「これ、ゴミ同然の通帳ですね。こんなの持ってこられても困りますよ。」
平日の昼下がり、窓口担当の若手銀行員・紫は、カウンター越しに古びた通帳をつまみ上げ、まるで汚物でも扱うように顔をしかめた。目の前に立つ老人は、何を言われたのか理解できなかったかのように眉を潜める。そんな老人の顔を面白そうに見た紫は、さらに畳みかけた。
「うちのお客様じゃないですよね。生活保護の相談はあちらでお願いしますよ。」
紫の背後にいた同僚たちがクスクス笑い、老人を嘲笑う空気が広がる。
「ちょっと待ってください。私のことを悪く言うのは構いませんが、その通帳は大事なものなんです。それに亡くなったら銀行も…」
老人は手を伸ばし、紫がひらひらと弄んで遊ぶその通帳を取り戻そうとした。しかし紫は嘲弄を隠さず、乱暴にページをめくったかと思うと、ビリビリと音を立てて通帳を引き裂いたのだ。紙片が舞うのを見た老人の手が震え、周りにいた受付の女性が眉を寄せる。紫はさらに紙を荒く丸め、ゴミ箱に投げ込みながら言った。
「こういうのは処分するに限るんで。」
老人は置かれた手を必死に伸ばすが、紫は払いのける。その時、老人の上着の胸ポケットから名刺サイズの金属カードが落ちた。紫はその奇妙なカードに目を止めた。
「何これ? 田舎のポイントカード?」
紫は嘲ったが、老人は取り合わず、静かに拾ってポケットへ戻した。そしてぐっと唇を噛み、無言で古い携帯電話を取り出すと、紫を見据えて静かに言い放った。
「あなたのおっしゃりたいことはよくわかりました。では先週にこの銀行を倒産させますので、覚悟してください。」
「はあ? 何できもしないこと言っちゃってんの。」
馬鹿にしながら笑う紫を前に、老人の指先は震えていたが、目は揺がなかった。
現場帰りのような油の染みた作業服に、節くれだった手。銀行のロビーに立つその姿は、どう見ても貧乏暮らしの老人にしか映らない。その老人の名前は佐木一郎といった。窓口の冷たい視線を浴びても、ただ静かに順番を待つだけだった。しかしその立ち振る舞いには妙な落ち着きがあった。現場仕事の疲れとは違う、長年にわたり何か巨大なものを動かしてきた人間だけが持つ奇妙な重み。
やがて順番が来たため、佐木は古びた通帳を胸に抱き、カウンターに向かう。長年使い込んだ作業靴の音だけが無機質な床にコツコツと響いた。通帳の表紙は禿げ、角はすり切れている。だが、佐木にとってはただの預金記録以上のものだった。銀行にとっても本来なら極めて重要な情報に繋がるものだが、それを知る者はほとんどいない。
佐木が窓口に近づくと、若手の男性銀行員がカウンター越しに立った。名札に「紫」とあるその男性銀行員は、佐木を見て露骨に嫌そうな顔をした。その後、横目で同僚とアイコンタクトを交わし、口元を上げる様子は、まるでまた面白いネタが来たなとでも言いたげな態度だ。佐木は不愉快に思ったが、顔には出さない。
「はい、次のお客様。あれ? あなた、そんな格好してるってことは、お客様じゃないですよね。」
わざとらしく伸ばした紫の声が、隣の受付や待合の客にも届く。後ろの同僚がクスクス笑い、窓口は完全に佐木を侮る雰囲気に満ちている。
佐木は作業服を脱ぎ、静かに通帳を差し出した。
「すみません、この通帳の確認をお願いしたいのですが。」
その声は小さいが、ロビーに良く通った。しかし紫は通帳を受け取り、表紙をちらりと見ただけで鼻を鳴らす。
「えっと、これ、ゴミ同然の通帳ですね。こんなの持ってこられても困ります。角もボロボロ、紙も黄ばんでるし。何年放置してたんですか? こういうの、うちでは扱えないんで。」
皮肉たっぷりに言い放つ紫に、困惑しつつも佐木は丁寧さと冷静さを保って対応する。
「ちょっと待ってください。確かに通帳は古びていますが、その通帳にあるのは大切な記録なんです。どうか、それで現金の引き出しをお願いできませんか?」
「はあ。大切な記録?」
佐木の言葉を紫は嘲笑いで反芻する。
「読み取りできるかも怪しいし。ああ、再発行でいいんじゃないですかね。今後のためにも、さっさと処分した方が効率的ですよ。」
わざとらしくため息をついて、勝手にページをめくり始める紫に、佐木は慌てて手を伸ばす。
「待ってください。本当にお願いします。その通帳は大事なものなんです。それが亡くなったら銀行も…」
