「この家に住めるだけでもありがたいと思え。」
岐阜はベッドの上から私を鋭く睨みつけた。介護をしているからといって偉そうな顔をするな。私は黙って岐阜の薬をテーブルに並べた。
「わかりました。」
そう答えると、岐阜は鼻を鳴らした。
「返事だけは立派だな。次はもっと早く来い。」
この人は私を家族ではなく、無料の介護要員としか思っていない。私の名前はみほ、54歳。夫の正明さんとは結婚して31年になる。一人娘の美咲は2年前の転勤に伴って大阪へ引っ越した。娘を駅まで見送った日、私は少し寂しく感じながらも、母親としての大きな役目はこれで終わったのかもしれない、そう思った。これからは夫と二人静かに暮らしていく。娘のことを心配しすぎず、自分たちの時間も大切にしよう。そんな話をしていた、わずか3ヶ月後のことだった。
夫の父、岐阜が脳梗塞で倒れたのだ。幸い命は助かったが、右半身に麻痺が残った。歩くには杖が必要で、一人で生活することはできない。義母はすでに亡くなっていたため、誰かが義父を支える必要があった。夫には7歳年上の兄、正明さんがいる。その妻の京子さんと、義実家から車で30分ほどの場所に住んでいた。
家族で今後のことを話し合った時、正明さんは真っ先に言った。
「俺は会社で責任ある立場だから、介護は難しい。」
京子さんも続けた。
「私も仕事があります。みほさんは自宅でできる仕事ですよね。」
私は小さな会社の経理を在宅で担当していた。家にいるからといって、暇なわけではない。しかし義父の通院や食事、身の回りの世話を考えると、誰かが義実家に住む必要があった。正明さんは私に言った。
「無理をしなくていい。」
施設を探す方法もあるけれど、当時の義父は知らない場所で暮らすことをひどく嫌がっていた。私は迷った末に、夫と義実家へ移ることを決めた。娘を育てる役目が終わった今、次は年を取った親を支える時期なのだと、自分に言い聞かせたのだ。
ところが、介護生活は想像以上に大変だった。義父はベッドに置いたベルを1日に何度も鳴らした。
「水を持ってこい。テレビの音を上げろ。トイレへ行くぞ。」
書類を作っている途中でも、取引先と電話をしている時でも、お構いなしだった。
「お父さん、今は仕事中ですから、少しだけ待っていただけませんか?」
一度そう頼むと、義父は不機嫌そうに答えた。
「家にいる仕事なんて小遣い稼ぎみたいなものだろう。」
悔しくて、何も言い返せなかった。それでも、食事の塩分を考え、薬の時間を管理し、週に2度はリハビリへ連れて行った。病院へ行くための車も、私たち夫婦の貯金で、乗り降りしやすいものに買い換えた。
正明さん夫婦は時々顔を見せたけれど、来るのは夕食が用意された時間ばかり。義父の体を起こすことも、病院へ車を出すこともない。それどころか、京子さんは私にこう言った。
「家賃も払わず、この家に住ませてもらっているんだから、介護くらい当然でしょう。在宅の仕事なら時間も自由ですものね。」
義父にも強く命令され、長男夫婦にも見下される。何度、荷物をまとめようと思ったか分からない。ただ、不思議なこともあった。京子さんが「お父さんの世話はみほさんの仕事ですよ」と言った時、義父が突然「口だけ出すなら帰れ」と言ったことがあったのだ。私が体調を崩した日は、一度もベルを鳴らさなかった。翌朝、枕元には義父が好きなはずの栄養ドリンクが置かれていた。
「これ、お父さんが?」
私が尋ねても、「飲まないなら捨てろ」としか答えない。冷たい人なのか、不器用なだけなのか、私には分からなかった。
そうして6年が過ぎた。ある日、岐阜の80歳の誕生日を祝うため、家族が集まった。正明さん夫婦も久しぶりに実家へ来た。食事が終わった後、義父は自分の部屋へ戻った。私が廊下を通りかかった時、義父が誰かと電話している声が聞こえた。
「預金は3000万円ほどある。」
その言葉に、思わず足が止まった。
「家も売れば、もう少し用意できるだろう。」
今のにいた正明さんと京子さんにも、その声は聞こえていたようだ。二人は顔を見合わせた。義父はさらに続けた。
