「出て行けよ、金目当てのババア。」
母の再婚相手の息子である秀樹は、そう母に罵声を浴びせた。母は悲しげに微笑むだけで、その言葉をやり過ごしていた。私には、秀樹がどうしても我儘で世間知らずな、いつまでも大人になれない男にしか思えなかった。いつか、絶対に痛い目を見る。私は、母に罵声を浴びせ続ける秀樹を、じっと睨みつけた。
私の名前は真衣。二十五歳になって収入が安定し、ようやく一人暮らしを始める決意をした。それまで母と暮らしていたけれど、母は私の独立を喜んでくれた。ちょうどその頃、母の由紀子は五十歳で再婚することになった。相手は、母より五つ年上の、地元で小さな建設会社を経営する沢田健二郎という人物だった。初めて再婚の話を聞いた時は正直驚いたけれど、母が嬉しそうに「素晴らしい人に出会えたの」と微笑むのを見て、私は応援しようと思えた。
だが、再婚には一つ問題があった。健二郎さんには、沢田秀樹という息子がいたのだ。私より三つ年下の二十二歳。それなのに、年齢の割には幼く、世間の厳しさを知らない、かなり面倒な男だった。秀樹は大学を卒業しても定職に就かず、「役者を目指す」と言っては家に引きこもっていた。何度か家で顔を合わせたけれど、その度に秀樹は母を睨みつけてくる。父の前では小さくなっているくせに、いないと分かると途端に凶暴な本性を現す。
「金目当てのババア」
私は何度も、秀樹が母にそう叫んでいるのを目撃した。その言葉は鋭く、冷たく響いた。健二郎さんは、会社を一代で築き上げただけあって、社長然とした人物だ。いつも従業員の相談に乗ったり、世話を焼いたりして、とにかく忙しかった。自分でも「妻には優しくしているつもりだが、一緒にいる時間がなかなか取れなくてすまない」とこぼすほどだった。それでも、二人は大人の恋愛を育み、互いを思いやっているのが伝わってきた。私は二人を応援していた。
だが、秀樹は父の再婚を全く歓迎していなかった。おそらく本人に自覚はないのだろうが、母に父を奪われたという寂しさから、ああいう態度になっているのかもしれない。幼くして実母を亡くし、仕事ばかりの父とのコミュニケーションを欠いたまま育ったせいで、人に甘えることも、分かち合うことも知らない、我儘な大人になってしまったのだ。役者になりたいと言いながら、オーディションを受ける様子もなく、ただ家でごろごろしている。いつかは父の会社を継ぐつもりでいるようだが、その努力をしている気配は微塵もなかった。私には、ただ時間を無駄にしているようにしか見えなかった。
母が健二郎さんの家に引っ越してから半年ほど経った頃、私のスマホに母から電話がかかってきた。声がいつもより沈んでいる。
「真衣、少し話せる?」
「うん、大丈夫だよ。どうしたの?」
母は深く息を吐くと、ゆっくりと語り始めた。
「最近ね、秀樹君の態度が更に酷くなってきたの。お父さんの前ではおとなしくしてるんだけど、いない時は、何かにつけて文句を言ってきて、嫌がらせをしてくるのよ」
私の胸は締め付けられた。秀樹のあの冷たい目が頭をよぎる。母は大丈夫だろうか。何か力になれることはないだろうか。
「母さん、大丈夫? 何か手伝えることある?」
「ありがとう、真衣。でもね、これ以上、健二郎さんに迷惑をかけたくないの。彼は私にすごく良くしてくれるから、これ以上負担をかけたくないのよ」
健二郎さんは母のことを気にかけてくれているけれど、仕事が忙しくて家にいる時間はほとんどなかった。私は、母に「秀樹の相手をしないで、ご飯の支度も洗濯もやめてあげなよ」と助言したけれど、母は諦めたように微笑むだけだった。それでも、母は徐々に秀樹の態度を上手く流す術を身につけていった。
それから五年後、事態は大きく動き始めた。健二郎さんの体調が、めっきり悪くなってしまったのだ。最初は、建設会社の社長として忙しい日々を送っている疲れだろうと思っていた。「働きすぎで疲れているんでしょう。ゆっくり休めば良くなるわよ」と、私も母も呑気に構えていた。だが、健二郎さんは「休めば治る」と言って頑なに病院へ行こうとしなかった。しかし、母が必死に説得して、ようやく病院で検査を受けることに同意した。そして、その検査結果を聞かされた時、全ては始まった。
健二郎さんは、すぐに入院が必要だと診断された。最初のうちは強がっていた健二郎さんも、いざ入院が決まると、その顔には不安の影がはっきりと浮かんでいた。母は、そんな健二郎さんを一心に支えようと、懸命に看病を続けた。その姿は、本当に立派だった。一方、秀樹はこの事態になっても態度を変えなかった。父の病気を聞かされた時、一瞬驚いた表情を見せたが、すぐにまたそっけない態度に戻ってしまった。病院に見舞いに来ることもなく、自宅で自分の好きなように過ごしていた。
