夜のネオンがガラス張りのビルに反射して、街を淡く染めていた。田島ユトは帰宅途中の車内で、妻のサエから届いたメッセージを開いた。友達とカフェでお茶してる。軽い絵文字が添えられたその一文に、ユトは何か引っかかるものを覚えた。
最近、妻は毎週決まった時間に外出していた。ふと別の通知に目をやると、位置情報の共有が自動更新されている。画面に表示された場所は、カフェと呼ぶにはあまりにも華やかな光を放つ店だった。
やっぱりな。胸の奥がゆっくりと冷えていく。その冷たさを隠すように、ユトは電話をかけた。
「サエ、今どこ?」
「え?カフェって送ったよね。友達とケーキ食べてるの」
「そこ、カフェだったのか」
一瞬、呼吸が止まる。作り笑いのような声が返ってきた。
「何言ってるの?やたらと反響するけど、風呂場から電話してるのか?」
「疑ってるわけじゃない。確認してるだけだ」
静かな車内で、ユトは遠くを見つめて言った。
「探偵に頼んである。ここ一ヶ月の写真は、後日家に届くだろう」
通話の向こうから、息を飲む音が聞こえた。数秒の沈黙。そして吐き捨てるような声。
「あんた、本当に最低ね。人を監視するなんて」
「不自然だったからな」
「いいわよ、認める。会ってたわ。仕事の愚痴を聞いてくれる人。あんたと違って優しいの」
「ベッドで愚痴を聞いてもらってたのか」
短い笑い声が電話越しに響く。
「あなたって本当にかわいそう。感情も色気も何もない人」
「そうか」
ユトはエンジンをかけた。
「じゃあ、これで終わりだ。帰ったら離婚の話をしよう」
数日後の夜。ユトが郵便物を受け取りに外から戻ると、リビングではサエがソファでスマホをいじり、娘のミユウが無言のまま食事を続けていた。
「お母さん、本当に離婚するの?」
ミユウの声が静けさを裂いた。サエは目を離さずにスマホをスクロールする。
「あら、聞いたの?」
「お父さんが言ってた。理由、浮気なんでしょ?」
「全く余計なこと言う人ね。でも離婚しないから安心して」
その瞬間、食卓の空気が少しだけ凍った。箸を置いたミユウが、わざとらしくため息をついた。
「てかさ、お父さんも悪いと思うんだけど」
ソファでスマホをいじっていたサエが顔をあげる。
「え、どういう意味?」
「お母さんが浮気したのってさ、結局お父さんが真面目すぎるからでしょ。一緒にいても生き苦しいっていうかさ」
「ちょっとミユウ、話を大きくしなくていいの」
「だって本当じゃん。お母さんだって人間なんだし、刺激とか求めるの普通じゃん。優しくされたい時くらいあるでしょ」
サエは苦笑して曖昧に頷いた。
「まあ、そういう時もあるかもね」
ミユウはテーブルの上の箸を転がしながら続ける。
「でしょ?お父さんって、会話してても『そうか』『わかった』ばっかり。まるで会社の上司みたいで、家でも心が休まらないの。そりゃお母さんも飽きるって」
外から戻ってきたユトは、水を注ぎながら無言で聞いていた。氷のぶつかる音だけが響く。
「ミユウ、何を聞いてたんだ?」
ミユウは挑発的な笑みを浮かべる。
「ねえ、お父さん、そんなに浮気が罪だと思ってる?今時そんなの騒ぐ方が古いよ。私も私の周りだって、他の男と遊んだり普通にしてるし。恋愛なんて自由でしょ。本気じゃなきゃ問題ないし」
その瞬間、ユトはゆっくりと顔をあげた。目の奥の光が完全に冷たくなっている。
「お前、母親に似てきたな」
「え?何それ?褒めてるつもり?」
「いや、確認のために言っただけだ」
ミユウは鼻で笑い、椅子の背に持たれかかった。
「本当?何その言い方?気持ち悪い」
ユトは静かにコップと、受け取ってきた郵便物を机に置いた。その動作の小ささが逆に不気味なほど冷静さを感じさせた。
「DNA検査の結果が、ここにある」
その一言で、時計の針がまるで止まったかのように時間が遅く感じられた。封筒を開いた瞬間、空気が凍った。
そこには、父関係なしという結果が記されていた。
ユトはそれを机に置き、深く息をついた。驚きよりも、やっぱりという確信の方が強かった。
「お父さん、本当にこれ間違いじゃないの?」
ミユウの声は震えている。
「結果は覆らない」
「でもじゃあ、私の本当の父親は……ユウ、やめて」
サエが止めようとしたが、その声は届かなかった。
「お前の母親が関係を持っていた、同僚の兄だ」
「どういうこと?」
