「うわ、汚い子ですね。」…

「うわ、汚い子ですね。」...

「うわ、汚い子ですね。」

その言葉が銀行のロビーに響き渡った瞬間、周囲の空気が凍りついた。三十代前半の行員が、色あせた布袋を指先でつまむように持ち上げる。目の前には、質素な服装の老夫婦が立っていた。

「この布袋に、この小銭に、正直衛生的にどうなんですか?それに、その格好で銀行に来られるんですね。」

「これは、ひ孫のために十年間貯めた大切な…」

「はいはい。そういう感情論は正直困るんですよね。」

七十八歳の藤堂政治は、隣に立つ妻のせつ子が体を縮めるのを感じながら、静かにその光景を見つめていた。その時、奥から支店長と名乗る男が現れる。

「高が五十万円程度で、特別扱いは難しいですね。」

「ですよね。さすがです。」

「全く非効率的だ。」

行員たちの目線が、まるで迷惑な客を見るように二人に向けられる。

「あなた…ごめんなさい。私のせいで。」

せつ子の目から涙がこぼれ落ちた。政治は妻の手をそっと握りしめながら、胸の奥で何かが煮えたぎるのを感じていた。この銀行員たちは知らない。質素な服を着た老夫婦の本当の姿を。

「お前ら…必ず報いを受けさせてやる。」

その決意が政治の胸に静かに、しかし確実に芽生え始めていた。

初夏の日差しが新宿の高層ビル群を照らす中、一組の老夫婦がゆっくりと歩道を進んでいた。洋品店で買った綿のシャツに、くたびれたスラックス姿の男性は、どこにでもいる普通の高齢者に見える。しかし、その手にはずっしりと重い布袋が握られている。布は長年の使用で色あせ、ところどころにほころびが見えた。持ち手の部分はすり切れて、何度も補修した後があった。中には十年分の思いが詰まった五百円玉がぎっしりと入っている。約千枚、金額にして五十万円ほど。その重さが二人の腕に心地よい疲労を与えている。

藤堂政治、七十八歳。その名はかつて日本の産業界を震撼させた名前だった。町工場から始まり、精密機器事業で世界に名を轟かせる東堂製作所を一代で築き上げた人物である。従業員二万人を抱える東証一部上場企業にまで成長させた経営者だ。個人資産は一兆円を超えると言われているが、十五年前に会社を長男に譲り、経営の第一線から完全に退いてからは、メディアへの露出を極端に嫌っている。顔写真すらほとんど出回っていない。町を歩いていても、誰も彼が大富豪だとは気づかないのだ。隣を歩く妻のせつ子も、もう一つの布袋を大切そうに抱えながら、時折夫の顔を見上げては微笑んでいる。彼女が抱える布袋も、政治のものと同じくらい年月が刻み込まれている。十年という歳月が、布地に深い味わいを刻んでいた。

「元気に育ってね。」

せつ子は、ひ孫のために毎日五百円玉を貯金箱に入れる時、必ずこう小さく呟いていた。その十年分の思いが、今この布袋の中に詰まっているのだ。

孫娘の美優に子供が生まれる予定で、二人はその子のための口座を作りたかった。機械で入金すれば簡単だが、せつ子は窓口で、ひ孫のための特別な口座を開設したいと願っていた。

「せつ子の気持ちを大切にしたいんだ。金よりも、妻の笑顔の方がずっと価値がある。」

七十八年の人生で学んだこと。それが政治の信念だった。

「人の価値は、肩書きや見た目では測れない。」

その言葉を彼は常に胸に刻んでいる。だからこそ、質素な暮らしを選び、目立たないように生きてきた。街路樹の緑が風に揺れ、木漏れ日が二人の肩に降り注いでいた。どこからか漂ってくるコーヒーの香りが、穏やかな午後の空気を彩っている。政治は深く息を吸い込みながら、この何気ない日常の幸せを噛みしめていた。そんな何気ない日常が、政治にとっては何よりも大切な宝物だった。金で買えないものの価値を、彼は誰よりも知っている。だからこそ、孫のために貯めた五百円玉の一枚一枚に込められた思いを、機械任せにはしたくなかったのだ。

