高級フレンチの個室に、神宮寺レナの甲高い笑い声が響き渡った。大和中央銀行の令嬢である彼女は、ワイングラスを片手に目の前の男を指さして笑っている。その笑い方には上品さを装いながらも、他者を踏みにじる悦びが滲んでいた。
男、柊介は握りしめたグラスが軋むほどの怒りを押し殺しながら、その言葉を正面から受け止めていた。
「レナさん、一つ聞いてもいいですか。友達でもお付き合いする人でも、何を基準に釣り合っていると判断しているんですか?」
「え? 何? って決まってるじゃん。まず家柄でしょ。次は学歴。そして何と言ってもお金」
「つまり、家柄と学歴とお金だけで、レナさんの中では人間の価値が決まるということですか?」
「当たり前じゃん。世界なんてそういう風にできてるんだよ。あんたが何を頑張ったって、生まれで人生は決まるの」
男は片親育ちの過去を恥じたことはなかった。むしろ、その過去があったからこそ、今の自分があると胸を張っていた。だが、目の前にいるこの女には、そんな誇りは無価値だった。
「じゃあ、オタクの銀行の預金残高、全部どうぞ。勝手にすれば? どうせ数百万とかでしょ。パの銀行には何の影響もないから」
その一言を聞いた瞬間、テーブルを叩いて大笑いした。ワインが揺れた。だが、このたった一言が、名門の運命を根底から覆すことになるとは、この女は想像すらしていなかった。
朝6時半。都心から電車で40分、築30年のマンションの一室で、宗介は朝のコーヒーを入れていた。キッチンに漂うコーヒー豆の香ばしい匂いが、狭いリビングに染み渡っていく。
42歳、フィンテック企業「劇場ラボ」の創業者にして個人資産は数百億円を超える男の住まいとは、誰も信じないだろう。家具は最低限。壁には絵の一枚もなく、クローゼットにはごくシンプルな服が生前と並んでいるだけだ。
灰色のトレーナーを羽織り、髭を剃り終えた宗介は窓に目を寄せた。ビルの隙間から朝日が顔を覗かせ始めている。ドリッパーからコーヒーが落ちる音が、静寂の中に一粒、また一粒と響いた。
30年前、施設の厨房で聞こえていたのは、大きな窪で沸騰するお湯の音だった。あの音も宗介にとっては温かかった。今の高級なコーヒーの香りは、一人の朝を静かに彩るだけだ。
スマートフォンが振動した。霧谷先生からのメッセージだ。
「申し訳ない。男側と女側、それぞれ一人ずつ急遽欠席になった。一対一になるが、よろしく頼む」
宗介は短く「わかりました」とだけ返した。一対一の方が、むしろ話しやすい。そう思いながら、都心の高級フレンチレストランの店内に足を踏み入れた瞬間、静かに息を吐いた。
こういう店には慣れている。問題は店ではなく、こういう場を結婚の場に使う人間と同席することへの、いつもの鈍い居心地の悪さだった。
白いテーブルクロスの上には銀のカトラリーが生前と並び、窓際には年代物のワインが飾られ、天井には小さなシャンデリアが柔らかい光を落としている。個室の入り口で出迎えたソムリエが、宗介の服装を一瞥してかすかに眉を動かした。いつも通りのシンプルなジャケットにチノパン、腕にはデジタル式の電波時計だ。
テーブルには、なぜか二人の姿があった。若い女性の隣に、年配の女性が品よく座っている。
「あ、ママも来てるんですけど。一対一って聞いて、ママが心配しちゃって」
そう言って軽く笑ったのが、神宮寺レナだった。隣に座る母親の政は、宗介の姿を上から下まで値踏みするように眺め回している。
「ほら、霧谷先生のご紹介とはいえ、どんな方か分からないじゃないですか。娘が一人で知らない方と二人きりでお食事するのは不安で。失礼かとは思ったんですけど、念のため」
テーブルの向いに座るレナは、洋服からバッグ、アクセサリーに至るまで、全身を高級ブランドで整えていた。その隣には母親の政が同席しており、親子の視線が宗介の腕時計に止まった瞬間、表情がかすかに歪んだ。
「名前、何て言うんですか?」
「宗介です。柊介」
「ふうん。で、何の仕事をされてるの?」
「フィンテック企業を経営しています」
「フィンテック? ああ、最近流行りのIT関係でしょ。儲かってるの?」
「何とかやっています」
「何とかって、あいまいね。まあいいわ。とりあえず、乾杯しましょう。ママ、グラス出して」
ソムリエがワインを注ぐ。グラスを掲げながら、レナは話し始めた。
「お父様が大和中央銀行の頭取をしてるの。私も来年から、系列の商社で働くことになってるのよ。まあ、お勉強の一環みたいなものだけど」
