夕食の味噌汁をよそっていた私の手が、ぴたりと止まった。「ばあばが死んだら、いくらもらえるの?」小学三年生の孫が、悪びれる様子もなく私を見上げていた。三年前に一人息子を亡くし、嫁と孫を引き取ってから、家賃も食費も習い事も、すべて私が出してきた。それなのに孫の口から出たのは、嫁が吹き込んだ言葉だった。「ママが言ってたよ。ばあばが死んだら、この家もお金も僕たちのものになるって」その夜、嫁の部屋から…

夕食の味噌汁をよそっていた私の手が、ぴたりと止まった。「ばあばが死んだら、いくらもらえるの?」小学三年生の孫が、悪びれる様子もなく私を見上げていた。三年前に一人息子を亡くし、嫁と孫を引き取ってから、家賃も食費も習い事も、すべて私が出してきた。それなのに孫の口から出たのは、嫁が吹き込んだ言葉だった。「ママが言ってたよ。ばあばが死んだら、この家もお金も僕たちのものになるって」その夜、嫁の部屋から...

ばあばが死んだら、いくらもらえるの? 夕食の味噌汁をよそっていた私の手が、ぴたりと止まった。小学三年生の孫・勇気が、悪びれる様子もなく私を見上げている。

「どうしてそんなことを聞くの?」

勇気は不思議そうに首をかしげた。

「だってママが言ってたよ。ばあばが死んだら、この家もお金も僕たちのものになるって」

手に持っていたお玉が、鍋の中へ落ちた。パシャンという音に驚いて、勇気が肩を振るわせる。

「それにね、もう少しの辛抱だって。ばあばに優しくしてたら、後でいっぱいお金が入るんだよって」

私は何も言えなかった。胸の奥を、冷たいものがゆっくりと流れていった。

私は六十九歳のかず子。三年前に一人息子を病気でなくした。残された嫁と、当時六歳だった勇気を自宅へ迎えたのは私だった。息子が守りたかった二人を、今度は私が守らなければならない。そう思っていた。

三人で暮らし始めてから、家賃も光熱費も食費も、ほとんど私が負担した。嫁が仕事へ行っている間は勇気の世話をし、帰宅する頃には温かい食事を用意した。洋服や習い事の費用も私が出した。嫁の給料では足りないと言われれば、生活費まで渡した。

「お母さんにはいつも助けてもらってばかりですね」

嫁は何度も頭を下げた。私はその度に答えた。

「家族なんだから、気にしなくていいのよ」

だが嫁は、いつからか働く時間を減らし、週に三日しか出勤しなくなった。

「勇気との時間を大切にしたいんです」

そう言っていたが、勇気が学校へ行っている昼間も、嫁は美容院や友人との食事へ出かけていた。家には宅配便が次々と届き、玄関には新しい車が置かれた。

少しくらいの贅沢も必要なのだろう。私はそうやって自分を納得させていた。

だが勇気の一言が、その三年間を根元からひっくり返した。

「ママには、この話をしたって言わないでね」

私はどうにか笑顔を作った。勇気に罪はない。大人の言葉を、意味も分からず口にしただけだ。

その夜、眠れずに台所へ水を飲みに行った。勇気の部屋の前を通った時、中から嫁の声が聞こえた。

「どうしてばあばにあんなことを聞いたの?」

「だってママが言ってたから。家の中で話したことを、何でも言っちゃだめでしょう。ばあばには今まで通り優しくしていればいいの。あの家も貯金も、最後には勇気のものになるんだから」

私は壁に手をついた。聞き間違いではなかった。

「でも僕、ばあばが死ぬのは嫌だよ」

「今すぐの話じゃないの」

嫁は苛立った声で続けた。

「あと何年か我慢すればいいの。そうしたらローンも返せるし、この家も好きに直せるんだから」

翌朝、書類を片付けていると、箪笥の下から封筒が出てきた。中には車のローン、カードの分割払い、消費者金融の返済予定表が入っていた。借金は二百万円を超えていた。さらに、住宅リフォームの見積もり書まであった。私の寝室を壊して、広いリビングにする計画だった。

