朝のチェック作業を終えた瞬間、部長の冷たい声が電話越しに響いた。「中卒の無能は首だ」——過労で倒れ、病院のベッドに横たわる俺に、容赦なく突きつけられた解雇宣告。毎日のように雑用を押し付け、宮崎と二人で俺を嘲笑ったあの男が、今度は震える声で「杉山さん、戻ってきてください」と懇願してくる。でも、もう遅い。俺だけが持っている特許ライセンスの存在を、彼らは知らない。機械が止まり、会社が混乱する中、俺…

朝のチェック作業を終えた瞬間、部長の冷たい声が電話越しに響いた。「中卒の無能は首だ」——過労で倒れ、病院のベッドに横たわる俺に、容赦なく突きつけられた解雇宣告。毎日のように雑用を押し付け、宮崎と二人で俺を嘲笑ったあの男が、今度は震える声で「杉山さん、戻ってきてください」と懇願してくる。でも、もう遅い。俺だけが持っている特許ライセンスの存在を、彼らは知らない。機械が止まり、会社が混乱する中、俺...

「中卒の無能は首だ」

エリート部長の安藤が、吐き捨てるように冷たい一言を放った。過労で倒れ、病院のベッドにいる俺に、電話越しに容赦なく告げられた解雇宣告。毎日のように雑用と残業を押し付けられ、同僚の宮崎と一緒になって俺を笑い物にする部長に、身体的にも精神的にも追い詰められた末のことだった。

しかし、この時の部長は知らない。俺だけが持っている、ある資格のことを。

入院中、突然部長から慌てた電話がかかってきた。

「杉山さん、戻ってきてください。今、大変なことが起きてるんです」

もう遅い。俺はこの会社を見切った。「中卒の無能は首なんですよね」

静かに電話を切り、着信拒否に設定した瞬間、会社の崩壊が始まる。中卒だと見下していた男の正体に、部長は顔面蒼白になり、呆然とするのだった。

俺の名前は杉山。五十歳。高校を卒業してから家具メーカーの技術者として働いてきた。昔から物を作ることが好きだったから、仕事自体は楽しい。家族は母が一人だけ。小学校の頃に父を亡くし、それからは高校を卒業して一人暮らしをするまで、母と二人で暮らしてきた。

しかし最近、地元に住む母が体調を崩して入院してしまう。俺しか面倒を見る人がいないため、半年前に遠方から地元に戻ってきた。今はマンションで母と二人暮らしだ。前職は退職して、今の会社には三ヶ月前、中途採用で入社したばかりだった。

迷いはあったけれど、新しい場所で挑戦するチャンスでもあった。母を一人にできないことと、独身だったことも転職を決断できた理由かもしれない。長年住んだ場所を離れるのは寂しかったが、ここは地元だ。知り合いも多いし、友人もいる。最近は高校時代からの友人、上野五郎と会うことが増えた。こっちに戻ってきてからは、月に一、二回は飲みに行くようになった。

「おい、なおや、こっち、こっち」

「ごろう、待たせたな。遅くなってすまん」

「大丈夫だよ。でもさ、お前が地元に戻ってきてくれてよかった。またこうして飲める」

五郎も独身だがパートナーがいる。来年には結婚が決まっているようで、嬉しくもあり、同時に少し寂しくもある。こうして集まる機会が減ってしまうだろうと予想できるからだ。

「今日はパートナーを放っておいて大丈夫なのか?」

「大丈夫。彼女も友達と飲みに行ってるから気にしないで。まあ飲めよ。お前こそ、お袋さんは大丈夫か?」

「うん。今はだいぶ落ち着いてきたし、ヘルパーも頼んであるから大丈夫だよ」

こうして五郎と飲むのが、今の俺にとって一番の息抜きの時間だった。

「ところで仕事はどうなんだ? 中途採用だったよな。大変か?」

「うん。まあな。大変といえば大変かな」

五郎が眉をひそめる。

「なんだよ。はっきりしないな」

俺はビールを一気に飲み干した後、言った。

「中途採用って、やっぱり馴染みにくいもんなのかなと思ってさ」

「え、なんだよ。やっぱり何かあるのか? 何かあれば相談しろよな」

軽快な顔をしつつ、五郎は不器用に俺を励まそうとしてくれる。

「ありがとう。話せる時が来たら言うよ」

「そうか。無理だけはするなよな」

この年でこういう友人がいるのは本当に心強いと、帰り道、しみじみ思った。

毎朝、俺は誰よりも早く出社する。一日の作業の流れや部品のチェック、そして新しい機械の操作確認から俺の朝は始まる。三十分後、従業員が次々に出社してくるので、俺はいつも挨拶をする。

「おはようございます」

だけど、みんなはお辞儀をするだけで挨拶を返してはくれない。でも、これはまだマシな方だ。

「安藤部長、おはようございます」

「ああ、おはよう」

爽やかにやってきたのは安藤部長だ。有名大学出身で順調に出世し、社長からも一目置かれているらしい、自他ともに認めるエリート。だけど、この部長はなぜか俺にだけは厳しいというより、無能だと見下してくるのだ。

