夫がスマホをいじりながら、私の顔も見ずに言った。「お前はビジネスを何も分かってない。二度と余計なこと言うなよ」。その夜、私は寝室のドアの前で立ち尽くした。5年前、小さな定食屋で「いつも頼んでますよね」と声をかけてきたスーツ姿の彼は、私の手を握るのもキスをするのも、いつも彼からだった。なのに今、隣にいる私より画面の向こうの誰かを優先している。数日後、SNSで見つけた女の投稿には、夫が大事にして…

夫がスマホをいじりながら、私の顔も見ずに言った。「お前はビジネスを何も分かってない。二度と余計なこと言うなよ」。その夜、私は寝室のドアの前で立ち尽くした。5年前、小さな定食屋で「いつも頼んでますよね」と声をかけてきたスーツ姿の彼は、私の手を握るのもキスをするのも、いつも彼からだった。なのに今、隣にいる私より画面の向こうの誰かを優先している。数日後、SNSで見つけた女の投稿には、夫が大事にして...

私はマリ。サロンで働く美容スタッフです。夫のシ太とは5年前に出会いました。場所は会社近くの小さな定食屋。私は週に3回、そこで日替わりランチを食べていました。ある日、席に座ろうとすると隣のテーブルから声をかけられました。

いつも頼んでますよね。

振り向くとスーツ姿の男性が少し照れたように笑っていました。それが広告代理店で働くシ太でした。最初はただの顔見知りでも、行く日が重なり、頼むメニューが重なり、少しずつ会話が生まれていきました。

広告の仕事って華やかに見えるけど、実際は地味なんだよ。知ってた?

美容も同じよ。綺麗に見せる仕事ほど裏は地味だよ。

そんな会話から私たちは急に距離を縮めました。

付き合い始めた頃のシ太はとにかく私に夢中でした。仕事帰りに迎えに来てくれて、雨の日は傘を持って待っていてくれて、私の手を握るのもキスをするのもいつもシ太からでした。

マリといると俺、頑張れるんだ。

その言葉を信じて私は結婚しました。

ただ、結婚してから一つだけ悩みがありました。広告代理店で働いているのに思うように給料が上がらないこと。同期はもっと稼いでるのに、俺だけ置いて行かれてる気がする。そう落ち込むシ太を私はいつも励ましました。

焦らなくていいよ。シ太にはシ太のペースがあるから。

けれど、その頃から少しずつシ太の目は私ではなくスマホの画面を見る時間の方が長くなっていきました。そして私は夫の不倫に気づき始めたのです。

きっかけは義母からの一言でした。ある週末、夫の実家で夕食を食べていた時、お母さんが何気ない顔で言いました。

そろそろ孫の顔も見たいわね。

私は笑ってごまかしましたけれど、その言葉は心の奥に残りました。

帰り道、シ太がぽつりと言いました。

母さんも悪気があるわけじゃないんだよ。

私はその言葉に少し期待してしまいました。もしかしてシ太も将来のことをちゃんと考えてくれているのかもしれない。最近少し距離を感じていたけれど、今夜は夫婦として向き合えるかもしれない。

家に帰って私は少し丁寧に髪を整えました。香りの薄いクリームを首元に塗り、寝室へ向かいました。

でも寝室に入ったシ太は私を見ませんでした。ベッドに座るなりスマホを開いたのです。画面に向かって笑うシ太。

私は隣で言葉を失いました。

ねえ、最近ずっとスマホ見てるね。

仕事だよ。

でも夜中まで。

シ太は面倒くさそうにため息をつきました。

付き合いも大事なんだ。お前はビジネスを何も分かってない。二度と余計なこと言うなよ。

胸の奥がすっと冷えました。付き合いたての頃はシ太から私に触れてきた。少しでも会いたがって、声を聞きたがって、私の予定を気にしていた。それなのに今は隣にいる私より、画面の向こうの誰かを優先している。

