夕べ、息子が突然婚約者を連れて帰ってきた。挨拶もそこそこに、彼女が手にしていた書類に目を落とした瞬間、私は声を失った。そこには「遺産放棄証明書」の文字。夫の死後、全てを義母に譲ったあの日の記憶がフラッシュバックした。「お母さん、この三年間、おばあちゃんの医療費、おじさんが全額立て替えてたらしいよ。これ、領収書」――息子の言葉に、私の世界は静かに崩れ始めた。あの人は、あんなに冷たかったのに、な…

夕べ、息子が突然婚約者を連れて帰ってきた。挨拶もそこそこに、彼女が手にしていた書類に目を落とした瞬間、私は声を失った。そこには「遺産放棄証明書」の文字。夫の死後、全てを義母に譲ったあの日の記憶がフラッシュバックした。「お母さん、この三年間、おばあちゃんの医療費、おじさんが全額立て替えてたらしいよ。これ、領収書」――息子の言葉に、私の世界は静かに崩れ始めた。あの人は、あんなに冷たかったのに、な...

私はミカ、五十二歳。図書館で働いている。夫の正を十二年前に失い、それからずっと一人暮らしだ。正は家族のために一生懸命働いてくれる、本当にいい人だった。なのに突然、高速道路で倒れて、そのまま帰らぬ人となった。あの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。息子の大輝を抱え、どうやって生きていけばいいのかと途方に暮れた日々。それでも私は働き、大輝を育ててきた。

そんな私の生活に、ある日、一通の電話が転がり込んできた。義母の静香が、最近認知症の症状を見せ始めたというのだ。七十五歳の義母は、今は義兄の達也と同居している。しかし達也は、昔から何もしてこなかった。義母の面倒なんて、一度だって見たことがない男だ。その達也が、突然私の家に現れた。

「みか、母のことだけど、話がある」

私は嫌な予感がした。彼の顔を見た瞬間、体中の血が引いていくのが分かった。達也はすぐに本題を切り出した。

「母の面倒、あんたに任せる」

「え?」

「俺は忙しいから無理だ。あんた、時間あるだろ?」

「お兄さん、私だって仕事が……」

「仕事? バイトだろ? 本当の仕事じゃないじゃないか。時間もあるし、母の面倒を見ろよ」

私の心臓がドキドキと鳴った。仕事がないと思われていることが、何より悔しかった。図書館の仕事は、私にとって大切な役割だ。それなのに、彼にはただの暇つぶしにしか見えていない。

「とにかく、母の面倒は全部あんたに任せる。俺はもう来ないから」

「お兄さん、ちょっと待って……」

「いいから、母の面倒を見ろよ」

達也はそう言い放つと、振り返りもせずに帰っていった。私は玄関に立ち尽くし、動けなかった。近所の人が困惑した顔で通り過ぎていく。私はただ、その場に立ち尽くすしかなかった。

母の介護を一人で担うことになる。その現実を受け入れる以外に、私に選択肢はなかった。

その日から、私の新しい生活が始まった。最初はまだ静かだった。訪問介護のスタッフが来て、薬の管理や食事の世話をしてくれる。私は仕事の合間に、義母の家に通った。しかし、認知症の症状は日に日に悪化していった。