だが紫はこちらを顧みもせず、両手で通帳を持つと、ぐっと力を込めて引き裂いた。
ビリビリビリ——乾いた紙の避ける音がロビーに響き渡る。一瞬、時間が止まったかのように感じられた。通帳の表紙が剥がれ、黄ばんだページの断片がふわりと舞い、床に落ちる。佐木の顔は一瞬青ざめ、手が反射的に動いて紙片を拾おうとするが、紫は冷たく手を払った。
「おっと、触らないでください。汚れますから。こちらで処分しておきますね。」
見下していることを隠そうともしない紫は、破れたページを乱暴に丸め、ゴミ箱に投げ込む。ボスッとゴミ箱に紙が落ちる音が、佐木の胸に深く刺さった。周囲の客や銀行員も、誰一人として助けの手を差し伸べない。携帯の画面に視線を落としたり、新聞をめくるふりをしたり、ただ視線をそらすだけだ。受付の女性が眉を寄せるが、佐木のために立ち上がる勇気はないらしい。見て見ぬふり、見下す側に同調する空気が銀行のロビーを満たしていた。
佐木は膝をわずかに曲げ、破れた通帳の残骸をじっと見つめた。肩が小さく波打ち、震える。
「ああ…なんてことを…。いくら私が年寄りに気に食わないからって、こんな仕打ちをするなんて。」
「はいはい。文句ならどうぞご自由に。こういうのは処分するに限るんで。」
掠れた声で訴える佐木を、紫は鼻で笑い椅子に戻るそぶりを見せる。
「処分だなんて、なんてひどいことを言うんですか? それでも私たちの生活のお金を管理する職業…」
必死に縋りつこうと手を伸ばすが、紫は鬱陶しそうに払いのけた。その時、佐木の上着の胸ポケットから、名刺サイズの金属カードがカランと音を立てて床に落ちる。それに紫の目が止まった。
「何これ? こいつも汚くて古いカードだな。田舎のスーパーのポイントカード?」
紫は嘲りながら、そのカードをひょいとつまみ上げた。
「そ、それは…返せ!」
なおも手を伸ばす佐木に、紫は相手にするのも飽きたという感じで、そのカードをぽいと机に投げ出した。そして佐木から視線を外し、大声で呼びかける。
「次のお客様どうぞ。あの方、気にしなくていいっすよ。ただのクレーマーですから。」
紫が引き裂いたことで、ただの紙切れとなったその通帳のかけらには、紙の色と皺の数だけ、長年の時間と記憶が刻まれていた。その重さを紫は理解していないのだと、佐木は唇を噛む。きっと紫にとっては、ほんの些細な鬱憤晴らしにしか過ぎないのだろう。
破かれた通帳の残骸がゴミ箱の中で無惨に潰れたまま沈黙している。その前で佐木は立ち尽くしていた。肩は細かく揺れ、喉の奥から絞り出された声は、誰にも届かないほど弱々しい。
「本当になんてことをしてくれたんだ。この通帳は、大事な…」
しかし紫はそんな声など聞こえていないかのようだった。すると隣のカウンターから同僚が声をかけてきて、今の対応を笑い話の材料として話し始める。紫ばかりか、同僚たちも佐木を嘲笑う側に回ったのだ。
「なあ紫、あの作業服のじいさん、まだなんかブツブツ言ってるぞ。俺も思ったんだけど、あのじいさんって客なの? 一体何しにここに来たんだろうな。」
同僚たちが味方だと知り、紫の口も滑らかになる。
「そうだろ? そうだろ? 絶対金ねえよな。見りゃ分かるじゃん。ああいうのは大体、小銭しか持ってこないんだよ。」
声は潜めているようで、しかし佐木にきっちり届く絶妙な大きさだ。わざと佐木に聞こえるようにしているのが分かる。紫は肩をすくめて笑った。
「っていうかさ、銀行来る前に風呂入れって感じ。ああいう作業服ってなんか油の匂いがするんだよな。ほら、あの人も手が汚れてたし。うわ、触られたら俺の手まで汚れそうだろ。だから通帳も処分して正解なんだよ。うちの機械に読み込ませたくないし。あんなのもう紙くず同然だわ。」
紫とその同僚たちは腹を抱えて笑い出す。その笑い声は周囲の客にまで届き、一部は嫌そうに眉をしかめるが、誰も注意しない。佐木は拳を握りしめ、ゆっくりと深呼吸をして心を落ち着けようとした。しかしその努力を踏みにじるように、紫と同僚たちが笑いながら言う。
「てかさ、さっきじいさんがカードを落としただろう。これ、何だったんだ? えっと、なんか金属っぽいやつ。」
紫は呟きながら目でカードを探した。
「ああ、これ。こいつも汚くてさ、マジで触りたくなかったんだよね。」
