「もういいから、さっさと出してちょうだい。」
姉は私を睨みつけ、祖父の遺産を何としてでも手に入れようとしていた。夫も姉に加勢して、声を荒げて脅してくる。昔とは別人のように変わってしまった姉を見て、胸が痛んだ。それでも私は、用意しておいた書類を差し出した。姉の顔が一瞬、歓喜に歪んだ。だが、それは次第に震え始め、青ざめていく。もう、思い通りにはさせない。
私の名前は沢口愛梨。二十八歳。幼い頃に両親を事故で亡くし、父方の祖父母と、一つ上の姉の美香と一緒に暮らしてきた。両親がいない孤独はあったけれど、祖父母は優しく接してくれたので、私は不自由なく育った。けれども、それは私の一方的な感想でしかなかったようだ。姉は思春期を迎えると、激しく反抗するようになった。祖父母は私にも姉にも分け隔てなく愛情を注いでくれたと思う。しかし姉は、素直になれない自分に苛立っていたのかもしれない。中学の頃は、私も多少は反抗したが、姉のは尋常ではなかった。高校に入ると、姉は派手な格好をするようになり、次々と彼氏を変えるようになった。最初は誰と付き合っているのか把握できていたが、すぐに代わるので、気がつけば誰が彼氏で誰が友達なのか分からなくなっていた。そばにいるのはいつも違う男で、彼女の友達も柄の悪い連中ばかりだった。祖父母も私も、姉が悪いことに巻き込まれないか、いつも心配していた。姉は学校をサボってバイトをすることもあった。そんな時、祖父は心配しながらも事情を汲んで許し、祖母は「お金に困ったら言いなさい」と優しく声をかけた。しかし、その親心は姉には届かない。姉は高校生には不似合いなブランドバッグをいくつも持っていたが、私はそれを、貯めたお金で買ったのか、年上の彼氏に買ってもらったのだろうと思っていた。朝まで遊んで帰ってきても、祖母は「無事に帰ってきてくれたらそれでいい」と優しく見守るだけだった。代わりに、祖父が将来を心配してしっかりと叱った。そして、叱られた後の姉のフォローをするのが、私の役目だった。姉が居場所を失って、さらに羽目を外してしまわないように。それでも私は、姉のことを嫌いにはなれなかった。
ある日、突然すべてが崩れた。十八歳になった姉が、当時の彼氏の子供を妊娠していると告白したのだ。しかも、もう妊娠六か月。私も祖父母も、まったく気づいていなかったから、言葉を失った。相手の男はマサアキという二十四歳の男で、祖父が挨拶を求めたが、彼は一度も家に現れなかった。祖父は激怒し、姉を問い詰めたが、姉は「関係ないでしょ」と拒否して、家の中の空気はさらに悪くなった。祖母は驚きつつも、産むなら生活を改めなさいと静かに告げた。祖父はそれにまた怒ったが、その日を境に、姉は家に帰ってこなくなった。私は心配になって何度も連絡をした。最初は返事もあったが、徐々に連絡が途絶え、電話も繋がらなくなった。出産が近いかもしれないという焦りから、私は姉の友人を頼りに必死で探した。やがて、マサアキの家を知っているという姉の友人を見つけた。祖父母に相談しようか迷ったが、大勢で押しかけるのは失礼だと思い、私は一人で行くことにした。インターホンを押すと、たくましい体つきの男が出てきた。あまりに怖くて言葉が出ないでいると、相手が先に私の名前を呼んだ。すると、奥から驚いた顔をした姉が出てきた。どうやら彼らには私の写真を見せていたらしく、すぐに分かったらしい。家に上がると、無事に子供が生まれたこと、そして二人が婚姻届を出したことを知らされた。複雑な気持ちだったが、私は祝福した。なぜ連絡もせずに消えたのかと問うと、姉は「どうせ叱られるだけだから」と笑った。確かにそうかもしれない。赤ん坊を見せてもらうと、それはとても小さくて可愛らしかった。
しかし、家に上がってみると、マサアキはこちらに背を向けたまま、ずっとスマートフォンでゲームをしていた。平日の昼間だというのに、彼は仕事に行っている様子がない。姉が家事と育児を一人でこなし、マサアキは手伝う様子もない。彼に仕事があるのかどうかも、疑わしかった。失礼かもしれないと思いながらも、私は家に帰って祖父母に話すべきか迷った。祖父に知られれば、また怒り出すのは目に見えている。しかし、このまま姉を放っておくわけにもいかない。さんざん迷った末、私は姉の現状を祖父母に話した。夫が働いていないかもしれないという話をすると、案の定、祖父は激怒した。「美香の家に連れて行け」。罪悪感を覚えながらも、姉のためだと自分に言い聞かせ、翌日、私は祖父母を連れて姉のアパートへ行った。祖父は二人を厳しく叱った。