夕方、スーパーで買い物をしていると、後ろから誰かに服を引っ張られた。振り返ると、見覚えのある少年が立っていた。五年ぶりの息子だ。「ママ、謝りに来た。許してほしい」—そう言った瞬間、あの日の言葉がフラッシュバックした。八年前、夫の浮気相手と一緒に「お前なんていらない。出ていけ」と言ったのは、私が母乳をあげながら必死に育ててきたその息子だった。玄関の前で震える声で「パパとエリカお姉ちゃんと暮らす…

夕方、スーパーで買い物をしていると、後ろから誰かに服を引っ張られた。振り返ると、見覚えのある少年が立っていた。五年ぶりの息子だ。「ママ、謝りに来た。許してほしい」—そう言った瞬間、あの日の言葉がフラッシュバックした。八年前、夫の浮気相手と一緒に「お前なんていらない。出ていけ」と言ったのは、私が母乳をあげながら必死に育ててきたその息子だった。玄関の前で震える声で「パパとエリカお姉ちゃんと暮らす...

「新しいママと暮らすから、お前なんていらない。早く出ていけ」

大切に育ててきた息子と、浮気をした夫の両方から、そう言われて家を追い出された。あの日の言葉は、今も耳の奥に焼き付いている。

それから五年後、突然、目の前に息子が現れた。

私は戸田咲。八年前、二十二歳の時に大学の先輩で二歳年上の健二と結婚した。周囲からは卒業したばかりでの結婚は早すぎると反対されたけれど、優しい彼に惚れ込んでいた私には、そんな心配はどこ吹く風だった。

それから八年、現在は健二と私、そして小学校に入学したばかりのり太との三人暮らし。本当はり太に子供部屋を与えてあげたくて、入学前にもう少し広い部屋に引っ越したかった。しかし健二は収入の割に金遣いが派手で、貯金もなかなかできなかった。結局、結婚当初からの二Kのアパートに住み続けている。

健二には、せめやり太が高学年になる前に引っ越したいと頼んでいるのだが、毎回あれこれ言い訳をされて終わりになるだけ。三十二歳の健二は、聡明でいわゆるイケメンだ。実年齢より若く見えるせいか女性にも人気で、遊び好きの彼は自分の小遣いを減らす気など微塵もないようだった。

ちょうどその頃、り太の話に「エリカお姉ちゃん」という女性が頻繁に出てくるようになった。最初は学童保育の先生かと思い、「先生のことは先生と呼びなさい」と注意した。しかしり太は口を尖らせて反論した。

「えー、お姉ちゃんは先生じゃないよ。僕にエリカお姉ちゃんって呼んでねって言ったもん」

そして、それに続けて、エリカお姉ちゃんはパパの、つまり健二の友達だと言うのだ。

それを聞いて、私はエリカお姉ちゃんが健二の浮気相手なのではないかと疑った。り太の話にエリカお姉ちゃんが出てくるようになったのは、私が義母の看病のために家を空けるようになってから。その間、り太に寂しい思いをさせるのは忍びないと思い、健二にり太の世話を頼んでいた。てっきり自由に遊べなくなるのが不満でごねると思ったのに、意外にも二つ返事で映画や水族館に連れて行ってくれていた。嬉しい反面、少し違和感を覚えていたのだ。

推測するに、り太の世話につけ込んで、堂々と女友達とデートをしていたのだろう。そう確信した私は、その夜遅くに酔っ払って帰宅した健二に詰め寄った。

しかし健二は済まなそうにするどころか、不機嫌になるばかり。挙句には開き直ってしまった。

「確かにエリカは俺の彼女だ。でも、妻としてのお前に女としての魅力がないんだから、浮気されたって仕方ないだろ」

その卑しい態度に、私は激しい怒りと苛立ちを覚えた。だが、もっとショックだったのは、り太の私に対する態度だった。

健二と私の言い合いを耳にしたり太がリビングに入ってくると、健二は猫撫で声で話しかけた。

「なあ、り太。パパとママは離婚しようと思うんだ。り太は当然、パパと暮らすよな?」

子供のり太にいきなりそんなことを聞くなんて、と思わずカッとなった。しかし、り太は満面の笑顔を浮かべた。

「え、それって本当? それでパパはエリカお姉ちゃんと暮らすの? だったら僕もパパがいい」

到底信じられない思いでいっぱいだった。り太は真っ青になった私をちらっと見ると、唇を尖らせて言った。

「だってママは僕を叱ってばっかり。欲しいものだって、お祭りや誕生日まで我慢しろって言うばっかりで、嫌い」

そして健二のそばに立つと、こう続けた。

「エリカお姉ちゃんは綺麗だし優しいし、僕の欲しいものは何でも買ってくれるもん」

「だから、私のことはいらない」と言い切るり太を前に、私は何も言えなくなってしまった。

そんな私に向かって、健二は言い放った。

「り太もこう言ってることだし、家に不要なのはお前だから」

そして翌日、私はわずかな荷物を持っただけで、家を追い出されてしまった。アパートの鍵も取り上げられた私は、家に入ることもできず、行くところもなくて、新幹線で一時間ほどの実家に戻った。すると、それを察したのか、数日後にはダンボールに乱暴に詰められた私の私物と離婚届が送り付けられてきた。

