あの日、支店に現れた古びた鞄の老人は、私の窓口に深々と頭を下げた。課長代理は「貧乏客は後回しにしろ」と指示していたのに、私はいつも通り「ありがとうございます」と応えた。――すると、その瞬間、支店内の電子音が次々と鳴り響いた。100万、500万、1億。画面に並ぶ大口振り込みの名義は、まさかの経済誌でしか見ない大企業だった。「クオン様が、まさか……」私は思わず口を覆った。そして、あの笑っていた二…
午前十時を回った頃、定営銀行第一支店のロビーに、古びた鞄を抱えた老人が静かに足を踏み入れた。皺の深い顔、くたびれた上着、磨り減った靴。新人の窓口担当・篠崎水希は、そんな神郎の姿を見ても、いつも通り深く頭を下げた。 「様、本日もお越しいただきありがとうございます」 その一言が、藤堂課長代理の逆鱗に触れた。藤堂は以前から、貧相な身なりの神郎を「低所得の老人客」と見下し、窓口対応を後回しにするよう水希に指示していた。しかし水希は、その指示に従わなかったのだ。 「篠崎さん、あなたは新人の分際で、私の指示に従わないのですか」 藤堂の声は低く、しかしロビーに響いた。水希が反論する間もなく、藤堂は同期の神崎蒼太に目配せした。神崎は以前から、支店内の写真や客の姿をSNSに投稿する趣味を持っていた。藤堂はその裏アカウントの存在を知った上で、今この場で切り札として使おうとしている。 「神崎君、明日は本店会議で店長が不在だ。その間に篠崎の本人面談を済ませる。立ち合い人を頼む」 「マジっすか? 了解です。エリート課長代理の右腕として、しっかり締め上げますよ」 藤堂は左手で業績資料を掲げながら、さらに続けた。 「業績資料は私の方で揃えておく。本店人事部に上げれば、配置換えは確実だ。それと、例の老人客の件、何か後から問い合わせが来た場合は、全て篠崎の窓口対応の不備だったということで揃えておけ」 「ああ、そっか。あの貧乏じじいの件も篠崎のせいにしとけば、課長代理は無傷っすね」 「当然だ」 電話を切ると、藤堂の口元に薄い笑みが浮かんだ。新人の女一人を切り捨てれば、全てが丸く収まる。藤堂はそう信じて疑わなかった。 翌朝、支店の空気はこれまでとは違う張り詰めた色を帯びていた。本店月会議で大沢店長は朝から不在。窓口運営の采配は藤堂が握っていた。通勤バッグを置いた水希の手がわずかに震えている。昨夜、自分自身に誓った覚悟が、今試されようとしている。 その時、回転扉の事務室で神崎の携帯に立て続けに着信音が響いた。何気なく画面を見た神崎の顔が、みるみる青ざめていく。 「あ、あれ? 嘘でしょ?」 「神崎君、どうした?」 「やばいです、課長代理。俺の裏垢、特定されました」 藤堂は神崎の手から携帯をひったくった。タイムラインには、神崎が投稿していた支店内の写真と、客を罵る言葉が何百件ものリツイートと共に並んでいる。コメント欄には、すでに支点名と神崎の本名らしき情報が書き込まれ始めていた。 「バカ者。顧客情報の流出だ。店内の備品配置から、うちの支店だと特定されているじゃないか」 「す、すみません。課長代理、でもこれ全部、俺一人でやったことで」 「当たり前だ。私が指示した記憶など一切ないぞ。業務改善の議論とSNS流出を一括りにするな」 藤堂の口元に冷たい笑みが戻った。 「いいか神崎。これはお前の独断専行だ。それから、同期の篠崎がお前を止められなかった教育不届きが真の原因だ。そういう筋書きで上申書に書き加えておく」 神崎の脳裏に一瞬、あの日の光景が蘇った。両手で自分の手首を掴み、必死に投稿を止めようとした水希の顔――しかし神崎はその記憶を奥歯で噛みつぶした。 「そうっすね。全部篠崎が悪い。あいつが俺を止めてくれなかったから」 こびるような笑顔の裏で、神崎は自分が今嘘をついたことを痛いほど自覚していた。通路の影で立ち止まった水希の耳に、その会話の断片が届いていた。水希は両手を強く握りしめた。 その時、自動扉が開く音が響いた。古びた鞄を抱えた神郎が支店へ足を踏み入れる。通路から戻ろうとしていた水希の足が一瞬止まった。あの方だ。 神郎は藤堂と神崎には目もくれず、一直線に水希の窓口へと歩み寄った。 「様、本日もお越しいただきありがとうございます。私の力不足でご不快なお気持ちにさせてしまい、申し訳ございませんでした」 「君が謝ることは何もない」 藤堂と神崎が薄笑いを浮かべながら歩み寄ってきた。 「クオン様、他の銀行へのお手続きなら、本日もどうぞどうぞ」 神崎の嘲笑に、藤堂も肩を揺らして吹き出した。ロビーが息を飲んだように静まり返った。 神郎は古びた鞄をゆっくりとカウンターの上に置き、低く落ち着いた声で告げた。 「では、そうさせてもらおう」 神崎の笑みが一瞬だけ止まった。神郎がその言葉を口にした直後、支店内のどこかで電子音が小さく鳴った。 ピン。短く済んだ音。5秒後、もう一度ピン。さらに5秒後、ピン。 業務端末の画面に、入金通知が次々と映し出されていく。100万、500万、1000万、3000万、5000万、1億。容赦なく桁が膨れ上がっていく。全て他行からの振り込みだった。 「待て、これ、どれもうちの大口口座だ」 藤堂が画面を覗き込んだ瞬間、その表情が固まった。クオン神郎。クオンホールディングス株式会社。クオン不動産、クオン流通サービス、クオンフードチェーン。経済誌の見出しでしか目にしない大企業群の名前が、画面いっぱいに並んでいた。水希の目も、自分の窓口の端末画面に釘付けになっていく。 クオンホールディングス。地元商工会の広報誌で何度か目にした名前。県内最大の食品流通グループ。その会長が、毎月のように、あの穏やかな老紳士が―― 「クオン様が、まさか」 水希は思わず両手で口を覆った。神崎の顔が一気に青ざめていく。 その時、ロビーの電話がけたましく鳴り響いた。受付の公引が震える手で受話器を取り、藤堂に差し出す。 「課長代理、遠取からです」 遠取から――藤堂が受話器を耳に当てた瞬間、相手の怒声が漏れ聞こえてきた。 「藤堂、今誰を相手にしているか分かっているのか? 私はこちらで向かっている。全ての記録を保全しておけ」 「え? あ、はい」 電話が切れた。藤堂の手から受話器が滑り落ちる。 神郎は表情を変えず、鞄から一枚の名刺をカウンターの上に置いた。『クオンホールディングス株式会社 代表取締役会長 … Read more