「あなた、不倫してるんでしょう。」
震える手で、私は夫のスマホをテーブルに置いた。夫は、その画面を一度見ただけで、顔色ひとつ変えなかった。
「だから、何?」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
私は大谷翔子、四十二歳。夫と結婚して十八年になる。本当は、人のスマホを見るなんて、絶対にしてはいけないことだと思っていた。でも、ここ数ヶ月、夫は明らかに変わっていた。帰宅は遅くなり、食事中もスマホを伏せるようになり、お風呂に入るときまで、スマホを持ち歩くようになった。
「最近、疲れてるの?」
そう聞いても、夫は短く答えるだけだった。
「別に。」
私は、仕事が忙しいのだと思おうとしていた。十八年も一緒にいた夫を疑う自分自身の方が、嫌だったからだ。
けれど、あの夜、夫がソファーで寝落ちした横で、スマホの画面が光った。通知に浮かんだのは、夫と同じ会社で働く女の名前だった。
見ないほうがいい。そう思った。でも、もう見ないふりを続けることの方が、怖かった。
私は震える指で、その画面を開いた。
『証拠にはもう、気持ちがない。離婚の話も、近いうちにする。私も待ってる。早く一緒になりたい。』
何度読み返しても、その意味は変わらなかった。夫は、職場の女と不倫していた。
その夜、私は一睡もできなかった。夫の寝顔を見ながら、何度も思った。どうして。いつから。私たちの十八年は、何だったの。
朝になり、夫がリビングへ出てきたとき、私は夜のうちに握りしめていたスマホをテーブルに置いた。
「あなた、不倫してるんでしょう。」
夫は、その画面を一度見ただけだった。そして、さっきと同じ言葉を、平然と口にした。
「だから、何。」
「だから、何って…。あなた、自分がしたこと、分かってるの?」
私がそう問い詰めると、夫はうんざりしたように息を吐いた。
「人のスマホを勝手に見るとか、人として終わってるだろう。」
不倫をした夫ではなく、それを見てしまった私のほうが責められていた。
「私の十八年、返してよ。」
二十四歳で結婚してからの時間が、喉の奥からこぼれ落ちた。嬉しかった日も、泣いた日も、全部。私は、全部、二人の未来になるのだと信じていた。
思い返せば、結婚を急いだのは、夫のほうだった。
「俺も、もう三十路を過ぎたし、早く家庭を作りたい。子供のことも、考えたいんだ。」
私は、結婚を軽く決めたくなかった。
「勢いで決めることじゃないよ。お互い、ちゃんと考えてからにしよう。」
それでも夫は、家や子供、年を重ねた後の話を、何度も何度もした。私は、その言葉を信じて、結婚した。
気づけば十八年、子供には恵まれなかった。それでも私は、二人で生きていく方法を探せると思っていた。結婚十五年のときに、駅近の新築マンションを買った。休日にはインテリアショップを回り、ソファーも食卓も照明も、何度も何度も見比べて選んだ。
「このカーテン、お前が好きそうだな。」
そう言って夫が笑った顔を、私は今でも覚えている。
だから私は、夫に聞いた。
「本当に、それでいいの? この家も、私たちの十八年も、全部失って後悔しないの? 離婚以外に、考えることはないの? 」
夫は、スマホを伏せ、私を見ないまま答えた。
「もう、決めたんだよ。マンションも売ればいいし。家具なんて、また買えばいい。」
その言葉だけでも十分苦しかったのに、夫はさらに言った。
「子供もいないんだし、若いうちに別れたって、お互い身軽だろう。」
まるで、子供ができなかったことまで、私一人の問題だったかのように聞こえた。胸の奥で、何かが音を立てて壊れた。
彼は、部下としても優秀で、この先の将来も約束されていた。「俺は、これから上に行くんだよ。お前といても、もう何も変わらない。」
彼が欲しかったのは、私と作る暮らしではなかったのかもしれない。自分に都合のいい、立派な家庭を持つ男という、その姿だけが欲しかったのだと、そのとき初めて思った。
マンションは、すぐには売れなかった。離婚と売却の手続きがすべてまとまるまで、およそ三ヶ月。その間、夫は女の家に泊まるようになり、私はこの部屋に一人で残された。
食卓を見るたび、夫と向かい合って食べた朝ごはんを思い出した。照明を見るたび、二人で脚立に乗って取り付けた日を思い出した。数日前まで、私はここで年を重ねていくのだと思っていたのに。その部屋は、思い出が多いほど、私を苦しめる場所になった。
眠れず、食べ物の味もしなかった。鏡の中の自分は、別人のようにやつれていた。