「そうですか」
「でしょ? だから、家柄とか学歴が合わない人と結婚する気はないの。お互いのためにね。あなた、どちらの大学出?」
「大学は出ていません」
「え? じゃあ、高卒?」
「中卒です」
その瞬間、個室に一瞬の静寂が走った。レナの顔から笑みが消え、政が眉をひそめた。
「中卒? あらまあ、それはまた……」
「施設で育ったので。学校に行くお金がなかったんです」
「まあ、それは大変だったのねえ」
政が口を挟んだ。その言葉には、まったく同情の色がなかった。むしろ、下の者を見るような値踏みする視線だった。
「で、その施設って、何なの? 児童養護施設?」
「はい」
「まあ、可哀想に。でも、よく頑張ってきたのね。一人でやってきたんでしょ? 立派だわ」
「ありがとうございます」
「でもね、あなた。いくら頑張ってきたって、生まれの差は埋められないのよ。ごめんね、はっきり言って」
レナがグラスを傾けながら、軽い調子で続けた。
「私、分かりやすい男の人が好きなの。自分がどんな身分か分かってて、私の家に合わせてくれる人。そういう人となら、結婚してもいいと思ってるのよ。どう? あなたも、私の家に合わせる気、ある?」
宗介はコーヒーカップを置き、静かにレナを見つめた。
「申し訳ないんですが、そのお話はお受けできません」
「は? 何でよ」
「あなたと私は、釣り合わないと思ったので」
「釣り合い? そうですか?」
「何その言い方? バカにしてるの?」
「してないです。ただ、考え方が俺とは随分違うなと思って」
「あら、宗介さん、それならどのような考え方をお持ちなんですか?」
レナの言葉に、宗介は少しだけ間を置いた。そして、静かに語り始めた。
「かえ先生が言ってました。人の価値は、お金や家柄じゃない。どれだけ人のために汗をかけるかだって」
「かえ先生って、施設の先生? ふうん、そんなの、ただの綺麗ごとよ」
「そうかもしれません。でも、俺はその言葉を信じてここまでやってきました。あなたのように、何でも最初から与えられて育った人には、その言葉の重さは分からないかもしれませんね」
「あんた、今の何?」
「俺の会社の社員たちは、家族のために、自分の夢のために、必死に働いてます。そして、俺はそんな社員たちが誇りです。あなたが一顧だにしないような、汗をかく人たちです。あなたと俺とでは、そもそも価値観が違う。だから、今日のこのお話はなかったことにしてください」
「ふん、好きにしなさいよ。どうせあなたみたいな中卒の施設育ち、私の家には釣り合わないのよ。言ったそばから、これよ」
そう言って、レナはバッグを手に取り、立ち上がった。政も続いて立ち上がる。
「行くわよ、ママ」
「ええ。でも、レナちゃん。この方を選ばなくて正解だったわね。かえ先生とかいう人も、ろくな育て方をしなかったみたいだし」
「政さん」
宗介の声が、部屋に響いた。その低い声に、親子は思わず足を止めた。
「かえ先生を、悪く言わないでください。あなたたちに、何が分かるんですか」
「はあ? 何よ、その態度」
「言っておきますが、俺の会社は、あなた方の銀行の大口取引先です。大和中央銀行の、な」
その言葉に、レナの顔色が変わる。
「は? 何言ってるの?」
「劇場ラボ。覚えはありませんか? そちらから融資を受けているはずですが」
「劇場ラボ? ああ、あの、最近テレビに出てる……」
「そうです。あなたの家の銀行に、俺は融資の相談で何度も行ってます。その度に、あなたのように人の価値を肩書きで判断する人たちに、散々嫌な思いをさせられました」
レナの顔が真っ赤に染まっていく。だが、それは怒りではなく、恐怖だった。
「あ、あなた、もしかして……噂の、劇場ラボの宗介社長?」
「お会いできて光栄です。神宮寺レナさん、でしたか。あなたのその性格が、あなたの家の将来を左右することになるかもしれませんね」
「ちょ、ちょっと待って、さっきのは、その、私、分かってなかっただけで……」
「分かってなくて結構です。あなたは、俺のような中卒の施設育ちと釣り合うはずがないんです。どうか、あなたに相応しい、家柄も学歴もお金も揃った方をお探しください」
宗介は立ち上がり、テーブルに一万円札を置いた。
「ここまでで十分でしょう。では、お先に失礼します」
そう言って、宗介が個室を出て行こうとした時、後ろから政の声がかかった。