中央第一銀行新宿中央支店の自動ドアをくぐった瞬間、冷房の効いた空気が二人を包んだ。大理石の床が蛍光灯の光を反射して眩しく輝き、どこか無機質な雰囲気が漂っている。平日の昼下がりだというのに、ロビーには多くの客が順番を待っていた。発券機から出てきた番号には「94」と表示されている。電光掲示板を見ると、現在の呼び出し番号は七十八。しばらく待つことになりそうだ。

待合いスペースのソファに腰を下ろし、せつ子は布袋を膝の上に大切そうに抱えていた。政治は妻の横顔を見つめながら、十年前のことを思い出していた。

美優が大学に合格した日、せつ子がこう言い出したのだ。

「この子の子供のために、今日から貯金を始めるわ。」

「気が早いな。」

そう笑ったものだが、せつ子は本当に週に二回、欠かさず五百円玉を貯金箱に入れ続けた。雨の日も、風の日も、体調が優れない日も。その積み重ねが、今この布袋の中に詰まっている。

三十分ほど経った頃、やっと二人の番号が呼ばれた。政治はせつ子の手を取って、三番窓口へと向かった。カウンターの向こうに座っていたのは、三島公平という名札をつけた三十代前半の男性だ。パソコンの画面を睨みながら、こちらを見ようともしない。

「新規口座の開設と入金をお願いしたいのですが。」

政治が布袋をカウンターに置いて告げると、三島はようやく顔を上げた。しかし、その視線は政治たちの質素な服装を上から下まで舐めるように見回す。そして、色あせた布袋に目が止まった瞬間、露骨に顔をしかめた。

「はあ。」

明らかにめんどくさそうな表情を浮かべると、視線を布袋へと移した。

「え、これは何ですか?」

「五百円玉の貯金です。」

「ちょっと待ってください。」

三島は大げさなため息をつきながら、布袋をカウンターの端へと押しやった。まるで不潔なものを遠ざけるかのような仕草だった。

「この布袋、どこで使ってたんですか?」

「自宅の貯金箱で、十年間。」

「はあ。十年も家で保管してたと。」

そう言いながら、三島は布袋を指先でつまむように持ち上げた。中を覗き込み、再び顔をしかめる。

「見てくださいよ、これ。硬貨が変色してるし、汚れもひどいですよね。それに、この布袋も相当古いですよね。正直、衛生的にどうなんですか。」

確かに、十年という歳月を経た硬貨の中には、くすんだ色になっているものや、指紋や手垢で汚れているものもあった。だが、それはせつ子が毎日手に取り、思いを込めて入れ続けた証だった。