安藤部長におはようございますと頭を下げ、作業に入ろうとした時だった。

「おい、無能新人。ほら、これを持っていくのを忘れてるぞ。お前の仕事はこっちだろう」

え、と顔を上げると、部長が俺に渡してきたのは掃除道具だ。俺はそれを黙って受け取る。周りの従業員も、誰も俺を庇ったり助けたりすることはない。

「また始まったな」「静かにしとけ」

従業員は皆、俺と視線を合わせないように背を向けている。俺の味方は、ここにはいない。

「うん、似合ってるな。無能新人にはやっぱりその格好だよな。なあ、宮崎」

宮崎はまだ二十代で、部長と同じ大学の出身だと聞いた。そのせいもあり、部長の一番のお気に入りの従業員が宮崎雄大だ。

「本当ですね。さすが安藤部長です」

と部長を持ち上げるのが宮崎のいつもの癖。強い者に従い、若いうちから出世したいらしい。

「でもなんで杉山さんが中途採用されたんですかね? 他に人材いなかったんですか?」

「確かにな。俺もそう思っていた。いい人材はいるはずだが、社長はなんでこんなやつを採用したんだろうな」

俺が仕事をしているそばで、聞こえよがしに喋る二人。

「俺の友達の方がよっぽど優秀だと思いますけど、交代したりできないんですかね」

宮崎はすっかり俺を見下している。

「いいな、それ。おい、新人さん。交代だ、交代」

「もう部長。そんなこと言ったら杉山さん泣いちゃいますよ」

「悪い悪い。無能新人、掃除が終わったらコンビニでコーヒー買ってきてくれよ。宮崎のは美島だよな」

「はい。やった」

「杉山さん、よろしくです。すみませんね、年上の人に買い出しなんて頼んで」

ここに来てから、俺は毎朝雑用と買い出しをしてからでないと、作業に入ることができない。でも、これでスムーズに作業ができるのであればいいと思っていた。

「年齢は関係ないって。この会社に入社したのは宮崎が先だ。堂々としてればいいだけだ」

「そっか。そうですよね。じゃあ杉山さん、お願いします」

「分かりました。掃除が終わったら買ってきます」

それからすぐに掃除を開始し、コンビニでコーヒーを買って会社に戻って来れたのは一時間後だった。

「あの、安藤部長。コーヒーを買ってきました。宮崎さんの分と二本、どうぞ」

コーヒーをビニール袋に入れて渡したが、部長は受け取らずににやっと笑う。

「ああ、そういえば言ってたな。でも遅いから自分で買ったわ。だからもういらないから」

「俺もです。すみません」

「せっかく買ってきたんですから、杉山さんが飲んだらいいんじゃないですか」

「いや、俺はコーヒーは飲まないから」

そう言った俺を、二人はまた笑って見ている。

「いえ、大丈夫です。すみません」

俺がコーヒーを飲まないことを知って、わざとやっている。そんなことぐらい、俺だって理解している。

「今度はこれの書類整理でもしておけよ。お前は新人だから、雑用全てやってからじゃないと作業できないからな。いいな」

「はい、分かりました」

俺を嘲笑い見下す二人。その後ろ姿を見送りながら、頼まれた雑用を必死にこなしていく。複雑な感情がないわけじゃない。だけど、もう少しやれるところまで頑張ってみようと思っていた。

それから一週間後、朝のチェック作業はずっとやっている。でも、少しだけ変わったことがあった。今までは雑用や買い出しだけだったが、顧客の要望を聞いたり、図面作成などもできるようになったのだ。これは素直に嬉しかった。だが、その中には、明らかに俺の仕事ではなく、部長が担当すべき仕事が混ざっている。

「おい、新人さん。俺がランチから戻るまで、これもやっておいてくれよ。急ぎだから」

渡されたのは、部長がまとめるはずの仕事だ。しかし、俺が何か言えば、また買い出し扱いになるだろう。でも、もう飲んでももらえないコーヒーを買うことはしたくない。嫌だとは、今の俺には言えなかった。