「ちょっと待ちなさいよ! よくも娘を侮辱してくれたわね! 父が知ったらどうなるか分かってるの? ただで済むと思わないでよ!」
宗介は振り返らずに、静かに答えた。
「どうぞ、ご自由に。あなたたちの家がどれほど大したことがないのか、きちんと分からせてあげてください」
そう言い残して、宗介は高級フレンチレストランの個室を後にした。
エレベーターに乗り込み、一人になったところで、宗介は深く息を吐いた。胸のつかえが下りたような、清々しい気分だった。
「さて、今日からまた、俺の仕事を始めるとするか」
エレベーターのドアが開き、一歩踏み出したその時、背後から声がかかった。
「待ってください」
振り返ると、そこにはレナが立っていた。先ほどまでの尊大な態度はどこへやら、どこか弱々しい表情をしている。
「何ですか」
「あの、さっきの話、なかったことにしてください」
「何の話ですか」
「ですから、その、融資の件です。父には、何も言わないでくれませんか? あの、あんなことを言ってしまったことは、本当に、すみませんでした、と思ってます」
その言葉に、宗介は少しだけ間を置いた。
「謝る相手が違うでしょう」
「え?」
「あなたは、かえ先生に謝るべきじゃない。それと、あなた自身の、お父さんに、ですね。あなたの価値観が、お父さんの名前に傷をつけることになるんですよ」
「そんなこと……」
「分かってないようですね。もう一度言います。あなたの価値観は、あなたの家の信用を損なうことになります。俺はそのいい見本を知ってます。大丈夫です。あなたが人の価値を理解できるようになるまで、俺は動きません。ですが、それまでに、あなたが自分で気づけるようになればいいですね」
そう言って、宗介は背を向けた。
「宗介さん」
「何ですか」
「……また、お会いできますか?」
その言葉に、宗介は少し驚いたように足を止めた。
「また、あなたに会えるように、頑張ってみます。だから、その時は、もう一度、まっすぐな目で、俺と話ができる人になっていてください」
宗介は振り返らずに、そのまま去っていった。レナは、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて小さくため息をつくと、自分の個室へと戻っていった。
数週間後、霧谷先生から、一本の電話が入った。
「宗介くん、神宮寺さんから連絡があってな。娘がどうしても、もう一度、宗介くんに会いたいと言っているんだが」
「また、お見合いですか? 懲りましたね、あの親子も」
「いや、どうもそうじゃなくてな。ビジネスの話だと言ってるんだ。あなたの会社の新規事業について、話がしたいと」
「新規事業? あのレナさんがですか? それは面白い。わかりました。いつなら空いてますか?」
「今週の金曜日、君の会社でどうだ?」
「承知しました。じゃあ、金曜日の午後、こちらに来るように伝えてください」
そう言って電話を切ると、宗介は窓の外を見つめた。曇り空の向こうに、うっすらと日差しが差し込んでいる。
「レナさんが、どう変わりましたかね。楽しみです」
そう呟いて、宗介はコーヒーカップを手に取った。湯気の立ち上るコーヒーの香りが、オフィスにふんわりと漂っていた。
金曜日、約束の時間ちょうどに、レナが劇場ラボの受付に現れた。スーツ姿のレナは、あの日と同じように高級ブランドで身を固めている。だが、その目つきがどこか違う。
「お会いできて光栄です。宗介社長」
「お久しぶりです。神宮寺さん」
「あの、今日は、本当にビジネスの話をさせてください」
そう言って、レナは一枚の資料を差し出した。
「これ、うちの銀行の新規事業なんですが、あなたの会社のフィンテック技術と連携できないかと思いまして。私、今、そのプロジェクトのリーダーを任されてるんです」
「それは驚きました。あなたが、ですか?」
「はい。父には反対されましたが、私がどうしても、と言いまして。あなたに、認めてもらいたかったんです」
「認めてもらう? 何をですか?」
「私のことを、じゃなくて、私の仕事を。あなたの会社と、うちの銀行が、タッグを組める価値があるのかどうか。それを、あなたに判断してもらいたいんです」
宗介はしばらくレナの顔を見つめていたが、やがて軽く笑った。
「面白いですね。その話、詳しく聞かせてください」
そう言って、宗介はレナを応接ソファへと案内した。二人の新しい関係の始まりだった。