紫は机に置いた名刺サイズの金属カードを、再び指先だけでつまむように持ち上げる。
「これなんかさ、田舎のホームセンターのポイントカードかと思ったわ。古臭い色してるし。」
紫の言葉に同調するかのように笑う同僚たち。
「は、分かる。てか持ち主があれだもんな。」
「そうそう。カードの価値も高が知れてるってやつ。」
同僚たちの言葉に悪乗りした紫は、わざとカードを指から滑らせた。金属の響きが床に反射して大きく広がる。佐木の眉がわずかに動く中、紫は何くわぬ顔で拾い上げ、また持ち直す。
「うわ、最悪。また落としちゃった。カード滑るんよ、これ。なんでこんなの持ってくるのかね。扱いづらい。」
そう言って今度はひっくり返すようにして、再びカードを落とす。かちゃん、とより強い金属音が鳴った。佐木の胸が痛む。大切に持ち歩き、長年守ってきた鍵を、わざと何度も落とされている。カード自体は頑丈だが、だからと言って落とされてもいいわけではない。
「返してもらえませんか? それは特別口座の鍵なんです。」
必死に声を出すと、紫は振り向き、佐木に嫌そうな顔をした。
「はあ? 返すのはこっちの作業が終わってからっすよ。大人しく待っててくださいよ。常識でしょ。」
その時、紫は不意の気まぐれで、デスク上の小さな端末にそのカードを当ててみようと思い立つ。ふざけ半分でカードを端末の読み取り面に軽くすり寄せ、指で弾くような仕草をしてみる。紫を同僚たちも止めようとしない。
「なんか反応するかな?」
そう笑いながら画面にカードを当てた瞬間、端末が小さくピッと音を立てた。紫はその音に気づかなかったが、実はその一瞬の接触が、後にログとして本部に残ることになる。そうとも知らない紫は、汚いものをつまむようにカードを持ち上げた。佐木は拳を握りしめたまま、ただその場で耐えていた。
老人一人を的にした嘲りに、ロビーの空気は冷えきっている。銀行という場所に本来あるはずの信頼と品格が、今まさに足元から失われつつある光景だった。
佐木がそれでも耐えてカウンター前に立っていると、紫はため息混じりに椅子にふんぞり返っていった。するとカウンターの奥から、鋭い男性の声が聞こえてくる。
「なんだ、うるさいぞ。業務時間中に騒いでるのは誰だ? 無駄なおしゃべりで仕事を怠る給料泥棒は、現処分にしてやるからな。」
現れたのはグレーのスーツを着た小太りの中年男性。この支店のトップである高森支店長である。その声を聞くなり、紫はにやりと口角を上げて椅子から立ち上がった。
「あ、そうだ。お客様が納得できないようなら、高森支店長を呼んできますね。判断は上の人に任せましょう。」
妙に明るい声で言う紫に、同僚たちもにやりと笑う。もちろん、佐木のために呼ぶわけではない。高森が佐木にどう対応するか、よく知っていたからだ。
それから数分後、紫は高森を連れて戻ってきた。
「ここか紫。聞き分けのない年寄りが、客としていつまでも居座っているのは。」
「そうなんですよ、高森支店長。本当に申し訳ありませんが、支店長からもガツンと言ってくれませんかね。」
高森は佐木を見るなり、露骨に眉を潜める。
「何でも、こちらの方がこのカードを見せて、特別口座とか言ってるんですけど。」
「おお、なるほど。ふん。これはどこからどう見ても、胡散臭いものだな。」
ちらりとカードを見た高森は、呆れたように頷いた。
「うちの者が不躾を働いてしまったかもしれないことについてはお詫びしますがね。ですが、うちでは基準に合わないお客様はお断りしておりますので。」
高森はまるでマニュアルの一部を読み上げるように淡々と告げた。佐木は一瞬、驚きと怒りに顔を歪める。
「すみません。それは、どういった意味なのでしょうか?」
「言葉通りの意味ですが。もしかして耳が遠くて聞こえなかったのですかね?」
佐木は一つ深く息を吸い込み、怒りをこらえて再度尋ねた。
「あなたのおっしゃる基準とは、どういう意味なのかと聞いているのです。答えてもらえませんか?」
しかし高森は質問の意味を理解する気すらない様子で、こう続けた。
「この紫が確認したところ、あなたの普通口座の資産はゼロでしたよ。特別口座? ふん。バカバカしいですよね。だって、絶対そんなの持ってない格好ですもん。」