「手続きはできるだけ早く進めたい。」
電話が終わると、京子さんの態度が一変した。
「お父さん、これからは私たちが介護します。」
義父は驚く様子もなく、京子さんを見た。
「急にどうした?」
「6年間、みほさんたちに任せきりでしたから。長男夫婦として、私たちが責任を持つべきだと思ったんです。」
正明さんも大きく頷いた。
「そうだ。親父のことは、これから俺たちが見る。」
6年間、病院へ一度も車を出さなかった人たちだ。義父の薬の名前も、リハビリの曜日も知らない。それなのに、3000万円という言葉を聞いた途端、家族としての責任を口にし始めたのだ。
義父はしばらく二人を見つめた後、「そうか」とだけ答えた。
すると翌朝、京子さんから私たち夫婦にこう告げられた。
「介護は私たちが引き継ぎます。ですから、みほさんたちはこの家を出て行ってください。」
「え?」
私は言葉を失った。正明さんも当然のように続ける。
「親父の面倒を俺たちが見るなら、弟夫婦が住み続ける理由はないだろう。」
正明さんが声を荒げた。
「お前たちは、今まで何もしていないじゃないか。」
「だから、これからすると言っているんだ。」
京子さんは私を見て笑った。
「みほさんも6年間、お疲れ様でした。もう必要ありませんから。」
私は義父を見た。義父なら何か言ってくれると思ったのだ。けれど、義父は私と目を合わせずに言った。
「出ていきたいなら、好きにしろ。」
胸の奥で、何かが切れた。6年間、感謝の言葉は一度もなかった。最後まで、私はこの家に住ませてもらっていただけの、都合のいい人間だったのでしょう。
「わかりました。」
私は頭を下げた。
「6年間、お世話になりました。」
夫は納得していなかったけれど、私はその日のうちに荷物をまとめ始めた。娘が大阪へ引っ越した後、夫婦二人で暮らせる小さな賃貸を、念のため探していたのだ。
2日後、私たちは義実家を出た。玄関を出る時、義父は一度だけ私を呼び止めた。
「みほ。」
振り返ったが、義父はしばらく黙った後、言った。
「車は置いていくな。お前たちが金を出したものだ。」
それが、義父から聞いた最後の命令だった。
それから1週間後、正明さんから夫の元へ電話がかかってきた。
「どういうことだ? 親父が、俺たちに介護は一切させないって言いやがったんだ。」
夫は電話の前で黙っていた。私は受話器の向こうの正明さんの怒声を聞きながら、あの日、義父が栄養ドリンクを置いてくれたことを思い出していた。冷たい人なのか、不器用なだけなのか、分からなかったけれど。最後の命令は、私を気遣うためのものだったのかもしれない。その後も正明さん夫婦から何度も電話があったが、私たちは出なかった。あの日、義父の口から「3000万円」という言葉が出た時、すべてが動き始めた。そして、私がこの家を出て行くことになった時、義父は「出ていきたいなら好きにしろ」と言った。それが本心だったのかどうかは、今も分からない。ただ、あの栄養ドリンクだけが、私の胸に残っている。
美咲に連絡すると、娘はしばらく黙った後、こう言った。
「お母さん、ゆっくり休んで。こっちへおいでよ。」
私は娘の言葉に、ただ頷いた。正明さん夫婦が義父の介護を引き継いだ後、私たち夫婦は小さなアパートで新たな生活を始めた。夫は何も言わなかったが、時々、ぼんやりと窓の外を見ていることがあった。そんなある日、夫がポツリと言った。
「親父、俺たちにだけは、あの車を残してくれたんだな。」
そう言う夫の目は、少し潤んでいるように見えた。私は何も言えず、ただ頷いた。
それから数ヶ月後、美咲が私たちのアパートを訪ねてきた。駅まで迎えに行くと、娘は私たちを見るなり言った。
「お父さん、お母さん、一緒に大阪で暮らさない?」
夫と私は顔を見合わせた。私たちの新しい暮らしは、こうして始まっていった。あれから6年、私は義父の介護にすべてを捧げてきた。褒められることなんて、一度もなかったけれど。それでも、最後にあの車を残してくれた言葉は、私の中で少しずつ温かくなっていく。
