出産からわずか三時間。私は病室のベッドで、腕の中のわが子の呼吸を数えていた。体中は疲れ切っていたけれど、それ以上に、この小さな命を守らなければという思いで胸がいっぱいだった。ところが、その静けさを破るように、扉が勢いよく開いた。強い香水の匂いが部屋に充満する。義母だった。
「女の子?初孫は男の子が続いてきた家なのに。加賀の後継ぎはどうするつもりなの?」
夫の慎司は壁を見つめたまま、何も言わない。私はかれた声で、ようやく言葉を絞り出した。
「この子は、私たちの宝物です」
「宝物?笑わせないで。男の子を産めない嫁に、価値なんてないのよ」
義母は私の腕を、わざと強くつまんだ。爪が食い込み、私は思わず悲鳴をあげた。
「早く男の子を産まないと、この家計は終わりよ。責任取れるの?」
ナースコールを押そうとすると、義母が私の手を払った。
「大げさね。これくらいで痛がってるようじゃ、育児なんてできないわよ。私が慎司を育てた時は、こんな弱音なんて吐かなかったわ」
慎司がようやく口を開いた。
「母さん、もう帰ろう」
「あら、慎司。あなたもこの嫁の味方をするの?情けない息子ね。お父さんに報告しないといけないわ」
祝いの花は倒れ、義母のハイヒールの音だけが病室に響いた。娘は泣き声をあげる。私は震える手で、娘をぎゅっと抱き寄せた。この瞬間から、私の戦いが始まることを、まだ私は知らなかった。
退院当日、自宅の玄関には段ボールが積み上がり、加賀家の家紋入りの荷札が貼られていた。
「家政部隊が到着よ。今日から、私たちがこの家を管理するから」
義母の後ろには、義妹の絵理香も続いていた。二人は靴も脱がずに、ずかずかと家に上がり込む。
「ベビーベッドはこっちに移すわ。あんたのドレッサーはベランダに出して」
「でも、それは私の……」
「嫁が口出しするものじゃないの。この家のことは、私が決めることよ」
義母は私の化粧台を運び出させ、義妹は私のエプロンをゴミ袋に放り込んだ。義母はキッチンの調味料を全て捨て、自分用の鍋セットを並べる。冷蔵庫は、彼女の漬け物で埋め尽くされた。
「この家の台所は私が管理するから。あなたの趣味の悪い調味料は、全部捨てたわ」
娘が泣くと、義母が素早く抱き上げた。
「抱き癖がつくから、すぐにベッドに戻しなさい」
「でも、お腹が空いてるのかも……」
「授乳は時間を決めてするものよ。あなたみたいに適当にやってたら、この子がダメになる。私の育児法に従いなさい」
リビングのソファーに座ろうとすると、義母が言い放った。
「嫁は、横になっているものよ。余計なことをしないで。あなたには育児の才能がないのよ」
それは私を休ませるためではなく、完全に私を排除するためだった。私は自分の家で、居場所を失っていく。
娘の名前を慎司と考え、「結衣」と書いた紙を掲げると、義母が出生届を奪い取った。
「梅子にしなさい。家の名前占いで決まってるの」
「でも、私たちで考えた名前なんです」
「この子は加賀家の後継ぎ候補なのよ。嫁の意見なんて、聞いてない」
私は泣きながら出生届を取り返し、自分で市役所へ届けを出した。結衣。この子は、私がつけた名前で生きていく。
その夜、義母は一冊のノートを置いた。
「家計簿よ。授乳時間、母乳量、うんちの色。毎日書いて、私に提出しなさい。サボったら、お仕置きがあるから」
「お仕置きって……」
「食事抜きよ。あなたの食事管理も、私がするの」
慎司は「母さんの言う通りにしてくれ」と目をそらす。義兄からは「男を産まなかった嫁は口出しするな」と電話がかかってきた。
結衣のベビーベッドには、義母の手作りのお守りが吊され、独特の匂いが部屋に充満した。
「この匂いが加賀家の子供を守るのよ。あなたみたいな薄っぺらい母親じゃ、この子を守れないからね」
「私は、母親失格だって言うんですか?」
「当たり前でしょう。加賀の血を引く子供を育てる資格なんて、あなたにはないのよ」
彼女は満足そうに微笑み、私の母親としての権利を奪っていった。私は涙をこらえながら、この屈辱を心に刻んだ。
数週間後、銀行から娘名義の積み立てについて確認したいと電話が来た。何かおかしい。慎司を問い詰めると、彼は私の通帳を差し出した。
「母さんが管理した方が利子がいいって。一時的に入れただけだよ」
「なぜ、私に相談しなかったの?」
通帳の残高を見て、私は愕然とした。三百万円あった貯金が、ほぼゼロになっている。義母のバッグから、私のサインを真似た書類が出てきた。
「これ、私が書いた覚えはありません」
「嫁の財産は加賀家の財産よ。あなたが夫を支えないから、私が代わりに管理してるの」
義母は開き直った。慎司は何も言わない。
その夜、実家の母に電話した。
「お母さん、私、どうしたらいいかわからない」
「逃げなさい。体面は大事だけど、あなたの人生はもっと大切よ。その子を守れるのは、あなただけ」
母の言葉に背中を押され、私はノートを広げた。義母の暴言、通帳の写真、結衣が泣いている横で義母が拳を振り上げた瞬間。私は一つ一つを、記録し始めた。証拠を集めるために。
義母が毎年開催する、加賀家の宴が迫っていた。初孫のお披露目として、政財界の重鎮まで招くという。「そこで改めて、梅子を加賀家の後継ぎ候補として認めるわ」という義母の言葉に、疑念を抱いた時、義妹が私の耳元でささやいた。