「同じ職場の男と、その兄。その二人と同時期に関係を持っていた」
ミユウは呆然と、力なく立ち尽くした。
「そんなの、信じたくない」
「俺も信じたくなかった。ただの浮気だった方が、まだ良かった」
静寂の中で、ユトは立ち上がる。
「これで、浮気ぐらいで離婚は大げさだなんて、もう言えないだろう」
ミユウは何も言い返せなかった。これ以上の会話は不要だった。残ったのは、何も感じないという虚しさだけだった。
リビングのカーテンを開けると、冬の朝が刺すように冷たかった。ユトはダンボールに服を詰めながら、小さく折りたたんだ離婚届を机の上に置いた。テーブルには二人分のコーヒーカップ。一つは空で、もう一つは冷め切っていた。
「ここ、売ることにした」
玄関で立ち尽くすサエは目を見開いた。
「嘘でしょ?だってこの家、私たちの思い出が……思い出?」
ユトは振り返らずに言った。
「俺にとっては、嘘と裏切りが染みついてる」
「じゃあミユウは?あの子の受験もあるのに」
「受験も進学も、お前たちで考えろ」
「父親でしょ。あの子、あなたを待ってるのよ」
「俺の子じゃなかった。それが答えだ」
サエは崩れるように床に座り込んだ。
「そんな冷たいこと言わないでよ。何年も一緒にいたのよ」
ユトはコートを羽織り、短く答えた。
「ずっと他人の娘を育ててたんだ。冷たくなるなという方が無理だ」
玄関のドアが閉まる。その音は、長い冬の終わりを告げる鐘のようだった。
数日後、ユトは弁護士からのメッセージを開いた。
離婚時の対応、慰謝料請求対応済み。その他対応はお電話にて。
彼の目には感情がなかった。もう一件、メッセージが届く。サエの文字だった。
まだ話したいことがある。せめてミユウのために。
ユトは画面を閉じ、ため息をついた。
「せめての積み重ねが、今の地獄を作ったんだ」
夜、ダンボールの上に置かれた結婚指輪が、光に反射していた。ユトはそれを封筒にしまう。これでようやく他人になれる。外の風はまだ冷たい。だが、その冷たさの中に、初めて自由の匂いが混じっていた。
春を目前にしたある日、スマホが鳴る。表示された名前に、ユトは眉をひそめた。ミユウの文字だった。
通話を取ると、沈黙の末に小さな声が聞こえた。
「……もしもし、お父さん?」
「何だ」
「あの、私……合格したの。でも入学金がどうしても足りなくて」
「そうか」
「お願い。お父さんじゃなくて、ユトさん。だけでもいいから」
「その話は、お前の本当の親にしなさい」
「でもあの人たち、お金ないって。慰謝料で全部……」
「それは、お前たち家族の問題だ」
通話の向こうで、小さな啜り泣きが聞こえた。
翌日、サエからもメッセージが届いた。
お願い。学費だけでも。あなたしか頼れる人がいないの。
ユトは静かに返信した。
これまでの費用を請求しない。それが俺の最後の情けだ。これ以上は筋が違う。
返事はなかった。代わりに既読マークだけが、夜中の二時に着いた。
数日後、サエが会社の前で待っていた。コートの襟を立て、声を震わせながら、ユトにすがるように言葉を重ねる。
「ねえ、ちょっと待ってよ。家族だったじゃない」
「だったな」
ユトは淡々と答えた。
「俺はもう、他人の人生に責任を持つ気はない。ようやく自分の人生が始まるんだから」
三年後。東京・高級街のオフィスで、ユトは新しいノートパソコンを閉じた。向かいの席には同僚の女性・彩佳が座っている。彼女はかつて離婚協議中、唯一話を聞いてくれた同僚だった。
「出張の準備、できました?」
「ああ。今日から本社に正式に出向だ」
「おめでとうございます」
その笑顔に、かつての冷たい夜はもう影を落とさなかった。帰り際、ふとスマホに未登録の番号から着信が入った。一瞬だけ躊躇して、通話ボタンを押す。
「……ユト、私よ。サエよ」
無音のまま数秒が経ち、ユトは静かに返した。
「その名前、もう知らない人だ」
通話を切ると、胸の奥が驚くほど穏やかだった。窓の外のガラスのビル群が朝日に照らされ、その反射が彼の瞳の奥で揺らめいた。
これでいいんだ。
彩佳がこちらを見ながら言う。
「何か言いました?」
「いや、少し昔の風景を思い出してただけです」
二人の間を春の風が通り抜ける。ユトはカップを手に取り、ゆっくりと息を吐いた。嘘に塗れた世界を、ようやく置き去りにできたのだ。
