弁護士の一言で、法廷は静まり返っていた。DNA鑑定の結果、お二人の間に父子関係が認められます。その瞬間、元夫の浩二が勝ち誇ったように笑った。ほら見ろ。やっぱりみさは俺の娘じゃないか。そう言って、私の隣に座る娘に向かって、優しい父親を演じるように言葉を続けた。みさ、今まで悪かったな。これからは父親として、お前の将来を支えてやる。だが、15歳の娘はじっと浩二の顔を見つめ、静かに言い放った。違うよ。この鑑定で証明されたのは、あなたが自分の娘を捨てたってことだけ。
その瞬間、浩二の顔から笑みが消えた。実の娘を捨てて逃げた男が、十五年の時を経て、娘の遺産を狙って戻ってきた。決して許される話ではない。私はゆみ、四十五歳になる。夫の浩二が家を出ていったのは、娘のみさが生後三ヶ月の頃だった。
あの日も、みさは朝からずっと泣いていた。何をしても泣きやまず、抱いていないとすぐに泣き叫ぶ。睡眠不足で、立っているのもやっとの状態だった。私はソファーでスマホを見ている浩二に声をかけた。ねえ、少しだけ抱いてくれない? 明日も仕事なんだって言ってるだろ。五分だけでいいの。その間に哺乳瓶を洗いたいから。浩二は大きなため息をつき、嫌々ながらみさを抱いた。しかし、みさが泣きやまないと、すぐに私に押し付けてきた。やっぱり母親じゃないと無理なんだよ。私だって初めてなのよ。一日中家にいるんだから、それくらいやってよ。
出産前の浩二は、子供が生まれるのを本当に楽しみにしていた。小さな靴下を見ては、早く会いたいと笑っていた。なのに、実際に娘が生まれると、浩二は少しずつ家に帰らなくなった。仕事が忙しい、付き合いで飲みに行く、と。家にいても、娘が泣くと煩そうにする。休日には、たまには一人にしてくれと、朝から出かけていくようになった。
そして、ある夜のことだ。泣いているみさと、泣いている私に向かって、浩二が突然言った。その子、本当に俺の子なのか? 聞き間違いかと思った。どういう意味? 俺に全然似てないだろう。生後三ヶ月の赤ちゃんが誰に似ているかなんて、分かるはずもないのに。何を言ってるの?

みさはあなたの子よ。でも、浩二は続けた。証拠がないだろう。あの時は頭の中が真っ白になった。私は浩二以外の男と関係を持ったことなど一度もなかった。疑われるような行動をしたことも一度もない。DNA鑑定をすれば分かるわ。そう言うと、浩二はなぜか逆上した。そこまでしないと証明できない時点で、もう信用できないんだよ。
今思えば、浩二は真実なんて求めていなかったんだ。子育てに耐える生活も、父親としての責任も、全て投げ出したかった。そのための理由として、私の浮気というものをでっち上げただけだった。翌朝、浩二は荷物をまとめた。待って、みさはどうするの? 俺の子かどうか分からない子を育てる気はない。もし、あなたの子だったら? 今更そんなこと言われても知らないな。浩二は一度も振り返らず、家を出て行った。
玄関のドアが閉まった直後、腕の中のみさが泣き出した。私はその場に座り込み、みさを強く抱きしめた。ごめんね、寂しい思いをさせて。本当にごめんね。すると、みさは涙を流す私を見て、笑った。まだ何も分からないはずなのに、私を励ますように笑ったんだ。その笑顔だけで、次の日も起き上がることができた。
浩二は離婚の話し合いにもほとんど姿を見せなかった。養育費のことを尋ねても、俺の子だという証拠がないと、支払いを拒否した。裁判で争うことも考えた。でも、あの頃の私は毎日の生活を続けるだけで精一杯だった。みさを預けられる場所を探し、家賃を払わなければならない。結局、私は一刻も早く浩二と縁を切ることを選んだ。昼間は小さな会社で事務として働き、みさが眠った後は、自宅でデータ入力の仕事をした。そして、保育園から電話が来るたびに、職場の人に頭を下げた。また、お子さんですか? 冷たい顔をされても、何も言い返せなかった。みさが熱を出した夜は一睡もせず看病し、朝になると会社へ向かった。電車の中で立ったまま眠り、乗り過ごしてしまったこともある。
それでも、実家には頼らなかった。父をなくしたばかりの母は、自分の生活だけで精一杯だったから、これ以上心配をかけたくなかった。けれど母は、月に一度は必ず娘に会いに来てくれた。決して生活に余裕があるわけではないのに、娘の服や絵本を持ってきてくれた。お母さん、無理しなくていいのに。無理じゃないわよ。私はね、この子の笑った顔を見るだけで元気になるの。母はみさを抱きながら、いつもそう言った。娘も母が大好きだった。私が残業の日には、母が保育園へ迎えに行ってくれた。三人で食卓を囲む時間だけが、私にとって唯一心休まる時間だった。
娘が五歳になった頃、寝る前に突然聞かれた。私のパパはどこにいるの?