しかし叱るだけでは解決しないと分かっていたのだろう。祖父は、二人が自立するまで祖父母の家で同居すること、マサアキが無職なら自分の会社で働くことを条件として提示した。二人は予想以上にあっさりと承諾した。それは、彼らにとって願ってもない条件だったのかもしれない。最初こそ、マサアキは真面目に働いているようだった。祖父も「仕事ぶりは良い」と褒めていた。ところが、それが長く続かなかった。ある日、マサアキが会社に来ていないと連絡が入った。どうやら、出勤したふりをしてパチンコ屋で時間を潰していたらしい。祖父が問い詰めると、素直に認めたらしい。叱られて謝ったが、その一か月後には結局仕事を辞めてしまった。
そんな中、姉は私に対して、些細なことで喧嘩を吹っかけてくるようになった。昔は優しかった姉が、私が家を離れて数年で変わってしまった。姉は「子育て中で働けない」と言い訳をして、こっそり祖母からお金を借りているらしかった。私は祖母に「簡単にお金を貸さないほうがいい」と忠告したが、祖母は私には孝行で、姉が頼めば断れずに貸してしまっていた。ある日、私が祖母から聞いた話を、姉とマサアキの前で口にした。「祖父ちゃんに、そんなに迷惑かけないでくれない?」すると、マサアキが急に怒り出した。「全部、じじいが勝手に決めて、俺たちの自由を奪うのがおかしいんだ。こっちだって迷惑してるんだよ」。突然の剣幕に、姉も私も一瞬驚いたが、二人して小さく「そうだよね」と呟いた。知っている姉は、もうどこにもいなかった。怒鳴り声を聞きつけた祖父が部屋に来て、何事かと尋ねたので、私は祖母から聞いたことをそのまま話した。祖父の顔が一瞬、怒りで歪んだ。しかし、すぐに「もういい」と言って、部屋を出て行った。祖父は、同居してから血圧が上がりがちになり、横になっていることが多くなっていた。私は不安だった。このままでは、祖父母がいつまで元気でいられるか分からない。祖父母がいなくなった後、私の残る家族は姉だけなのだ。私は何ができるだろうかと考え、勤め先に営業職の募集があったことを思い出した。これが最後のチャンスだと思い、私は姉とマサアキに職場を紹介しようと提案した。しかし、姉は「そんなの嫌だよ。私、ここを出ていくから」と拒否した。私が止めようとすると、マサアキが姉を連れて行ってしまった。姉は再び家を出ていった。心は不安と孤独でいっぱいだった。何をしても無駄なのかもしれない。私は祖母に、ありのままの気持ちを打ち明けた。すると祖母は、申し訳なさそうな顔をして、驚くべき事実を話してくれた。「美香に、ここを出ていくから最後にもう一度だけお金を貸してほしいって言われてね…。貸しちゃったんだ。ごめんね」。私はもう、姉に期待することをやめた。祖母が貸したお金が返ってくることも、おそらくないだろう。私は姉の代わりに、きちんと祖父母を支えていこうと心に誓った。
それから一年も経たないうちに、祖父は亡くなった。「もう少し長生きしてほしかった」と涙する祖母を見て、私は心が痛んだ。祖父は亡くなる直前まで姉のことを案じていた。「育て方が間違っていたんだ」と、自分を責め続けていた。祖父の姿を見ていると、もっと別の方法があったのではないかと、後悔の念が頭をもたげた。そして、もう一つ気がかりなことがあった。祖父が亡くなった以上、遺産相続の話をしなければならない。私は姉夫婦を呼び出し、その話をすることにした。祖父の葬式にも仕事が理由で来なかった二人が、遺産の話と聞いて、すぐにやってきた。私は二人に対して、抑えきれない怒りを感じていた。祖父は堅実な人だった。両親から受け継いだ遺産と、コツコツと蓄えた金があったらしく、その額は二億円に上ることが分かった。これまでの質素な暮らしからは想像もできない金額に、私は驚いた。祖母もかいつまんだ額は知っていたが、何かあったときのために、誰にも言わずに保管していたらしい。父はすでに亡く、私に兄弟はいない。だから遺産は祖母と、孫である私たちに相続されるはずだった。それなのに、姉は駅前に建ったタワーマンションの一番小さな部屋に住みたいと言い出し、「どうせ二億もあるなら、もう少し分けてくれてもいいじゃない」と、遺産を値切るような発言をした。さらに、遺産にまったく関係のないマサアキまで図に乗って騒ぎ出した。ところが、残念ながら姉たちの思い通りにはいかない。祖父の遺言書には、こう書かれていたのだ。「美香には一切相続させない。お前には、ちゃんとした生活を送ってほしい。自分の人生を見つめ直せ」。姉は怒り狂って、口々に文句を言い始めた。しかし、遺言書にはもう一つ記載があった。「美香が、他の相続人にお金を借りたいと申し出た場合は、それぞれの判断に任せる」。これを聞いた姉は、がぜん顔を輝かせて、私のほうを見た。私は思わず目をそらした。