まだ私が生きている家を、嫁はすでに自分のものとして考えていたのだ。

私はその日のうちに専門家へ相談した。家は売却する。売却した金は私自身の老後と介護のために使う。勇気の進学費用だけは嫁に現金で渡さず、必要な時に学校へ直接支払えるようにする。それ以外の財産を嫁に渡すつもりはなかった。

一週間後、私は夕食の席で告げた。

「この家を売ることにしたの」

嫁の箸が止まった。

「え、どういうことですか?」

「買いたいという人が見つかったわ。三ヶ月後には引き渡すことになっているの」

嫁の顔から血の気が引いた。

「勝手に決めたんですか?」

「私の家よ」

「私たちはどうするんですか!」

「新しい住まいを探して」

嫁は椅子から立ち上がった。

「そんなことをされたら困ります。勇気の学校もあるし、車のローンだって残ってるんですよ」

「そのローンを組むように頼んだ覚えはないわ」

嫁の表情が固まった。

「箪笥の中を見たんですか?」

「借金もリフォームの見積もり書も見た」

「違います。あれはいつか必要になった時のために」

「私が死んだ時のために?」

嫁は黙り込んだ。私は続けた。

「勇気に優しくしていれば、死んだ後に家と貯金が手に入る。それまで我慢すればいい。勇気にそう教えていたわね」

「勇気が勝手に勘違いしたんです」

「あなたが勇気を叱っているところも聞いたわ」

追い詰められた嫁は突然声を荒げた。

「少しくらい期待したっていいじゃないですか。夫をなくして、私がどれだけ苦労したと思ってるんですか? お母さんには家も貯金もある。どうせ最後には勇気が受け取るものでしょう」

「勇気の将来に使うことと、あなたの借金を返すことは違う」

「私は勇気の母親ですよ」

「だからこそ、人の死を待つようなことを教えないで」

嫁はテーブルを叩いた。

「家だけでも勇気の名義にしてください。この家がなくなったら、全部払えなくなるんです」

その一言で分かった。嫁が守りたいのは勇気ではない。自分が膨らませた暮らしだった。

「もう遅いわ。家は売る。援助も今日で終わりよ」

すると嫁は、隣に座っていた勇気の肩を強く抱き寄せた。

「分かりました。この家を売って私たちを追い出すなら、もう勇気には合わせません」

その目には、冷たい光が浮かんでいた。

胸をえぐられた。息子をなくした私にとって、勇気は唯一残された血のつながった家族だった。運動会も誕生日も、成長していく姿も見られなくなる。そう考えるだけで、息ができないほど苦しかった。

嫁は私の迷いを見抜いたように口元を緩めた。

「お母さん、勇気が可愛くないんですか?」

勇気が不安そうに私を見た。嫁はさらに続けた。

「今まで通り暮らして、少し援助を続けてくれるなら何も変わりません。勇気とも毎日一緒にいられますよ」

それは話し合いではなかった。勇気と会いたければ、家と金を差し出せ。そう言っているのだ。

私は膝の上で拳を握った。

「勇気を私を縛る道具にしないで」

嫁の顔が消えた。

「何を言ってるんですか? 私は母親です。合わせるかどうかを決めるのは私です」

「そうね。だから私は勇気と会うためにお金を払うようなことはしない」

「それなら本当に二度と合わせませんよ」

「ばあばと会えないの?」

勇気の目に涙が浮かんだ。

「勇気は黙ってなさい」

嫁がきつく言い放った。私は勇気の前へしゃがみ、その手を握った。

「ばあばは勇気のことが大好きよ」

「じゃあ、行かないでよ」

「ごめんね。でもばあばにも、自分の人生を守らなきゃいけない時があるの」

勇気の涙が頬を伝った。私も泣きたかった。それでも、ここで屈すれば、嫁はこれからも勇気を盾にして金を要求し続ける。

私は立ち上がり、嫁を見た。

「勇気から祖母を奪うと決めるのは、あなたよ。その責任まで私に押し付けないで」

数日後、嫁と勇気は家を出た。嫁は宣言通り、私からの電話にも返事をせず、勇気には合わせなかった。私は何度も受話器を手に取りかけて、その度に置いた。

それでも一月ほど経った頃、勇気の担任から電話があった。

「おばあさま、お元気ですか? 勇気くんのことですが、最近様子がおかしくて」

震える声で、先生は続けた。

「お母さまが家を頻繁に空けるようで、お弁当代も滞りがちです。それに、前は言わなかったことを言うんです。『ばあばは僕を捨てた』って」

勇気が学校で塞ぎ込んでいるという。私の胸が締め付けられた。勇気を守れないなら、あの日、家を売ると言わなければよかったのだろうか。いや、売らなければ、勇気は借金まみれの生活へ引きずり込まれたままだった。