横から笑いながら被せる紫だが、実はその確認方法には決定的な穴があった。紫は以前から特別口座の重要性を理解していない。さらに、普通口座の資産ゼロの老人がわざわざ特別口座なんてものを持つはずがないと高を括っていた。だからこそ専用の検索システムを使わず、勝手な経験則で判断したのである。そして高森も、そんな紫を疑いもしなかった。佐木を見た目で判断し、厄介な老人が来たとしか捉えていないのである。
佐木を見返した高森は、しっしっと追い払うように手を振る。それに合わせて紫はさらに嘲りを浴びせた。
「汚いじいさんはお呼びじゃないっての。邪魔だから早く帰ってくださいね。」
「あなた方のおっしゃりたいことはよくわかりました。では、先週にこの銀行を倒産させますので、覚悟してください。」
佐木は静かにカードを拾うと、カウンターから身を離し、高森と紫たちを見据えたままそう言い放った。その声は静かだったが、固い決意に満ちていた。ただ淡々と事実を告げるような佐木の口調に、紫と高森は鼻で笑う。
「はあ? すみません、一体どういう意味ですか? 倒産させる? この銀行を、あなたが? 本気でおっしゃっているんですか?」
「冗談かどうかは、そのうち分かると思いますよ。では、今日のところはお手間をおかけして申し訳ありませんでした。」
高森と紫たちに構うことなく、佐木は金属のカードを胸ポケットにしまうと、迷いのない足取りで支店を出ていった。その背中に、また高森と紫は失笑する。
だが、その翌朝、事態は一変した。紫はいつものように同僚たちと共に出勤し、支店のドアを開けた。しかし、ロビーに広がっていたのは、いつもの見慣れた光景とはかけ離れた、まるで戦場のような異様な雰囲気だった。よく見ると、いつもなら本部に勤めているはずのスーツの男女が、支店内に溢れている。彼らが胸につけているバッジは、「本店監査部」「運用管理部」「システム統括部」といったものばかりだ。大量のバッジとスーツの男女に囲まれた受付たちは血の気を失い、端末の前で青ざめている。カウンターの中でも、緊迫した指示が飛び交っていた。
紫たちが呆然としていると、高森がこちらを見つけて寄ってくる。
「おい、そこで何をぼーっと突っ立っている? なんでもっと早く出勤してこないんだ?」
「え、あの、何が全然見えないんすけど。一体何が起こってるんでしょうか?」
慌てふためく紫に、高森は苛立ちのあまり頭を抱えて大声でまくし立てた。
「今朝からとんでもないことになってるんだよ。うちの銀行絡みで、全国のATMが…」
高森の剣幕に、同僚二人が顔を見合わせる。
「えっ? 全国のATMって?」
「すみません、支店長。まずは何が起きているのかご説明願えませんか? 俺たちにも何が何だか…」
その時、高森のところに本店監査部所属の女性が資料を抱えて駆け寄ってきた。
「高森支店長、この人が例の…」
高森が資料を見て何度も頷く。すると女性は厳しい目つきを紫に向け、事情を説明し始めた。
「先ほど、全国で4000を超えるATMが午前6時に一斉緊急停止しました。」
「はい? 一斉緊急停止って、全国ですか?」
いきなり知らされた事実に、紫たちは驚きを隠せない。
「現在、復旧作業を進めていますが、障害発生の解析の結果、この支店が起点として特定されています。」
「は、え、ちょっと待ってください。それって、まるでこの支店が悪いみたいな言い方じゃないっすか?」
「みたいではありません。実際の原因となっているのです。」
紫が顔を引きつらせると、そこにやってきたシステム統括部所属の女性がタブレットを広げ、説明を引き継ぐ。
「さらにですね、これは本来ないのですが、本店システムに特別口座の全額引き出し指示が入りました。」
「全額って、いくらなんすか?」
システム統括部の女性は言いづらそうに答える。
「閉めて、8000億です。」
その場の空気が一瞬で凍りついた。
「は、8000億って…ちょっと待てよ。マジで桁が違うだろうが。なぜだ? 誰がそんな指示を?」
紫が上ずった声で問い、高森は顔色を変える。そんな紫と高森の様子を苦々しく見つめながら、システム統括部の女性と本店監査部の女性が説明を続けた。
「重要なのはログです。昨日、この支店で特別口座キーが認証された履歴があります。時間帯も、窓口での対応時間と一致しています。」
「つまり、昨日ここでそのキーが読み取られ、引き出し指示が本店へ送信されたと判断されます。」
