俺は胸ポケットから名刺を取り出し、両手で持ってその男に差し出した。名詞の渡し方も知らんのか。低学歴のおっさんは首を突っ込むなよ。名刺というのは頭を下げて渡すものだ。お前の場合、ほとんど頭を下げていないだろう。つまり俺への敬意が足りんということだ。
なんて強引な理屈だと思ったが、男に頭をぐっと押され、俺は体を直角に曲げてしまった。そうだ、そうだ。いいぞ。それで名刺を額より高く掲げて捧げる感じだ。よし。
俺が屈辱を味わっている間に、エドが英語で挨拶を始めた。日本の皆さん、今日は時間を取ってくれてありがとうございます。
よくもこれまで好き勝手やってくれたな。そう思いながらも、俺はただエドの次の言葉を待った。
俺の名前は清本正。五十一歳だ。アメリカに本社を構えるバーレンテックというIT企業で働いている。元々は大学を卒業してすぐにバーレンテックの日本支社で働いていたが、二十年ほど前に出張で来日したソフィアという女性と出会い、国際結婚をした。
こつんと音がして、俺の目の前にモーニングコーヒーが置かれた。IT業界に新しい情報はないかと新聞を読んでいた俺は手を止めて、コーヒーに口をつける。薄いコーヒーではあるが、二十年も飲み続けているとこの味にもすっかり慣れた。むしろ、たまに濃いコーヒーを飲むことが少し苦痛に感じ始めている。
君が入れるコーヒーは最高だよ、ソフィア。
まあ、お上手なのね。私、褒められるともっと入れたくなるわ。
じゃあもう一杯頼もうかな。
マグカップをソフィアに渡しながら、ダイニングの隅に置いた少し大きめのスーツケースに目をやった。今日から一週間日本に出張することが決まっている。その間は実家に滞在する予定なので、俺としては楽しみだった。いくらアメリカ暮らしが長いと言っても俺は日本人だ。あの肉食中心の生活に耐えられるような体の構造ではないので、どうしても野菜中心の食事が懐かしくなってしまう。たまにキッチンに立って肉じゃがを作って食べてしまうほどには、日本の食事を恋しく思っていた。
仕事とはいえ日本に戻るのは一年ぶりね。
ああ。君も俺がいない間、ゆっくり羽を伸ばすといいよ。
俺が日本に戻るのは年に一度のシステム整備のためだった。俺は日本のバーレンテックで働く笹川というSEと、特許を安全に管理するためのシステムを共同開発している。だが笹川は一人でメンテナンスを任されているため、共同開発者である俺の立ち合いが欠かせないという事情があった。
そういえば、あっちのシステム開発部に新しい部長が着任したって聞いたけど。どんな人なんだろう。
笹川からのメールに名前も書いてあったのだが、記憶のどこを探してもそんな名前は見当たらない。まあ、行けば分かるだろう。俺はこの時、日本の新しい部長という存在をあまり重く考えていなかった。そんなに長い間その席が空いていたのかと思ったくらいだった。
いらっしゃいませ。
長時間のフライトで体のあちこちが痛み、時差ぼけでかなり頭がぼんやりしている俺。そんな俺を爽やかな笑顔で迎えてくれたのは、バーレンテック日本支社の受付嬢だった。名前を確かめると、その川子というらしい。二十代後半から三十代前半という年齢だろうか。化粧は薄いが、まったく地味ではない。むしろ薄化粧だからこそ、彼女の美貌が全面に押し出されているような感じがする。ぱっちりとした瞳が印象的な、非の打ち所がない美女だ。
どうも、アメリカ本社の清本です。システム開発部の笹川君とアポイントがあります。
若々しいその川子とは対照的に、俺の声は暗闇から引っ張り出された牛のようだった。受け付けております。清本様。こちらのゲスト用入館証をご利用になって、五階のシステム開発部までお上がりください。
その川子の笑顔は、点数をつけるなら百万点のパーフェクトだった。接客度もとてもよく、気を悪くする客なんていないだろう。こういう人材をアメリカ本社にも置けばいいのに。人的合理性を優先するとやらで、アメリカ本社には受付がいないのだ。