「みほ、車は置いていくな。」
あの時、義父は何を思っていたのだろう。今となっては、聞くことはできない。けれど、私は知っている。あの栄養ドリンクが、義父なりの感謝の形だったのだと。冷たい人だと決めつけていたけれど、そうではなかったのかもしれない。不器用なだけだったのだ。私も年を重ねた。今度は、私が誰かの面倒を見る番かもしれない。娘の家族が、私にできることがあるなら、力になりたい。そう思えるようになったのは、あの義実家での6年間があったからだ。ひどいことも言われた。無視もされた。それでも、私はあの時間を無駄だとは思っていない。あれが私の人生だったのだから。
正明さん夫婦は、今どうしているだろう。あの後、義父は正明さんたちの介護を拒み続けたと聞いた。そして、正明さんの妻の京子さんが手を焼いて、結局、施設に入れることになったらしい。その話を聞いた時、私は何とも言えない気持ちになった。義父は最後まで、あの家から動こうとはしなかった。私たちが去った後も、一人で。 施設から、義父の見舞いに行かないかと夫が言ったのは、それからさらに半年後のことだった。私は迷った。けれど、一度会ってみたいという気持ちもあった。
「行こう。」
私たちは車を走らせた。施設の前で、私は深呼吸をした。義父は車椅子に座って、窓の外を見ていた。私たちに気づいた義父は、少し驚いた顔をした。
「みほか。」
その声は、以前よりもか細かった。私は何と言っていいか分からず、ただ「お父さん」と呼びかけた。
「来てくれたのか。」
義父の目が、ほんの少しだけ潤んでいたように見えた。私は隣の席に座り、義父の手を握った。その手は、私の手と違って、とても細かった。
「みほ。」
「はい。」
「すまなかったな。」
その一言で、私はすべてが報われたような気がした。6年間の日々が、あの言葉で消えていった。
「いえ、私こそ、何もできなくて。」
「いや。お前は、ようやった。」
義父はそれだけ言うと、再び窓の外を見た。夫は黙って、私たちのやり取りを聞いていた。施設からの帰り道、車の中は静かだった。けれど、嫌な沈黙ではなかった。
「おとうさん、ちゃんとありがとうって言ったね。」
夫が運転しながら言った。
「うん。」
「なんか、あいつも年を取ったな。」
私は笑った。正明さんには、あの後、一度だけ会った。施設のことや、義父のことについて話し合うためだった。正明さんは私たちを見るなり、こう言った。
「悪かった。」
「え?」
「俺たちが全部見るって言ったのに、結局、何もできなかった。」
正明さんは項垂れていた。京子さんは、施設には一度も来ていないと聞いた。私は何も言えずにいたが、義父の「すまなかったな」という言葉を思い出していた。あの人は、私たちに迷惑をかけたくなかったんだろう。最後まで、不器用な人だった。
あれから数年が経ち、私たち夫婦は美咲の住む大阪で、のんびりと暮らしている。美咲にも子供が生まれ、私は祖母になった。孫の顔を見るたびに、義父のことを思い出す。あの人は、私のことをどう思っていたんだろう。やっぱり、うざい嫁だったと思っていたのかな。それとも、面倒な嫁だと思いつつも、どこかで信頼してくれていたのかな。今となっては分からないけれど、あの栄養ドリンクと、「すまなかったな」という言葉だけが、私の心の中に残っている。それが、義父からの本当のメッセージだったのだろう。私は、あの日々を感謝しようと思う。あの6年間があったから、今の私がある。夫と二人で支え合い、義父と向き合い、そして娘へと繋がっていく。それが、私の人生だった。それは、美しいとは言えない日々だったかもしれない。それでも、間違いなく私の人生だった。
今日も、私は孫の世話に追われる。そして、眠る前に思い出す。あの家のリビングで、義父がテレビを見ていた姿を。振り返って、こちらを見ることはなかったけれど、確かにそこにいた。あの人は、一人ではなかった。私がいたから、家族がいたから、あの時間が存在した。最後に義父からの「すまなかったな」を聞けた幸せを胸に、これからも私は生きていく。
