両家顔合わせで嫁の母を平手打ちした姑――その場で本当の正体を知り、姑は青ざめた
第2部 「健造君、そしてみよこ様。私はあの31年前の融資の担当者として、もう一つどうしてもここで明らかにしなければならない事実があります」 白石さんの眼鏡の奥の瞳が、これまでにないほど冷徹に、そして確信に満ちて光り輝いた。その視線は畳の上に崩れ落ちているれ子と震える優馬へと向けられた。 「れ子さん、そして剣造君。よくお聞きなさい。31年前、神谷茂蔵様が再木不動産を救う際、白石銀行を交えて作成した特別信託契約。そこには単なる土地や資金の提供だけでなく、万が一制約違反が発生した場合の極めて厳格な法的特約が記されているのです」 白石さんは眼鏡のブリッジを静かに押し上げ、書面の一行を指でなぞった。 「万が一、乙(再木家)が甲(神谷家)に対する人道的な品格を著しく欠き、制約違反が認められた場合、甲の唯一の相続人である高橋美子様の申し立てのみによって、再木不動産の全発行株式の51パーセント、すなわち絶対的経営権を即座にかつ無条件で無償譲渡するものとする」 「な……」 れ子の喉から引きつった悲鳴のような音が漏れた。 「経営権……株式の無償譲渡だと……? 何よそれ。そんな馬鹿げた契約あるわけないじゃない。白石さん、あなた元銀行員でしょう。そんな出たらめな紙切れ一枚でうちの会社を乗っ取ろうとするなんて。立派な犯罪よ。詐欺よ」 れ子は髪を振り乱し、狂ったように叫んだ。それまでの「名家の上品な奥様」という化けの皮が完全に剥がれ落ち、地獄の亡者のように醜い顔をして畳をバンバンと両手で叩きむしる。 「大体あの美子とかいう女、最初からこれが目的でうちの優馬にあの娘カノンを近づけたのよ。そうに決まっているわ。人の気にうちの会社の財産を丸ごと騙し取ろうとするなんて。この詐欺師揃い、泥棒猫よ!」 「れ子、いい加減にしろ! 黙れ! 黙れ!」 剣造さんが畳に額を擦りつけたまま、喉を引き裂くような声でれ子を一喝した。だがれ子の暴走は止まらない。 「剣造さん、あなたこそしっかりしてよ。どうしてこんなボケた老人の言うことを真に受けているの? 白石さん、あなたも70でしょう。頭がおかしくなったんじゃないの? うちが大得意様だからって裏切るなんて許さないわよ」 「れ子さん」 白石さんの声は驚くほど静かで、それゆえに恐ろしいほどの冷徹さを帯びていた。 「私は元銀行員としてこの契約書の原本を同行の役員金庫に保管していた当事者です。美子様が神谷家の正当な後継者であるという公的書類もすでに手元に揃っている。これが法的に十割有効な契約書であることは、明日になれば再木不動産の顧問弁護士が一番よく理解するでしょう。美子様がその気になれば、明日臨時株主総会が開かれ、健造君は社長の座を追われ、あなた方の役員報酬も全ての資産も一瞬で差し止められるのだよ」 「嘘……嘘よ……」 れ子は力なく首を振り、壁に背を預けたままずるずると畳の上に滑り落ちた。個室の中はただ引き戸の向こうで降り続く雨の音だけが静かに響いていた。 そんなれ子の狂気じみた罵詈雑言に対し、私は一言も言い返さなかった。晴れ上がった右頰は赤く熱を持ち、ズキズキと痛むはずだった。だが私の背筋はまるで凛とした一輪の百合のように美しく伸びていた。この瞳は怒りに燃えることも怯えることもなく、ただ冬の湖のように透き通っており、目の前でみにくく取り乱すれ子を静かに哀れみすら込めて見つめていた。その圧倒的な沈黙こそが、何よりも重くなってれ子の薄っぺらい言葉を全て虚空に消し去っていく。 「お母さん……もうやめてくれよ……」 それまで黙り込んでいた優馬さんが頭を抱えて畳につっぷしたまま、ガタガタと震える声で叫んだ。 「白石さん……本当なのか? 本当に僕たちの会社はお母さんの一言で全部美子さんのものになっちゃうのか」 「事実だ。優馬君」 白石さんは冷酷に事実を告げた。 「君たちが『貧乏人』と見下し、その尊厳を踏みにじった美子様こそが、君たちの生死を握る本物の支配者だったのだよ。