結婚生活を始めて三ヶ月。確かに彼は言った。「生活費全般は俺が出すよ」と。だから私は信じた。彼の言葉を、彼の笑顔を。しかし実際に彼が毎月差し出したのは、たった一万円だった。
「えっと、これだけだと足りないかな」
「なんで?」
差し出された封筒の中身は一万円。家賃に光熱費、食費。到底足りる金額ではない。まさか冗談だろうと思った。しかし彼の表情は真剣そのもので、喉の奥が冷たくなった。
あのね、よく考えて。月々の支払いが一万円で済むわけないよね。
いや、それはおかしいよ。一万円で足りないなんて贅沢言わないでくれ。
私の名前は日野あゆ。三十歳。在宅ワーカーとして働きながら、五歳年上の夫、かなりと結婚して三ヶ月になる。彼との結婚は私にとって初めての結婚だった。
かつて私は、別の男性と長く付き合っていた。二十四歳の頃からで、交際は順調だった。このまま彼と結婚するのだろうと疑いもしなかった。
だが二年前、とんでもない事実が発覚した。その男性にはすでに家庭があったのだ。彼の妻と名乗る女性と共に私の前に現れた彼は、信じられない言葉を吐いた。
この女がしつこく言い寄ってきて困ってたんだ。俺は家族を裏切るつもりはないって言ってるのに。
ずっと独身だって言ってたじゃない。
どれだけ訴えても、「泥棒猫」と決めつけられ、慰謝料まで請求された。この一件で恋愛に対するトラウマを植え付けられた私は、三十歳になるまでまともに恋愛ができなかった。
それでも周りの友人が家庭を築いていくのを見ると、焦りを感じてしまう。半ばやけくそで登録した婚活アプリで、私はかなりと出会った。
彼の第一印象は、一言で言うと「いい人」だった。一緒にいる時はいつも穏やかな笑顔を浮かべ、私の愚痴やつまらない話も嫌な顔ひとつせず聞いてくれる。
なんかごめんね。いつも私ばかり喋っちゃって。
なんで、俺は楽しいよ。あゆのことをたくさん知ることができるし。
その優しさが、私の恋愛への恐怖心を少しずつ和らげてくれた。彼に寄り添われるうちに、私は次第に彼との将来を夢見るようになった。
この人と一緒になれたら、どれだけ幸せだろう。
そんな想いが日に日に募っていたある日のこと。彼が突然、真剣な表情で言った。
あゆと一緒に人生を歩んでいきたい。俺と結婚を前提に付き合ってください。
私が伝える前に、彼の方から告白してくれたのだ。まさか彼も同じ気持ちでいてくれたとは思わなかった。嬉しさのあまり、私は泣き崩れてしまった。
彼は大手企業に勤めていると言い、よく「結婚したら楽をさせてやる」と口にしていた。交際からわずか二ヶ月という短さで、私たちは結婚を決める。
周りからは早すぎると反対された。それでも、彼との出会いで救われた私には、これも何かの縁だと信じられた。両親に気持ちを伝え、私たちは夫婦になった。
結婚式の費用は貯まっていなかった。入籍だけ先に済ませることにした。
披露宴も馬鹿にならないからね。今は節約しながらしっかり貯めていこう。
そうだね。俺もそれに賛成だよ。
新しく部屋を借りるお金ももったいない。私たちはこれまで私が住んでいたマンションで一緒に暮らすことにした。
二人暮らしになれば光熱費も上がる。どうやって負担を分担するか、私は一度話をしようと彼に声をかけた。しかし私が話題を切り出した瞬間、彼は笑顔で言った。
生活費全般は俺が出すよ。だからあゆは気にせず仕事して。
え、でもそれじゃ負担が——
心配しなくて大丈夫。
申し訳なさはありつつも、頼もしさを感じた。支えてくれる旦那さんがいる生活はいいな、と思わずにいられなかった。しかしその想いは、あっという間に打ち砕かれることになる。
最初の給料日、彼は宣言通り生活費を渡してきた。だが封筒の中には、一万円しか入っていなかった。家にいる時間が長いとか、俺が働いているから生活できているとか。彼はとにかく私が悪いと、そう言いたいらしかった。
さすがに限界を感じて、私は改めて話し合おうとした。
かなり、こんなこと言いたくないけど、やっぱり生活費が一万円じゃ無理があるよ。
またその話?何がそんなに不満なの?
