「子供ができた。離婚してくれ」
その言葉を聞いた瞬間、私は台所で握っていたお玉をそっと置いた。振り返ると、夫の高俊はソファに浅く腰かけ、膝の上で両手を組んでいた。目は合わない。三年前に結婚した頃の、優しかった高俊の面影は、そこにはもうなかった。
「……そう、わかった」
私はそう言って、黙ってリビングのタンスへ歩み寄った。高俊は私の背中に視線を送っている気配がした。離婚届を取り出そうとしているのだと思っているのだろう。実際、私は三年前からこの日のために、準備をしてきたのだから。
私はタンスの一番下の引き出しを開け、その奥にしまってあった白い封筒を手に取った。そして、それを高俊の前に差し出した。
「はい。これに、記入して」
高俊は怪訝な顔をして封筒を受け取り、中から書類を取り出した。そして、その書類に書かれている内容を確認した瞬間、彼の顔色がさっと変わった。
「……何だよ、これ。離婚届じゃないのか」
「ええ。それが、離婚届よ」
私がそう答えると、高俊はまじまじと書類を見つめた。そこには確かに、『離婚届』と書かれている。だが、その下の欄には、私の署名欄はあっても、高俊の署名欄は存在しなかった。
「お前の名前が書いてないんだが。というか、これは……」
「よく見て。あなたのサイン欄は、そこにはないでしょ。ごめんなさいね、高俊。私、あなたと離婚する気は、初めからなかったの」
高俊の顔色が、見る見るうちに青ざめていく。それを見て、私は心の中で小さく息を吐いた。ここからが、本当の私の話の始まりだ。
***
私たちは、鈴木さやかと高俊。結婚して三年目になる夫婦だ。私は三十一歳。高俊は三十三歳の会社員で、今は妻の私が専業主婦をしている。
高俊との出会いは、私が新入社員として、高俊の勤める会社に入社した時だった。新卒で右も左も分からない私に、当時、教育係だった高俊がとても丁寧に仕事を教えてくれた。気がつけば、私はいつも高俊の隣で仕事を覚えていたし、高俊もまた、そんな私を何かと気にかけてくれた。仕事に慣れ、周りからの信頼を得るようになった頃、私は本社への移動を命じられた。本社は隣町にあり、離れ離れになってしまう。高俊と会えなくなると思うと、私はいても立ってもいられなくなった。そして、本社へ異動する前に、私は高俊に熱烈に告白したのだ。
その甲斐あって、私たちは交際を始めた。職場は離れても、住まいは同じだったから、仕事終わりに食事をしたり、休日にはデートを重ねた。数年後、私たちは結婚した。その時に高俊がこう言ったのだ。
「結婚したら、専業主婦になってほしい」
私は迷わず頷いた。当時の私は、結婚したら家庭に入り、良き妻として夫を支えたいという憧れがあった。仕事に対して特別なやりがいを感じていたわけでもなかった。生活のために、惰性で働いていた部分が大きかったのだ。
両家の挨拶も済み、私は会社を辞めて、高俊の妻としての生活が始まった。
***
「おかえりなさい。今日はかったね。お風呂、沸いてるよ」
「……ああ」
新婚当初の高俊は優しかった。仕事で疲れて帰ってきても、必ず「ただいま」と笑ってくれた。義両親も近所に住んでいて、義母は掃除や料理を丁寧に教えてくれた。困ったことがあれば、すぐに駆けつけてくれた。私は恵まれた環境に、心から感謝していた。
しかし、結婚して一年が過ぎた頃、少しずつ空気が変わり始めた。
「まだ、妊娠してないの?」
義母の口癖は、それだった。
「うちの近所の奥さんなんて、この間二人目が生まれたばかりよ。いつになったら孫の顔を見せてくれるの?」
「……すみません。もう少し、二人の時間を大切にさせてください」
「何言ってるの。早く産んで育てるのが、女の務めよ」
結婚して一年。確かに、子供を考えてもおかしくはない時期だった。私だって、欲しくないわけではなかった。高俊との子供なら、欲しかった。
しかし、問題は高俊だった。
「ねえ、そろそろ、子ども……作らない?」
「……今か? せっかく休みなんだから、今日はゆっくりさせてくれよ」
高俊は、自分の時間を大切にするタイプだった。休日は朝から趣味に没頭し、夜は自分の部屋にこもる。私は高俊の性格を知っていたから、無理強いしなかった。しかし、義母の催促は日ごとにエスカレートしていった。
「高俊も、お前のことも、どうなってるんだ!」
「……わかったよ。少し、考えてみる」
高俊はしぶしぶ承諾した。しかし、私たちの営みは、以前よりも減った。それでも、子どもが授からない。
「そろそろ、病院に行ってみようかと思って」
「……好きにすれば」
不妊治療を始めることを告げると、高俊は興味なさげにそう言った。私は病院に通い始めた。きっと治療をすれば、子どもが授かる。そうすれば、このプレッシャーからも解放される。そう思っていた。
