた「理想の夫」の姿をようやく手放すことができたのかもしれない。
翌日、私はレイナに会った。彼女は相変わらず、私を嘲笑うかのような顔をしていた。
「隠す必要もないから言うけど、昨日のことで、あの人の態度がはっきり分かったよ。あなたは、ユウタを幸せにできない」
「…何を言ってるの」
「だって、あなた、一番大事な時に冷静じゃないもん。ねえ、彼は、今の仕事を辞めるって言ってるんだよ」
「は?」
「ユウタはね、今の仕事が嫌なんだって。重要な取引のプレッシャーに押しつぶされそうだって、私に相談してくれたんだ。そしたら、やっぱり彼は、俺を支えてくれる女が欲しいって言うんだよ。俺の仕事の愚痴を聞いてくれるだけの女じゃなくてさ。あなたは、聞いてあげられてた?」
私は、何も言い返せなかった。
「彼はね、寂しかったんだよ。あなたが自分をもっと信じてくれていたら、外で何とかしてもらおうなんて思わなかったんだ」
まさか、という気持ちだった。私が優太の仕事の愚痴を聞かなかったなんてことはない。だが、レイナの指摘は、核心を突いている部分もあった。私は確かに、優太に仕事のことをあまり話させるタイプではなかったかもしれない。夫を信頼しているからこそ、その心の内を見ようとしなかったのかもしれない。
「…出て行って。そうじゃなければ、私がいますぐ警察を呼ぶ」
「呼べるもんなら呼んでみなよ。こっちは何も悪いことしてないし。ところで、離婚の用意はできてるの?」
「…するわよ、相手のことは何も守らないけどね」
私はそこで、はっと気が付いた。これは、私と優太の間の問題であるにもかかわらず、彼女はまるで自分の方が優太のことを分かっているかのように話す。私は、この女に負けたくない、という気持ちよりも、なぜ私はこの女と夫を共有するような形で怒っているのか、妙に冷静になっている自分がいた。
数日後、優太から「話がある」と連絡があった。実家に帰って、よく考えた、と彼は言った。
「間違ってた。ごめん。レイナとは、別れることにした。もう会わない。だから、やり直してほしい」
彼の顔は、嘘を言っているようには見えなかった。だが、私はあの時のことを忘れられなかった。彼は確かに、レイナとの会話で、私の知らない優太でいた。あの優太の笑顔を、私は知らない。
「…無理だよ」
「どうして」
「信じることはできないよ。浮気をした人が、うまくいかなくなったから帰ってくる。私は、そういう都合のいい都合のいい女じゃない」
そう言った瞬間、優太の顔が歪んだ。
「お前だって、俺を幸せにできなかっただろ!」
その言葉を聞いた時、私は不思議と涙は出なかった。むしろ、長くのしかかっていた何かが、すっと消えていくような気がした。
「そうかもね。でも、あなたの幸せを、誰かと比べて決められる理由はない。私は私の幸せを、これから自分で作っていくの」
私はそう言って、家を出た。まだ書類を出したわけではないが、もう後戻りはできないだろう。
離婚届を提出した後、私が住んでいた家はそのまま売りに出された。一軒家ならともかく、高級タワーマンションの一室では、ただの負の遺産である。私は引っ越し先の賃貸マンションに、数少ない私物と一緒に引っ越しをした。
そこで私は、今だからこそ思う。離婚して、むしろよかったのだと。私はあの家で、何もかも失ったわけではない。自分を取り戻すための時間を手に入れたのだ。
レイナは、あの後優太に振られたらしい。しかし、しばらくして、新しい男を見つけて、また優太のような男に引っかかっているかもしれないし、もしかしたら別のうまい話を見つけているかもしれない。
だけど、それはもう、私には関係ない。
優太も、レイナも、もう私の人生の登場人物ではない。あの時の私は、恐ろしくて不安で、それでも夫だけは信じたかった。だから、あんなにももがいた。
最後に優太から驚くことを言われた。
「レイナとは、ずっと前から付き合ってるていうことになってるんだ。お前と付き合っている時から、ちょっと前ぐらいから。お前の前で、そういう話は聞いてなかったか?」
私は、その言葉を聞いて、ぽかんとした。
「は?…何を言ってるの?」
「いや、だから」
「優太はさ、今も私にあの女との付き合いを、無理やり認めさせようとしているの?」
私は、そこでようやく悟った。この人は、まだ何も理解していない。自分が何をしてしまったのか、何を失ったのか、ずっと分かっていない。私は、彼に何も言わずに、その場を離れた。
もう、いい。私はあの人たちのために、ファイルを閉じることにした。
そう、この当時は、本当に辛くて辛くて仕方がなかったけど、時間が解決してくれることもある。私は今、ここで確かに幸せになった。
元夫は今、どうしているだろうか。彼はあの時、本気で別れを選んだわけではないかもしれない。しかし、私は離婚してよかったとしみじみ感じるとともに、もう二度と彼らのことを思い出して、心を痛めることはないのだと思うと、ようやく肩の荷が降りた気がした。
さあ、明日からは、私の人生だ。