ごろごろと荷物を引きずってエレベーターに乗り込み、五の数字を押す。目的のフロアに到着したところで、エレベーターホールでは笹川が出迎えてくれた。
お久しぶりです。清本さん。長旅、ご苦労様です。
久しぶりだな。ちょっと眠いけど、まあなんとかやれるだろう。
すみません。俺一人でやれればいいんですが、清本さんが設計したところの整備はどうしても自信がなくて。
笹川は有能なSEだ。過去に俺と共同で特許を取ったことがあるが、それからも自分の名前でいくつか特許の出願をしていると聞いている。残念ながら単独で特許が取れたという話は聞かないが、頑張っていればいつか必ず取れるだろう。
俺と笹川は連れ立ってシステム開発部の会議室に向かった。室内には端末が二台用意されており、マシンは立ち上げられ、スリープ状態となっていた。俺の仕事はこの二台の端末を使ってシステム整備を施すことだ。
しかしここで、の方角から聞き覚えのないだみ声が聞こえてきた。俺ははっとして動きを止める。
さっき、笹川は全て俺を通せと言ってあるだろう。
一体誰だろうと思っていると、笹川がその男に向かって直角に体を折り曲げた。
す、すみません。相田部長。
なるほど。この男が笹川がメールで言っていた新しい部長なのか。そういえば、相田という名前を聞いたことがあるような気がする。間違いない。
おい、こっちのは誰だ。ぼさっと立っているだけで名刺の一つもよこさないなんて。お前、一般常識は大丈夫か? いやいや、それはこっちのセリフだ。俺はようやく覚醒しつつある頭で思った。初対面だというのに挨拶もせず、いきなりお前呼ばわりする奴に一般常識がどうとか言われたくない。
笹川部長、彼は清本氏です。アメリカ本社から特許システムの整備に来てくれて。
ほお。お前がわざわざアメリカ本社から日本まで来て整備とは、随分と仕事熱心だな。おら、さっさと名刺を出さんか。
決して良いとは言えない態度だが、今日から一週間世話になるのだからあまり波風は立てたくない。俺は胸ポケットから名刺を一枚取り出し、両手で持って相田に差し出した。
名刺の渡し方も知らんのか。低学歴のおっさんは、名刺というのは頭を下げて他人に渡すものだ。お前の場合、ほとんど頭を下げていないだろう。つまり俺への敬意が足りんということだ。
なんて強引な理屈だと思ったが、頭をぐっと押され、俺は意図せぬところで体を直角に曲げてしまった。そうだ、そうだ。いいぞ。それで名刺を額より高く掲げて捧げる感じだ。よし。
なんと俺は相田に言われるがまま、名刺を掲げ捧げるようにして渡してしまった。この屈辱感は一体どういうことだろう。
俺と相田のやり取りを笹川は止められず、思いっきり気まずそうな顔をしている。
相田部長、あんまりです。
バカを言うな。俺は礼儀を教えてやったんだ。むしろありがたく思え。
権力がある人間というのはこういうことを言うんだろうな。俺はぽつりと思った。
結局、俺は約三十分にわたり、不条理としか思えない説教をされた。まず名刺の渡し方。いいか、名刺には渡し方ってものがある。常に相手を敬うんだ。そうすりゃ自然と腰も低くなるってもんよ。それはアメリカでは通用しない理屈だ。最近は日本から出張で来る社員も一期会の挨拶もせずにスマートな名刺交換を見せるのだが、どうやら相田は時代の流れに逆らっているようだ。
それから、低学歴というのも雰囲気から分かるのだそうだ。お前は根暗だな。そういう奴は確かに机上の空論を振りかざすのがうまい。なぜなら勉強こそがお友達という寂しい人種だからだ。今度は勝手に根暗扱いかと呆れたが、次に続く言葉でさらに呆れた。そういう人間こそがいわゆる低学歴なんだ。本番に弱いから日頃の勉強の成果を生かせない。見ているだけで気の毒になるレベルだ。
この部長、俺が特許の共同開発者であることを本当に知っているのだろうか。あまりに無能と言われ続けると、本当に無能になってしまいそうで怖かった。