胸が締め付けられた。本当のことを話すには、みさはまだ幼すぎた。遠くにいるんだよ。会えないの? うん、今は会えないの。そっか。みさはそれだけ言って布団の中へ潜った。でも、分かっていた。保育園で父の日の絵を書く時、娘だけが母の絵を書いていたこと。父親がいないことで、何も感じていないはずがなかった。それでも、みさは私を困らせるようなことを一度も言わなかった。母の日には、画用紙いっぱいに私の顔を描き、お母さん、いつもありがとうと笑ってくれた。私はその度に思ったものだ。この子は強い、私よりもずっと強い子だと。
それから十年が過ぎた。みさは十五歳になり、高校受験を控えていた。成績は良く、将来は建築の勉強をしたいと話すようになっていた。お母さんとおばあちゃんが安心して暮らせる家を作りたい、と。みさがそう言った時、母は涙を流して喜んだ。しかし、その年の春、母が突然倒れた。病院へ運ばれたが、意識が戻ることはなかった。
母が亡くなった後、遺言書が見つかった。そこには、みさに二千万円を残す、と書かれていた。母は、受け継いだ土地を売ったお金を、ほとんど使わずに残していたのだ。遺言書の最後には、みさが大学へ行く時や、本当にやりたいことを見つけた時に使ってください、と書かれていた。母はみさのことを、最後まで我が子のように思っていてくれたんだ。
私が母の葬儀の手配で忙しくしていると、あの日突然、浩二が現れた。葬儀に来るような間柄だっただろうか。いや、それ以前に、十五年間も会いに来なかったのに、どうして今なのか。みさは中学生になり、姿かたちも大人っぽくなっていた。それを浩二は、自分と再会する口実にしたのかもしれない。葬儀の後、浩二はすり寄ってきた。ゆみ、久しぶりだな。元気にしてたか? 私は無視した。何の用? と聞くのも惜しいほど、吐き気がした。すると浩二は、薄っぺらい悲しそうな顔を作って言った。おばさんが亡くなったって聞いてな。心配になって。葬儀にまで来ておいて、何を言い出すのか。私は冷たく言い放った。あなたにだけは関係ないわ。そう言って去ろうとすると、浩二は私の腕を掴んだ。待ってくれ、話があるんだ。お前じゃない、みさに会いたいんだ。
背筋が凍る思いがした。何を馬鹿なことを。あんたが名乗り出る筋合いはないでしょ。今更、何の話?
俺の娘かもしれないだろう。娘? よく言えるわね、そんなこと。この十五年間、一度だって会いに来なかったくせに。養育費だって払ってない。今さら何がしたいのよ。浩二はにやりと笑った。だから、その確認をしたいんだよ。DNA鑑定ってやつをさ。もし俺の子だったら、父親としてしっかり支えてやるよ。信じられなかった。あれほど手放したくて仕方なかった子が、今さら自分の子だと言い出した。そして、私は気づいてしまった。この男は、母の遺産の話を聞きつけたのだ。母が土地を売って、かなりの金を残していたことを。浩二は、それが目当てなのだ。
そんなこと、絶対にさせない。私は首を振った。あんたと会話をする気はないわ。お金なんてないんだろ? それじゃ、みさにこれから教育を受けさせるのも難しいんじゃないか? 俺が力になってやれるのに。やめて。もう来ないで。私はその場を立ち去ったが、浩二の執着は簡単に消えなかった。数日後、今度は家に押しかけてきた。居留守を使っても、何度も何度もインターフォンを鳴らす。しまいには、家主に電話して追い出されたこともある。その姿を見て、私は確信した。この男は、絶対に何かを狙っている。みさを守らなければ。ようやく娘に会えると思った矢先、玄関のチャイムが鳴った。行くな、と言った私は、ソファーで宿題をしていたみさの手を握った。今のあの人は…。浩二ね。うん。何しに来たの?