「分かりました。戻られるまでにやっておきます」

押し付けられているのは分かっているが、それでも仕事に関われている実感がある。それが嬉しく、楽しかった。

一時間後、頼まれた書類を部長が戻ってくるまでに終わらせることができた。

「あの、安藤部長。終わりましたので、チェックをお願いします」

「ああ、そうか。まあ、ゆっくり昼飯行ってこいよ」

「ごゆっくりどうぞ、杉山さん」

今まで無能新人にはランチ代などと言われていたのに、こんな優しい言葉をかけられたのは初めてだ。

「はい、ありがとうございます」

ようやく認められたような気がして、素直に嬉しくなる。三十分後、ランチは順番に行くことになっていて、最後に戻ってきたのは俺だった。

「戻りました。遅くなってすみません」

すると、俺の声を聞いた従業員たちの視線が一斉にこっちに向いた。それは温かいものではない。冷たい視線や、呆れ果てたような視線である。

「え、何かあったんですか?」

その途端、テーブルをドンと叩く音がした。みんながびくっと体を震わせる。テーブルを叩いたのは、こちらを睨んでいる部長だった。

「お前」

「何がじゃねえんだよ。お前が作成した顧客の要望書や図面が、全部間違ってるんだ。これはどういうことなんだ?」

そして数枚の書類を投げ渡される。確かに、昨日俺が作成した顧客の名前がある。だが、内容が明らかに違っていた。

「いえ、これは俺が作ったものと違います。きちんと確認しながら行ったので、間違えるはずがありません」

俺はきっぱりと否定する。その時、宮崎が俺をきっと睨みながら言った。

「俺、見ましたよ。これを杉山さんが書いているのを」

「え、見たってどういうことだ? 俺はそんなことはしたりしない。なんでそんな適当なことを言うんだ」

「杉山さん、こんなことして安藤部長に何か恨みでもあるんですか? ひどいじゃないですか」

「そんないや、俺は本当にやっていません。信じてください。お願いします」

そう必死に訴えると、宮崎は真っ赤になって怒り出した。

「じゃあ、俺が嘘を言っているって言うんですか? ひどいです。俺は見たことを正直に言っただけなのに」

その後、何度も俺は否定したが、誰も信じてくれない。むしろ否定すればするほど、怪しいと思われてしまっているようだった。何もしていないのに、どうしたらいいんだと、俺は内心頭を抱える。その時だった。

「安藤部長に謝罪と感謝をしないんですか? 部長が気づいたから大事にならなかったんですよ。そのままだったら」

「宮崎の言う通りだ。気づかなかったら大変だった。謝罪くらいはあってもいいもんだよな。なあ、みんな」

他の従業員も、口々に部長の言葉に賛同する。

「そうですよ、杉山さん。頭下げるくらいしたらどうですか?」

俺は本当に何もしていない。だけど、このままでは何も解決しないことは分かっている。俺は握り拳を作りながら、部長に深々と頭を下げた。

「すみません。本当に申し訳ありませんでした。ありがとうございました」

そんな俺を見て、部長は首を振りつつ、呆れたような口調で言った。

「はあ。無能な新人を部下に持つと大変だ。今まではこんな役立たずはいなかったからな」

「杉山さんがおかしな人だってだけですよ。でも謝罪だけでいいんですか? こんなに安藤部長に迷惑をかけたのに」

宮崎も図に乗って言いたい放題だ。

「ああ、そうだよな。やっぱり、他にも色々と頼もうかな」

その日以降、部長は今までの仕事とは別に、大量の書類やファイルを俺のデスクに置くようになった。

「おい、新人。これも今日中に終わらせとけよ。お前の仕事はこれだ」

とても業務時間内にできる量ではないので、俺は毎日のように残業してこなすはめに。

「俺、こんなんで終わっていいのかな? でも、仕事を投げ出すわけにはいかないし、この年で再就職は厳しいよな」

時々、こんな独り言をつぶやきながら、黙々と仕事をこなす。俺はもう五十歳だが、まだ五十歳だ。これからも生活費や母の通院費、ヘルパー代など、色々とお金はかかる。最近は疲れが全然取れない。年かもしれないが、将来や母のことを思うと、今は踏ん張っていくしかないと思っている。

二週間後、俺の顔色は、母が心配するほど悪くなっていた。正直、体調も良くない。でも、急に休んだりしたら周りに迷惑をかけてしまう。朝のチェックは欠かせないし、導入したばかりの機械は難しい操作が多い。マニュアルは置いてあるが、まだ教えていないし、実際に動かせるのはまだ俺しかいない。

「やっぱり行かないと」

俺は自分にそう言い聞かせ、重い体を引きずるようにして玄関を出た。しかし、疲れが溜まっていたのだろう。道に出た瞬間に、俺は意識を失ってしまったのだ。

次に目覚めたのは、病院のベッドの上。

「杉山さん、分かりますか? 病院です。あなたは過労で倒れたんですよ。これから検査しますが、しばらくは入院してもらいます」

過労で入院という事実に、俺はショックを受けた。だが、病院とはいえ、久しぶりにゆっくりとベッドの上で眠ったので、気持ちがかなり安定した気がする。時計を見ると、もうすぐ始業時間だ。俺は近くにいた看護師の許可を取って、車椅子でスマホが使える場所まで移動する。

「会社に連絡しておかないと、サボりだと思われたらまずいからな」

そうつぶつぶ言いながら急いで会社にかけると、電話に出たのは部長だった。

「安藤部長、杉山です」

「お前、新人のくせに俺より遅く来るなんて、何考えてんだよ。遅刻だ、遅刻」

理由も聞かず大声を出す部長にうんざりしたが、なんとかこちらの事情を分かってもらわなければならない。

「すみません。出勤中に過労で倒れてしまって、すみませんが今日はお休みをいただきたくて連絡しました」

さすがに怒鳴られることはないだろう。そう思っていたが、甘かった。

「はあ? お前が過労だって? ふざけんなよ。俺の方が忙しくて倒れそうだってのに」

「すみません。先生の許可が出ましたら、すぐにご連絡しますので、よろしくお願いします」

そう言った次の瞬間、部長から予想だにしない言葉が飛んできた。

「無能は首な」

「え、首?」

部長が笑う隣で、もう一人誰かがゲラゲラと笑っている。その笑い声を残して、電話は切れた。隣にいたのは、きっと宮崎だろう。部長も宮崎も、最後まで俺を笑い物にして切り捨てて終わるのか。

「首、か。もう行かなくてもいいってことだよな」

正直、ほっとした自分がいる。自分からやめるのは気が引けるが、向こうから言ってきたことだ。勝手にやめるのとは違う。もう終わりでいいかなと、捨て鉢な気持ちになりつつ病室に戻ろうとしたその時、五郎からメールが来た。