「アイツは強いから大丈夫だ」
「どうせ、お前らは金が目当てなんだろ」
秀樹はそんな言葉を吐き、母を遠ざけた。母は何も言い返さず、ただ健二郎さんの看病に徹していた。ところが、そんな母の体にも異変が現れ始めた。診断書には「過度のストレスによるもので、すぐに休養が必要」と書かれていた。それでも母は、その事実を誰にも言わず、健二郎さんを支えるため、毎日病院に通い続けた。健二郎さんが「君がそばにいてくれるから、俺は頑張れる」と微笑むたびに、母は「私こそ、あなたの力になれて嬉しい」と応えていた。
その頃の私は、そんな母の姿を見て、何かできることはないかと考えていた。同じ家族の一人として、私にできることは何だろうかと。だが、そんな思いとは裏腹に、健二郎さんの病状は悪化の一歩を辿った。そして、ついに訪れてしまった。亡くなる二日前、健二郎さんは母の手を握り、こう言った。
「ありがとう、由紀子さん。君と結婚できて、本当に幸せだった。君には、すまないことをしたと思っている」
母は首を振りながら、「そんなことありません。あなたこそ、私を幸せにしてくれてありがとう」と答えた。静かに、しかし確かに、二人の時間は終わりを告げた。健二郎さんは、母だけが見守る中、眠るように息を引き取った。出会ってから五年と少し、穏やかでありながらも波乱に満ちた時間だった。私は急いで母のもとへ駆けつけ、葬儀の準備を手伝った。
通夜の夜の事だった。喪服に身を包んだ参列者たちが黙祷を捧げる中、それを遮るようにして秀樹が部屋に飛び込んできた。彼は参列者たちの目も気にせず、母に向かって叫んだ。
「ババア、今すぐ出て行け!」
「遺産は全部、俺のものだ!」
その場にいた全員が凍りついた。葬儀場の重苦しい沈黙の中、秀樹の声だけが響き渡る。私は怒りで体が震えるのを感じた。彼の傍に歩み寄り、低い声で言った。
「秀樹さん、場所をわきまえてください。今はお父様の葬儀の最中ですよ」
しかし、秀樹は私の言葉に耳を貸そうとしない。侮辱の言葉を吐き続けるだけだった。参列者たちの困惑した視線が痛いほど刺さる。母は蒼白な顔で、必死に涙をこらえていた。秀樹の暴言に耐えかねて、私は二人の間に割って入り、感情を押し殺しながら言った。
「秀樹さん、あなたの気持ちは分かりますが、こんな場所で言うことではありません。一度、落ち着いて話し合いましょう」
だが、秀樹は鼻で笑い飛ばした。
「うるさい。黙ってろ、他人のくせに」
「父の会社も、家も、金も、みんな俺のものなんだよ。ババアに何が分かるんだ」
私は唇を噛んだ。彼には何を言っても無駄なのかもしれない。すると、それまで黙っていた私の母が、ゆっくりと口を開いた。
「そうですか。分かりました。秀樹君、そこまで言うのなら、あなたに全てをりましょう」
母の口から出た予想外の言葉に、私は息を呑んだ。
「母さん、いったい何を言ってるの!」
「真衣、いいのよ」
母は私を制すると、ポケットから一通の書類を取り出した。それは、相続放棄の届け出書類だった。
「健二郎さんが遺してくれた財産は、本来であれば私と二等分されるべきものです。ですが、その私の分を全て秀樹君に譲るわ。その代わり、私はこの家を出て行く。お父様との思い出の詰まったこの家から」
そう言って、母は書類を秀樹に差し出した。秀樹は一瞬、言葉を失ったように固まっていたが、すぐにふんぞり返って言った。
「ふん、ようやく分かったんだな。最初からそうすれば良かったんだ」
「だけど、いいのか? 俺が全部もらうんだぞ? 後で泣きついてくるなよ」
母は静かに微笑んだ。
「ええ、構いませんよ。覚悟の上です。その代わり、あなたも覚悟しなさいね。遺産を受け継ぐということは、そういうことですから」
その時、秀樹の顔に一瞬の不安がよぎったが、すぐに彼は重要なことを見落としていた。母は続けた。
「あなたは、お父様が社長を務めていた会社の株と、この家、そして預貯金を全て相続するのよ。もし借金があったとしても、あなたはそれも全て相続することになる。それが、相続するという覚悟なのよ」
秀樹は意味が分からないと言わんばかりに、書類を睨みつけた。
「借金? 何言ってるんだ。父さんにそんなものがあるわけないだろ」
「あるわよ」
