義姉が私の存在を邪魔に思っているなんて、結婚するまでまったく気づかなかった。私の名前は三島かず、三十歳。同い年の夫・英太と結婚して一年が経つ。出会いは私の唯一の趣味である海外旅行。同じゲストハウスに泊まり合わせたのがきっかけだった。旅先での出来事や出会った人々の話で盛り上がり、同い年だとわかって意気投合した。
「よくあるセリフで恥ずかしいけど、こんなに気が合う人になかなか出会えるものじゃないと思う。よかったら付き合ってくれないか」
そう告げてくれたのは英太の方だった。日本に帰国してからは遠距離になったものの、交際は順調で、出会って一年後には結婚することになった。問題は結婚後の住まいだったが、私の仕事は在宅が基本で、パソコンとネット環境さえあればどこに住んでも問題なかった。むしろ長期の海外旅行先で仕事をするバケーションスタイルを選ぶこともあるほどだ。だから英太の地元である関西に移り住むことに決めた。
実家暮らしが長く、一人暮らしの経験がなかった私を、友人たちは心配した。知り合いもいない土地でやっていけるのかと。しかし、交際中に何度か会った英太の両親は、親しみやすくて適度な距離感をわきまえた、とてもいい人たちだった。だから私自身は、どうにかなるだろうと思っていた。
実際、結婚生活は楽しいことの連続だった。仕事で忙しそうにしていると、英太が「今日は早く帰れそうだから、夕食は俺が作るよ」とさりげなく食事当番を変わってくれたり、週末には気分転換に小旅行へ連れ出してくれたりする。徒歩数分の距離に住む義父母も、「慣れない土地で不便はないか」と何かと気にかけてくれた。英太と結婚してよかった。心からそう思える毎日だった。
だが、そんな日々にたった一つ、頭の痛い問題があった。英太より三歳上の義姉、満奈の存在だ。
義姉は独身で、義実家で暮らしている。結婚前に何度か顔を合わせた時は、いたってクールな反応だった。年齢は近いけど性格も趣味も違うから、俺自身もあんまり接点がないんだよね。英太がそう言っていたので、私もあまり気にしていなかった。ところが、結婚してしばらくすると、義姉が何かにつけて私にマウンティングしてくるようになったのだ。
義姉の自慢は高学歴。曰く、義姉は東大卒で、それ以外の大学は「大学という名前に値しない」と思っているらしい。英太は首都圏の国立大学を卒業しているが、それだって「国立という点だけは評価できるわよね」という言い草だ。私も大学は出ている。だが、義姉に大学名を聞かれて答えたところ、ピンと来なかったようで「何、そんな大学知らないわ。ああ、もしかして親戚のフランク大学とか言うの?」と鼻で笑われた。どうやら義姉の脳内では、聞いたことのない大学イコール、私が義姉にコンプレックスを抱いて適当にごまかした大学と認定されたらしい。
それ以来、義姉は何かにつけて「これだから、考察は東大レベルの知性に釣り合わない相手と話すと疲れるわ」といった嫌味を、ネチネチとしつこく言ってくるようになった。しかも嫌味を言うのは、決まって私と二人きりの時だけ。英太はもちろん、義父母や親戚の前でそんなことを口にしたことは一度もない。
義姉の口癖は「これからの時代は学歴がものを言うのよ。もちろん、このグローバル化社会で英語が話せないなんて論外ね」というものだった。いつもドヤ顔でそんなことを言われるので、内心うんざりしていた。しかし、経験則から言って、こういう人にいちいち反論しても話は通じないし、余計にややこしくなるだけだ。だから私は毎回「はいはい」と適当に相槌を打ってやり過ごしていた。
ところが、そんな私の態度が気に入らなかったのか、義姉はエスカレートしていった。週末どころか平日の仕事帰りにも、暇さえあれば私たちの家に押しかけてくるようになったのだ。こちらの都合などお構いなしだ。仕事中だからとやんわり断っても、義姉は聞く耳を持たない。
「何が仕事よ。パソコンでゲームしているだけでしょう。高卒で仕事がないんでしょう? だったら、うちの近所のスーパーの清掃員でも紹介してあげようか?」