「今日時間あるか。飲みに行こうぜ」

俺がすぐに過労で入院したことをメールで告げると、五郎から電話がかかってきた。

「おい、大丈夫なのか?」

五郎の心配げな声が嬉しくて、泣きそうになる。

「ごろう、今昼間だが仕事をサボって大丈夫なのか?」

「何言ってんだよ、お前。過労って、そこまで大変な思いしてやっていたのかよ。なんで言わなかったんだよ。水臭い」

五郎の言葉はきついものの、それは全て俺を心配するあまりに出るものだった。

「ごめん、ごめん。急に出勤中に倒れてさ。念のため頭部の検査や休息でしばらくは入院になったけど、大丈夫だから」

だが、五郎は全く安心した様子ではなかった。

「仕事はどうするんだ? 過労になるまで働かせるような会社はやめたらいい。俺がどっかいい会社紹介するから」

五郎は本当にいいやつだ。この年になって、家族以外に真剣に心配してくれる人なんて、早々いないだろう。

「実はさ、さっき上司から首だって言われたんだ。だから、もしかしたらお願いするかも」

「はあ? 首って何だよ。やめるのは賛成だけど、首って、え、ひどいだろ。取り消せないのか」

五郎は本当に俺を心配しているようだった。

「いいんだ。そう言われて、少しほっとしているんだよ。今はゆっくり休みたいんだ」

五郎は俺の言葉を聞いて、少し安心したようだ。

「分かった。これから仕事だから、後で病室に行くよ」

「ごろう、悪いな。ありがとう」

「じゃあまた後でな。お大事に」

ゆっくりと休める環境と、友人からの励ましに、俺は穏やかな気持ちになったのだった。

俺が病室で休んでいるその時、会社では大変なことが起きていたようだ。

「安藤部長、大変なんです。ちょっと来てもらってもいいですか? 機械が調子が悪くて、システムがストップしちゃって」

宮崎の言葉に、仕方なく重い腰を上げて機械を見る部長。だが、見た途端、部長の顔には驚きが張り付いていたそうだ。

「え、なんで? 昨日はちゃんとなっていただろう。もう壊れたのか?」

「分からないですけど。でも、安藤部長なら分かりますよね。いつも安藤部長がやってくれていたんですよね」

宮崎の言葉に、困窮する部長。なぜなら、思い当たる節が全くないからだ。

「いや、俺は知らないぞ。誰か他の従業員がやっていたのかと思っていたから」

「え、安藤部長じゃないなら、じゃあ一体誰がこの難しい機械を動かしていたんですか?」

部長と宮崎は他の従業員たちを見回したが、誰も反応しない。だが、一人の従業員だけが、おずおずと二人に告げた。

「あの、多分それをやっていたのは、杉山さんだと思います」

「はあ? あいつが? まさか、それはない。あいつはただの無能新人だぞ」

「でも、今日は他に休みの人って、若い新人しかいないです。そいつらができるわけがないですし。それに、俺は杉山さんがやるのを本当に見たんです」

皆の前でもはっきりと言い切る従業員の言葉に、嘘はないと、さすがの安藤でも思ったほどだった。

「でも、確かマニュアルが置いてあるはずです」

すぐに他の従業員がマニュアルを持って部長に渡す。

「なんだ、これがあれば大丈夫だろう。びびらせるなよな」

部長はマニュアルを手にして作業しようと思った。しかし、想像より難しい。

「なんだよ、これ。マニュアル見ても分からん」

宮崎も顔をしかめる。

「うわ、かなり複雑だぞ。じゃあ、本当に杉山さんが、まさかしていたんですか? 安藤部長。どうしたら」

「それが本当なら、かなりまずいですよね」

「いや、ないだろう。絶対にない。あいつにそんなことできるわけがない。ただの無能なんだから」

部長は口では強がっていたが、すでに顔色は青ざめ始めていた。みんながお手上げ状態になったその時、バタバタと大きな足音を立ててやってきたのは社長だ。

「おい、一体どうなっているんだ? 朝の作業が全然進んでいないと聞いたが。安藤君、安藤君はいないのか?」

「はい、社長、すみません。いつも朝の機械を操作する担当が休みでして」

部長の言葉に、社長は誰のことを言っているのか理解して頷く。

「ああ、杉山さんだろう」

「え、いや、社長、あの人じゃないですよ。だって中途採用の中卒ですよね。そんな人が」

「君は何を言っているんだ?」

会話が噛み合わず、部長と社長はきょとんと顔を見合わせた。

「じゃあ、杉山さんから何も教えてもらっていないのか。もう彼が来て三ヶ月は経っているんだぞ。どうなってるんだ、安藤君」

「いや、すみません。でも社長、あいつじゃなくて杉山さんから教えてもらうって、何のことででしょうか?」

社長は、部長のとぼけた言動に、怒りは爆発寸前だった。

「はあ。安藤君、君は前に私が話したことを聞いていなかったのかね。杉山さんは、この機械の特許ライセンスの持ち主なんだよ」

「え、あの人が特許ライセンスを?」

「ああ。これがあるから作業の効率は上がったし、ミスもない。業績は右肩上がりだ。でも、難しい機械だから、役職は杉山さんから学ぶように、君に社長室で伝えたはずだ」

部長は、社長の言葉に青ざめた顔になる。確かに部長は、以前社長から呼び出された時があった。ただ、部長は社長からその話を聞いた時、中卒で中途採用の五十歳のおっさんが来るとしか思わなかったらしい。だから、実績や資格などを社長が話しても、右から左に流していたのだ。きっと頭の中で、中卒男をストレス発散の吐け口にでもしようとでも考えていたのだろう。だから社長の話の重要な点を聞き流していたのだ。それでよく部長まで務まったなと、俺には疑問しかないが。