母の言葉に、秀樹の顔から血の気が引いていくようだった。
「お父様は、会社を大きくするために多額の借金をしていたのよ。最近の不況で、会社の業績も悪化していた。あなたは、それを全部背負うことになるの。それでもいいの?」
秀樹の手が震えていた。彼は今初めて、自分がどれほど愚かなことをしようとしているのかに気が付いたのかもしれない。彼はしばらく書類を見つめていたが、やがて力なく笑いながら言った。
「……そんなの、聞いてない」
「そんなの、嘘だ! 父さんに借金なんてあるわけがない!」
そう叫ぶと、彼は母から書類を奪い取り、くしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てた。
「こんな書類、認めるか! ふん、どうせ適当なことを言ってるんだろ。分かったよ、その言葉、忘れんなよ。後悔しても知らないからな!」
そう言い残すと、秀樹は怒り狂ったように部屋を出て行ってしまった。私は、息を飲むのがやっとだった。母は、かなり前から読めていたかのように、深いため息をついた。
彼の言う通りだ。彼が会社も家も全部を相続した。自分の思い通りになると信じていた彼に、待っていたのは、思いもよらない現実だった。
健二郎さんの葬儀が終わり、数日後、母と私は悲しみを抱えながらも、新しい生活を立て直そうとしていた。母は健二郎さんの遺した家や会社の整理を始めていた。そんな中、今度は秀樹が再び怒鳴り込んできた。手に持っているのは、一枚の封筒。
「ババア! どういうことだ、これは!」
彼が投げつけたのは、病院や金融機関からの借用書の束だった。
「父にこんな借金があるなんて聞いてない! お前が隠してたんだろう! 全部お前のせいだ!」
母は悲しそうな顔で首を振った。
「違うわ。私が隠していたわけじゃない。健二郎さんは、あなたに心配をかけたくなかったみたいよ。あなたにだけは、迷惑をかけられないって、口癖のように言っていたから」
だが、秀樹は聞く耳を持たない。
「嘘をつけ! どうせ父が死んだら金が入ると思って、俺を嵌めたんだろ!」
「もういい! もう、本当に終わった。全ては、お前らが余計なことをするからだ!」
彼は部下でも連れてくるかのように、捨て台詞を吐いて出て行った。私は、彼の背中を見つめながら、確信めいたものを抱えていた。やはり、この男は父の姿とは比べ物にならないくらい愚かだ。
それから数週間後、秀樹の家に一通の封書が届いた。母宛てにではなく、私宛てに。差出人は、今はどこでどうしているのか分からない、秀樹自身からだった。封を開けると、そこには当たり前のように、彼の現状が記されていた。健二郎さんの会社は、多額の借金の処理に追われ、あっという間に潰れてしまっていたこと。家も手放さざるを得なくなったこと。そして、借金だけが彼に残されたという事実。手紙の中で彼は、こう綴っていた。
「僕が父の会社を継ぎたかった。認めてもらいたかった。お前たちを追い出して、父の会社を大きくするのが、僕の役目だと思っていた。でも、全ては僕の思い上がりだった。お前と由紀子さんのことを、あんな風に追い出したのは、ただの八つ当たりだったんだ。今は本当に後悔している。こんな手紙を出すのも申し訳ないけど、謝りたかった」
何度も失敗し、周りの目も気にせず努力もせず、ただ与えられただけの現実に胡坐をかいて、人を傷つけることしかできなかった男の、心からの謝罪の言葉だった。私は、母にこの手紙を渡した。母は、読み終えた後、少し目を潤ませながらも、静かに言った。
「……可哀想にね」
「そうね。本当に、可哀想な子」
私たちはそれ以上、何も言わなかった。しばらくの間、沈黙が流れていたが、その日を境に、私たちの生活は新しい一歩を踏み出した。母は私のアパートで一緒に暮らしながら、地域のボランティア活動に参加するようになった。私も仕事に打ち込み、一歩一歩、自分の人生を積み重ねていく喜びを見出していた。
「母さん、これからも一緒に頑張ろうね」
「そうね。人生は長いものね。楽しく生きていかなきゃね」
母は、そう言って優しく微笑んだ。あれから秀樹がどうなったのか、私は知らない。あの手紙を最後に、彼の消息を聞くことはなかった。けれど、どこかで彼が新しい道を見つけて、あの愚かだった日々を教訓に、少しでも成長してくれていればいいと思う。そして、私たちはこれからも、穏やかな日々を過ごしていくのだろう。あの日、母が選んだ覚悟のように、静かに、しかし確かに、確かな一歩を踏み出しながら。