その数日後、私はSNSである女性の投稿を見つけました。名前はサリナ。プロフィールには「自由な働き方」「夢を叶える仲間」「本物のビジネス」と並んでいましたが、実際は商品を買わせ勧誘を続けさせるマルチ商法の関係者でした。そのサリナの投稿に見覚えのある腕時計が映っていました。シ太が結婚指輪と一緒に大事にしていた時計。投稿にはこう書かれていました。

「本物の男は未来に投資できる。奥さんに縛られてる人ってかわいそう。」

私は指先が震えました。問い詰めるとシ太は逆ギレしました。

勝手に人のそういう関係を探るなよ。そういうところが重いんだよ。

そしてサリナはさらに匂わせるように投稿しました。

「選ばれない女ほど被害者ぶる。」

私はその夜、一人で泣きました。

シ太はもう完全に何かに夢中でした。帰宅は遅くなり、休日は勉強会と言って出かける。スーツだけは妙に新しくなり、財布の中には聞いたことのないセミナーの領収書が増えていきました。私は友人にも相談できませんでした。夫が不倫してるかもしれない。そう口にした瞬間、自分の結婚生活が本当に壊れる気がしたからでした。

でも逃げてばかりはいられませんでした。私は泣きながら確証を集め始めました。

シ太のスマホの履歴、ホテル近くの駐車場の領収書、サリナとのメッセージ、勉強会と消した集まりの写真。そしてサリナがシ太を「広告代理店の人だからお金がある」と勘違いしている会話。そこにはシ太が虚勢を張っている様子も残っていました。

「うちは余裕あるから。妻は美容関係で、まあ俺が支えてる感じ。これから大きく稼ぐから。」

笑ってしまうほど全部嘘でした。家計を支えていたのは私の方でした。シ太の服を整え、見た目を磨き、仕事で恥をかかないように支えてきたのも私でした。私は最悪の場合を想定しました。離婚、生活費、住まい、仕事、将来。そして決めました。

私は自立のために美容の仕事を本気で伸ばす。

ただ働くだけでなく、休日には小さなメイク講座を始めました。夜は証拠整理をし、朝は開店前に技術練習。昼はサロンで働き、帰宅後は口座資料を作る。手は荒れ、目の下にはくまができました。それでも止めませんでした。なぜなら、これは夫を見返すためだけではなかったからです。私がこの仕事で成功を掴めば、離婚しても生きていける。誰かに選ばれなくても、自分の手で生活を立て直せる。そう思えたから私は黙って準備を続けました。

一方その頃、シ太とサリナはまるで自分たちが正しい夫婦のように振る舞っていました。サリナはシ太の隣で妻のように予定を管理し、食事の写真を上げ、ビジネス仲間の前でこう言っていたそうです。

「彼は今の環境だと力を発揮できないの。私が引き上げてあげる。」

もはや本妻がどちらなのか分からない状態でした。

ある夜、シ太はサリナを連れて帰りました。

マリ、話がある。

リビングに入ってきたサリナは勝ち誇ったように笑っていました。

奥さん、もう分かってますよね。

シ太も余裕の顔でした。きっと私が泣いて怒って取り乱して、シ太にすがりつくと思っていたのでしょう。

でも私は静かに封筒をテーブルに置きました。中には証拠のコピー、弁護士に相談した記録、サリナの投稿、ホテルの履歴、そしてマルチの実態を示す資料。サリナの顔色が変わりました。

何これ?

私は何も答えずに立ち上がりました。二人はきっと、私が泣き喚くのを待っていたはずです。でも私は泣きませんでした。あの日々、夜中に一人でこっそり泣いた涙が、二人の前にはもう残っていなかっただけです。

サリナが立ち上がり、声を荒げました。

ふざけないで! シ太とのことは本物の愛なのよ! あなたみたいに何も分かってない女に、シ太の何が分かるの!