彼は露骨に不機嫌になった。それでも私は請求額を見せながら、月々の支払いがどれだけかかるのか説明した。しかし彼の答えは残酷だった。
そもそも専業主婦のくせに偉そうなんだよ。俺が働いているから生活できてること、分かってる?
私だって働いてる。在宅だけど、ちゃんと仕事をしている。
そんなの、高々趣味の延長だろ。それで働いてるとか、お気楽でいいね。
まさかそんな風に思われていたとは。衝撃とショックで、体が震えた。この人となら幸せになれると信じて、周囲の反対を押し切って結婚したのに。理想の幸せなんて、どこにもなかった。
何も言い返せないだろう。悔しかったら、俺みたいに月八万稼いでみろよ。
は? 八万ってどういうこと?
彼は鼻で笑い、問いかけに答えず部屋を出ていった。月に八万の給料。何の冗談だろう。確かに私はこれまで彼の月収を聞いたことがなかった。「大手企業」という言葉を信じて従っていた自分にも責任はある。
しかし月八万では、学生バイトと大差ない。そういえば彼は結婚する前、ずっと実家暮らしだったと言っていた。嫌な予感が胸をよぎった。考えれば考えるほど気分が悪くなり、仕事どころではなくなってしまった。
一度仮眠を取って頭をリセットしよう。冷静になって、もう一度ちゃんと話をすればいい。そう思って私は目を閉じた。
一時間ほど眠っただろうか。目が覚めた私は、改めてかなりと話をするためにリビングへ向かった。しかしそこに彼の姿はない。代わりにテーブルの上に封筒が置かれていた。
何だろう。そう思いながら中身を確認して、私は固まった。そこには一通の手紙と、かなりの名前が記入された離婚届けがあった。手紙には一言だけ書かれている。
「俺を馬鹿にした罰だ。」
何よこれ。わけが分からない。かなり、一体どういうこと?
どれだけ待っても、何度連絡しても、彼からは返事が来なかった。あの短時間で用意されていた離婚届け。おそらく以前から隠し持っていたのだろう。つまり彼は、もっと前から離婚を考えていたことになる。
彼と話をしようと思っても、どこにいるのかも分からない。たとえ関係を修復できたとしても、金銭的な価値観のずれが解消されるわけがない。喧嘩を恐れて彼に合わせた、過去の自分の選択を後悔した。
それから三ヶ月の月日が流れた。自宅で仕事をしていた私の元に、突然かなりから電話がかかってきた。
おい、一体どういうつもりだよ。
電話の向こうで彼は怒鳴り散らしている。久しぶりの連絡がこれか、と思った。
いきなり大声を出さないで。ずっと連絡もしてこなかったくせに、今更なに?
そんなことより、なんで家に知らない男がいるんだ。
話を聞くと、どうやら彼はマンションに戻ってきたらしい。三ヶ月も家を空ければ、さすがに私が反省しているだろうと思ったそうだ。ところが部屋に入ろうとすると鍵が合わない。インターホンを押すと、見覚えのない男性が出てきた。
お前、俺がいないのをいいことに浮気してたんだろう。俺を金づるにして、他に男を連れ込みやがって。
一度冷静になって。言ってる意味が分からないんだけど。
彼は私の話を聞こうともせず、「クソ女」などとののしり始めた。これがかなりの本性なのかと思うと、切なくなった。私は彼の怒号にかぶせるように、ある事実を伝えた。
私、もうそのマンション引っ越したから。誰か新しい人が入ったんじゃない?
