新幹線の扉が閉まる直前、私は営業本部長に胸を突き飛ばされ、ホームに置き去りにされた。向こう側では、あいつらが腹を抱えて笑っていた。3年かけて開発した新薬の資料は、そのまま奪われて、手柄は全部取られた。夫には「不倫してるんだろ」と離婚届を突きつけられた。全部、あいつらの策略だったのに。数日後、関西の某製薬会社の社長が、取引先の前で一言放つ。「立花製薬とは契約終了で」と。誰も知らない。その裏で、…
車内に足を踏み入れようとしたその瞬間、営業本部長の手が女性研究員の胸元を突き飛ばした。彼女はホームに転がされ、目の前で扉が静かに閉まる。向こう側で男たちが腹を抱えて笑っていた。 「みな瀬さん、会社で雑用でもしててくださいね」 彼女が3年かけて開発した新薬の資料は、そのまま新幹線に積み込まれていく。数時間後、関西の取引先社長が放った一言で、立花製薬の会議室の空気が凍りついた。 「では、音社との契約は終了ということで」 翌朝、彼らを待っていたのは想像を絶する地獄の幕開けだった。不倫、解雇、離婚。一人の女性を踏みつけた者たちが、自らの過去に飲み込まれていく。全てはあの日の、一つの約束から始まっていた。 朝の都心、見慣れたオフィス街の角を一台の黒いセダンが滑り出した。後部座席の男は穏やかな声で運転手に告げる。立花誠治、54歳。立花製薬の社長であり、創業家三代目として業界最大の座に君臨する男だ。しかし、その姿に大企業のトップを思わせるものは何一つなかった。 「今日は東病院によってからにしてくれ」 20年以上使い込んだ古い腕時計に、派手な装飾品のないスーツ。運転手以外の者を連れていない。会長は毎月、立花に通われますね、と運転手が言う。 「ああ、友人との約束だ。月に一度くらいは顔を見せないとな」 病院を訪れるのは、もう何年も続いている。亡き友人との約束を、立花は一度として欠かしたことがなかった。受付に丁寧に頭を下げ、何度も通った廊下を進む。 「み瀬さんのお見舞いですね。病室の方へどうぞ」 病室の前で立ち止まる。胸の奥に、いつも同じ感覚が満ちてくる。古い約束をまだ果たしていない。その思いが、彼の足を毎月ここへ運ばせていた。 「あら、立花さん。また来てくれたんですか?」 み瀬し久子、62歳。穏やかな笑みを浮かべる女性だ。彼女だけが知っている繋がりが、この病室には確かにあった。 「うちの子ね、今の仕事がやりがいがあるって、嬉しそうにしてたの」 「そうですか。一さんとひさ子さんの娘さんですからね。大丈夫ですよ」 「ありがとうございます」 ひさ子が眠そうに目を閉じると、立花は軽く会釈して廊下に出た。窓の外には晴れた春の空が広がっている。胸の底で、まだ消えない声が残っていた。 「娘の研究を頼む」 数年前の病室で、亡き親友から託された一言だ。答えるための機会は、もうすぐそこまで来ている。来週、彼女が開発した新薬の重要会議が予定されていた。 「お前の娘なら、きっとやってくれるさ」 呟いた声を聞くものは誰もいなかった。古い鞄の中には、色褪せた一通の封筒と20年前の写真が静かに眠っていた。 翌朝。日制薬の研究員フロアの片隅で、み瀬ひろみは早朝7時から一人机に向かっていた。彼女の名前が知られるようになったのは、この新薬開発がきっかけだった。しかし、その功績が正しく評価されているかどうかは別の話だ。 「みな瀬さん、ちょっといいですか?」 声をかけられ、ひろみは顔を上げる。営業本部長の後ろには、いつもの連中が並んでいた。 「SRQの開発、かなり進んでるみたいだね。資料、こっちに回してくれないか?」 「え、あの……まだまとめ途中ですが」 「まとめ途中でもいいんだよ。上で確認したいって言ってるんだから」 有無を言わせぬ口調だった。ひろみが差し出した資料を、本部長は何のためらいもなく受け取る。その瞬間、彼女の心の中で何かが音を立てて崩れた。しかし、彼女は何も言えなかった。言ったところで、誰が聞いてくれるというのか。 数時間後。関西の立花製薬本社の会議室には、重苦しい空気が流れていた。大手取引先の社長が、手元の資料をゆっくりと閉じる。 「では、音社との契約は終了ということで」 その一言で、会議室の温度が下がった。立花製薬の役員たちが顔を見合わせる。しかし、立花誠治社長だけは微動だにしなかった。彼の目は、取引先の社長の背後にある窓の外を静かに見つめていた。 「理由をお聞かせいただけますか、と問うたのは、若手の役員だった。 取引先の社長は、ゆっくりと立ち上がる。 「立花社長、あなたはご存じなかったのですか。この新薬の開発者が誰か、ということを」 役員たちの間に動揺が走る。しかし、立花は静かに口を開いた。 「ええ、存じております。みな瀬ひろみさん。当社の社員です」 「では、なぜ彼女の功績を無視して、営業部の手柄にしたのですか?」 会議室が騒然となった。取引先の社長は、持っていた資料を卓上に置く。そこには、開発者としてのひろみの名前が記されていた。 「私は、彼女の研究を高く評価しているからこそ、この契約を続けることはできないと考えました。一つの嘘で成り立った関係に、未来はありません」 翌日。立花製薬の本社には、予告なく監査が入った。営業本部の不正が次々と明らかになり、本部長は解雇された。さらに、その背後にいた常務も辞任に追い込まれる。噂はすぐに広がり、マスコミが本社前に詰めかけた。 ひろみの携帯電話に、夫からのLINEが届いた。 「話がある。今日、帰ってきてくれ」 帰宅すると、夫はリビングに座っていた。ソファの隣には、スーツケースが置かれている。 「お前、会社で何があったんだ。取引先から電話が来て、営業部の人と不倫してるって言われたぞ」 「は? 何言ってるの?」 「相手は、お前の上司の霧谷部長だって言われた」 ひろみは言葉を失った。そんな事実はない。しかし、夫は既に決定事項として話を進めていた。 「離婚したい。子供は俺が引き取る」 「ちょっと待って、話を聞いてくれないの?」 「もう十分聞いた。お前が開発したものだってことも、知ってる。だけど、もう信じられない」 玄関の扉が閉まる音が響いた。ひろみはその場に立ち尽くした。スマートフォンが震える。立花製薬の人事部からだった。 「みな瀬さん、明日、本社に来てください。説明が必要です」 翌朝、ひろみは本社へ向かった。会議室で待っていたのは、立花誠治社長だった。彼はひろみを見ると、静かに頭を下げた。 … Read more