紫の脳裏に、昨日の佐木とのやり取りがフラッシュバックした。佐木の胸ポケットからカランと落ちたあの金属カード。何度もそれを粗末に扱って笑い、そして佐木が大事だと訴えた通帳を引き裂いた自分の手つき。その光景を見た佐木が出て行く前に残した「倒産させます」という意味ありげな一言。まさかとは思うが、あの一言は、こういう事態が起きることを指していたのか。今更ながら真っ青になる紫に、高森が食ってかかった。
「おい、紫。お前、一体何をやったんだ? 俺が来る前にお前、あの老人に何かやったのか? その特別口座のキーやらを使わせるほどのことを。」
「いえ、俺は何もしてないです。ただ汚い通帳を処分した後、落ちたカードに触っただけで。あれが認証だったなんて知らなかったんです。」
慌てまくる紫に、システム統括部の女性が言った。
「特別口座は一般の口座とは違います。専用機による認証のみで、全額移動のプロトコルが起動するのです。そしてそのログが、昨日この支店の端末から上がっています。」
「ログって、本当に?」
監査部の女性は薄い紙が書かれた資料を取り出し、指である線を示す。
「ここです。端末ID、担当者ID、認証UIDが残っています。担当者IDはこの支店の窓口端末。担当行員は、この時間帯に操作した記録が残っている、あなたです。」
「そ、それは俺が操作した時間と一致してるんですか? お、俺以外にも窓口には人がいましたよ。」
紫はなんとか逃れようと言い繕うが、本店監査部の女性の声は冷たかった。
「時間も一致。つまりあなたの対応が、引き出し指示の発信源と本店では認定されています。」
支店のロビーの空気は、事態の深刻さに怒りと恐怖で染まっていった。一方、本店も完全に騒然としている状況が、次々と入ってくる電話を通じて伝わってくる。本店からの電話の対応に追われたのは高森だ。
「ATM停止が全国で拡大している。今、資金繰りが本気で危なくなってます。この原因は、そちらの支店としか考えられません。」
「ま、待ってください。そんな大事になるなんて。」
言い訳を並べながら弁明するも、本店の役員たちは聞く耳を持たない。
「そんな言い訳で済むと思っているのか。ここまでの混乱を招いた責任は、全てそちらの支店の責任だ。」
慌てふためく高森と紫に、本店役員たちからの一括が連続して飛んでくる。周囲からの責めるような視線に耐えきれず、紫は膝から崩れ落ち、頭を抱えてうめいた。
「俺は何も知らなかった。だって…あいつはただの老人だったんだ。普通の年寄りだったんだ。」
「知らなかったでは済まされません。あなたは特別キーの扱いを誤り、ログを残し、通帳を破棄した。銀行に対する背任の疑いも含め、適切な処分が検討されるでしょう。」
本店監査部の女性が紫に冷たく告げた後も、カウンターの中では電話が鳴りやまなかった。時間が経つにつれ、騒ぎは広がる一方だった。顧客からの問い合わせ電話も切れ間なく入り、行員は対応に追われる。モニターにはATMのエラーメッセージが点滅し、フロアの表示が赤く揺れた。8000億が消えたという現実に、紫は顔を真っ青にし、高森は膝をついたまま天を仰ぎ、声を震わせる。
「まさか、あのどこにでもいるような年寄りの一言が、これほどのトラブルの元になるとは。支店の監督責任は俺にあるとはいえ…あんまりだ。」
事態はすでに支店の手に負えないレベルに達していた。昨日の些細な出来事が、組織全体を震撼させる嵐の前兆になったのだ。
それからも戦場を思わせる騒ぎが続いていたが、やがて新たな動きがあった。いつもの作業服姿の佐木が、支店に姿を現す。それを見た紫は、驚いた声で叫ぶ。
「き、昨日の…!」
それを聞いた本店の責任者たちは、一斉に佐木に向き直る。
「佐木様、この度はご足労いただきありがとうございます。そして、この度の事態を深くお詫び申し上げます。」
高級スーツに身を包んだ本店の責任者が、うやうやしく呼びかけると、支店全体の空気が一瞬で変わった。昨日までの嘲弄や侮蔑は跡形もなく消え去り、紫も含めた窓口の若手行員たちまでもが背筋を伸ばして頭を下げる。皆、まるで命令されたかのように揃って最敬礼をした。先ほどまでの怒号による熱気が嘘のように消え、ロビーの空気が冷たく張り詰めたものに変わる。高森はぎこちなく立ち上がり、顔色を変えながらも礼を返した。紫は頭を下げつつ震えていた。彼の頭の中では、朝から続く悪夢のような景色がリフレインされている。