しかし、その直後から、高俊はさらに仕事が忙しくなった。帰りが遅くなり、休日も外出するようになった。
「今日も遅くなるの? どこに行くの?」
「……お前には関係ないだろう」
「待ってよ。ご飯は? お風呂は?」
「外で食ってくる。風呂も向こうで済ませる」
そう言うと、高俊は携帯電話を手に、玄関へ向かった。何か言おうとしたが、ドアの音がそれを遮った。
私は、高俊を問い詰めることができなくなっていた。メッセージを送っても、「うざい」の一言で返ってくる。買い物で少しお金を使うと、「節約しろ」と怒鳴られる。しまいには、物に当たって、部屋の中をめちゃくちゃにすることもあった。
「あんた、何やってるの!」
「うるせえ! 俺の金で飯食ってる分際で、文句があるのか!」
言い返せなかった。私は専業主婦で、生活費は全て高俊の稼ぎだ。その事実が、私を押さえつけた。昔の優しかった高俊は、どこへ行ってしまったのだろう。そう思うと、胸が締め付けられるように苦しかった。
***
そして、結婚三年目に突入したある日。珍しく高俊が早く帰ってきた。
「おかえりなさい。早いのね。夕飯、まだだけど……」
「……さやか。話がある」
高俊の顔は、青白かった。今まで見たこともないような、深刻な表情だった。
「何? 改まって。もしかして、会社で何かあったの?」
「……違う」
高俊は何かを言いかけて、口を閉じた。そして、机の上に置いてあったコップを手に取り、中身の水を一気に飲み干した。
「子供が、できた。……頼む。離婚してくれ」
私は、一瞬、何を言われたのか分からなかった。しかし、すぐに現実だと理解した。高俊は、私のことを愛人に寝取られたのだ。
「……そう、なんだ」
「悪いとは思ってる。だが、俺も彼女も、本気なんだ。お前には、もう……無理なんだ」
「うん、知ってる。本当に、好きなんだね」
私が平静を装って言うと、高俊はほっとしたような、それでいて申し訳なさそうな複雑な顔をした。そして、スーツの内ポケットから、一枚の書類を取り出した。
「……これ。記入してくれ」
差し出されたのは、離婚届だった。高俊は、私に記入を求めている。私は、その離婚届をじっと見つめた。そして、立ち上がった。
「わかった。ちょっと待って」
そう言って、私はタンスの前に歩み寄った。高俊は、私が引き出しから何を取り出すのか、固唾を飲んで見守っていた。
「……はい。これに、記入して」
私が差し出したのは、私が先ほど取り出した白い封筒の中に入っていた書類。高俊は怪訝そうな顔でそれを受け取り、中身を取り出して広げた。そして、書かれている内容を確認した瞬間、表情が凍りついた。
「……何だよ、これ」
「『婚姻費用分担請求書』よ。あなたが家を出てから、私と生活するためのお金を、毎月、定額で払ってもらうための書類」
「は? 何言ってるんだ? これは離婚届だぞ。俺は、お前と離婚すると言って……」
「ええ、知ってるわ。あなたは離婚するつもりよ。私に対して冷たくして、家に寄り付かなくなったのも、全部、私から離婚を言い出すように仕向けるためだったんでしょ? でも、残念だったわね。私は専業主婦よ。働くスキルもないし、あなたの稼ぎがなければ生きていけない。離婚したら、私は路頭に迷うだけよ。そんなことは、私が許さない」
「なっ……」
「私が離婚届を出さなければ、あなたも彼女とも、正式には結婚できないわね。私は、離婚するつもりはないから。どうしても離婚したいなら、あなたの方から離婚調停を申し立てなさいよ。私、絶対に応じないから。その間、あなたは彼女に責任を取れない人間になる。それでいいの?」
高俊の顔が、悔しさで歪む。私は、胸の内で微かに笑った。
「……それに、この書類。あなたが私に冷たくする前に、ちゃんと作っておいたのよ。あなたが愛人を作るんじゃないかって、ずっと前から、薄々気づいてたからね。あなた、残業って言ってるけど、スマホの待ち受け画面、私に隠れてる女の写真だったでしょ。昨日、お風呂に入ってる時に、見せてもらったわよ」
「……!」
高俊は何も言い返せず、ただ拳を握りしめて震えていた。私は、そんな高俊に冷たく言い放った。
「今日はもう遅いから、出て行って。明日、また話しましょう。もちろん、この書類にサインをするまではね」
高俊は、重い足取りでリビングを出ていった。玄関のドアが閉まる音が、静かに響いた。
私は、一人残されて、深く息を吐いた。テーブルの上には、高俊が置いていった離婚届が置かれたままになっている。私はそれを手に取り、破り捨てようとして、やめた。そして、タンスの引き出しにしまい直した。
