「あの、柏さんが、柏さんなら英語が話せます。」 派遣の雑用係の老人が、大企業の幹部たちを前に立ち上がった時、会議室の空気が凍りついた。 ドイツ語での説明を求められた契約は、年四十億。技術部長の質問に答えられず、汗を流す営業部長。誰もが失敗を確信していた。だが、倉庫で納品書を数えていた67歳の老人が口を開いた瞬間、すべてが覆った。…
土曜日の午前中だった。いつも通り倉庫で納品書を数えていたら、電話が鳴った。柏さん、至急会議室へ。伝達役の女の子が真っ青な顔で受話器を置くところだった。 会議室のドアを開けると、重い空気が待っていた。取引先の椅子には、技術部長と思しき男と秘書が座っている。競合他社の連中だ。そして最後に、白い顎髭の老人が入ってきた。こちら我々の顧問です。名は紹介されなかった。飾りのないグレーのスーツに、節の目立つ大きな手をしていた。 お梅が全員に茶を出して回る。顧問の前に湯呑みを置いた時、低い声が返ってきた。だけ。その手が半ば止まった。頭を下げ、何も言わずに隅へ戻った。 和夫が立ち上がった。始める前に一つ確認を。流暢な英語だった。お梅が小声で日本側に伝える。本日の説明と質疑は、事前にお願いした通りドイツ語で伺いたい。確認のお電話も差し上げたはずですが。 会議室の空気が変わった。営業の江見が笑顔を剥がした。ど、どういう……や、あの、その……泳いだ視線が梅の上で止まった。担当のものが翻訳を謝っておりまして、ご依頼が私に正しく伝わっておりませんでした。 梅の目が見開かれた。二度確かめた。二度とも握り潰された。その事実が今、目の前で繰り返されていく。違う。私、二度も確認したのに。声は出なかった。ここで叫べば、その者が壊れる。それが分かるから出せなかった。 梅は部屋の隅から、梅の白くなった指先を見ていた。 では、ドイツ語の対応者は居ないのですね。え、英語であれば私が直接ご説明いたします。全職では海外案件を数多く手掛けています。では英語で。ただし技術の質疑に正確に答えていただけるなら。 和夫の英語のプレゼンが始まった。暗記してきた冒頭の挨拶までは形になっていた。だが技術部長の最初の質問で止まった。部品の耐久試験の数値とその根拠を問う英語だった。梅が単語を拾って必死に繋ぐ。だが専門用語の壁に、書類の英語は追いつかない。そ、その件は後ほど資料で。質問が重なるたび、答えは同じになった。後ほど確認します。持ち帰ります。 海外案件を数多く手掛けたはずの男の英語は、質問の前では紙のように薄かった。顧問の老人が腕時計に目を落とした。時間の無駄のようだ。椅子の引かれる音がした。和夫が立ち上がりかけていた。俺の額から汗が顎まで伝った。ま、まずい。ここで飛んだら、俺の役員の道が。 その時だった。梅が部屋の隅の梅を見た。梅は視線を受け止め、一つ頷いた。椅子を鳴らして梅が立ち上がった。 あの、柏さんが、柏さんなら英語が話せます。 はあ?和夫の声が裏返った。ふ、ふざけな。バカも休み休み言え。こんな場で何ができる?雑用係のただの老害だぞ。怒鳴り声に先方の一斉が身を潜めた。言葉は分からなくても、響きで分かる声だった。 本当なんです。この前のワイスマンションからの確認のお電話を受けたのは私だと報告しました。でも本当は私とは対応できませんでした。取ってくださったのが柏さんです。梅の英語に、一も聞き返さずに。 和夫の目が梅と梅の間を往復した。で、相談は違うんだよ。遊びじゃねえんだぞ。決められないのなら、我々は失礼する。英語の声はもう半分席を立っていた。 梅は梅に振り向いた。そして深く頭を下げた。柏さん、ごめんなさい。内緒にするって約束したのに。でもお願いします。柏さんしかいないです。震える声だった。恥も立場ももう頭になかった。約束を破ってでも頭を下げるしかなかった。 梅は汗の浮いた顔で二人を見比べた。待てよ。しくじれば契約社員の伝達漏れに派遣の暴走。うまくいけば俺の采配だ。どっちに転んでも俺は損はしない。追い詰められた男の目に、ずるい光が戻った。 いいね。おい、おっさん。英語でプレゼンよろしく。言っとくが、しくじったら全部お前の責任だからな。派遣が勝手にやったことだ。 部屋の隅で梅がまっすぐに立った。承知しました。その一言だけが、広い会議室にはっきりと響いた。 梅は慌てて先方に向き直り、急ごしらえの笑顔で英語を絞り出した。実はこういう時のために、経験豊富なものを控えさせております。たどたどしい英語だった。今思いついた嘘だと、誰の目にも分かっていた。技術部長は返事しなかった。腕を組み、座り直しただけだった。最後に一度だけ聞いてやる。そういう座り方だった。顧問の老人が湯呑みを置いた。その目は、部屋の隅の地味な老人に向けられていた。 梅は盆を窓際の台に置き、上着の襟を直した。歩き出す。会議室中の視線が、部屋の隅の老人に集まっていく。梅は何も言わない。スクリーンの横に立ち、深く一度だけ息を吸った。 和夫が鼻で笑い、江見に目配せした。ほら見ろ。声も出せない。年寄りの癖にそんなもん。その口元が固まった。流れるような英語が、会議室の空気を塗り替え始めていた。挨拶、資料のページの流れ、説明の順序。無駄が一つもない。昨日まで納品書を数えていた老人の声が、正談の声になっていた。 技術部長の眉が上がった。試すように、さっきの質問をもう一度ぶつける。部品の耐久試験の数値とその根拠。梅は資料を見ずに答えた。 梅は誰よりもこの会社の部品を数えてきた男だった。