「すみません社長。あの時、ちゃんと聞いていませんでした。本当に申し訳ありません」

「君を信頼して任せたんだぞ。ここを仕切る部長が、そんなことでどうするんだ? 信じられん。機械が動かずシステムが停止したままじゃ、困るんだよ」

普段は温厚で有名な社長の怒号に、部長だけでなく周りの従業員も身をすくませた。

「やばい、社長本気で怒ってる」

「いつも大人しい人ほど、怒ると怖いというやつだろう」

「効率が悪いが、前の方法しかないだろう。他の者は私と一緒に来てくれ。安藤と宮崎は、杉山さんに連絡がつくまで電話をかけ続けろ」

「はい、すみません。今すぐに、あいつじゃなくて杉山さんに連絡を取ってみますので」

「宮崎、お前も早く来い」

部長は完全に大パニック。宮崎も今までの発言を思い出し、顔面蒼白。

「安藤部長、やばいですって。まさかあの人がそんなすごい人だったなんて。あの、安藤部長。さっき杉山さんに首って言ってましたよね」

その言葉に、部長の電話をかける手が震える。

「だ、大丈夫だろう。きっと、あれくらいのことで怒ったりしないはずだ。とりあえず連絡だ」

「そうですね。杉山さんは穏やかな人ですからね」

「本当に頼むよ」

宮崎は祈るように手を合わせ、部長は気合を入れて通話ボタンを押すのだった。

病室で俺は、改めて医師からの説明を受けていた。

「じゃあ、後で頭部の検査しますね。看護師の指示に従ってください」

「はい、分かりました」

素直に頷くと、医者が労わるように言う。

「無理をせずに、ゆっくり休んでくださいね。では」

俺はしばらく入院だ。だから、母のことはヘルパーさんと相談して、一時的に施設に預けることにした。母さんのこと以外は、特に大丈夫だよな。

「あとは、少し寝るか。まだ疲れが残ってるし」

そう呟いて布団をかぶったその時だった。テーブルに置いていたスマホが震える。

「誰だ? 母さんとヘルパーさんにはかけたし、他には誰も。え、安藤部長から? 一体なんで」

何度もかかってくるが、ここではスマホは使えない。それに出ないと、ずっとかけてきそうだという予感がした。俺はまた車椅子で部屋の外に移動し、仕方なく電話に出ることに。

「はい、杉山です」

「あ、杉山さん、よかった、出てくれて。本当に良かったです。ありがとうございます」

部長から名前で呼ばれ、しかも敬語まで使われたのは初めてのことだ。嫌な予感がしつつ、会話を続ける。

「あの、何かご用でしょうか? 退職届のことなら、退院したら社長の方へ持っていきますので、安心してください」

しかし、部長は慌てて遮ってきた。

「いや、違う、違うんだ。首って言ったのは、あれは冗談ですから。すみませんが、本気にしないでください。杉山さん」

「冗談って、そんな感じではなかった気がしますが。大丈夫ですよ。俺がいたらご迷惑しかかけないみたいなので」

俺が淡々と返すと、ますます部長は慌てた声になる。

「いえ、あの、すみませんでした。まさか杉山さんが色々とやってくれていたんですね。俺、全然知らなくて」

といつになくしおらしい口調で俺に語りかけてくる部長。ついさっきまで、無能は首だと言っていたはずなのに。

「そうですね。みんなに教えたいと思っていたんですが、叶えられずに残念です」

俺が全く対応を変えないので、とうとう部長は本音を出してきた。

「杉山さん、助けてください。機械が使えなくて、システムが停止したままなんです。社長が怒ってしまって。どうか操作方法を教えてください」

電話越しでも、部長が切羽詰まっている様子が伝わってきた。確かに社長は、俺が特許ライセンスの持ち主だと知っている。そのことを部長にもしっかりと伝えたはずだと、言っていた。だけど、初日から俺を五十歳の無能新人と見下してきたのだ。きっと社長の話を聞かず、自分に都合のいいように理解していたのだろう。それに、今更俺に教えて欲しいと言われても、もう退職するのだから、しょうがないではないか。

「マニュアルがあるの、分かりますか? それを確認してください。それに、俺はもう関係ない人間ですから」

そう言って、やんわり拒否してやった。ちなみに、俺の予想では、マニュアルを見てもあまり分からないと思う。マニュアルを読んで、実際にやってみないと、頭に入らないだろう。

