還暦の祝いで訪れた高級料亭で、息子が言った。母さん、会計は別でお願い。そして息子は隣に座る妻にも続けた。彩佳、お前も別だよ。もう夫婦じゃない。
私のために用意されたはずの日が、いつの間にか嫁の真実が暴かれる場になっていた。六十歳を迎えた私は、その日初めて、息子の決断と、嫁の本性を知ることになった。
夫が旅立ってから半年が経っていた。家の中は広く、静かで、何かの拍子に胸が締めつけられる。そんな私を心配して、息子の正明と、その妻の彩佳さんが家に訪ねてきた。正明は言った。母さん、最近の母さんは見てられないよ。気持ちが落ち着くまででいいから、一緒に暮らさないか。
優しい言葉に胸が熱くなった。その一方で、心の奥では迷いが大きかった。ありがとう。でも、あなたたちは新婚でしょ。私に気を使わなくていいのよ。
本音を言えば、私は誰かと暮らしたくなかった。あの家は、夫と暮らした家だから。誰かの妻ではなく、誰かの母親の顔で生活するのは辛かった。さらに、もう一つ気になることがあった。息子の嫁である彩佳さんに、気を遣ってしまう自分がいることだ。
しかし二人は真剣に私のことを考えて話している。その気持ちを拒絶することはできなかった。
一緒に住むなら、いくつかルールを決めさせてもらってもいいかしら。
正明は即座に頷いた。もちろん、母さんの負担が減るようにしよう。
ただ、隣に座る彩佳さんの表情だけが、微妙に曇った。わずかな違和感が、胸の奥に残った。
同居を始めた最初の二週間、朝は私が作り、夜は正明がサポートした。彩佳さんも台所に立ち、明るく絶え間ない話をしていた。ねえ、お母さん、包丁の使い方、綺麗ですね。そんな言葉に、私は少しだけ心が軽くなった。
しかし、一ヶ月も経たないうちに、彩佳さんだけが家事を後回しにするようになった。洗濯物は溜まり、ゴミ捨ては忘れ、料理は仕事が疲れたの一点張り。代わりに家事をするのは、いつも正明だった。私は口を出さないと決めた。二人の問題なのだから。
そんなある日、私が友人と温泉に行った週末のこと。帰宅すると、彩佳さんが冷たい声で言った。お母さん、週末は家事もせずにどこに行ってたんですか。
胸が凍るような言葉だった。正明がすぐに庇ったものの、彩佳さんの目には明らかな敵意が宿っていた。これが後で爆発する金銭トラブルの予兆だとは、この時はまだ知らなかった。
母さんの六十歳のお祝いだよ。奮発して料亭を予約したんだ。
正明の言葉に、私は胸がじんわり温かくなった。彩佳さんも微笑みながら言う。お母さん、一緒に楽しみましょうね。席について料理が運ばれる。大女将の技が光る料理は、どれも見事だった。ほんの少しの間だけ、幸せな時間だと思えた。
その瞬間は、長くは続かなかった。
お母さんには、家のこと協力して欲しいんだけどね。
彩佳さんが平然と言い放った。正明も私も、一瞬固まった。協力。最近、家事をサボっていたのは誰だったのか。
え、どういう意味?