分かりました。
うん。誰が何に対しどう分かって、どうしようとしているんだ。
いえ、あの、俺、今から帰りますから。
すると笹川が必死な様子で俺を止めにかかった。
何言ってるんですか、清本さん。僕にはできない領域もあるんですってば。
だってさあ、笹川。
その先の言葉が続かなかった。下手に相田に話題を振れば、彼の上司である理不尽な説教がまた始まるだろう。
清本さん、早速整備に入りましょう。さあ、ここからは集中力が必要な作業ですよ。相田部長、申し訳ありませんが部屋を完全なサイレントモードにします。
む、そうなのか。そこのお客人にもっと一般常識を教えないとな。
一般常識でしたら、僕が後ほどじっくりお聞きするので。
笹川は相田の背中を押し、半ば無理やり退出させてくれた。
ねえ、笹川。何なの、あの部長。
それは俺の素朴かつ心からの疑問だった。どうやってバーレンテックの日本支社の入社試験に合格できたのだろう。
謎なのは僕らも同じなんですよ、清本さん。でも、一流大学を卒業して有名企業から転職してきたっていう、筋金入りのエリートなんです。
ほら、彼って説教慣れしていると思いませんか? 説教慣れっていうか、説教しかできなさそうだけど、仕事の方はどうなの。やっぱり過去の経歴を生かして切れ者って感じなの? ええ。俺たちは同時に驚いた。なんと笹川は相田のあの理不尽な迫力に飲まれ、彼が本当に実力者かどうかを図るのを自然とやめてしまっていたという。俺は俺で、明らかに彼の能力に疑問を持っているのだが、もしかしたら人間にありがちな偏った能力の持ち主かもしれないと思っていたのだ。
そうですよね。どうして今までちゃんと追求しなかったんでしょう。入社初日からあの調子だったので、みんな自然に心が折られたっていうか。
まあ、そういう間違いって誰にでもあるよ。俺が帰国してから改めて観察してみるといいよ。
そこでばんとドアが開け放たれ、俺も笹川も思いっきり体を揺らした。
おいおい、話し声が外まで聞こえてるぞ。サイレントモードはどうした。大人しくしろ。
す、すみません。
それと、ちらっと聞こえたんだが、特許って金になるんだなあ。
どこに耳がついているのか不思議だった。俺と笹川は相田のことしか話していないのに、なぜ金の話をしていることになっているのだろう。もしかして相田は部長という名の重責にメンタルを病み、聞こえてはいけない声などが耳に入り込んでいるのだろうか。
相田の謎はつきないが、とりあえず一時間ほど作業したところで、俺は宣言通り帰ることにした。俺の分担のところはシステムを走らせたし、あとは定型の整備で問題ないだろう。
オフィスビルを出ようという場面で、受付のその川子が相田と仲良くおしゃべりしているところを目撃した。
あら、清本さん。もうお帰りでしょうか。明日もいらっしゃるのですよね?

いえ、帰国しますよ。ちょっと訳ありでして。
そこまで行って一歩を踏み出したところで、その川子が内緒話よりは少し大きな声でこう言っているのが聞こえた。
相田部長はご存知ないかもしれませんが、あの清本様、部長キラーなんて呼ばれているんですよ。
はあ。
今まで彼に逆らって切られた部長は数知れず。相田部長も気をつけてくださいね。
その川子の話を聞いた相田は顔面蒼白になっていた。
結局、俺はあの日実家に帰り、一泊だけして時差ぼけを解消してから、アメリカへと戻った。
まさし、随分早い帰りじゃないか。給料でも入ったか。
まあ、そんな感じだよ。少し部屋にこもるから、電話や来客でつながないでくれ。
俺はそう言って書斎へ入ると、重厚な木目のデスクの上に小型ラップトップを置いて立ち上げた。そして笹川が整備の間、何か不安を訴えていないかメールをチェックする。あの製品は特許を取っているものなので、原則俺と笹川しか内部構造をいじれない。もし笹川がお手上げとなっていたら、俺がすかさずフォローする必要がある。
おっと、笹川からのメールだ。