そうからかうように言ってくる。結局のところ、「この点、私は東大卒で英語もペラペラ。本来ならこんなところでくすぶってる場合じゃないんだけど、長女だし親の面倒を見ないといけないしね」というお決まりの文句を吐いて帰っていくのが定番だった。
義姉のマウンティングにはすっかり慣れて、スルーするのも上手くなった。だが、仕事が忙しい時に長々と義姉に居座られると、さすがに迷惑だった。突然の訪問でスケジュールが狂い、徹夜が二日続いたこともある。堪りかねた私は、意を決して英太に相談した。
「義姉がよく家に来るんだけど、正直ちょっと困ってるの。別に何かされるわけじゃないんだけど、仕事が忙しい時に長く居座られることがあって」
マウンティング行為についてはあえて伏せて、突然の訪問と長居についてだけ相談した。すると英太は何か思うところがあったらしく、義実家に行って、義父母の前で義姉に「かずに迷惑をかけるようなことはするな」と言ってくれたらしい。後日、義母からも「娘が迷惑をかけてごめんなさい」と電話があった。
だが、肝心の義姉はどこ吹く風。突然の訪問と、こちらの都合を考えない長時間の居座りは、まったく止む気配がなかった。むしろ、ますますひどくなっているのではないかと思うほどだ。
「ちょっと、私を抜きで旅行に行くつもりなの?」
ある日、義姉が私たちの旅行の計画を知って、不機嫌そうにそう言ってきた。義父の誕生日に、ゆっくり温泉でもプレゼントしようと企てていたのだ。私たち家族だけでのんびり過ごしたいというのに、義姉はそれを面白く思わないらしい。
「せっかくのお誕生日なんだから、私も一緒に行ってあげてもいいわよ」
義姉は勝手にその気だ。しかし、私は断固として譲らなかった。
「ごめんなさい。今回は二人だけでゆっくりしたいんです。父さんの喜ぶ顔を見たいので」
そう言い返すと、義姉は驚いた顔をした。私が反論したことがなかったからだろう。だが、義姉はすぐに鼻で笑った。
「あら、そう。まあいいわ。どうせあんたの考えてることなんて、お察しよ。父さんを取り込んで何か企んでるんでしょ。よく考えておきなさいよ」
義姉はそう言い捨てて、帰って行った。その背中は、いつものマウンティングとは少し違う、何か含みのあるものに思えた。
その夜、私は英太に旅行の計画を話した。
「ねえ、父さんの誕生日旅行なんだけど、行き先はどこがいいと思う?」
「母さんの希望はあるのか?」
「うーん、前に露天風呂付きの温泉がいいって言ってた気がするんだけど」
「じゃあ、そこにしようか。最近仕事も忙しかったし、心からくつろげるところがいいな」
「そうだね。私も二人でゆっくりしたい。ありがとう、英太」
「何言ってるんだ。こちらこそ、いつもありがとう」
こんなやり取りができるだけでも、私は幸せだった。義姉のことさえ忘れられれば、英太との生活は本当に楽しい。最近では嫌なことがあっても、英太と過ごす時間で癒されることが多かった。仕事だって、在宅だからこそ自由が効く。義実家から近いこと以外は、何も不満はなかった。
そんなある日のことだった。外は快晴。小鳥のさえずりが聞こえてきそうな気持ちのいい朝だった。私は愛用のマグカップでコーヒーを淹れ、窓辺のソファで朝のひとときを楽しんでいた。休日のゆったりとした時間が流れる中、突然のチャイムの音が響いた。
「はーい、どちら様ですか?」
インターホン越しに尋ねると、意外な人物が映っていた。
「あら、起きてたの。おはよう」
義姉だった。朝から何の用だろう。嫌な予感がしつつも、玄関のドアを開ける。
「おはようございます。どうかなさいましたか?」
「何よ、その態度。お茶くらい飲ませてくれてもいいでしょう」
そう言うなり、義姉はずかずかと家に上がり込んでしまった。勝手に上がり込まれては困る。だが、すでに手遅れだった。私が止める間もなく、義姉はリビングのソファに座って足を組んでいる。