「お披露目の後、梅子ちゃんは加賀本家で育てることが決まってるんだよ。嫁には育児は任せられないって」
血の気が引いた。恐怖で、結衣を抱く手が震える。
私は幼なじみの洋介に助けを求めた。映像制作会社を営む彼は、私の話を聞くとメモ帳を開いた。
「全部見せて。音声も書類も、証拠になりそうなもの全部」
「でも、これは……」
「君と娘を守るために必要なことだよ」
私は義母の育児ノートをコピーし、通帳の写真を渡し、彼女が結衣を連れ去る計画を話していた録音データを渡した。洋介は映像制作の専門知識を生かし、証拠映像の編集を引き受けてくれた。
「会場の映像設備は事前に確認済みだ。君がスマホでメッセージを送ったら、僕が外部から映像を送信する。扉の施錠も、ホテルスタッフに緊急事態として依頼してある」
同時に、私は慎司に離婚届の署名を迫った。
「今は無理だ。母さんが怒る」
「娘を守るのは私の責任。あなたがついてこられないなら、一人でも戦う」
私は静かに、しかし、かたい決意を込めて言った。
お披露目の日、ホテルの大広間には加賀家の親族、取引先、地元議員まで二百人以上が詰めかけていた。義母は豪華な赤い着物で、満面の笑みを浮かべている。
「皆様、本日はお忙しい中お集まりいただきありがとうございます。これから、孫の梅子を正式に加賀家の後継ぎ候補として紹介いたします」
会場から盛大な拍手が起こる。私は結衣を抱きながら、スマホで洋介にメッセージを送った。
その瞬間、照明が落ち、会場が暗転した。スクリーンに映し出されたのは、私が密かに集めた映像だった。
参加者に私の腕をつねる義母の姿。「男の子を産めない嫁に価値なんてない」という冷酷な音声。結衣を泣かせ続ける義妹。窓口で私の通帳を勝手に操作する義母。会場から、どよめきと悲鳴が上がる。
「これは一体何ですか?」
「加賀さん、説明してください」
映像のラストには、義母と義父の密室的な録音が字幕付きで流れた。
「梅子を本家に移して、嫁はくるわせましょう。嫁なんて、家計を維持するためのパーツよ。使い終わったら捨てればいい」
会場が総然となる中、義母が形相を変えて叫んだ。
「やめろ!これは捏造よ!慎司、止めなさい!」
しかし、扉はすでに施錠され、ホテルスタッフが厳重に立ちはだかる。私は結衣を抱きながら壇上に上がり、マイクを取った。
「皆様、これが加賀の言う家族愛の実態です。私の娘を商品のように扱い、私の財産を勝手に奪い、私の体を傷つけた。今日で、この茶番は終わりにします」
慎司は顔面蒼白で、その場に膝から崩れ落ちた。義父は必死に扉を叩いている。親族たちがざわつき、取引先の社長が義母を軽蔑の目で見つめる。
「こんな家族とは、もう仕事はできません。契約は白紙に戻させていただきます」
義父と義母が互いを攻め始めた。
「お前が嫁をいじめすぎたから、こうなったんだ」
「あなたが甘やかすから、嫁が調子に乗ったのよ」
敵同士の喧嘩が始まり、会場はさらなる混乱に包まれた。
宴を抜け出した私は、洋介と結衣と共に自宅に戻った。玄関には新しい表札が取り付けられている。表札の横に、洋介が差し出した離婚届があった。慎司の署名が入り、私の欄だけが空けてある。
「宴の最中に署名してもらった。混乱に乗じてだけど、正式な手続きだ。今なら出せる」
「ありがとう。でも、これは私自身がやらなきゃいけないこと」
私は深呼吸し、ペンを握った。一画一画、丁寧に自分の名前を書いた。この家は、もう私と結衣のもの。加賀のルールには、二度と戻らない。私たちの、新しい人生の始まり。
翌朝、義母は荷物だけが消えた玄関を見て絶叫した。
「表札を勝手に変えるなんて、許さない!この家は加賀の財産よ!法的手段を通すから!」
私はドアチェーン越しに、静かに告げた。
「あなたが言ったでしょう。加賀の家は、家長が決めるって。離婚が成立した。今この家の正式な家長は、私です。もう二度と、来ないでください」
「慎司?慎司はどこにいるの?息子を返しなさい!」
「慎司さんは、実家に帰りました。もう私たちには、一切関係ない人です」
義母の絶叫を背に、私は静かにドアを閉めた。新しい生活の扉を開くために。
半年後、洋介が営むロケ地のスタジオで、私は撮影助手として働いていた。結衣は洋介の母に抱かれ、柔らかな日差しを浴びて笑っている。もう生後八ヶ月になり、なんとか言葉らしきものを発するようになった。
「体はどう?無理してない?」
洋介が気遣ってくれる。
「大丈夫。ここでは、私が自分で決められるから」
加賀家からの電話は、最初の数週間は何度もなったが、私は「もう必要ありません」と断り続けた。市役所から離婚成立通知が届き、戸籍に旧姓の文字が戻った時、心から安堵した。
洋介は「急いで答えを出さなくていい」と言いながら、結衣に絵本を読んでくれる。結衣は洋介の声が大好きで、いつも嬉しそうに手をバタバタさせる。
「この子にとって、本当の家族って何だろう?」
「血のつながりじゃないよ。愛情と尊重だよ」
新しい表札には、私たちの名前に続いて、結衣の名前が刻まれている。もう、義母の声が響くことはない。私は結衣と洋介と共に、静かで確かな幸福を選んだ。あの日、勇気を出して扉を閉めたからこそ、今この温かな光の中にいられる。結衣の寝顔を見つめながら、涙ではなく笑顔で、過去の自分に「ありがとう」とそっと呟いた。未来は、私たちが作っていくものなのだから。