俺はゆっくりと椅子に落ち着いてからメールをダブルクリックし、画面上で開いてみた。
はあ。
笹川はとりあえず今回の整備は無事に済んだと教えてくれている。事態はとても喜ばしいことなのだが、問題はその下に書かれていることだった。今、日本支社のシステム開発部は連日深夜まで新製品の開発業務に忙しんでいるという。
クライアントからそういうニーズがあったのではなく、部長の相田がそうしろと命じているとのことだ。無茶苦茶な業務命令だな。理由は何だ。
社員に無理を強いるということは、それなりの理由があるはずなのだが、その理由を読んで目が点になった。今読んだ事実が信じられなくて何度も読み返すのだが、メールの内容が変わることはない。激しく瞬きをした後、俺は頭を抱えた。
相田は特許を取得すれば多額の特許使用料が見込めるという点に着目したのだそうだ。そして、あろうことかシステム開発部社員全員の前でこう言った。
俺は特許で飯が食えるようになりたい。って、誰かが特許を取得する際は俺を共同開発者としろ。なあに、悪いようにはせん。俺の共同開発者には俺と同じ権利を与える。一生楽に過ごせるってことだ。どうだ、すごいだろう。
自分で特許を取ろうと努力するのではなく、他人に開発させて特許使用料収入を得ようとしているのだ。このことを不条理と思う社員は多く、総務と人事を動かしています。
当たり前だ。一体何をやっているんだ、あの相田という男は。本当に彼がエリートなのかどうか、この件で一段と怪しくなった気がした。
その時、エドがドアを二度ほどノックし、顔だけを覗かせてきた。
まさし、電話はつながないでくれと言ったが、笹川さんからの電話だ。内線を使っていたから知らせに来た。
日本でこの内線の存在を知るのは笹川だけ。きっとどうしようもなくなって俺に泣きついてきたのかもしれない。俺は電話を取ると、ふっと息を吐き出しながら口を開いた。
笹川か。どうしたんだ。
メールを見てくれましたか、清本さん。俺、ついに徹夜までして、それでも特許を取れるような製品が作れないって言ったら、一時間も説教されて。これはもはや日本だけの問題として放置すべきことではないでしょう。
支社主導という体制でやっているので、本社が支社のやり方に口を挟むのはあまりいいことではないのだが、社員が体を壊してから動いたのでは何もかもが遅い。
一応聞くが、特許が取れそうな開発をしている社員はいるのか? いるわけないです。あれって狙って取れるものじゃないですし、集中力が下がっている時に仕事をしても成果なんてあるわけないですよ。
笹川の言い分は正しすぎるほどに正しかった。幸い、今は午前九時で日本は夕方の四時頃。つまり就業時間中で、誰もがまだ病んでいないのであれば、皆オフィスにいるはずだ。
笹川、これからアメリカ本社とのビデオ会議を開く。すぐに会議の詳細を送るから、誰にも返事をするな。開発部の面々にはモニターから見られるように設定しろ。
清本さん、ありがとうございます。
礼を言うのはまだ早い。俺たちの言い分を相田が受け入れるか分からないからな。彼はいるんだろう。
笹川は力なく言った。
多分、受付のその川子さんのところで無駄話に興じています。
は? 無駄話? これもシステム開発部の社員の常識で、彼はその川子を完全に狙っているのだそうだ。
それから少し慌ただしい時間を過ごすことになった。まずエドに日本のシステム開発部の現状を伝える。
本当なのか、それは。よくそんな状態で今まで騒ぎが起きなかったものだ。日本人の忍耐力には恐れ入るが、こういう時は黙っていてはいけない。
同感だよ、エド。ぜひ君にCEOとしてビデオ会議に出席してもらいたい。
今、ボードルームを押さえたところだ。もちろん俺も入る。
エドは笑った。
会議の時刻まであと三十分。その間、エドは俺が知っている限りの情報共有を頼むと言って椅子を進めてくれた。
まさし、君は相田の何をどこまで知っている?