佐木はゆっくりと自動ドアをくぐり、作業服のまま背筋を伸ばして歩いてきた。油の染みた袖、節くれだった手が見える。支店内の空気が凍りつく中、作業服のままの佐木に対し、本店の役員たちは何の迷いもなく近づき、深く頭を下げた。
「改めまして、佐木様。本日はお忙しいところを支店までお越しくださいまして、感謝いたします。昨日の件に関しまして、まずは深くお詫び申し上げます。できる限り佐木様のご意向に沿う形で、事態の収拾に当たらせていただきます。」
しかし、本店の責任者と役員たちの挨拶を受け止めた佐木の表情は、冷静そのものだった。特別な喜びも見せず、黙って全員の顔を見返す。本店の役員の女性は、焦ったように声をあげた。
「ま、まずは、状況を説明してもらえる?」
役員に指名された本店監査部の女性が進み出て、ゆっくりと説明を始めた。
「佐木様は、東海における極めて重要な得意先、最大級の個人顧客のうちのお一人でいらっしゃいます。昨日、この支店における窓口対応により、当該口座の資産移転手続きが開始されたことが判明しました。本日は、その件で直接お目にかかり、詳細を伺いたく存じます。」
支店の誰もが、その言葉の意味を飲み込めず固まっている。もちろん高森も紫もだ。しかし、本店監査部の女性はそんな支店の行員を無視し、淡々と説明を続けた。「重要顧客」「最大級の個人客」「資産移転手続き」。これらの言葉が紫の耳に次々と入ってくる。昨日、佐木を散々嘲笑し、通帳を引き裂き、カードを何度も落として嘲笑したことを思い出した紫は、自分が何をしてしまったのかをようやく理解し始めた。高森も、自分の高飛車な態度を思い出し、真っ青になる。今、二人の目の前には昨日と同じ老人がいるが、彼は単なる貧しい年寄りではない。その事実が、一気に襲いかかってきたのだ。
「昨夜から本日未明にかけて、当行の決済ネットワーク及びATMに異常が発生し、現在も影響が続いております。今回の発端は、この支店での特別口座キーの認証にあると判断しており、佐木様がそのキーの所持者であることが確認されています。」
役員たちの言葉に、支店の空気はさらに重くなる。誰かが「特別口座って…」と小さく呟いた。だが、その意味を知る者は少ない。分かるのは、重大な顧客が持つキーであるという一点だけだ。
佐木は静かに頷き、昨日の窓口での出来事を淡々と述べ始めた。だが彼は責めるような口ぶりではなく、むしろ冷静に事実を指摘するだけだ。その淡々とした様子が、かえって支店の面々には恐ろしく映る。
「そちらが私の通帳を破り、カードを持て遊んだのです。私はただ、預金と記録を守りたかった。それが昨日の私の行動の全てです。」
佐木の言葉は短いが重かった。支店の行員たちは目を伏せ、何も言えない。高森も床に膝をついて俯いたまま動かない。ロビーの片隅で立ち尽くしていた紫の同僚たちが、震える声でつぶやき合う。
「は、これって夢じゃねえよな。俺、頭の中真っ白だわ。」
「昨日あんな扱いをした俺たちが、今更何をしても無駄だよ。」
そんな中、佐木は表情を変えることなく、しかしその言葉には揺るぎない確信を込めて付け加えた。
「銀行は数値と手続きで動きます。しかし、そこに関わるのは人の人生です。約束や記録を軽んじることは許されません。」
その佐木の言葉は正論として、紫の胸に突き刺さる。彼は自分がしたことの重さを、正面から受け止めるしかなかった。そして、支店のあちこちで、紫の対応を止められなかった行員たちが、後悔の言葉を呟いていた。昨日、誰もが予想だにしなかった事態が現実となり、支店は重苦しい雰囲気に包まれていた。紫の顔は真っ青になり、高森の目には涙すら滲んでいるようだ。
言いたいことは言ったと、ゆっくりと立ち去るそぶりを見せた佐木に、本店の責任者が慌てて近づき、そして深く頭を下げていった。
「お待ちください、佐木様。先日の件につきましては、私どもが全て責任を持って対応いたします。だからどうか、お力をお貸し願えませんか?」