「ネットバンキングとか、もっと便利な方法をご存知ないですか?例えば、コンビニのATMで…」

「機械じゃ、だめなんだ。」

政治は静かに、しかし力強く言い放った。

「この布袋には、妻の十年間の想いが詰まっている。それを預けるんだ。」

三島は一瞬面食らったように口をつぐんだが、すぐに気を取り直した。

「そう仰いますけど、当店としてはこういった大量の小銭の預かりは…手数料の対象になる場合がございます。それでもよろしいですか?」

「手数料?どういうことだ。」

「ええ、当銀行では、硬貨の枚数に応じて入金手数料をいただいております。五百円玉が千枚ですから…えーと、ちょっとお待ちください。」

三島がパソコンを操作し始めると、支店長の加藤が再び近づいてきた。

「お客様、申し訳ございませんが、当店ではこのような大量の硬貨の取り扱いは、基本的にご遠慮いただいております。あいにく、硬貨計数機も故障しまして…」

加藤は申し訳なさそうな素振りも見せずに、続けた。

「お手数ですが、お近くの郵便局か、あるいは銀行のATMをご利用いただけませんか?ここから歩いて十分ほどの場所に、コンビニのATMがございますので。」

「だが、うちの袋は指定の袋しか使えないんだ。それに、この布袋の意味が分かって言っているのか?」

「それは、どのような意味がおありなんですか?」

加藤は微笑みさえ浮かべて、いかにも上役然とした口調で問い返した。三島は何も言わず、陰で嘲るような笑みを浮かべた。

「ちょっと、いいか。君たちは、大切なものを金勘定でしか見ていないんじゃないか?」

「大切なもの、ですか。銀行としては、現金を適切に扱うことが使命です。ですが、この硬貨の状態では、本当にご入金いただけるかどうかも…」

「もういい。」

政治は重い口調で遮った。せつ子はうつむいたまま、涙をこらえている。三島が勝ち誇ったような表情を浮かべた。

「お客様、お支払いはどうなさいますか?お決まりでしたら、この場で…」

「だまれ。」

その一言に、三島はピタリと口を閉じた。政治の静かな、しかし言葉を越えた迫力に、周囲の客たちが振り返る。

「爺さん、そんなこと言ったって、銀行としては規則なんだ。もう帰ったらどうだ?」

三島は、客が悪いかのように言い放つ。しかし、三島には分かっていた。この老夫婦が、単なる純朴な老人ではないことを。いや、見た目は間違いなくただの老人だ。だが、その目の奥に宿った光に、いやな予感がしていた。

「規則だと?なら、お前たちはそこで毎日毎日、仲間たちと、昼飯も食わずに、夜遅くまで、手書きの伝票と格闘しているのか?」

「は?」

「こいつは、手書きの領収書だ。一九七〇年代から、だ。息子や娘、あるいは私のような老人が、こうやって朝まで働いて、作り上げてきた証だ。この国は、昔からこうやって、はんこひとつ、伝票一枚、それで動いてきた。」

政治は、内ポケットから古びた手帳を取り出した。彼のトレードマークである、色あせた手帳。それは、あの男のものだった。

「何を…?」

「見せてやろう。」

政治は手帳を開き、一枚の紙を抜き取った。それは、古びた借用書だった。そこには、信じられない名前が書かれている。

「な、何を出す気だ…!」

三島は目を見開いた。そして、隣で様子を見ていた加藤支店長も、その紙を認めた瞬間、真っ青になった。

「これは…」

「この借用書、お前たちの銀行が、いや、お前たちのものか?それとも…」

「どうして、それを…!」

三島は思わず立ち上がった。その声は、震えていた。

「教えてやろう。私はな、五十年前、この銀行の前身である中央貯金組合で、働いていた若造を知っている。当時二十二歳、入社したばかりの営業マンだった。そして、その男は…」

「やめろ!」

加藤が叫んだ。だが、遅かった。

「その男は、組合の金を使い込んだ。当時の金額にして、五百万円。その金を、私は肩代わりした。借用書も、私が書いた。だが、その男は…借金のことは、表沙汰にしたくなかった。だから、私は…」

「あなた…」

せつ子が、驚いて夫を見上げた。政治は、静かに続けた。

「その男は、今のあなたですね?加藤支店長。」

カウンターの内側で、加藤は地面に杭でも打たれたように棒立ちになっていた。三島は、支店長と老人を交互に見て、青ざめた顔で一歩後退る。

「私のことは…構いませんか。あなたの人生を…台無しにしてしまったのは、私の方ですから。」

政治は肩を落とし、力なく笑った。

「…いいえ、支店長。あなたは何も私を台無しにしてはいません。私は、あなたが使い込んだ金の代わりに、五十年間、あの男の人生を生きてきました。そこのところは…よくご存じでしょう。」

「ちょっと…何を言っているんですか、支店長。この老人は何を…」

三島は、支店長に助けを求めるように言った。

「黙れ、三島。」

加藤は、絞り出すような声で言った。しかし、三島は引き下がらない。

「ちょっと待ってください。どういうことですか?まさか、この老いぼれと何か関係が…」

「老いぼれ?」

政治は、静かに聞き返した。

「私は、藤堂政治。東堂製作所という会社をやっている。」

三島は、一瞬何を言われたのか分からなかった。だが、次の瞬間、体中の血の気が引いていくのを感じた。東堂製作所。それは、日本を代表する精密機器メーカーだ。確か、創設者は…。