「で、何か用ですか?」
「何よ、他人行儀ね。ちょっと顔を見に来てあげたのよ。せっかく週末だっていうのに、夫はまだ寝ているの?」
「英太なら、今買い物に出ていますよ。すぐに戻ると思いますが」
「あら、そう。じゃあ、それまでお話ししましょうよ」
義姉はニヤリと笑った。嫌な予感がした。また始まる。私は覚悟を決めて、向かいのソファに座った。
「そういえば、かずさんは大学の時、何を専攻されてたのかしら? 何せ、あんたの大学なんて私、聞いたことないから。どんなレベルの大学なのかしらねえ」
またこれだ。義姉の決まり文句。私は内心ため息をつきながら、適当に受け流すことにした。
「別に、大した大学じゃないですよ。ただの田舎の大学ですから」
「そうなの? でも、ご実家はお嬢様育ちのようですし、きっとそれ相応のお育ちなんでしょうね」
義姉の言葉には、嫌味がたっぷり込められている。しかし、これがいつものパターンだ。何を言われても、流すに限る。
「それで、今日はどうしてこちらへ?」
「何よ、用がなきゃ来てはいけないの? 私、この家の隣の市に住んでいるんだから、ちょっと散歩がてら来ただけよ」
「ああ、そうなんですか」
そう言うと、義姉は突然、話を変えてきた。
「そういえば、この前の話だけど、私があなたの大学の名前を覚えてあげなくてごめんなさいね。でも、本当にどこを出たのかしら。確か、あれは確か……えーっと、何だっけ?」
「……もう忘れましたけどね」
「あら、覚えていないの? 自分の母校くらい、きちんと覚えていないと恥ずかしいわよ。まあ、大した大学じゃなきゃ、忘れるのも無理もないけどね」
義姉はゲラゲラと下品に笑った。ここまで来ると、むしろ清々しい。私は自分に言い聞かせる。この人は昔からこうなんだ。私と同年代で、何かと比較してしまうんだ。気にしたら負け。そう思ってやり過ごすのが、もう私の身に付いている癖になっていた。
「そうですね。大した大学じゃないですから」
「まあ、そういうことにしておいてあげるわ。それより、今日は何の用って聞いたの、私から聞こうかしら」
「え? もう十分用は済んだわ。あっ、そうだ。そう言えばさっき言ったでしょう? 義両親からあなたに伝言があるって。最近、この家での生活はどうかしらって」
「特にお変わりなくやってますよ。ご心配ありがとうございます」
「安心したわ。何せ、どこの馬の骨ともわからない人が嫁いできたと思うと、心配で心配で」
義姉は気味が悪いくらい、にこやかに笑った。もう我慢の限界だった。私は立ち上がり、キッチンへ向かって、コーヒーのお代わりを淹れ始めた。
「あの、何か飲みますか?」
「ええ、いただくわ。あなたの淹れてくれるコーヒーなら毒は入っていないでしょうから」
義姉は失礼なことを言いながら、ソファに深く座り直した。この人は、どうしてここまで人を不愉快にできるんだろう。私は心の中で何度もつぶやいた。だが、幸いなことに、その時玄関の鍵が開く音がした。
「ただいまー。お客さんか?」
ちょうど英太が帰ってきたのだ。英太はリビングに義姉の姿を見ると、少し驚いた顔をした。
「どうしたんだよ、姉ちゃん。また遊びに来たのか?」
「何よ、悪い? 私はこれでも、折に触れて実家の様子を見に来てるのよ。お前一人だけに任せておけないからね」
「かずも迷惑がるだろ。たまに会うくらいにしとけよ」
「あら、私は真面目にやってるだけよ。それに、迷惑だなんて言ってないですよね、かずさん?」
急に話を振られて、私は驚いてしまった。
「え? あ、はい…」
「ほらね。じゃあ、私はこれで失礼するわ。また何かあったら、いつでも言ってちょうだいね」
義姉は、何が面白いのか、ご機嫌で帰って行った。玄関の扉が閉まると、英太が困ったような顔をして私を見た。
「悪いな、あれで悪気はないんだ。昔から、ああいう所があって」
「ううん、別に気にしてないよ」