俺は初対面で挨拶をした時、名刺交換のやり方が間違っていると指摘されたことについて正直に話した。
何だって。日本にはそんなカルチャーがあるのか。
昔はどうか知らないけど、今は普通だ。必要以上に頭を下げないし、額より高く掲げ持つなんてこともしない。
俺はそれから低学歴のおっさんだと言われたことも話す。エドはなんて暴言なんだとかなりシリアスに受け止めてくれる。笑われた方がまだましだよなとも思うが、俺もこの話題を忠実に表現できるほどの英語力はない。日本人がアメリカンジョークを笑えないのと同じで、アメリカ人も日本人のブラックユーモアが分からないのだ。だから失礼のないよう真剣に捉えることが礼儀とされているし、俺もそんな文化には大いに賛成だ。
他人に説教を垂れるのは結構だが、一つ問題がある。
何だ。
日本で相田を採用する時にリファレンスを取ったかどうかだ。
ああ、リファレンスか。俺もようやく思い立った。リファレンスとは対象者の前職や学校に連絡を入れ、ちゃんと対象者が在籍していたか、肩書きは履歴書にあるものと同じか、そして勤務姿勢や学習態度はどうだったかを問い合わせる仕組みのことである。訴訟大国であるアメリカにおいてはよく使っている制度だが、日系企業における導入実績はまだ少ないと聞いたことがある。
俺はノートに日本語でリファレンスと書いた。そして書斎へ戻り、日本支社の人事部に連絡を入れてみた。急がないと日本の就業時間が終わってしまうので、話す口調も早口になった。
電話に応じてくれたのは人事部長の松田という女性だった。落ち着いた口調で、少し堅苦しい話し方をする人物だ。
松田部長、システム開発部の相田部長のことですが、入社時にリファレンスを取りましたか? いえ、特には。何か問題でも。
日本は今、入社予定者のリファレンス適用に向けて検討中なのだそうだ。本格導入の予定を来春と定めており、今は検討委員会を作って月に二度ほどミーティングで意見を出し合っているのだという。リファレンス案が却下されたり、本格導入前に社風にふさわしくない人物が入社したらどうするんだと思ったが、一旦、感情を抑えることにする。
実施されていないのでしたら、今この電話を切ってすぐにやってください。それから、システム開発部の社員が連日残業していることはご存知ですか? 当然知っているものだと思って聞いたのだが、松田は知らないという。俺は驚かず、むしろなるほどと思った。笹川は全員の残業は秘密裏に行われているとメールに書いていた。そうだ。相田に知られたら、ただじゃ置かないと釘を刺しているためである。今知っているのは人事と総務だけらしいが、知られていることが相田に知れたら、その社員の身が危ないなと思った。
本日、すぐにでも確認してみてください。不当な残業は到底許可できません。
失礼ですが、あなた様はアメリカ本社でどのような地位にいるのでしょうか? そこまで聞いたところで、俺は自分の迂闊さを笑った。ずっと緊張したり腹を立てたりしていたが、この瞬間、表情筋がすっかり元に戻った気がした。
これは失礼いたしました。私は清本正と言います。
それから十分後、俺とエドは揃ってボードルームへと入り、内側から施錠した。室内には重厚な作りの長テーブルがロの字型に置かれており、十脚ほどの黒革張りの椅子が視界に入る。どれも役員が使うものなので、普通の会議室にあるテーブルや椅子とは格が違っていた。
俺は持っていたラップトップをモニターにつなぎ、ミーティングリンクをクリックして日本との回線を開く。画面の向こうにはすでに笹川と相田の姿があった。そしてモニター内に、今ミーティングに参加しているものの名前が見て取れる。二十名近くの名前が並んでいるということは、システム開発部のほぼ全員がこの会議を傍聴していると考えていいだろう。
まさし、通訳を頼めるか?