「みか、あんた何してるの?」

「お母さん、お薬の時間ですよ」

「薬? そんなのいらないわ。あんたが勝手に判断してるんでしょ」

「お母さん、お医者さんの指示です」

「お医者さんの指示ね。あんた、私をコントロールしようとしてるんじゃないの?」

私の手が震えた。義母は私を敵のように見ている。かつては優しくて、いつも笑っていた義母だった。それなのに、今は私のことを何か企んでいる人のように疑っている。

「あんた、私の財産狙ってるんでしょ? 私の金、全部あんたが使ってるんでしょう」

「そんなこと、ありません」

「嘘つかないで。あんた、私の入院費を一人で払ってるって言ってるけど、本当はみんなの金を使ってるんでしょ」

「お母さん、私はちゃんと……」

「嘘つかないで。あんた、私を利用して私の金を奪おうとしてるのよ」

私は答えられなかった。何を言っても無駄だと分かっていた。義母の中では、もう私が悪者だと決まっている。あの日から、私は毎日この暴言と戦わなければならなくなった。

次の日には、さらにひどくなっていた。

「ミカ、あんた、私の財産全部持っていったんでしょ?」

「お母さん、そんなことありません」

「嘘つきね。あんた、正の保険金で贅沢してるんでしょ? 私の金で生活してるんでしょ?」

その言葉に、悲しみが込み上げてきた。夫の保険金。私が使ってしまっているお金。それは確かに事実だった。正が残してくれたお金で、私は生活している。あの保険金がなかったら、私は大輝を育てられなかった。でも、それを義母に説明しても、理解はしてもらえない。

「あんた、私の金で贅沢してるんでしょ。私を見舞いに来るのも、金が目当てなのよ」

私は何も言えず、その場を立ち去った。涙だけが、止まらなかった。

ある日、達也が突然電話をかけてきた。

「母の医療費、いくらかかってるんだ?」

「え? 五十万円です」

「月五十万円? そんな高いわけないだろう。嘘つくなよ」

「嘘じゃありません。認知症の治療費と介護費用なんです」

「あんたが勝手に高い治療を選んだんでしょ。普通の治療でいいじゃないか」

「お医者さんの指示です」

「お医者さんの指示ね。あんたが設けるために、高い治療を選んだんでしょ」

その言葉に、怒りが込み上げてきた。私はほとんど自分の給料も使いながら、義母の介護をしている。それなのに、達也は私が儲けていると思っている。

「お兄さん、介護は私一人でやっています。文句があるなら、やってください」

「俺は忙しいから無理だ。母の面倒はあんたが全部やるんだよ」

「お兄さん……」

「とにかく、あんたに任せる。俺はもう母のことは知らない」

電話が切れた。私は何を言っていいか分からず、ただ涙が頬を伝った。誰も私を助けてくれない。これからも、私は一人でこの戦いを続けていくのだろう。

そんな時、大輝が帰ってきた。見慣れない女性を連れて。

「お母さん、ただいま。紹介するよ。この人は彩佳。俺の婚約者なんだ」

彩佳は少し恥ずかしそうに頭を下げた。

「初めまして。彩佳と申します」

「ああ、初めまして」

私は驚きと嬉しさで、言葉が出なかった。息子が婚約者を連れてくるなんて。それなのに、私たちの疲れ果てた生活のことを思うと、心が痛んだ。

「お母さん、最近疲れてるみたいだね。おばあちゃんの介護、大変でしょ。おじさん、何も手伝わないんだろう」

私は黙ってしまった。大輝は私の顔を見て、何かを察したようだった。

「お母さん、一人で抱え込まないで。助けるから」

彩佳も、私の手をそっと取った。

「お母さん、私、司法書士をしています。義理のお母様の介護について、法律的なサポートもできますから」

私の目頭が熱くなった。こんなに心強い味方が現れるなんて、思ってもみなかった。

「大輝、彩佳さん、ありがとう」

数週間後、達也が突然私の家に訪ねてきた。顔色が悪く、明らかに様子がおかしい。

「みか、助けてくれ」

「お兄さん、どうしたんですか?」

「俺、借金が返せなくなったんだ。事業に失敗してな。もう生活もままならない」

私は信じられない思いで達也を見つめた。彼はずっと自分の事業に夢中で、家族のことは顧みなかった。その結果がこれだ。私は呆れと怒りが入り混じる気持ちだった。

「お兄さん、医療費は今までずっと私が支払ってきましたよ」

「だからさ、あんたが一生全部やってくれ。介護も医療費も、全部あんたがやるんだよ」

「一生?」

「ああ、あんた、まさの保険金もらったんでしょ? それで生活してるんでしょ? 余裕があるはずだ」

その言葉に、怒りが爆発しそうになった。

「お兄さん、まさの保険金を一人占めしているんでしょ?」

私は何も言えず、その場を立ち去った。まさ、ごめんなさい。あなたの残した保険金を、義母の介護費用に使っている。それなのに、達也は私が贅沢をしていると思っている。この人生は、一体何なのだろう。