それを目にした私は、もはや争う気力もなく、黙って離婚届に判を押して役所に提出した。こうして私たちの離婚は成立した。

両親は最初、腫れ物に触るように私に接してきたが、健二やり太の私に対する態度を話すと、「そんな人たちのために、あなたが塞ぎ込む必要なんてないわよ」と励ましてくれた。二ヶ月ほど経つと、私もいつまでも両親に頼ってばかりはいられず、実家の近くでパートを始めた。

両親からは「まだ若いのだし、いい人がいれば再婚したっていいんだから」と言われたものの、とてもそんな気にはなれなかった。

離婚して半年が過ぎた頃、町はちょうどクリスマスシーズンだった。街に流れるクリスマスソングを聞いた私は、り太が「欲しいものを買ってくれなかった」と言っていたことを思い出した。そして気づけば、前からり太が欲しがっていた外国製の組み立てブロックのセットを持って、三人で暮らしていたアパートに足を向けていた。今までのことは全て長い悪い夢で、ドアを開ければ以前のようにり太が「お帰りなさい」と言ってくれるような気がしたのだ。

しかし、いざとなるとドアの前まで行く勇気が出ない。ためらっていると、中から誰かが出てくる気配がしたので、慌てて駐車場に隠れた。すると、部屋の中から姿を現したのは、健二と年若い美人だった。おそらくあれがエリカお姉ちゃんなのだろう。認めるのは悔しいけれど、イケメンの健二と並ぶと、まさしく美男美女のお似合いのカップルだった。二人は恋人繋ぎをして、何か楽しげに話しながら寄り添って歩いていく。

その後ろ姿を見送った私は、涙をこらえながら黙ってその場を去った。そして、健二のこともり太のことも忘れようと決意したのだった。

それから五年の月日が経った、ある日曜日。アパートで片付けをしていた私の元に、一人の少年が尋ねてきた。もう少ししたら、背の低い私の身長を追い越しそうなその少年は、紛れもなくり太だった。驚いた私は、開口一番こう尋ねた。

「どうしてこの住所が分かったの?」

それを聞いたり太は一瞬戸惑った表情をしたものの、「おばあちゃんから聞いた」と気まずそうに答えた。私はその場ですぐに、実家の母にLINEを送って確認した。すると、り太がどうしても私に直接会いたいと言って、母が仕方なしに教えてしまったという。

深くため息をついた後、私はり太に向き直った。

「謝るって何のこと? 言いたいことがあるなら言って」

しかしり太は周囲を見回し、ここでは話したくないから部屋に入れてくれと言う。だが私はその言葉を無視し、玄関から外廊下に出ると後ろ手にドアを閉めて言った。

「忙しいし、話ならここで聞けるわ」

そう言って、り太の目をまっすぐに見た。すると諦めたのか、り太は話し始めた。その内容は、大方の予想通り健二への不満だった。

「最初は新しいママもパパも優しくて楽しかった。でも妹ができたら、二人とも妹のことばかりで、僕のことなんてどうでもいいみたいなんだ」

家族の会話にも入れてもらえず、食事も一人ぼっち。時にはり太の分を残しておくのを忘れるのか、ほとんどご飯が残っておらず、空腹のまま眠ることもあるらしい。学校で必要なものも買ってもらえないし、服も小さい時のままなんだと。

目に涙を浮かべながら話すり太を、私はじっと見つめた。確かに着ている服も明らかにサイズアウトしている上に、満足に洗濯してもらっていないのか薄汚れていて、かすかに匂いがするほどだった。そしてり太は深く頭を下げると、自分が悪かったから謝るので許して欲しいと涙ながらに訴えた。

「勝手に教えてごめんなさいね。あとはあなたの好きなようにしなさい」

黙ってり太の話を聞いていた私だったが、話を終えたり太が何か言って欲しそうにこちらをチラチラと見るので、首をかしげながら問いかけた。

「お話は済んだみたいだけど、結局あなたはどちら様?」

すると、り太は涙に濡れた目を大きく見開き、驚きのためか一瞬棒立ちした。そして慌てて私の方に手を伸ばそうとしたのだが、私がすっと身をかわすと、大声で叫んだ。

「ママ、何言ってるの? 僕だよ。息子のり太だよ」

しかし私はそれにも動じず、「へえ、私に息子なんていないわ」と答えた。り太は相変わらず訳が分からないという顔をして、じたばたしている。そこで私は、り太が健二が浮気してよその女性との間に生ませた子供であることを告げた。

「生まれてすぐのあなたを、健二が抱いて帰ってきて、私に育てろと言ったのよ。色々思うところはあったけれど、子供に罪はないと思って、私が育てていたの」

淡々と説明する間も、り太の横顔はあの日ちらっと見た女性にそっくりだった。あの女性がエリカお姉ちゃんなら、エリカと健二の交際は私との結婚直後から始まっていたのだろう。そしてり太は、その二人の間に生まれた子供に違いない。