ああ、任せてくれ。あちらは全員揃っているようだが。
俺はさっき電話で話した人事部長の松田の名前を探したが、まだ入っていないようだ。しかし彼女を待つにも、エドの方に予定があるのであまり長く引き止めるわけにはいかない。俺がうんざりしていると、画面の端に松田の名前が浮かび上がった。
エド、スタートだ。
これを合図に、エドが英語で挨拶を始めた。日本の皆さん、今日は時間を取ってくれてありがとうございます。
よくもこれまで好き勝手やってくれたな。そう思いはしたが、俺はただエドの次の言葉を待った。エドは多分こう言いたかったに違いない。今日は皆さんの就業時間についてお話ししたいことがあります。しかし彼はこの言葉を言えなかった。画面の向こうから相田がわめいてきたからである。
あ、名刺もロクに交換できないやつだ。なんだよお前。営業部か何かか。今度はアメリカにいるのかよ。
受ける。相田はエドがCEOというポジションに立つ人間であることを知らないのか。彼こそがバーレンテック創業者の息子であり、CEOとして世界中の支社に権力を及ぼす人物であると分からないのだろうか。今百歩譲って彼がエドという人間を知らないこととしよう。だが、いくら社内の人間だからと言っても、挨拶もなしに相手を無視して俺を指差し例説を書く日本人だと大声で笑う行為が正しいと胸を張れるのだろうか。
そうだ部長、さっきから何をしているんですか。あちらはアメリカ本社のCEOでいらっしゃいますよ。
松田の顔がアップで画面に映し出される。怒っているせいで厳しい目つきにばかり意識がいくが、普通にしていれば清楚な美人という感じだ。
違いますよ。ていうかあんたは誰だよ。なんで会議に紛れ込んでるんだ? はあ。私の顔までお忘れですか。まあいいです。人事部長の松田です。
松田は相田の入社にあたり、最終面接を行った人物だと聞いた。
一体、相田のどこを評価して入社させたのか。端的に文章にして教えてほしい。
黙りなさい、ミスター相田。
ぴたりと相田の笑いが止まった。エドが真っ赤になって怒っている様子を見て、さすがにまずい状況だと判断したのだろう。
まったく、ミスター相田。君は部長というポジションにあるまじき迷惑な人間だと言うしかないな。
おい、今何て言った? そこのお前、日本人なら大人しく通訳しろ。
だが、そんな相田をよそに、エドがいぶかしむような目を向けてきた。
まさし、君はまさか自分の立場を彼に明かしていないのか? あ、そうだ。忘れていた。相田のあまりに不届きな行動と言動に腹を立てるあまり、自分が何者なのかを彼に伝えていなかった。そうすることを忘れるほど、俺は追い込まれているのだ。
ミスター相田。システム開発部の皆さん、そして人事部長の松田さん。ここにいらっしゃるのは、我が社のトップに君臨する会長だ。
そうだ。清本正だ。
そこで相田は青ざめた。
あ、あれ?
そういえば受付の、その川子さんが部長キラーなんて呼ばれているって。もしかしてこの清本なのか。会長なのに部長キラーなんて呼ばれていていいのか? 相田の怒りの矛先が一体どこに向いているのかはよく分からないが、俺は問われたことにだけ答えることにした。
ちなみに、俺が会長であることはシステム開発部の面々も知らないことだ。さっき過って松田にだけ名乗ったという状況である。俺が会長になったのは来日する三日前のことで、本社のウェブの更新などが間に合っておらず、各国の役員のみにメールで伝えられている。よって、ただの管理職である部長やその下の者たちが知らないのはむしろ当然の反応で、あながち相田の主張は間違っていない。
しかし、部長キラーと呼ばれていることについては真っ向から否定した。
昔、俺と同じ名字の役員が日本にいたと聞く。その方が部長キラーだったということで、俺には関係ない。
それから、今まで善意でエドの言葉を翻訳してきたが、ここからは命令させてもらう。
相田部長、君がエリートだというのなら、この場の通訳を務めなさい。
な、なんだと? ここは日本なんだ。そっちこそ日本語を使え。
世界共通言語は英語だ。
この言葉に相田はようやく大人しくなった。俺としても会長職についてからこんな口調で命令したのは初めてのことだ。まるで時代劇でよく見る命令を振りかざしているみたいだなとも思う。
清本会長、先ほどはお電話で失礼しました。リファレンスの結果が出ましたのでお伝えします。
仕事が早くて助かります。どうぞ教えてください。