「藤堂…まさか、あの…」

「ええ。私は、まだ後始末を私に任せた方が、お互いのためにいいと思いますがね。」

三島の顔から、血の気が完全に引いた。支店長も、言葉を失っている。

「ふふ…」

せつ子が、口元に手を当てて控えめに笑った。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも確かに笑った。

「さあ、袖に。私の十年を、預かってくださいませんか。規則に沿って、正しく。」

政治は、カウンターの上に布袋を置いた。だが、それを取る者はいない。三島も加藤も、凍りついたように動けないでいる。

「どうしました?規則なんでしょう。五十万円のご入金を、よろしくお願いいたします。」

「あ、あの…」

「安心してください。私は、何も請い求めませんから。」

政治は、布袋の結び目をゆっくりと解いた。中から、五百円玉の束が数枚、カウンターの上にこぼれ落ちた。その硬い音が、静寂の中で異様に響く。

「さあ、いつまでもこうしてこもっていたら、次に待っている客に後ろめたくでしょう。私の妻を、一番最後まで待たせないでください。」

そう言って、政治はせつ子の手を引いた。

「さあ、せつ子。帰ろう。」

老夫婦は、銀行の出口へとゆっくり歩き出した。自動ドアが開き、二人を外の日差しが温かく迎える。

「お、お待ちください!」

後ろから、三島の声が聞こえた。だが、二人は振り返らない。

「どうするんですか!このお金は!」

「そのお金は…きっと、あなたの十年です。十年間、変わることなく愛し続けた、その人のために使ってください。」

遠くから、せつ子の姿が、温かい光の中に消えていく。三島は、カウンターの上の布袋をじっと見つめていた。そして、その奥に置かれた古びた手帳の存在に気づいた。そこには、一通の封筒が挟まれている。宛名は、こう書かれていた。

「私の妻、藤堂せつ子様」

三島は、ためらいながら手を伸ばし、その封筒を開けた。中には、一枚の写真と、一通の手紙が入っていた。

『息子の嫁になったとき、あなたに貰った指輪を、これからも大事にします。あなたは、私の自慢です。』

それは、五十年前の借用書と一緒にあった、若き日の夫妻の写真だった。そう、彼女は政治の元妻ではなかった。いや、違う。政治の元妻は、デパートで働いていた時に、お見合いで知り合った。違う。政治の本当の妻は、デパートの店員だった。彼女は、添い遂げたかった。だが、政治は、彼女に迷惑をかけたくなかった。彼女には、別の人生を歩んでほしかった。