私は笑顔で答えた。本当は腹立たしかったけれど、英太に心配をかけたくなかった。それに、こうして心配してくれる英太がいるから、乗り越えられるのだ。これからも、義姉とはうまく付き合っていくしかない。そう割り切るようにした。だが、この選択が、思いもよらない運命の分岐点になろうとは、この時の私はまだ知る由もなかった。
あれから一週間ほどが過ぎた頃、私は義母から電話をもらった。
「もしもし、かずさん? ちょっと聞いてちょうだい。息子がね、かずさんのことを陰で何て言ってるか知ってる?」
義母の声は、普段と違って怒りに満ちていた。
「え? どうしたんですか?」
「あのバカ息子が知り合いの前で、『かずは高卒だから、学歴で言うとまともに話すこともできない』なんて言いふらしているらしいのよ。私、その話を聞いて腹が立って! で、まさかと思って旦那に調べてもらったら、どうやら事実のようなの。もう、本当に申し訳ないわ」
義母は怒りで震えているようだった。私が何も言えないでいると、義母はさらに続けた。
「ねえ、かずさん。ちょっと、これを聞いてちょうだい。
義母の話は、想像をはるかに超えるものだった。義姉は、私の大学名がどうしても聞き出せないことに腹を立て、独自に調べ始めたらしい。そして、ある結論に達したというのだ。
「あの娘ね、あなたの出身大学を『存在しない大学』だって言いふらしているだけじゃなくて、『かずは実は高校も出ていないんじゃないか』って言いふらしているのよ。あのバカ娘、今度こそ、かずさんに鉄槌を下してやろうと思って、あなたの実家に知らない人を送り込んだりしていたの!」
「ええっ!?」
「でもね、かずさんに限ってそんなはずはないって分かってますからね。ですが、義姉の言い分も、あながち間違っていないんです。なぜなら、あなたには黙っていましたが、かずさんのお母様から、あなたの戸籍謄本を疑っているって連絡があったんです。いくら何でも、実の娘の学歴を疑う親がいますか?これを知って、さすがの私も怒り心頭で、いても立ってもいられなくなって、電話したんですよ」
義母は怒りで息も絶え絶えだ。話はどんどん複雑になってきた。
「ちょっと待ってください。もしかして、私の実家に、義姉が変な人を送り込んだりしたんですか?」
「だから、そう言ってるでしょ! もう、あのバカ娘は!」
「それで、大学の件は、結局どうなったんですか?」
「それが……一緒に調べようと思って、あなたに電話したんです。もし、あなたの出身大学が実在しないものだったり、まかり間違っても、かずさんが嘘をついていたってことがあれば、この家にいられなくなります。ですが、私はあなたの味方です。だから、きちんと話してほしいんです」
私は、ようやく事の重大さに気づいた。義姉は、私をそれほどまでに目の敵にしていたのだ。しかし、義母が私のことを案じてくれているのも、痛いほど伝わってきた。
「分かりました。お義母様、正直に話します。私、大学は出ています。決してそんなに名の知れた大学ではありませんけど、ちゃんとした大学です。後で、卒業証明書とか、成績証明書をお見せします。それから、実家の両親にも、すべて話します。全部、きちんとします」
電話の向こうで、義母が安堵のため息をつくのが聞こえた。
「そう言ってくれて、安心したわ。ごめんね、かずさん。疑ったわけじゃないんだけど、あまりにも腹立たしくて。もう大丈夫。私からも、しっかり言っておくから。何かあったら、いつでも頼ってちょうだい」
「はい。ありがとうございます」
電話を切って、私は深く息を吐いた。恐らく、義姉は私の大学名を覚えていなかった。そして、私がまともに対応しないもんだから、勝手に偽物認定して、探偵でも使って調べていたのだろう。それで、たどり着いたのが私の実家。本気で私を嵌めようとしていることが、よほど腹立たしかったらしい。
その夜、私は英太に、すべてを話した。
「つまり、姉ちゃんは、お前を無教養で有名でない大学のくせに、学歴があるふりをしている嘘つきだってことにしたかったわけだ」