ようやく手続きが決まり、鍵を返した日。空っぽになった部屋の真ん中で、私はしばらく動けなかった。家を失ったわけではない。私が信じていた未来を、置いていくのだと思った。
その後、私は実家に戻った。壊れたまま、逃げ込んだだけだった。しばらくの間、私は部屋からほとんど出られなかった。母は何も聞かず、食べられそうなものだけを部屋の前に置いてくれた。友人は、無理に元気づけようとはせず、たまにくだらない話を送ってきてくれた。
少しずつ、私は外へ出られるようになった。最初は家の前を五分歩くだけ。やがて、近所のスーパーまで行けるようになった。
帰り道に、小さなカフェの前を通った。店先には、パート募集の貼り紙がある。何度もその前を通った。誰かと笑って話すことなんて、まだ無理だと思っていた。
でも、ある朝。洗面所に映った自分を見て、ふと思った。
これ以上、母に心配をかけ続けたくない。あんな身勝手な男に捨てられたからといって、私の人生まで終わらせたくない。あの人に、ここまで苦しめられたままでいるのは、もう終わりにしたかった。
私は自分で、あの店に電話をした。声は震えていた。それでも、電話を切ったときには、ほんの少しだけ、息ができた気がした。
カフェで働き始めても、私はまだ笑うのが苦手だった。注文を聞く声は小さくなり、レジの前で手が震えることもあった。それでも、一日一日、店に立った。
三ヶ月ほど経った頃には、常連のお客さんの顔と注文を、少しずつ覚えられるようになっていた。その中に、毎週火曜日の午後に来る男性がいた。近くのリフォーム会社を経営している後藤さんという人だ。
彼はいつも窓際の席に座り、ブラックコーヒーを一杯だけ飲んで帰る。最初は、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の、それだけの関係だった。
ある日、私が伝票を落としたとき、後藤さんは足元に落ちたそれを拾い、私に差し出してくれた。
「どうぞ。」
それだけだった。私も、「ありがとうございます」と受け取っただけだ。
でも、その日を境に、少しだけ言葉を交わすようになった。新しく出たケーキのこと。その日の天気のこと。店の前に置いてある観葉植物が、少し元気がないという話。後藤さんは、必要以上に踏み込んでくる人ではなかった。私が何か言うまで、決して自分の話を押し付けなかった。私が言わないことを、無理に聞き出そうともしなかった。何もなかったように、ただ、そこに居てくれた。ひどく疲れているように見える日も、どうしたんですかとは言わなかった。それでも大丈夫かとも、病院へ行ったほうがいいとも言わなかった。そして何より、私が失ったものを、軽く扱わなかった。
ある月曜日のことだった。翌日は火曜日。後藤さんが、ゆっくりと言った。
「お仕事、お疲れさまです。」
ふと顔を上げると、まだ閉店後のカウンターの中ではなく、店の外、帰り道に、後藤さんが立っていた。
「あの…後藤さん、どうしてここに?

」
「いや、ちょうど近くを通りかかって。今日、店の前を何度も通ってたでしょ。」
「え? 」
見透かされていた。カーテン越しに、私がうろうろしていたのは。
「あの、さ。もし、嫌じゃなかったら、なんだけど…。」
彼は、そこで一旦言葉を切った。
「何でしょうか? 」
「マンション、売ることにしたんです。来月には、ここを離れることになりました。」
言いながら、自分でも驚くほど、声が素直に出た。店の常連さんに、こんな話をすることになるなんて、思ってもみなかった。でも、この人になら、話しても大丈夫だと思えた。最初から、そう感じていた。
「勇気を出して、話してくれたんだね。」
後藤さんは、私が想像していたような面持ちで、静かに聞いてくれていた。
「こんな話、聞いてもらって、すみません。何が何だか、自分でも分からなくなってしまって。」
「無理もないよ。それで、よかったら、なんだけど…。」
彼は、そこで優しく笑った。
「…また、いつでも話しにきてください。場所は変わるかもしれないけど、僕はいつでもここにいますから。」
その後、後藤さんは、一度だけ食事に誘ってくれた。
「よかったら、今度、ゆっくり話しませんか? 」
私は、怖くなって、断った。
「すみません。まだ、ちょっと…。」
後藤さんは、すぐに頷いた。
「分かりました。また、いつでも話しかけてください。」
そして、本当に、それ以上は誘ってこなかった。
それから一ヶ月ほど経った頃、私は意を決して、後藤さんのコーヒーカップを、いつもの窓際の席に運びながら、声をかけた。
「あの、今日、少しだけ時間ありますか?
」
後藤さんは、一瞬目を丸くしたあと、優しく笑った。
「ええ、もちろん。今日は、時間がありますよ。」