「安藤部長。社長から言われていたはずなのに、聞いていなかったのはあなたです」

「う、それは」

多分社長からも散々叱責されたに違いない。今それを追求されるのは、部長の心を深くえぐる行為だと知りつつ、俺はそう言ってやった。

「そうですね。申し訳ありません。でも、杉山さんもどうして言ってくれなかったんですか? 言ってくれたら、こんなことには」

今度は逆切れか、と呆れつつ、俺は部長に話しかける。

「もしあの時、俺が言ったら、あなたは信じてくれましたか? 五十歳の無能の新人の言うことを、信じてくれましたか?」

「あ、それは、その、まあ」

図星を刺され、部長は口ごもる。自分でも思ったのだろう。あの時、俺が何を言っても、相手にすることはなくスルーしていたに違いないと。

「あとはマニュアルを見てください。俺はこれから検査がありますので、もういいですか?」

「待ってください。今日はなんとかします。ですが、必ず戻ってきてください。退院はいつになりますか? 明日、明後日、迎えに行きますから」

部長の魂胆が、俺には分かっていた。俺にやめられると、自分が首と言ったことを咎められることになるから、戻ってきて欲しいと言っているだけ。結局、保身のために過ぎないのだ。

「安藤部長。過労と診断されたんです。五日か一週間、それ以上になるかもしれません。それに、正直なところ、あなたと縁が切れて、俺は気が楽になりました。じゃあ、もう休みたいので、すみませんが切りますね」

焦った部長の声が響く。

「すみません。そこまで追い詰めていたとは思っていなくて、本当に申し訳ありません。え、ですが」

助けを請う部長の言葉に、俺はもう付き合いきれなかった。はっきりと言ってやることにする。

「中卒の無能は首なんですよね。失礼します」

電話を切る間際、部長の悲鳴が聞こえたが、無視した。何もかも、もう遅いのだ。今の俺には、部長や宮崎を助けようという気は、すでにない。また電話がかかってくるのを避けるために、俺は部長と宮崎の番号を着信拒否設定にしたのだった。

入院から一週間後、やっと退院できた俺は、退職届を持って社長室へ向かう。社長から、退院したら社長室へ来てほしいと言われていたからだ。社長室のドアをノックすると、中から返事があったので、俺は深呼吸をしてからドアを開けた。

「失礼します」

「杉山さん、わざわざありがとう。こっちにかけてくれ」

俺は社長に深くお辞儀をし、ソファーに腰を下ろす。

「体調はもう大丈夫かね?」

「はい。しっかり休みましたので、大丈夫です」

室内には、社長の他にも人がいた。俺がちらっと視線を送った先にいたのは、もちろん部長と宮崎だ。二人は俺を見るなり、すっと立ち上がり頭を下げた。俺も小さくお辞儀を返す。過労で倒れてから一週間ほどしか経っていない。だが、部長と宮崎の表情はかなりひどいものだ。二人の顔色は悪く、げっそりと痩せて、まるで別人のように暗く見えた。こんな短期間であれほど人が変わるとは、かなり社長や周りから責められたのだろう。でも、少し前までは、俺も同じようだったはず。だが、その時、この二人は俺のことを心配しようともしなかった。

「あの、社長。今日私が来たのは」

「ああ、君の言いたいことは分かってる。顔を合わせたくないのも、重々承知だ。だが、少しだけ時間が欲しいんだ。この通りだ」

俺に頭を下げる社長の気持ちを無にすることはできない。

「社長、頭をあげてください。分かりました。少しなら大丈夫です」

「ありがとう。この二人には、きちんと謝罪させようと思っているだけなんだ」

まさか部長と宮崎がいるとは思っていなかったので、正直気まずい。

「安藤君、宮崎君。君たちもここに座りなさい」

部長と宮崎は社長に指示され、ゆっくりと俺の正面に座る。この状況に耐えられず、ずっと小刻みに震えているのがひしひしと伝わってくるので、こっちもたまらない。部長と宮崎は、俺と視線を合わせたくないのか、ずっと下を向いたままだ。退職届だけ渡して帰りたかったが、もっと早く帰りたいのは向こうの方かもしれないと、少し思った。

「実はね、杉山さんが中途採用された時からの、この二人の言動を、他の従業員から聞いたんだよ」

「え、そうだったんですか」

あれから社長は、部長が話を聞いていなかったことが気になったようだ。すぐに部長の周辺調査をしたらしい。すると、俺が中途採用された日からずっと、俺のことを見下し、無能扱いしていたことが判明したという。しかも、部長と一緒になって嫌がらせをしていた宮崎のことも、明るみに出たのだ。

「あの書類の件も、あいつらが仕組んだことだと聞いているぞ。全くなんてことだ」

以前、部長が間違った書類を渡したと俺を怒鳴りつけたことも、聞いたらしい。結局、あれも部長と宮崎の仕業。俺が仕上げたものを、わざと違うものに修正して、俺に見せただけだったのだ。最初は優しくしておいて、後で俺が惨めに慌てる顔が見たいがためだけに、あんなことをしたらしい。他の従業員も、何も言わなかったとはいえ、止めることも社長に報告することもしなかった。というよりは、できなかったのだ。俺が来る前から、部長と宮崎は徒党を組んで、大卒以外の人や新人を見下したり、嫌がらせの対象としていた。自分がターゲットになってはたまらないと、他の従業員は見て見ぬふりをするのが習慣になっていたらしい。

「そんな、他の従業員にまで。それは全然知りませんでした」

「私も全く知らなくてね。従業員たちには申し訳なく思っているよ。他の従業員たちは、今回のことで社長から順に厳重注意を受け、今後このようなことがあったら報告しろと叱責されたらしい。みんな反省しているよ。彼らの分は、代わりに私が謝罪しよう。本当に申し訳ない」