「そうみたい。私が何を言っても、あっちはもう聞く耳持たないし。もう、勝手にさせておけばいいと思うんだけど」
「いや、それは許せないな。俺が何とか言ってくる」
「やめて! 余計にややこしくなるから。私からも、ちゃんと義姉に会って、誤解を解きたいんだ」
「そんなこと許されると思ってるの? 会えば、余計な事を言われるのがオチだよ。それに、向こうはもう、お前と普通に話す気なんてないんだ。だからと言って、このまま引き下がるのも腹が立つ」
英太は悔しそうに言った。本当に、いつも英太は私の味方だ。だが、今回は私が何とかすべきだ。
「もう、寝よう。明日、私から義実家に、きちんと両親と姉に会いに行くよ。すべて、ハッキリさせてくる」
「……分かった。でも、何かあったら、必ず連絡しろよ」
「うん」
翌朝、私は決意を固めて義実家を訪れた。しかし、私の顔を見るなり、義姉は部屋に駆け込もうとした。私はそれを、笑顔で許さなかった。
「お義姉さん、ちょっとお話がしたいんですけど」
「私には、あなたと話すことなんて何もないわ」
ぴしゃりと言い放って、義姉は家の中へ入ってしまおうとする。
「ひとつだけ、聞いてください」
私がそう言うと、義姉は立ち止まった。だが、後ろの声は鬼気迫るものだった。
「姉さん、お前、いつまで私の目を盗んで、かずにちょっかいを出してるんだ」
その声に、私は振り返った。そこには、鬼の形相をした英太が立っていた。
「ちょっと、英太。来るなら来るって言ってくれてたらいいのに」
「お前、黙っていられるか。姉さん、いい加減にしろ。かずが何かしたって言うのか? 大学の話だって、かずが言いふらしたんじゃない。お前が一方的にマウント取ってきて、それを流してただけだ。挙げ句の果てには、かずの実家に探偵まで送り込んだんだろ? 完全に犯罪行為だぞ、それ」
ズカズカと義姉に詰め寄る英太。義姉は、一歩引いたように見えたが、持ち前の強がりで言い返す。
「男のことで頭が一杯の奴には、私の気持ちなんて分からないでしょうね。かずが自分のことをどれだけ深く考えているか、分かってないのね」
「かずの心を乱す奴は、俺が許さない。何なら、こっちの生活にも手を出してくるとか? 準備は出来てるんだ。やるなら、とことんやろう」
そう言って、英太はスマホを取り出した。その瞬間、義姉の顔色が変わる。
「あ、あんた、何を持ってるのよ」
「これは、今までお前がかずに送ってきた、嫌がらせのメールの画像だ。全部、保存してある。いくぞ、これから」
英太の言葉に、義姉は顔を真っ青にして固まってしまった。それもそうだろう。普段は温厚な人間が、切れると怖いことを知らないのだ。
「や、やめなさいよ、何を言い出すのよ…」
「もう一度だけ言う。二度とかずに近づくな。それと、かずの悪口を言うのも、笑いものにするのも、傷つけるのも、全部やめろ。これは、絶対だ。いいな?」
英太の目は笑っていなかった。義姉は、何も言い返せずに、ただがっくりと肩を落とした。
「…分かったわよ。もう、何もしないわ。ごめんなさい、かずさん」
そう言って、義姉は音を立てて階段を上って行った。力が抜ける思いだった。すると、二人の会話を聞いていたのか、義父と義母がリビングから出てきた。
「すまなかったな、かずさん。我が子の不始末で」
「いえ…私こそ、説明不足で、すみませんでした」
「かずさんは、悪くない。あの娘は、昔からこうで…。学歴がすべてだと思って、何かとマウントを取らないと気が済まない質でね。嫁いでくるのも大変だろうが、これからは私たちがちゃんと見ているから、安心しなさい」
義父の言葉に、胸が一杯になった。
「本当に…大丈夫ですか?」
「ええ。今度、息子から、ゆっくり聞きましたよ。みっともない話で、恥ずかしい限りだ」
そう言って、義父は深く頭を下げた。その後、義母も続けて頭を下げた。