いや、支配者という言葉は正しくないな。君たちをずっと影から黙って生かし続けてくれていた本物の恩人だ」 カノンはそんな優馬さんの無様な姿をただ冷やかな目で見つめていた。その瞳からはもう涙すら流れていなかった。ただ自らの保身のために母親の暴挙を黙認し、今また自分たちの会社のために怯える男への深い軽蔑だけが宿っていた。 「れ子……」 剣造さんが涙と油汗で濡れた顔をゆっくりとあげ、妻であるれ子の服の裾を弱々しく引っ張った。 「茂蔵様はな、俺たちの会社を乗っ取るためにこんな特約を作ったんじゃないんだ。俺が富と権力に目をくらまされ、人としての品格を失って傲慢な怪物になってしまった時、会社を、そして俺自身を正しい道に戻すための最後のブレーキとしてこの契約を残してくださったんだ」 剣造さんの大粒の涙が畳を濡らしていく。 「それなのにお前は……お前は俺たちの命の恩人の娘に向かって何ということをしてくれたんだ……」 剣造さんの絶望の言葉が個室の中に重く沈み込んでいく。だが驚愕の事実はこれだけでは終わらなかった。 白石さんは私のケースからもう一つの書類、古びた茶封筒の中からさらに別の真実を取り出そうと静かに手を伸ばした。 「れ子、お前は自分がなんと恐ろしい口を叩いたのか本当に分かっているのか」 畳に両手をつき、涙と油汗で顔をぐしゃぐしゃにした剣造さんが喉をからして叫んだ。その声はもはや怒りではなく、神罰を目の当たりにした罪人のような底知れない畏怖に満ちていた。 「な、何よ健造さん。さっきから神谷だの昔の恩だのって。いくらあの人がうちを救ってくれたからって、今更そんな大昔の話を持ち出して私たちを脅すなんて卑怯じゃない」 れ子は必死に自分の崩れかけた虚栄心を守るように言い返した。だがその声は微かに震えており、目元からは隠しきれない動揺が漏れ出している。 剣造さんはそんなれ子を振り返ることすらせず、血走った目で私が着ている着物の袖を見つめた。 「美子様……恐れながらお尋ねいたします。あなたが今日その身にまとっていらっしゃるそのお着物、それはお母様であられた静子様のご礼の時の唯一の形見でございますね」 剣造さんの震える問いかけに、私は静かに目を伏せた。そして晴れ上がった右頰の痛みに耐えながら、優しく慈しむように相色の有紋付き麦わら色の袖をそっと撫でた。私は何も語らない。ただその静かな仕草こそが何よりの回答だった。 「やはり……やはりそうだったのか……」 剣造さんはまるで胸を刃物で突き刺されたかのように絶叫し、畳に何度も頭を打ちつけた。 「あなた一体どうしたのよ。その着物が何だって言うのよ」 キーキーと狂ったように叫ぶれ子に対し、剣造さんは涙を流しながら一文字ずつ絞り出すように語り始めた。 「れ子、お前は美子様のお母様が28年前にどうして亡くなられたか知っているか」 「え? そ、そんなの病気か何かでしょう? 私に関係ないわよ」 「大ありだ。お前が今『カビ臭い安物雑巾以下』と踏みにじり、お茶をかけたそのお着物。これはな、神谷家が俺たち再木家を救うために命と引き換えにして残した最後の遺品なんだよ」 個室の空気がさらに一段と冷たく凍りついた。優馬さんもカノンも、剣造さんの言葉の重さに息を飲んで立ち尽くしている。 「31年前、茂蔵様は我が家を救うためにご自分の財産のほぼ全てを現金化し、白石銀行に預け入れてくださった。だがそのわずか2年後だ。茂蔵様の最愛の妻であられた静子様が重い心臓の病に倒れられた。一刻を争う大手術が必要だったんだ」 剣造さんは拳を握りしめ、畳を血がにじむほど強く叩いた。 「当然手術には莫大な費用がかかる。だが神谷家にはもう一円の蓄えも残っていなかった。なぜなら神谷家の全財産は俺たち再木不動産を生かすための保証金として銀行の金庫にロックされていたからだ。もしその金を解約して手術費用に当てていれば、再木不動産への融資は引き上げられ、うちはその瞬間に倒産していた」 「そんな……それじゃあ……」 優馬さんが真っ青な顔で絶句した。 … Read more