私は勇気の学校の場所を聞き、向かった。門の前で、一人でブランコを漕いでいる勇気を見つけた。姿が見えただけで、三年間、毎日見てきたはずの孫が、ひどく小さく見えた。

「勇気」

声をかけると、勇気は勢いよく顔を上げた。

「ばあば!」

ブランコを飛び降りて、私の胸に飛び込んできた。そのまま泣き出した。

「ばあば、僕、ばあばが死んだらお金もらえるって言われたけど、そんなのお金じゃいらないよ。ばあばと一緒にいたいんだ。ママはひどいこと言うよ。ばあばがいない家は嫌だよ」

私は勇気をぎゅっと抱きしめた。勇気の涙が、私の胸を濡らした。

「ばあばも、勇気と一緒にいたいよ」

そう言いながら、私は頭の中を必死で巡らせていた。このまま勇気と連絡を取り続ければ、また嫁が金を迫ってくる。勇気は、私の大切な孫だ。しかし、その勇気を盾に、嫁はまた何かを要求してくるかもしれない。

「勇気、ばあばは今、勇気と会う方法をちゃんと考えるね。でも、一つだけ約束して。ママが何を言っても、誰も君を捨てたりしない。決して、君のお父さんが残してくれた大切な子だってこと、忘れないでね」

勇気が涙で濡れた顔を上げた。

「うん。分かった」

私は勇気の頭を撫でた。嫁がどう出るかは分からない。それでも、私は最善を尽くす。勇気のためにも、息子のためにも。

数日後、私は勇気の学校へ行き、支援が必要な場合の制度を調べてもらうように頼んだ。そして、勇気と会うためには、嫁と話をしなければならないとも思った。やはり、ただ突き放すだけでは済まない。

嫁に電話を入れた。何度目かのコールの後、出た。

「はい」

「母です。勇気に会ったわ」

沈黙が流れた。やがて、よそ行きの声で。

「そうですか。勝手な行動ですね。今から家へ来てもらえますか?」

「ええ」

待っていたのは、書置きではなく、また金の話だった。私は、勇気と会うための条件を提示した。毎月、学費の半額を渡す代わりに、月に一度、勇気と会わせてほしいというものだ。嫁は、しばらく間を置いてから言った。

「月に一度じゃ足りないって、言い出したら?」

「何が?」

「お母さん、変わりましたね。前までは、孫のために何でもしてくれたのに。ああ、息子を亡くして、気が触れたんですか? それとも、勇気が可愛いんじゃなくて、我慢できなくなった?」

「息子を亡くして、気が狂ったのはあなたの方よ、エミ」

私は、初めて嫁の名前を呼んだ。

「勇気を、お金で縛ろうとしたのはあなただわ。私はもう、あなたの言いなりにはならない。勇気が幸せでいるために、必要なことは何でもやる。あなたが乗り気でなければ、法的な手段も厭わない」

嫁の息を呑む音が聞こえた。私は、続けた。

「勇気のためだと思って、言っているのよ。息子は、勇気には、笑顔で育ってほしかったはずよ」

しばらく沈黙があった後、嫁は絞り出すように言った。

「…………分かりました」

それから、少し間があって。

「月に一度でいいです。約束は守ります」

私は、まず一歩を踏み出せた。それが、新しい始まりだった。

それから数日後、学校の帰り道に勇気と出会った。勇気は、私の姿を見つけると、走ってきて手を握った。

「ばあば、今度の土曜日、一緒に公園行かない? ママに聞いたらいいって言われた」

「ええ、いいわよ」

私は笑顔で答えた。勇気の手を握り返しながら、胸の内では、また嫁が何か言い出さないかという不安もあった。それでも、この手の温かさのためなら、私は強くいられる。勇気を守るという、その思いだけで。

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