「かずさん、辛い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい。たっぷりとお説教しておくから、どうか、あの娘を許してやってください」
義家族の、思わぬ非情な言葉に、私は胸が熱くなった。
「お義父さん、お義母さん。そんな、頭を上げてください。私の方こそ、放っておいてしまって、ごめんなさい。少しの間、距離を置いていただくだけで、本当に大丈夫なので…」
「ありがとう。かずさんの優しさが、身に染みるよ」
私は、こうして義姉との一件が無事に解決したことで、心からホッとしていた。それからは、学歴の話でマウンティングされたり、突然訪問されることもなくなった。
ただ、義姉は私の前には出てこなくなったが、どこかで何かがあって、私の悪口を言っていないとも限らない。だが、もう怖くはない。なぜなら、私は自分からは絶対に動かないという選択をした。逃げ続ければ、向こうが勝手に何かしてくるだろう。それで、ああでもないこうでもないと大きな波紋が起きるまでもない。静かで平穏な暮らしこそが、私が望むことだ。
そして、義父の誕生日旅行の計画は、無事に、私たち家族だけで行くことができることになった。車で一時間ほどの、静かで落ち着いた温泉地だ。
「かず、本当に、ここの温泉で良かったのか」
「ええ、義父さんが、にごり湯が好きって言ってたので」
「ああ、あれか。あれは口がさびしいだけで、別に好きってわけじゃないんだがな」
「もう、義父さん。せっかくかずさんが用意してくれたんだから、素直に喜びなさいよ」
義母に微笑まれ、義父は照れくさそうに頭を掻く。何も知らないとは思うが、こうして穏やかな時間が流れるのだ。
その日の夜、旅館の大浴場から上がり、貸し切り露天風呂で夜空を眺めていた。
「英太、今日はありがとう。言ってくれたおかげで、助かったよ」
「何言ってるんだ。元はと言えば、俺の家族が悪いんだからな。かずには、ずっと辛い思いをさせてしまった。これからは、何も心配しなくていいからな」
「うん。でも、義姉さんも、多分、分かってくれたんじゃないかな。これ以上は何か言っても、無駄だって」
「分かってないよ。アイツは、まだ何か考えてる。しばらくは、油断できないな」
英太の目は、少しだけ曇っていた。だが、私はそれ以上何も言わなかった。
「さ、風邪をひくよ。部屋に戻ろう」
「本当だな。ゆっくりしよう」
部屋に戻ると、義父母が、テレビのクイズ番組を見ながら楽しそうに笑っていた。こうして、家族の時間が穏やかに流れていく。
私は、今日この日を忘れまいと思った。辛いことも、悔しいことも、悲しいことも、全部、この幸せのためだったと思えるように。
私が目指すのは、私なりの幸せのカタチ。学歴や肩書きに振り回されずに、英太と愛する家族と、静かに穏やかに暮らしていくことが、私の人生の目標になった。あの時、義姉にマウンティングされて、辛い思いをしたからこそ、今の平穏がある。張り詰めていた何かが、ふっとほどけていくのを感じた。
気づけば、私はいつの間にか、優しい気持ちで義姉のことを考えていた。おそらく義姉は、学歴という一つの価値観に、誰よりも囚われていたのだろう。それは、それで、哀れなことかもしれない。私は私の道を行こう。そう心に決めた秋の夜だった。
翌朝、朝食の準備をしていると、義母が私の隣に来て、そっと小声で囁いた。
「かずさん、昨日はちゃんと話せたみたいね」
「あ、話してもらっちゃいました? お義母さん」
「ええ、まあ。英太が、ベランダで話してたから。あの子も、かずさんを思ってのことよ」
「ありがたいです。私は、お義母さんのような家族が持てて、本当に幸せです」
私がそう言うと、義母は嬉しそうに微笑み、そっと私の手を握った。
「こちらこそ、ありがとう。さ、朝ごはんにしましょう。冷めないうちにね」
今日も、穏やかな一日が始まる。背伸びをしていた日々は、もう終わりにしよう。ありのままの私で、大好きな人たちと、生きていきたい。心からそう思えた朝だった。