お母さん、私、ちゃんと話をする。みさの目は、まだ十五歳とは思えないほど落ち着いていた。もう決めたこと。お母さんは信じて。私は大好きな母を信じると決めている。その言葉に、私は何も言えなくなった。力が抜けて、ソファーに座り込んだ。
後日、私とみさは、軽い気持ちで近所のラーメン屋に来ていた。すると、顔を輝かせた中年の女性が声をかけてきた。やっぱり、みさちゃんじゃない! 大きくなったね! おばあちゃんの知り合いかしら? 娘が首をかしげると、母が慌てて言った。こちらは、私が前の会社でお世話になった本間さんよ。そう言って、女係長の本間さんがラーメンを食べる隣に座った。本間さんはみさの顔をじっと見て、ああ、やっぱりお母さんにそっくりだね。特に、その目の形が。そう言って優しく微笑んだ。その言葉に、私は思わずほっとした。本間さんは続けた。知ってるかい?
お前さんの母さんな、お前を産んだ後もずっとこっそり連絡をくれとったんやで。たまに、娘の写真を送ってくれた。その度に、生きててよかったって思えるって言うとった。突然のことに、みさは何も言えずにいた。本間さんは、私の目を見て言った。あんたが、あの人のことを、どんなに大事にしてたか、ちゃんと分かってやってくれよ。帰り道、みさはずっと黙っていた。そして、家に着く直前、ぽつりと言った。ねえ、お母さん。私、やっぱり会ってみたい。お父さんに。言葉を失った。慌てて言った。でも、あの人は、あなたが小さい頃に…。知ってる。でも、私は、自分の目で確かめてみたいの。どんな人なのか。
私は、みさの前でDNA鑑定の話を持ち出した。土曜日にでも、市内の機関にでも行ってみる? みさは驚いた顔をした。お母さん、それって…。私も、はっきりさせたいんだ。ずっと、あなたに黙って隠していたことだから。もし、あの人が本当にあなたの父親なら、きちんと話をしなくちゃ。ただし、条件があるわ。もし結果が出ても、あなたが無理に会う必要はないってこと。お父さんとして認める必要もない。お母さん、私、大丈夫だよ。みさはそう言って、そっと私の手を握った。お母さんが私にしてくれたことは、全部知ってる。そして、これからは、私がお母さんを守る番だから。
その週末、私たちは浩二を呼び出して、DNA鑑定の手続きをした。結果を伝えるのは、弁護士を通すことにした。直接会って感情的なやり取りをするのを避けたかったからだ。その一週間は、本当に長かった。みさは学校から帰ると、いつも部屋にこもって本を読んでいた。何を考えているのか、分からなかった。夜、リビングのソファーでテレビを見ていた私に、みさが聞いた。ねえ、お母さん。もし、あの人が私の父親じゃなかったら、どうする? 私はテレビを消して、向かい合った。その時は、今まで通り、二人で生きていけばいいのよ。それはそれで、すっきりするでしょ。もし、そうじゃなかったら? 私は、二千万円の遺産を手にして、のうのうと暮らしているあの男から、養育費をきっちり取るわ。みさは、変な顔をして、いや、私、本当のお父さんはお母さんとおばあちゃんで十分だと思ってる。私は、娘が私と同じことを考えていると知って、少し安心した。
そして、運命の日。弁護士の事務所で、結果が渡された。封筒を開けると、そこには、父性の確率が99.