そう。実はこの三ヶ月の間に、私は住んでいたマンションを解約したのだ。そのことを伝えようと連絡をしようとしたが、ずっと彼と連絡が取れなかった。
はあ? どういうことだよ。夫の俺に相談もなしに、勝手なことしやがって。
別に、もう相談する必要もないじゃない。私たち、離婚してるんだから。
電話の向こうで、彼が言葉を失っている気配がした。そう。この引っ越しの前に、私は彼が置いていった離婚届けを役所に提出していたのだ。
しかし彼は、自分は離婚に同意していないと言い出した。離婚届けを置いていったのは自分のくせに、言っていることが支離滅裂だった。
離婚届けを置いて出て行ったのはあなたでしょ? 誰だって離婚の意思を示してるって思うわよ。
そう言うと、彼は口ごもってしまった。おそらく彼の頭の中では、反省した私が自分に従順になるというシナリオがあったのだろう。それが全て裏切られて、混乱しているように見えた。
すると彼は、これまでの剣幕から一変して、嘲笑うように言った。
お前みたいな専業主婦一人じゃ生きていけないだろう。俺がいなきゃ路頭に迷うぞ。
呆れるしかなかった。どうやら彼には現実を教えてあげた方がよさそうだ。
あなたの給料を馬鹿にする気はないけど。でも、たった八万の給料じゃ、家賃も払えないから。私たちが住んでいた都内のマンションの家賃は、あなたの給料の二倍はする。光熱費や食費を合わせれば、一月二十五万は必要になってくる。あなたの給料じゃ、到底やっていけない。
今まで気を使って言わずにいた現実を、全てぶつけた。それでも彼は納得しない。
そんなわけないだろう。だったら今まで、どうやって生活してきたんだよ。
そんなの、自分の給料で払ってたに決まってるでしょ。
そう。私は在宅でライターの仕事をしており、クライアントからも実力を高く評価されていた。手取りで言えば、彼の五倍は稼いでいたのだ。
真実を知った彼は、驚きのあまり言葉を失っていた。さらに、もう一つの事実を伝える。
かなり、自分が社員だと思ってるみたいだけど。あなたの雇用形態って、アルバイトだからね。
彼は大手チェーン店で勤務している。だがそれは社員としてではなく、フルタイムのバイトだった。この事実は、三ヶ月前に義母から聞かされたものだ。
家出したかなりは、案の定実家に戻っていた。なぜ彼が急に戻ってきたのか不思議に思った義母が事情を問いただすと、彼は「自分は八万も稼いでいるのに、不満を言うあゆが贅沢だ」と話した。それを聞いた義母は、謝罪の電話をかけてきてくれた。その時に今回の経緯も詳しく話した。
かなりは義母にとって遅くにできた子で、義母自身も甘やかしすぎたと後悔しているという。「これ以上、世間知らずの息子に振り回されず、好きなように生きてほしい」とも言われていた。
お母さん、驚いてたよ。かなりがアルバイトだって知らなかったそうじゃない?
そ、それは……
だからお前を追い出したのか。
話を聞くと、かなりが戻ってきたのは実家を追い出されたからだった。さすがに今回の件で義両親も愛想を尽かしたらしい。
頼む。俺が間違っていたから許してくれ。ここがなかったら、もう行くところがないんだ。
彼は電話越しでも分かるほどの泣き言で助けを求めてきた。しかし今更謝られたところで、許す気などさらさらない。
自分が気に入らないからって離婚届けを置いていく人とは、この先一緒にやっていける気がしないから。
そ、そんな、待ってくれ、あゆ。
っていうか、すでに離婚届けは出してるし。赤の他人であるあなたのことなんて、私には関係ないよ。これからは頑張って世間を知っていくことだね。
それだけ言い残し、まだ何かを言っている彼の言葉を遮って電話を切った。これで、完全に彼との夫婦生活に幕を下ろした。
その後、三十五歳で現実を知ったかなりは、常識のなさが災いして苦労しているらしい。義母から改めて慰謝料を払いたいと言われたが、三ヶ月の結婚生活のために払わせるのは申し訳ない。それに、今回の件はかなりが悪いのであって義母が悪いわけではない。私は「気持ちだけ」受け取ることを伝えて、丁寧にお断りした。
私の方はと言うと、「結婚を焦るからこうなる」と両親からお小言を言われ続けた。これに関しては両親の言うことが正しいので、何も言い返せなかった。周りの意見も聞かず盲目になっていたことを反省し、二度とこんなことは繰り返さないと心に誓った。
次に誰かを好きになることがあったら、ちゃんと理解し合える人と関係を築いていきたい。たった三ヶ月の夫婦生活は、確実に私にとって良い教訓となった。これからは人を見る目を養い、焦らずにゆっくり人生を歩んでいこう。