翌日、高俊は何も言わずに家を出ていった。それから数日後、私の元に、一通の封書が届いた。差出人は、高俊が今、お世話になっている女性の名前だった。
中を開けると、簡素な便箋が入っていた。
『鈴木さやか様 お忙しいところ失礼いたします。突然のお手紙で、驚かれたことと思います。私は、高俊さんとお付き合いさせていただいている者です。高俊さんから、奥様に離婚を申し出たと聞きました。彼の話では、奥様は離婚に応じてくれないとのこと。私も、このままではいけないと思い、お手紙を書きました。お願いです。どうか、高俊さんと離婚してやってはいただけないでしょうか。私たちには、もうすぐ生まれる子供がいます。私の子供にも、どうか、両親の愛情を。離婚していただけるのであれば、私たちの方から、精一杯の慰謝料をお支払いいたします。高俊さんからも、お話があるかと思いますが、まずは私から、お願いしたく、筆を執りました。』
私は、便箋を読み終えて、ふっと笑った。高俊は、私に言いくるめられた後に、慌てて彼女に相談したのだろう。そして、彼女が折れて、私に手紙を送ってきたのだ。
私は、机の引き出しから、とある封筒を取り出した。あの日、高俊が置いていった離婚届が入っている封筒だ。
そして、別の引き出しから、私が自分で用意していた書類を取り出した。それは、離婚届ではなく、『婚姻費用分担の調停申立書』でも、『離婚しない』と書かれた書類でもない。私が高俊と結婚して、初めての妊娠が発覚した時に、病院からもらった『胎児の心拍が確認できました』という検査結果の紙だった。
私は、その紙を封筒に入れ、彼女の住所へ宛てて、投函した。
数日後、高俊から、電話がかかってきた。
「……さやか。頼む。話を聞いてくれないか。一度でいい。直接会って話がしたい」
「……いいわよ。今日、何時なら大丈夫?」
その日の夜、私たちは近所の喫茶店で向かい合って座った。高俊は、すっかり痩せて、憔悴しきっていた。
「……見たよ。彼女から、返事の紙もらった」
「そう」
「……俺、知らなかったんだ。お前が、妊娠してるなんて。いつ、気づいたんだ?」
「不妊治療を始める前から、体調は良くなかったのよ。病院で妊娠が分かって、あなたに言おうと思ってた。でも、その日から、あなたは帰ってこなかった。私が妊娠していることに、気づいてくれないまま、あなたは彼女のところへ行ってしまった」
「……ごめん。本当に、ごめん。俺、お前にひどいことした。気づかなくて、ごめん。でも、頼む。今は、彼女と、生まれてくる子のために……」
「あなた、この子のことは、どうするの?」
高俊は、言葉を詰まらせた。私は、ゆっくりと話を続けた。
「この子の父親は、高俊よ。あなたが愛人を作らなければ、私たちは普通の家族になれてたかもしれない。でも、もう遅いのよ。私は、あなたと離婚するわ。ただし、慰謝料じゃないわ。養育費を、しっかりもらいなさい。私のためじゃない。この子の未来のために」
私は、バッグの中から、あらかじめ記入しておいた離婚届と、新たな書類を取り出した。
「これは、養子縁組の同意書よ。この子は、高俊の子供として産むわ。でも、あなたの籍には入れない。認知もしない。あなたは、あの女性と、あなたの知らないところで、あなたの子供を身ごもった女のことは、一生、責任を取らないといけないの。それが、私からの、最後の贈り物よ」
高俊は、青ざめた顔で書類を眺めていた。そして、何度も何度も、何かを堪えるように、唇を噛みしめていた。私は、彼が涙をこぼすのを、初めて見た。
私は、高俊の前で、自筆で離婚届にサインをした。そして、高俊の分のサイン欄を指で示した。
「さあ、あなたも、書きなさい。そうすれば、私はこの子を抱いて、ここを出ていくわ。今度こそ、本当に、お別れよ」
高俊は、震える手でペンを握った。そして、ゆっくりと、ゆっくりと、紙の上に、自分の名前を書き下ろした。
私は、それを見届けると、書類を何の感情も籠めずに鞄にしまった。
「さよなら、高俊。あなたと結婚して、幸せだったことも、本当はあったのよ。でも、それは、もう、思い出に変えるわ」
私は立ち上がり、喫茶店を出た。外には、冷たい雨が降っていた。私は、そっとお腹に手を当てた。そこに、新しい命の存在を感じる。私は、泣かなかった。高俊の前でだけは、決して泣かないと決めていたから。
あれから、数年。私は、一人の男の子の母として、今日も生きている。パートで働きながら、必死に、二人の生活を支えてきた。高俊からは、彼女との間に子供が生まれたと、偶然、共通の友人から聞いた。それでいい。私は、私の選んだ道を、まっすぐに進んでいく。そして、この子を、絶対に不幸にはしない。そう心に誓って、今日も、この子の成長を見守るのだ。