青ざめながらも、り太は言い張った。

「そ、それが本当のことだとしても関係ない。僕のママは、目の前にいるママだけだ」

そして、今からでも自分を引き取って面倒を見て欲しいと泣き出した。しかし、今更り太の涙を見ても、私の心は一ミリも動かない。

「あなたのことを実の息子だと思って育てたわ。でも、あなたはあんなにあっさりと私に『出ていけ』と言った。あの瞬間に、親子としての私たちは終わったの」

そう言った後、私は黙って部屋に入り、ドアをバタンと閉めた。

しかし、それから数時間が経っても、り太は部屋の前に座り込み、動く気配がない。どうしたものかと思っていると、玄関の外がにわかに騒がしくなったので出てみる。すると、り太を追いかけて健二がやってきていた。どうやら、り太が無断で持ち出していた健二のスマホをGPS追跡してたどり着いたらしい。

何はともあれ、これでり太を連れて帰ってくれるだろうと思いきや、健二は私に気づくとこう言い出した。

「ちょうど良かった。仮にもお前が母親だったんだし、いい機会だから、り太を引き取ってくれよ」

呆気に取られて言葉をなくしていると、それを良いことに、健二がペラペラと話し始めた。それによると、私を追い出した後にエリカとの再婚を果たした健二だったが、同僚の一人に私との離婚の経緯をばらされてしまったのだ。

どうやら、私は健二と離婚した後、彼のことを同僚の一人に話してしまっていた。今となっては、それが正しかったのかどうかは分からない。しかし、その話を聞いた同僚が、彼のことを面白おかしく話し、それが期せずして健二の悪評を広めてしまったのだった。

「おまけにエリカは金遣いが荒くて、毎月カード会社から催促のハガキが届く始末なんだ。娘も生まれたし、とてもじゃないが子供二人は育てられない」

そう言うと、健二は私の前で形ばかり頭を下げた。

「だから頼むよ。り太を引き取って育ててくれよ」

なんて勝手な言い草だと、私は腹が立って仕方なかった。しかし、その私より先に、私の背後から健二に声をかけた人物がいた。

「さっきから聞いてたら、何なんですか、あなた? 非常識にもほどがありますよね」

それは、私の再婚相手である秀雪だった。健二との離婚後、私は深く傷ついて人間不信になり、パート先とアパートとを往復するだけの生活を送っていた。そんな私に声をかけてくれたのが、パート先での上司に当たる秀雪だった。

一見小太りだが、実は理不尽なクレーマーからも私たち従業員をしっかり守ってくれる、優しく頼りがいのある上司。秀雪から個人的に声をかけられた時はかなり驚いた。しかし、その人柄に触れるうちに、私も次第に心を許すようになり、再婚を決意した。今日は、秀雪との新居に持っていくための荷物を片付けるために、一人暮らしをしていたこのアパートに来ていたのだ。

思いがけず現れた秀雪にぎろりと睨みつけられた健二は、途端に青くなった。そういえば、健二は昔から自分より弱い人にしか強く出られない卑怯な人だったなと、私は思い返す。その間も、秀雪は健二の身勝手ぶりを追求し続けた。

「あなたと離婚していた時ならともかく、離婚した今、彼女とその子供は無関係だ。自分の子供を押し付けるというのなら、しかるべきところに通報しますが、その覚悟はあるんですね」

腕組みをした秀雪に低い声で言い渡された健二は、半分泣きそうになる。そして、ぺこぺこと頭を下げて、り太の手を引きながら逃げ帰っていったのだった。

その後、久しぶりに、かつてお世話になったあの奥さんにLINEを送ってみた。その時に聞いた話によると、健二たちはなかなか悲惨な生活を送っているらしい。

妻に浮気相手との子供を押し付けるという下劣っぷりを暴かれた健二は、会社で女性たちに相手にされなくなったばかりか、男性たちからも白い目で見られるようになったという。しかし、健二自身の借金やエリカの浪費により家計は火の車。毎月の支払いにも困るまで転職したくても、そんな余裕はないらしく、会社内で小さくなって働いているそうだ。

当然、夫婦仲はすっかり冷え込み、やつれ果てたエリカと健二には、かつての美男美女ぶりは微塵もないらしい。り太も反抗的になり、一家の暮らす家からは、毎日怒鳴り合う声がご近所中に響いているようだ。

一方、私は秀雪との再婚に踏み切った後も、子供を持つことに、ある意味でトラウマを感じていた。しかし、そんな私の不安に根気強く向き合ってくれた秀雪の誠実さの前に、私の不安も雪解けのように消えていく。

そして今、私は秀雪との間に、待望の第一子である娘を授かった。屈託のないその笑顔を見るたびに、この腕の中にある幸せを、秀雪と一緒に大切にしていこうと、改めて思うのだ。

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