俺が促すと、相田はリファレンスって何だと呟いている。知っていて当然とまでは言わないが、せめて言葉の意味くらいは知っておいて欲しかった。
まず、相田部長の学歴は本物でした。三十二年前に現役で一流大学を卒業しておられます。
そう田はリファレンスが学歴を紹介するということなのだと理解したようで、にんまりと笑った。
そうだ。見たか、俺の実力を。俺はな、一流大学卒のエリートなんだ。画面の向こうでひれ伏せ。
しかし、田は少し言いづらそうに、でも、と一段声を低くした。
職歴の方は全くの出たらめです。この三十二年で三社を渡り歩いたと職務経歴書にはありますが、どの会社にも所属していませんでした。
な、何? 相田は立ちのうちに顔を青くした。リファレンスが学歴のみならず職歴まで調べるものだとは思っていなかったらしい。
そ、それはだな。俺がエリートであることを妬んで、どの会社も俺を採用しなかったんだ。
言葉がどんどん尻すぼみになっていく。
そうだ、だが、三十二年間一体何をしていたのか。
その場の関心はもっぱらそこに集まった。その時、松田の電話が着信を告げた。彼女は失礼と短く言って退出し、画面に相田のドアップと、見切れるような位置に笹川の姿が見えた。
笹川、人事を呼んでくれ。俺は短く指示を送った。経歴詐称は就業規則にも明記されているが重罪である。特に日本のようにまだリファレンスを導入していない支社においては、この条項を規則内に置くことが鉄則になっている。すでに相田は顔色を悪くしており、エドは厳しい目を彼に向けている状態だった。
三分ほど沈黙が続いた後、松田が信じられないと言いながらミーティングルームに入室してきた。一体何が信じられないというのだろう。
今、探偵所からの調査結果が届きました。
探偵所なんて使っていたのか、俺は少々驚いて目を丸くした。よくよく聞けば、日本はまだリファレンス未導入ではあるが、管理職の採用については入社後探偵所を使って身辺を調べることにしているそうだ。相田は入社してまだ日が浅く、奇跡のようなタイミングで彼の過去が暴かれたのだという。とてもドラマチックな展開と、人事は無力じゃなかったという思いで少し胸が熱くなった。
それで、どんな結果でしたか?
はい。部長は資産家の息子として育ったそうで、昔からお金には不自由しなかったということです。だから大学卒業後も働く必要性がなくなって、それで。
相田は大学を卒業してから先日バーレンテックに入社するまでの三十二年間、アルバイトすらせずに引きこもり、つまり無職だったという。これを受けて、相田はすっかり俯いた。首の筋肉がおかしくなるんじゃないかと思うほど深くうなだれている。
三十二年もの間無職だった者が、なぜ部長職などに就けたんだ? エドの顔はもう真っ赤で、こんなに興奮した彼を見るのは久しぶりかもしれない。そう田は苦しい言い訳を始めた。
親父の経営してた会社が潰れてからは、働く気が悪くて。毎月の小遣いだけじゃ暮らしていけなくて。
よくよく聞けば、相田は親元から離れ、毎月三十万円ほど送金してもらいながら自堕落に暮らしていたそうだ。しかし二年ほど前に彼の父が勤務する会社の経営が傾き、彼の父はリストラの憂き目にあったという。
怖かった。三十万の送金が徐々に減っていくんだ。そのうち家賃すら払えなくなって、仕方なく働くことにしたんだ。だが社会というものは相田が思うほど甘くはなかった。一流大学を卒業してから三十二年間無職でしたという男を、ぜひうちで働いて欲しいと誘う企業なんてありはしない。仮にそんな企業があるのなら、その会社はどこかのブラックリストに乗っている悪徳企業だと言えるだろう。相田はやむなくして己の経歴を偽った。
さも、IT業界で現場目線から管理職としての立場まで知っているぞと嘘をつき、松田をはじめとする採用担当者を欺いて我が社に入社を果たしたのである。
けど、俺に仕事は向いてなかった。毎日決まった時間拘束されるなんて真っ平ごめんだ。だから特許使用料で食っていけたらって。俺にはスケールの大きい計画があったんだよ。
何とも呆けた物言いではないか。私利私欲のために特許を利用しようとしていたなんて。開発に関わってもいないのに、誰かが取得した特許の書類に共同開発者として名を書かせろだなんて、愚の骨頂だ。
し、この男をどう処分する? うん。ちょっと待ってくれ。笹川、人事の倉島はさっき内戦でミーティングのことを話しましたので、もうログインするかと。
そこで画面に動きがあった。モニターの片隅に人事部長である倉島の顔が映ったのだ。