「社長、やめてください。もう大丈夫ですから。頭をあげてください」

俺が何度も懇願した後、やっと社長は頭を上げていった。

「ありがとう。しかしね、この二人はかなりひどいと知った。だから、君に直接謝罪させようと思っていたんだよ。それに、勝手に首を言い渡すとは、言語道断だ」

社長は二人をぎろっと睨む。すると、社長の鋭い視線に気づいた部長と宮崎が、また立ち上がったかと思うと、いきなり床に座り土下座を始めた。

「す、杉山さん。本当にこの度は申し訳ありませんでした。俺の勝手な思い込みで、失礼なことばかり言いました。本当にすみません」

「杉山さん、申し訳ありませんでした。俺、こんなことになるとは思いもしなくて」

二人の姿を、俺は白けた思いで眺めていた。土下座されたからと言って、俺が退職するのは変わらない。

「安藤部長、宮崎さん。土下座なんてやめてください」

だが、呆れ顔の俺に気づきもせず、宮崎は続ける。

「それに、安藤部長が怖くて、逆らえなかったんです。すみませんでした」

その言葉に、部長はぎろっと宮崎を見た。まさか、可愛がっていた宮崎からそんなことを言われるとは、部長も思っていなかったのだろう。宮崎自身も、自分の言った言葉に慌てて口を閉じる。だが、ここで黙っていられないのが、部長だ。社長が目の前にいることも忘れて、部長は宮崎にぶち切れ出した。

「おい、何言ってんだよ、宮崎。お前だって、こいつを散々見下していただろうが。俺のせいにするんじゃねえよ」

部長のぶち切れに、冷静になったはずの宮崎も逆上して反論を始める。

「だって、安藤部長が最初に始めたんですよ。部下の俺が逆らえるはずないじゃないですか」

「お前、今まで散々可愛がってやったのに」

それを見ていた俺は、呆れて物も言えなかった。結局、二人の謝罪は我が身可愛さゆえのもの。俺の心には全く響かなかった。

二人がお互いに胸ぐらを掴み合おうとした、その時だ。

「二人とも、いい加減にしなさい。全く、ここで争うなんて、何も反省をしていないのか」

社長の怒鳴り声に、やっと二人は我に帰ったようだ。ぺこぺこと頭を下げ、席に戻った。やっぱり、社長の一喝は違う。

この二人のことがなければ、社長やこの会社といい関係性が築けたかもしれない。それだけは寂しく思ったが、もう決めたことだ。

「社長、申し訳ありませんが、私はこれで失礼させてください。母の施設に顔を出さないといけないので」

「そうか。それはすまなかったな。時間を作っていただき、ありがとう、杉山さん」

俺は社長に退職届を渡した。社長は眉間にしわを寄せながらも、受け取ってくれる。

「体調に気をつけてな。もちろん、首ではなく通常の退職で受け取るよ」

「社長、ありがとうございました。失礼します」

頭を下げて社長室を出ようとする俺の背中に、再び部長と宮崎の涙ながらの謝罪が聞こえてくる。

「待ってくれ」「許してくれ」「本当にすみませんでした」

でも、俺はもう振り返ることもなく、社長室を後にした。

中途採用された時、残りの人生をこの会社で生きていこうと思っていた。だけど、人生はうまくはいかないものだ。まさかあれほど見下されながら仕事をするはめになるとは、思いもしなかった。部長と宮崎の今までの言動も、いつかは許せるかもしれない。だけど、その日が来るのはまだまだ遠い。それほど、俺の心身は疲れていたからだ。友人の声が無性に聞きたくなった。俺は会社を出てすぐに、五郎に電話した。

「今、終わったよ。退職届を出してきたところ」

「あのさ、仕事のこと、本当に頼めるのかな?」

「ああ、もちろん。実は、直に紹介したい会社があるんだ。絶対に合うと思うんだけど、一度会ってみないか」

嬉しさと驚きが半々のまま、俺は弾んだ声で答える。

「え、もう。五郎がいいなら、是非お願いするよ」

まさかこんなにすぐ仕事を紹介してもらえるとは思っていなかったので、とても嬉しかった。

「よし、そうと決まれば早速だけど、明日にでもどうだ?」

「大丈夫。ありがとう。お願いするよ」

「じゃあ明日な」

五郎は明るく言って電話を切った。俺も通話を切り、スマホをポケットにしまう。いいことが起こりそうな予感がしていた。

あれから一ヶ月。結局、会社は俺が特許ライセンスを停止したこともあり、右肩上がりだった業績は急降下。部長はその責任を問われた上、部下への悪質な態度と、仕事を押し付けて手柄は自分のものにしていた自分勝手な行動も問題視され、解雇処分が決定した。あの日、俺が社長室を退出した後で、部長は社長から直接、解雇を言い渡されたようだ。

「社長、首だけは勘弁してください。妻に何て言ったらいいか。絶対に離婚になってしまいます。お願いします」

部長は土下座して社長に懇願したという。しかし、社長は首を縦に振らなかった。

「これだけ会社にも人にも迷惑をかけてしまったんだ。このままお咎めなしとはいかないだろう。分かっているよな」

「そうですけど。この年で、これからどうしたらいいか。地方にでもどこでも行きますから。首だけは」

なおも部長は泣きながら懇願したらしいが、結局社長はその願いを聞くことはせず、部長は解雇となった。宮崎も同じく、あの場で左遷が決定した。部長の解雇よりはマシだと思って、素直に結果を受け入れ、地方へと移動していったらしい。