倉庫で指で目で触ってきた頻繁と数字が、そのまま口から出てくる。それだけではない。三十部のコピーを取り、席に配り、梅を部屋の隅で聞いた。あの雑用の日々の間に、正談資料は最初のページから最後のページまで頭に入っていた。読むつもりがなくても、目が数字を拾ってしまう。長い空内の再月が染み込ませた。抜けない癖だった。 質問が二つ、三つと続いた。梅の答えは短く、数字は一度も揺れなかった。技術部長が隣の秘書に何かをささやき、頷き合った。江見の口が半開きのまま動かない。う、嘘だろ。コピー三十部のおっさんが。 やがて技術部長が体を起こした。何か言おうとした時、低い声がテーブルの向こうから響いた。ドイツ語だった。 では伺いたい。納期が守れなかった時、御社はどう責任を取るおつもりですか。 梅が凍った。分からず、目だけを泳がせた。梅は顧問へ向き直った。一呼吸の間、帰ってきたのもドイツ語だった。 守れないことがあります。機械は壊れ、船は遅れる。だから私どもは、遅れると分かった日に正直に申し上げます。遅れた一日は、信用を十年壊しますから。 南ドイツの訛りが柔らかく混じっていた。顧問の背中がゆっくりと椅子から離れた。そのまま、老人が立ち上がっていた。 あなたの名前は柏と申しますか。柏さん。 大きな手が胸の内ポケットに入る。取り出されたのは、古い革の名刺入れだった。触れる指が中から一枚を抜いた。黄ばんで角のすり切れた、日本の名刺だった。 三十年探した。技術は国境を超える。その言葉を私に残して消えた人。梅の裏に、ドイツ語の手書き文字が残っていた。梅、柏さん。あなたですか? 会議室が静寂となった。誰も息の音すら立てない。梅は差し出された名刺を見た。三十年前、自分が工房に置いてきた、自分の名刺だった。 それから目を閉じ、長い息を一つ吐いた。エリヒ。なんと、あの小さな工房がここまで大きくなったのか。ドイツ語だった。 老人はドイツ語のまま返した。工房どころか、あなたが支払いを待ってくれたあの半年がなければ、エリヒ・ワイスマンの名は跡形もなく消えていた。 技術部長が弾かれたように立ち上がり、秘書が続いた。総裁の同行を知らされていた二人ですら、総裁が他人にこんな目を向ける姿は初めてだった。 ワイスマンは日本語に切り替えた。たどたしさの残る、けれど丁寧な日本語だった。 日本語は、この三十年で覚えました。この人ともう一度話す日のために。ですが、数字だけは私の国の言葉でしか信じない主義でしてね。 ワイスマンは会議室を見渡した。三十年前、私の父の工房は潰れる寸前でした。大口の取引先に逃げられ、誰もが離れていった。この人だけが残ってくれた。彼は本社を説得して、支払いを半年待ってくれた。週末の度に工房へ来て、油まみれで検品を手伝って。そして帰り際に、この名刺を置いていった。私はこの言葉で商売を覚え、この言葉で会社を作った。先生を探し続けていました。梅さんにも何度も手紙を書きました。答えはいつも、海外の部門に柏さんはいない。二度と会えないと思っていました。 梅は口元を両手で覆っていた。その静けさの中で、和夫の頭だけが別のことを考えていた。話になる。使える。この話は使える。わざとらしい笑顔を作り直し、両手を揉むような声を出した。 ええや、これはこれは。何というご縁でしょう?実は私も、柏さんの語学の際は買っておりましてね。本日はこういう場面のために、あえて控えてもらっていた次第でして。全部仕込んだんすね、柏さん。 梅は答えなかった。ワイスマンの目が和夫に向いた。柔らかさが消えていた。 そうですか。一つだけ確認しましょう。ドイツ語の依頼は、なぜ届かなかったのですか? それは、その。担当の翻訳ミスがございまして。声はまだ営業の形を保っていたが、汗が一筋流れた。少しだけお待ちください。立つが早いか、梅は会議室を飛び出した。 廊下を走る足音が遠ざかり、また近づいてくる。戻った梅の手に白い封筒があった。鍵のかかる引き出しで、この日を待っていた封筒だった。 取引先の前で、社内の恥をさらすことになる。分かってる。それでも柏さんが言ってくれた。間違いを正す日は必ず来る。その日まで、事実を捨てるなって。今日がその日だ。 お取引先の前で、お恥ずかしいご報告になります。それでも、嘘を事実のままにする方が、ワイスマン社様に失礼だと思いますので。こちらが頂いた条件の原本です。それから、私が役員部長にお送りした写しです。その日付も残っています。 差し出した手は震えていた。それでも引っ込めなかった。 ドイツ語のご依頼は、確かに届いています。私は二度、確認をお願いしました。これが事実です。 技術部長が原本を確かめ、ワイスマンに深く頷いた。担当の翻訳ミスという言葉は、その頷き一つで音もなく消えた。翻訳に間違いはない。では、間違っていたのは誰か。社内の不具合ということも十分に考えられる。技術部長が英語で付け加えた。確認の電話も差し上げた記録が、これです。 和夫の呼吸が、営業の形を失っていった。一斉が和夫に集中する。張り詰めていた何かが切れた。椅子が後ろに倒れた。 ふ、ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。たかが派遣と契約社員がよってたかって、俺をはめやがって。最初からグルだったんだな。この無能が。おい、江見。警備を呼べ。この野郎をつまみ出せ。 誰も動かなかった。え? え? … Read more