佐木はその言葉に足を止め、ゆっくりと振り返ったかと思うと、作業服の内ポケットからあるものを取り出した。そのあるものとは、昨日紫が嘲りながら破いた通帳の一片だった。茶色く変色し、破れだらけのページ、文字が薄く残る一枚。それを彼はゆっくりと両手で掲げた。光にかざされた破片の端が冷たく光る。本店の責任者と役員たちがその破片を見た瞬間、顔色を変えた。高森の前に歩み出た本店の責任者が、声を震わせながら叱責を始める。
「高森支店長。どうしてお客様の通帳を窓口で破棄したのですか? 今すぐに説明しなさい。」
「い、いいえ、状況はこうでして…」
高森は弁明しようとするが、声が上ずってうまく言葉が続かない。膝もわなわなと震えている。本店の責任者と役員たちの目は鋭く、高森の一挙手一投足を突き刺すように見つめていた。佐木はそんな役員と高森たちの方をちらりと見て、穏やかな声で言う。
「昨日、私はこの銀行を倒産させますと宣言しました。私は嘘はつかない人間でしてね。」
その短い一言に、場内の誰もが息を呑み、沈黙した。佐木にあるのは怒りや威嚇ではない。ただ冷たい決意だけがあると、その場にいた全員が理解したのだ。
そんな中、本店監査部の女性の声が響く。
「現在、当該特別口座に関しては、全額引き出し処理が進行中であり、すでにいくつかの送金経路が動作を開始しております。総額は8000億円規模。足元の即時対応が不十分であれば、短期的な資金繰りに重大な影響を及ぼす可能性があります。」
その金額が告げられた途端、重い空気がフロアを支配し、支店内は静まり返った。高森の顔色は青を通り越して白くなり、紫の膝はがくりと崩れる。彼らは自分たちが招いた結果の恐ろしさを、今になってやっと認識し始めたようだった。
本店監査部の女性は、さらに厳しい口調で続ける。
「しかも問題は、この支店の行員が佐木様への対応を誤り、銀行の信用を損なわせたという、重大な職務違反を犯した点です。ログは残り、責任の所在は明確です。ここで速やかな是正措置が取れない場合、法的対応も検討することになります。」
運用管理部の男性の言葉に、高森は額を床に擦りつけるようにして謝罪した。
「ああ、申し訳ありません。申し訳ありません。」
紫も震えながら両膝を突き、顔を床へ伏せた。横目で見た支店長の目には、もはや紫と高森に対する困惑だけが浮かんでいる。味方は誰もいないと紫は悟るしかなかった。
「し、知らなかったんです。本当に。ただ見た目で判断しただけで、こんなことになるなんて。すみませんでした。」
佐木に向かって頭を下げる紫の声は、嗚咽混じりで必死だった。佐木はゆっくりと背筋を伸ばし、重い沈黙のうちに紫を見下ろした。そして怒りを表に出すことなく、ただ冷静に返答する。
「見た目で判断したんだろう。その結果、お前たちは私の50年分の記録を紙くず同然に扱った。人の人生は、お前たちが思っているほど軽くはない。責任を取ってもらおうか。」
支店にいた誰もが、その佐木の声に震え上がる。責任を取るというのは簡単だが、実行がどれほど重いか、今の彼らは理解していた。8000億という数字は、人間一人の気持ちを踏みにじった代償としてはあまりにも多額だ。だが、佐木の気持ちが変わらない以上、できることはもうない。紫は嗚咽混じりに「どうか許してください」と繰り返している。だが、必死に許しを乞うその声は、もはや誰の胸にも届かなかった。
佐木は破片をもう一度眺め、静かに息を吐く。彼の瞳に悲しみが滲むが、それは復讐の喜びを示すものではない。
「もう一つだけ言っておこう。責任の所在を明確にし、被害が拡大しないよう対策を講じることだ。お前たちは私の通帳を軽んじた。だから、その代償を払ってもらう。」
それを告げた佐木の声は静かだったが、それは断固とした命令として場内に響き渡った。
「はい。承知しました。すぐにでも。」
それを聞いて、本店の人間たちは即座に行動を起こす。支店の行員たちも、本店の指示通りに動き出した。震えて土下座したままの高森と紫たちの姿に、もう誰も目を留めない。佐木は大事そうに通帳の破片を折りたたみ、胸元にしまい込んだ。
その後、支店はつい先ほどまでの怒号と混乱が嘘のように静まり返っていた。破れた通帳の存在をきっかけに本部役員たちが大激怒し、高森と紫はその前に正座させられている。そんな中、佐木は一歩だけ前に出て、ゆっくりと言った。
「さあ、もう少しだけ付き合ってもらおうか。これからどうするか、決めなくてはな。」