「俺なら大丈夫。どこでもやっていけるに決まっている」

しかし、宮崎の考えは甘かった。転勤先にも、すでに宮崎の悪い評判は広まっていたのだ。

「よろしくお願いします。頑張ります」

と爽やかに挨拶はしても、周囲は無視するだけ。

「解雇された部長の腰巾着だったらしいよ」

などと言われ、早々に孤立したという。噂を払拭するのは厳しく、周囲にご機嫌取りを頑張ってみたものの、相手にされない。仕事以外では誰も話しかけてくれず、冷たい視線を向けられるだけの日々。結局、その空気に耐えきれずに、一ヶ月も経たずに退職届を出したようだ。

「なんで俺が。なんで。部長と一緒にいなければよかった。ああ、もうだめだ」

退職の日、宮崎はぶつぶつ独り言を言いながら会社を去ったらしい。今はコンビニとネットカフェでバイトを掛け持ちしながら、大手企業へ面接に行ったりしているが、決まらないのだとか。人生はそう簡単には思い通りにならないもの。元部長も宮崎も、人を見下して傷つけたことは事実だ。相手が俺のような中途採用とか中卒とかは関係ない。恥ずべき行為をした結果だと、受け止めるべきだろう。

仕事を効率よく円滑にするために、新しい機械の導入や優れた技術は大事だ。だけど、最も大切にすべきは、人への思いやりとコミュニケーションだと思っている。それがなければ、良い仕事はできないと俺は信じているからだ。

元部長が会社を解雇されて半年後のこと。俺は偶然、あの会社の元同僚と再会した。

「杉山さん、あの時は何もできなくて、申し訳ない」

「もういいんだ。社長から聞いたけど、みんなも大変だったんだろう。今は大丈夫?」

元同僚は、俺が謝罪を受け入れたことに安心したのか、明るく答えた。

「はい。今はみんな結束して頑張っています。あ、そうだ。さっき、安藤元部長と宮崎のことを聞いたんですが」

思いがけず、元部長と宮崎の最新情報を耳にすることに。元部長は解雇された後、清掃員のバイトをして生計を立てているらしい。再就職に動いたものの、自らのエリートというプライドを捨てきれず、大企業の中途採用にばかり応募したようだ。しかし、大手企業はおろか、中小企業からも採用を見送られたという。

「俺がどこにも決まらないなんて、嘘だろ。ひょっとして、中途採用されるのって、結構難しいのか」

あれだけ俺に掃除をさせていた人が、今度は自分が毎日掃除をすることになるとは。その後、就職先が決まらないストレスで叫んだり、ギャンブル三昧の生活となり、奥さんが何度注意しても治らない。

「もういい加減にして。あなたとは離婚よ」

結果、奥さんとは離婚になってしまった。元部長は、妻と離婚になったのは会社を解雇になったからだと思っているが、実際は違う。離婚の原因は、プライドを優先して家族を思いやらなかったからだ。そのことを理解して直すことができていれば、解雇になっても離婚にはなっていなかっただろうと、元従業員は話していた。今は古いアパートで一人で暮らしているという。

宮崎も同じようなもので、掛け持ちバイトは相変わらずらしい。だが、婚約者がいたにも関わらず、バイト先の女の子と関係を持ってしまったというのだ。

「最低。あなたとは別れるわ」

当然、婚約者に浮気がばれて破局。今は借金して払った慰謝料の返済のために、またバイトを増やして寝る暇もないほどがむしゃらに働く日々らしい。元部長も宮崎も、一人の人間をこけにしただけで、こんな末路になるとは思っていなかっただろう。

俺が退職してから半年後、体調も戻ったので、三ヶ月前に五郎に紹介してもらった会社に就職した。俺の技術も生かせる会社で、従業員も優しく、協力しながら頑張っている。

「おい、なおや、こっちだ」

「お待たせ」

手を振りながらにこにこ笑う五郎は、三ヶ月前に同棲していた彼女と結婚したばかりだ。

「奥さんは大丈夫か? 結婚したばかりなのに飲みに出ていいのか?」

「大丈夫だ。今日は仕事で帰りが遅いからな。それより、お前はどうなんだよ。順調なのか?」

にやりとしながら五郎が聞いてきたので、俺はごまかすように笑っていった。

「まあな。まだ三ヶ月だから、変わらないよ」

実は、五郎たちが結婚した時に、五郎の奥さんとその友達と四人で顔合わせをした。

「この子が私の友達のAちゃん。彼女、今フリーなのよ」

にこやかに微笑む、感じの良い女性だと思った。俺はかちこちになりながら、なんとか挨拶をする。

「杉山です。よろしくお願いします」

その時の彼女と、俺は今、結婚前提で交際している。一生独身だと思っていた。まさか、この年で将来を共にしたい人ができるとは思っていなかったので、今でも信じられないでいる。今では四人で飲み会をする時もあり、楽しい。

やりがいがある仕事があり、優しい友人とパートナーが、俺にはいてくれる。まだまだ五十歳。これからも、大切な人たちと笑って生きていくのが、俺の願いだ。

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