私が静かに尋ねると、彩佳さんはため息をついて、畳みかけるように言った。お母さん、週末はいつも遊び歩いてるんですよね。その目には、非難の色が混じっていた。夫に、いくら払ってもらってるんですか。
まるで私が息子の金で贅沢しているかのような言い方だった。正明は表情を変えた。彩佳、今日は母さんの誕生日だよ。
しかし、彩佳さんは止まらない。家事から解放されると思ったのに、ルールとか言われて、やってられない。場の空気は一気に凍りついた。正明の瞳の奥に、静かな怒りが灯るのを見た。
彩佳、お前が文句を言える立場か。浮気してるだろう。
料亭の静けさが破られた瞬間だった。浮気なんてするわけないでしょ。彩佳さんは声を荒げ、必死に取り繕おうとする。しかし、その表情は明らかに動揺していた。手が震え、目は泳ぎ、声はどんどん上ずっていく。
借金もしてるよな。そんなの知らないし。
隣で正明は静かに頷いた。彩佳、俺は全部調べたよ。テーブルの上に、封筒が静かに置かれた。彩佳さんの顔がさっと変わった。真っ赤になり、次の瞬間には青ざめる。やめてよ。どうして勝手にそんなことするの。
勝手じゃない。同居してすぐ家事放棄。生活費も払わなくなった。誰だって疑うだろう。正明の声は穏やかだったが、その裏には、裏切られた痛みが滲んでいた。
遊び歩いているのは、お母さんの方じゃない。週末にいないのは、どういうつもりなの。お金をどれだけ使わせてると思ってるの。
泣きながら、慌てて攻め立てる彩佳さん。しかし、それは全て自分の行動を隠すためだった。私は静かに言った。彩佳さん、私は息子からお金なんてもらっていないわ。
え、そんなわけ。
あなたの疲れを取って欲しくて、週末は家を開けていたのよ。
その一言で、彩佳さんは言葉を失った。正明は畳みかけるように、静かに言う。借金の理由を言え。
彩佳さんの肩が、びくりと震えた。彩佳、浮気相手を呼ぼうか。連絡先は全部知ってるよ。相手の奥さんにも来てもらおうか。
その瞬間、彩佳さんの表情が崩れた。ごめんなさい。違うの。ストレスが溜まってて、つい。ストレスで。
正明は冷たく笑った。東京に来る前から、やってたよね。浮気?いや、不倫か。料亭の空気は凍りついたまま、誰も声を出せなかった。
彩佳さんは泣きながら首を振るが、もう誤魔化せない。正明は続けた。その涙は、誰のためだ。正明の声は低く、冷たかった。全部、別の男に貢いでたんだろ。借金までして。
私は思わず息を飲んだ。離婚する。弁護士を通して、慰謝料は双方に請求するから。正明の言葉は静かで、揺らぎがなかった。
離婚なんて。いや、私が間違えただけでもうしないから。
離婚は嫌、という言葉を聞いて、私は悟った。この子はまだ、自分が被害者だと思っている。しかし、現実は違う。
正明は椅子から立ち上がり、私の皿をそっと引いた。母さん、会計は別でお願い。
お前も別だよ。もう夫婦じゃない。
彩佳さんは泣き叫ぶが、誰ももう見向きもしなかった。
店を出た後、私と正明は淡々と会計を済ませ、静かな夜道を歩いていた。その直後、彩佳さんの父親から、怒鳴り声の電話が入った。娘をいびるな。何を考えているんだ。
正明は淡々と返した。では、調査報告書をデータでお送りします。その一言で、電話を切った。
翌朝、彩佳さんの家族の態度は一変した。父親は我が家まで訪ねてきて、深々と頭を下げた。申し訳ありませんでした。
娘を信じたい気持ちはわかるけれど、事実の前では、親であっても目を背けられないということだ。
正明はすぐに弁護士と動き、不倫相手と彩佳さんの双方に慰謝料請求が通った。彩佳さんは不倫相手の奥さんからも慰謝料を請求され、泣きながら自分の両親にすがったが、自分で責任を取りなさいと突き放されたと聞いた。仕事も金も家庭も失い、彩佳さんはようやく自分の過ちに向き合うしかなくなった。
数週間後、私の携帯に彩佳さんから連絡があった。もう一度だけ、正明さんとやり直したいんです。お母さんからも、お願いしてもらえませんか。
私は静かに言った。これ以上連絡を続けるなら、弁護士を通すわよ。その後、彼女からの連絡は途えた。
正明は落ち着いた声で言った。母さん、俺、また一人に戻っちゃったよ。
私はそっと微笑んだ。これも経験よ。でも人生は一度切り。悔いのない道を歩きなさい。
正明の目に、涙がうっすらと滲んだ。
柔らかな春の風が吹く朝。朝の光が差し込むキッチンで、私は湯気の立つお茶をテーブルに置き、ゆっくりと腰を下ろす。仕事に行く前の正明が言う。母さん、今日の夕飯は俺が作るよ。
頼もしくなったわね。
夫を失い、喪に服し、嫁の裏切りを知り、息子の涙を見て、いろんなものを抱えてきた。けれど、私は今、確かに前に進んでいる。正明もまた、新しい人生を歩み始めていた。
窓の外では、風が優しく揺れていた。まるで、これからは軽やかに生きていいと、背中を押してくれているようだった。
私たちは、またここから。ゆっくりと、確かに、自分たちの人生を歩いていく。