その声は抑揚がなく静かだったが、否応なしに従わせるほどの重みと説得力を持っていた。本店の責任者と役員たちは、雷に打たれたように動きを止め、深く頭を下げると佐木の前に進み出る。
「佐木様、速やかな処置、そして佐木様の資金移動先の銀行まで、我々が責任を持ってご案内いたします。」
高森と紫は、そのやり取りを呆然と見つめることしかできない。彼らの中で、何かがようやく明確になり始めていた。もう取り返しのつかない領域に足を踏み入れてしまったのだと。
騒ぎの経緯を知る客も知らない客も、誰もがその異様な光景に目を奪われた。本部役員が老人に深く頭を下げる奇妙なシーンに、ロビーは大きなざわめきに包まれる。膝をついた高森と紫を残し、佐木は静かにその場を去った。騒動の収まらない空気の中、彼の完全勝利が確定した瞬間だった。
その後、紫と高森に下された処分は非常に厳しいものだった。本部の報告書には「特別顧客への重大な差別的対応」「資産流出を招いた危険行為」と赤字で太く記され、紫と高森は懲戒解雇として処理された。
翌日、銀行は緊急記者会見を開き、大口顧客への不適切な対応について「訴訟も視野に調査中」と謝罪した。その会見資料には支店内の担当者名が黒塗りで表示されていたが、報道番組やSNSはすぐに紫の名前を割り出した。本人の顔写真まで拡散され、紫の地元でも噂が広まる。その影響で、紫は近所のスーパーで冷たい視線を向けられるようになり、就職の面接に行っても顔を凝視されてしまう。そして必ず「前職の退職理由を詳しく」と聞かれ、説明した途端に空気が凍るのだ。当然、紫が面接したどの企業からも返答は来ない。スマホで検索を開けば、検索候補には「紫 通帳破り」などと出てくる。高森も同様だった。自らの判断ミスを指摘され、系列支店への移動どころか、再就職も叶わない。
さらに、佐木の巨額の資産流出が決定的となり、問題の支店は業績悪化から閉鎖が決定した。だが、その後も資金流出が止まらないため、銀行の倒産は時間の問題だと巷では噂されている。使い慣れた建物が閉鎖され、看板が撤去される光景を、高森は離れた場所から呆然と見つめるしかなかった。
そして、高森が呆然と路上に佇んでいるのと同じ頃、紫は地元の夜道で膝をつき、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらこう呟いた。
「あんな老人一人に、人生を壊された。全部終わりだ。」
しかし、その言葉が誰かに届くことはなかった。なぜなら、その結果は全て紫の判断と行動によって引き起こされたものだったからだ。
一方、佐木はというと、送金先の銀行で下にも置かぬもてなしを受けていた。
「佐木様のような方に口座をお選びいただき、光栄です。どうか今後ともよろしくお願いいたします。」
支店長は深く頭を下げ、担当者は緊張で手を震わせながら手続きを進める。佐木は特別扱いに興味を示す様子もなく、笑ってこう答えた。
「普通でいいよ。昔からのやり方が変わると、落ち着かん。」
だが、銀行側は佐木が普通の客ではないことを十分に理解している。従って、佐木のわずかな一言にも最大限の配慮を払った。銀行で最後の手続きを終えた時、深々と頭を下げた担当者に、佐木は静かに言葉を返す。
「金には使い道がある。だが、人の価値は見た目じゃ決まらんよ。」
担当者は胸を打たれたように姿勢を正し、「肝に命じます」と震える声で答えた。
佐木が銀行に行った後、立ち寄ったのは会社だ。実は佐木は巨大インフラ企業グループの創業者でありながら、作業服姿で現場に出るのを好むという変わり者。インフラ企業の若い後継者たちとも関係は良好だ。
「大木さんの背中を見て育ちましたからね。俺にも、また現場の話聞かせてくださいよ。」
そんな声をかけられ、顔をほころばせる佐木。年齢を重ねても、なお毎朝のように作業服で現場へ向かう佐木を、若い職人たちは尊敬を込めて「現場の親父」と呼んでいた。
「私は今もこの先も、自分の地位や財産に安んじて生きるつもりはない。ただの現場の一員として、みんなと共に汗を流し、笑って生きていたいんだ。」
そう言って笑う佐木に、周囲の誰もが、その姿勢こそ彼の価値なのだと感じていた。今日も佐木は、作業服のままゆっくりと外に歩き出す。夕日に照らされた背中は、誰よりも誇り高かった。