三島は、写真の裏に書かれた日付を見て、絶句した。それは、彼が生まれる、はるか昔の日付だった。そして、政治が……違う。政治は……

「支店長…」

三島は、震える声で加藤を見た。

「この借金、私が肩代わりするんでしょ?だから、妻には…」

加藤は、何も答えなかった。ただ、蒼白な顔で、こくりと頷くだけだ。政治は、重いまぶたを閉じる。五十年前、決して消えない傷を負った夜のことを、忘れたことはない。

「政ちゃん…」

せつ子が、夫の左の頬に手を当てた。そこには、古く切り傷の跡があった。

「大丈夫だよ。もう、何も怖くないさ。」

行きつけの喫茶店「こもれび」に、老夫婦は寄った。マスターの田口が、カウンターに小銭の束を持ってきた。

「いや、先週も新札で。」

「それはどうも。」

政治が礼を言い、折りたたんだ羽振りを渡そうとした時、マスターの田口が首をかしげた。

「しかし旦那さん、あんた、前から気になってたんじゃが、うちの店に来る時は必ず、羽織の金銭にいれて金を包んでくるな。何でだ?」

せつ子は、歳の伴った笑みをこぼした。

「この人の息子が、昔ね、お店に来てたお客さんで…」

「ああ、なるほど。じゃあ、あんたが財布の紐を握ってるわけじゃなくて、何だか人と違うわけだ。しみじみ。」

田口はそう言って、薄くなった頭を掻いた。

「今日は、銀行にお使いかい。娘さんか?せがれさんか?」

「いや、まあ、ちょっとね。」

政治は、うまくかわすように言った。

「まだ、返さなきゃならんお金があるようなんだ。」

「へ?お金…」

「ああ、昔なじみの男に。」

政治は、それ以上話そうとしなかった。せつ子は、夫の腕をそっとさすった。マスターは、察したように黙り込んだ。

支店長の加藤は、銀行から出ると、人気のない路地の公衆電話へと歩いていた。受話器を取ろうとした時、後ろから声を掛けられた。

「お迎えが遅れましたね、加藤支店長。」

振り返ると、そこには、グレイのスーツを着たひげ面の男性が立っていた。その手には、小さなブラックのケースが握られ、名刺が差し出されている。

「おっと、私は刑事ではありません。あなたに、魅力のある仕事を紹介しようと思ってね。名乗るほどじゃない。ただの、政党マンとでも思ってくれてかまわないよ。」

加藤の顔色が変わる。男は、ケースから一枚の写真を取り出した。そこには、真っ白なスーツを着た若い男が映っている。五十年前、取り上げられた政治を写したものだった。

「この写真、あなたのものです。あなたの人生、この写真の男の人生、巻き戻せますよ。私はね…」

男は、加藤が持っていた封筒を見つめ、微笑んだ。

「ちょっと、あなたに伝言があってね。昔なじみの友から、何て言ったかな…『加藤には、借りがある。それを返しに来た』と。」

加藤は、その言葉に衝撃を受け、ケースからは、或る書類が落ちる。それは、震災直後に、被災地に送金した記録だった。

「君の家は、加藤工廠だな?あの震災から、お前の両親が世話になった道だ。思い出したか?」

男は、加藤に指をさした。

「君の父親は、私の父の部下だった。亡くなったのは、五十年前の事故で、私の両親ではない。」

加藤は、何も言えないでいる。

「君の家のために、君の人生を、私の金で買ったんだ。だがそれは、昨日で終わりだ。全部、君に返そう。この封筒の中の紙が、その証拠だ。」

男、それはかつての政治の弁護士だった男は、そう言って背を向けた。加藤は、手にした書類に目を落とす。それは、五十年前、加藤の家が会社の金を使い込んでいたことを示す報告書の写しだった。だが、それらは表沙汰になっていない。政治が、もみ消していたのだ。

銀行から出た後、政治とせつ子は、しばらく歩き続けた。やがて、小さな公園のベンチに腰を下ろす。せつ子は、草の実の香りに混じって、柔らかい春の土の匂いを感じていた。間もなくして、一本の携帯電話が震えた。せつ子が出ると、孫娘の美優からだ。

「もしもし…ああ、うん。大丈夫、ちゃんと銀行に行ってきたよ。うん、優斗くんにも、よろしく言っといて。」

電話を切ると、政治が隣で微笑んでいた。

「仕事は終わった。」

「そうだな。長い仕事だったな。ご苦労さん、会長殿。」

せつ子は、生まれて初めて、夫にそう呼びかけた。政治は、目を丸くし、それから堪えきれずに、穏やかに笑った。

市谷本村町にある超低層のオフィスビル。その一室で、男性が一人、書類を整理していた。そこへ、部下が急ぎ足で入ってきて、携帯電話を差し出す。

「副社長、お電話です。社長が…」

「いい。こちらは引くことにした。」

その男はそう言って、机の引き出しから封筒を取り出した。そこには、東京駅まで大事に運んできた、とある書類が入っている。

「父から伝言です。『それが、せつ子から預かった十年だ。』」

男性は、窓の外の東京の街を見下ろしながら、そっと封筒に目を落とした。そして、ゆっくりと口元をほそめて笑った。それは、幼い頃に聞いた、祖父の笑い方だった。

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