私は祖父が亡くなる一年前に、弁護士の沢口康と結婚し、実家で祖母と一緒に暮らしていた。私は事前に祖母から、祖父が莫大な遺産を残していることを聞かされていた。姉夫婦がもめ事を起こすかもしれないと思い、私は康と相談していた。遺言書の作成にも、康が立ち会っていた。当然、姉とマサアキは遺言書の内容に納得せず、私に「お金を貸してくれ」と迫ってきた。私が首を横に振ると、姉は逆上した。「あんただけずるいわよ!私だってタワマンに住みたいの!貸しなさいよ!」。剣幕に押され、私はたじろいだ。そこへ康が助けに入った。「この書類に目を通して、サインをしていただけますか」。私は、用意してあった書類を何枚か姉に差し出した。「何これ?どんな書類?」。怪しむ姉に、私は説明した。「マンションを買うためのローンを組むのに必要な書類よ。貸してほしいなら、これにサインしてもらわないと」。すると康が続けた。「そうですね。この書類があれば、タワーマンションも買えますよ。ぜひ、サインしてください」。姉は嬉しそうに、何の内容も確認せず、あっという間にサインをした。後から反省したのか、姉は軽い口調で「さっきは悪かったわね」と謝り、「遺産なんてどうでもいいわ」と言い残して帰っていった。
数日後、姉から連絡があった。「計画通り、タワーマンションを買うことにするわ」。決めた物件は少し高めらしく、祖母や親戚からもお金を借りないと足りないらしかった。そして、例のサインをした書類を取りに来ると言ってきた。ちょうど康が休みだったので、私は彼にも立ち会ってもらうことにした。姉がやってくると、以前と同じように高飛車な態度で、「書類、早く出してよ」と催促した。姉の態度に衝撃を受けながらも、私は書類を差し出した。姉は嬉しそうに書類を受け取り、目を通し始めた。しかし、徐々に表情が曇っていく。隣で一緒に見ていたマサアキも、同じような顔をして、二人は震え始めた。当然だった。その書類は、祖母からお金を借りるための借用書だった。タワーマンションに住むには十分すぎる金額が記され、返済期限はちょうど一年と設定されていた。さらに、過去に祖母から借りた分の借用書も何枚もあり、それらもすべて返済期限は一年、姉のサイン入りだった。内容を確認せずにサインした結果だ。欲深い姉には、いい薬になるだろう。「こんな書類、私、サインしてない!」と姉は喚いた。しかし、康が静かに言った。「日付は、ご自身が相続の話をなさった日になっています。これは確かに、美香さんがサインをした借用書です」。嘘だと騒ぐ姉に、「鑑定に出してもらって構いませんよ」と言うと、さすがに黙った。康は続けた。「タワーマンションに住むのは自由です。ただ、借りたお金はきちんと返してください。今まで祖母が貸した金額は、記憶の範囲内でしたが、借用書の総額は三百万円になっています」。私は言った。「祖父ちゃんは、あんたに、子育てしながら生きていくのがどれだけ大変か、身に染みて分かってほしかったんだと思う」。そして、私と康で祖母の財産を管理することを伝えた。これからは、私たちが目の届かないところで、姉が祖母に金を無心しても、もう貸すことはない。私が言い出したことだが、祖母を説得するのは少し大変だった。しかし、姉のためになると根気強く説明して、ようやく理解してもらえた。マサアキも、息を潜めたように黙り込んでいた。「書類はよく確認してからサインしてください。内容を読まずにサインするのはおすすめしません。今後の人生のための社会勉強だと思ってください」。康の言葉を聞いた二人は、何事も言い返せず、すっかり意気消沈していた。
結局、姉夫婦はタワーマンションの購入を諦めた。到底、一年で返せる金額ではなかったからだ。そして、他の借金も返済するため、姉は子供を保育園に預けて、パートで働き始めることを決めた。最初は「働きたくない」と拒否していたマサアキも、姉に強く迫られて、私の職場に雇ってほしいと頼んできた。私が会社の信用を損なうわけにはいかないと断ると、彼は今度は必死に仕事探しをしているらしい。姉がやり直すためには、マサアキも働くことが不可欠だ。祖母から借りた金も返さなければならないし、姉たちの夢が叶う日が来るかどうかは、まだ分からない。ただ、今度こそ彼が目を覚まして、子供のために、家族のために、新しくやり直してほしいと、私は願わずにはいられなかった。