私は静かに振り返りました。

分かるわよ。あなたはシ太を買ったんでしょ。私が作ってきたこの生活を、私の支えを、全部。でもそれって、私の夫を初めから取ったわけじゃない。

サリナは悔しそうに唇を噛みました。シ太も何か言おうとしましたが、私は手を挙げて制しました。

シ太、あなたは私が何も知らないと思ってたでしょ。でも私はずっと見てた。あなたがサリナと一緒にいる間も、あなたが嘘をつくたびに、私は準備をしてきた。

シ太は初めて焦った顔をしました。

マリ、これは違うんだ。こういうのは仕事の付き合いというか……

仕事? あなたがサリナに「うちは余裕ある」って言ってるの、知ってるわよ。家計を支えてきたのは私。あなたのスーツを整えたのも、仕事で恥をかかないようにしてきたのも、全部私よ。

シ太は言葉を失いました。サリナも何か言おうとしましたが、私はそちらを見ました。

それにあなた、シ太が結婚してるって知ってたんでしょ。そんな人に近づいた時点で、あなたも同罪よ。

サリナは「違う!」と叫びましたが、もう何も返せませんでした。私は机の上に置いた離婚届をシ太の前に差し出しました。

サインして。

シ太は震える手でそれを眺めました。

マリ、俺が悪かった。もう二度としない。やり直してほしい。ちゃんとするから。

その言葉を待っていた日もありました。でも今は違います。私は首を振りました。

やり直すのは二人の人には、もうずっと前からしてたでしょ。

私はそう言って部屋を出ようとしました。すると、ずっと黙っていたサリナが急に肩を震わせて泣きだしました。

シ太、私……私はあなたがちゃんと成功できると思ってた。私だけがいれば、あなたはもっと大きくなるって信じてた。なんであなたは何も出来ないの! 私のために動けないの! 全部マリのせいにしてないで!

シ太はその言葉に頭を抱えました。二人の関係がもう崩れていることは一目で分かりました。私はそれ以上何も言わず、玄関を出ました。

外は静かでした。私は初めての夜に大きな空を見上げました。涙は出ませんでした。もう二度と、あの人のことで泣くのはやめよう。そう心に決めました。

それから私は話し合いを続け、離婚が成立しました。慰謝料こそ取れませんでしたが、私はもう夫の影に怯えることはありません。サロンでは少しずつ指名が増え、休日に開いていたメイク講座も口コミで広がり、本格的な活動に発展していきました。離婚後も私は美容の仕事を続け、ついにはサロンの主任にまで登りつめました。生活を支えてくれていたのは、あの時私が自分で掴もうとした技術と、経営の知識でした。

シ太のその後は、友人から聞きました。サリナにも捨てられて、会社も大きな損失を出したらしい。今は私の存在を惜しんでいるとか。でも、それはもう私には関係のない話です。

あの日、泣き崩れていた私が決断しなかったら、今ごろどうなっていたでしょう。夫に見放され、何も持たずに路上に放り出されていたかもしれません。でも私は、自分で道を切り開きました。

朝の鏡を見るたびに思います。あの時、準備を続けてよかった。私が私を裏切らなければよかった。

今、この腕で好きなだけ美容の仕事に打ち込めています。誰かに気を遣うこともなく、ただ自分の技術が誰かの役に立っている。そう思えることが、何よりの幸せです。

そして今度は、あの時の私のように苦しんでいる誰かの助けになれればと思います。同じように夫に裏切られ、路頭に迷いかけた女性たちに、私の経験を伝えていきたい。そんな小さな活動も始めました。

シ太との結婚生活は、私にとって無駄ではありませんでした。あの日々があったからこそ、私は強くなれた。あの苦しみを経験したからこそ、今の私があります。

私を支えてくれたのは、誰でもない。自分自身です。

サロンの窓から差し込む夕日を見ながら、私はそっと鏡の前で笑いました。もう二度と、あの時のように机の下で震える指でスマホを握りしめることはありません。もう誰の背中も追いかけません。私は私のペースで、自分の人生を歩いていきます。

今日も私は、サロンで誰かの笑顔のために働きます。あの日、泣きながら誓った自分のために。

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