9%と書かれていた。浩二は、勝利の笑みを浮かべた。ほら、見ろ。やっぱり俺の子じゃないか。これからは、ちゃんと父親としての責任を果たすぞ。その口調は、祝福されている場面でもないのに、やけに芝居がかっていた。私は、いきなり真剣な顔で言った。ちょっと待って。確かに、あなたはこの子の父親よ。でも、あなたは、私がみさを妊娠した時、一度も病院に来なかった。生まれるまで、生まれてからも、一切の連絡を絶った。そして、私は、こうして十五年間、あなたと一切関係なく、みさを育ててきた。あなたは、今さら何を言うのよ。おい、ゆみ。それは、俺がDNA鑑定を疑ってたって話だろ? これで、証明されたんだ。娘を信じろよ。私は、コップの水を一口飲んだ。確かに、DNAは証明されたわね。でも、私は、あなたを父親とは認めない。何でだよ! 法律上は、俺はこの子の父親だろうが! それがどうしたっていうのよ。私は弁護士を見た。工藤さん、あとはお願いします。弁護士はコホンと咳払いをし、一枚の書類を取り出した。本日はお集まりいただき、ありがとうございます。では、こちらが判決文です。まず、工藤さんは、佐藤みささんの実の父親ではありません。私は理解できなかった。何を言ってるんだ?
裁判所には、実の子供ではないとのDNA鑑定の結果を提出しています。今回は、あなたの依頼ではなく、私どもの方から行ったものです。ちょっと待て、どういうことだ? 弁護士は、もう一度判決文を読み上げた。佐藤みささんの遺産相続権を、工藤さんに認めるものではありません。また、工藤さんは、みささんの親権および面会請求権を、一切有しません。裁判所は、あなたがみささんの実の父親ではないと判断しました。嘘をつくな! お前ら、グルになってやがるんだな! 何で俺が実の父親じゃないんだ!
あの鑑定結果は、俺とみさの親子関係を肯定するものだったじゃないか! 私は立ち上がった。いいえ、あの鑑定結果は、あなたが「自分の遺伝子上の父親である」と示しただけよ。私は、あなたが「みさの父親」なのかどうかを否定しているの。意味が分からない! 私は、冷静に言った。みさは、あなたの子供。でも、あなたは、あの日から十五年、みさのためにお金も使わなければ、一度だって会いに来なかった。そして、先日、あなたは相続の話を聞きつけて、急に父親だと言い始めた。あんた、まさか…。私は、バッグから、一通の書類を取り出した。昨晩、あなたからみさに宛てたメッセージのスクリーンショットよ。そこには「お父さんは、お前に二千万円の取り分があることを伝えたい」と書いてあったわね。これは、脅迫罪に該当する可能性があるわ。どう告発するか、弁護士に相談しているところよ。浩二の顔が、みるみる青ざめていく。おい、やめろ! そんなことしたら、俺の立場が…。あなたの立場?
あなたは、最初から娘の金目当てで、父のふりをしていただけなんでしょ。私、知ってるんだからね。あなたが、母が亡くなった後、遺産の話をあちこちで聞き回っていたって。全部、調べてあるのよ。
浩二は、机に突っ伏して、しばらく何も言えなかった。やがて、絞り出すような声で言った。…悪かった。ゆみ。俺が悪かった。どうか、娘には手を出さないでくれ。娘の名前を呼ばないで。あなたにとって、みさはただの金づるでしょ。私は弁護士の方を向いた。工藤さん、あとはお願い。私はみさの手を取った。さあ、帰りましょう。みさは、浩二を一切見なかった。帰り道、みさはやっと口を開いた。ねえ、お母さん。私、嬉しかった。お母の子に生まれてきて。私は、娘の手を握り返した。私もよ。あなたの母でいられて、幸せだわ。これからは、二人でやっていくのよ。うん。みさは、涙を拭って、笑った。その日の夕方、家に法務局から、母が遺した書類の控えが届いた。そこには、母が遺した土地の登記と、みさ宛ての遺言書の控えがあった。私はそれを手に、家を空けた。肩の荷が下りたような、安堵の思いとともに。空は、こんなに青いのに、私はようやく、母の死を乗り越えた気がした。娘の未来のために、今、できることをしよう。私が父に背を預けることは、もうないのだ。