数日後、達也が再び訪ねてきた。今度は何やら書類を持って。

「みか、これにサインしてくれ」

「何ですか、これ?」

「母の医療費を一生、払い続けるって契約書だ」

私の体が硬直した。

「一生?」

「ああ、あんたが母の医療費を一生払い続けるって約束しろ。サインしろ」

私の目から涙が溢れた。今までの介護の大変さ、認めてもらえない孤独、そしてこの身勝手な要求。すべてが溢れてきた。

「お兄さん、私には……」

「いいから、サインしろ!」

その時、突然ドアが開いて、大輝と彩佳が現れた。

「お母さん、大丈夫?」

「大輝、彩佳さん……」

彩佳が達也の持っている契約書を見た。

「お母さん、その契約書を見せてください」

彩佳は契約書をじっくりと確認した。そして、冷たい口調で言った。

「この契約書、法的には無効です。強制でサインさせた契約は、法的な効力を有しません。もし、お兄さんが無理やりサインをさせようとした場合、この契約は無効になります」

達也はその言葉に顔色を失った。

「はあ? 法律? そんなの関係ねえ」

「関係あります。あなたの行動は、法的には脅迫に該当する可能性があります」

達也は言葉を失った。

「脅迫?」

「おじさん、もういいです。おばあちゃんの面倒も、これからは私たちが見ます」

達也は何も言えず、その場から立ち去った。私は息子と、そして婚約者のサポートを得て、義母の介護を続けた。しかし、限界は近づいていた。

義母はますます私を疑い、暴言は止まらなかった。私はついに、義母の施設への入所を手配した。静香は私の手を握り、泣きながら言った。

「みか、みか、待って。お願い、置いていかないで」

私は義母を見て、深く息を吸った。

「お母さん、もう許せません。ごめんなさい」

「みか、みか!」

私は義母を施設に預け、その場を離れた。自分の選択が正しかったのか、今も分からない。あの人の笑顔を思い出すと、胸が痛む。

しかし、数日後、私の予想を超えた展開が待っていた。達也が再び、私の家に現れたのだ。

「みか、施設の費用を払ってくれ」

私は全身が震えた。

「お兄さん、もう一切関わりたくありません」

「許してくれ、みか。頼む」

「もう許せません」

私はその言葉を言い切ると、家を出た。もう、あの人に会うことはないだろう。私は走り出した。涙が止まらなかった。

「お母さん、もう大丈夫だね」

大輝が私のそばに来て、肩を抱いてくれた。彩佳も、そっと手を握ってくれた。

「お母さん、これからは私たちが支えます」

私は二人の言葉を聞いて、涙が止まらなかった。

それから三年後、私は義母と義兄と完全に決別した。義母の介護は、息子とその婚約者のサポートで乗り越えた。達也とも、一切連絡を取らなくなった。私は穏やかな日々を送っている。

息子とその婚約者のサポートで、新しい人生を歩み始めた。まさ、あなたの残した保険金のおかげで、今の私は生きていけている。あなたが守ってくれた家族を、私はこれからも守り続ける。

月五十万円の医療費を一人で負担し、義兄の無責任な行動に耐え続けた日々。義兄の偽契約書に怯えた日々。あの「もう許せません」と決断した瞬間が、私の人生で最も重要な選択だった。

そして、もう二度と、あの人たちには会いたくない。

まさ、ありがとう。あなたが残してくれたすべてに、私は感謝している。

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