よう、清。お前会長になったんだってな。おめでとう。それで今日のミーティングについてなんだが。
彼は笹川から連絡をもらってから今まで、他のシステム開発部の社員の中に紛れ込み、話を聞いていたのだという。
その上で、相田部長の処分を言い渡すとね、こうなるね。まず経歴詐称。これは問答無用で即時懲戒解雇でしょう。
倉島は涼しい顔で言った。俺と倉島は同期でよく二人で飲みに行っていたが、酒を飲んでも今と同じ調子である。クールで精神的な乱れがなく、付き合いやすい性格をしている。
特許使用料が欲しいから特許を取らせるべく部下に残業させていた。これは不当な圧力。権力乱用。もちろん懲戒解雇なし。特に重いのは経歴詐称だという。三十二年もの間、無職でありながら三十二年分の実務経験があるように見せてしまった。職歴が一年分違うなどは誤差で済まされるが、三十二年ともなるとそうもいかない。それだけの年数を間違えたなんて、小学生だってやらないミスだろう。
そうか。結局のところ相田部長の場合、何を取っても懲戒解雇にしかならんと。そういうことか。
おお、そういうこと。念のためにこの会議が終わったらデスクで調べ直すし、顧問弁護士にも相談するけど、これを懲戒解雇しない理由は思い当たらないね。
終わった。名刺交換もロクにできない会長に、俺は負けたのか。
そうだ。認める。一生の不覚だ。
このミーティングに参加している誰もが、相田に同情などこれっぽっちもしていなかった。システム開発部の社員の誰かがマイクをオンにしてうせろとぼそっと言っていたのが、なかなかにシュールだなと思った。
お別れの時間だ。
そうだ。俺に勝てなくて残念だったな。
ビデオ会議を終えてからの相田は、これまでの勢いがすっかりなくなり、借りてきた猫のようにとても静かだったという。静かな相田を知らないのでなかなかイメージできないが、少なくとも笹川の目にはちょっと気の毒に写ったそうだ。彼はシステム開発部に戻ることを許されず、会議室から息を潜めて自宅へ帰宅。私物は翌日総務がダンボールに詰め、着払いで彼の自宅へ送ったのだそうだ。
弁護士とも相談したんだけどさ、まあ相談するまでもなかったわ。法律の専門家でも今回の相田の件はアウトだって言ってたよ。
俺はミーティングの翌日、相田がどうなったかについて倉島から電話連絡を受けているところだった。人事内で相田の処分を検討し、弁護士に相談してみたら懲戒解雇一択でしたというわけだ。
実害が出る前に分かってよかったよ。リファレンスって必要だなって思った。というか、今回は完全に人事のファインプレイだ。相田の勢いに押され、無力にも入社させてしまった人事。しかしその後の対応は見事の一言に尽きる。会社にとってより重要な管理職について、あらかじめ探偵所の調査を入れることにしていたとは恐れ入る。
今回のことについては特にな、松田さんには俺からもお礼のメールを入れておくよ。
そうしてやれ。
ところでお前ってなんで会長になったの。バーレン家の後継者にでもなった? いや、完全に成り行きだよ。エドがCEOから降りたくないって言うから、消去法で俺だってわけ。
結構シンプルな理由なんだな。でもまあ、頑張るよ。
エドがCEOに固執するなら、俺がやるしかなかった。将来バーレンテックに特許をもたらし続ける人材として、実務と会長職を兼務できる人材がどうしても必要だったのだ。
相田がバーレンテックを懲戒解雇になってから、早いもので一ヶ月が経過した。システム開発部を追われた彼の虚言はまたたく間に社内に拡散されていった。社内はもちろん、SNSに載せる社員までいる始末で、一時期人事は対応に追われていたという。もちろんバーレンテックの日本支社の公式SNSアカウントも荒れ放題。株主たちもオフィスにまで乗り込んでくる始末で、小前だったらしい。そして中の人である相田はといえば、ここ数日、連日日本支社のオフィス前にて座り込みをし、ハンストをしているのだそうだ。
あのさ、日本の治安ってどうなってんの?
今日俺に泣きついてきたのは、特許システムの共同開発者である笹川だった。昼食をコンビニに買いに行った時、座り込みする相田に足にすがりつかれ、とても怖い思いをしたという。
今日の俺、珍しくブランド物を着てたんですよ。それなのに触られたところに土埃が思いっきりついちゃいました。
被害者は笹川だけではなく、相田をどうにかしてほしいと俺に電話が入ったというわけだ。
悪いこと言わないから警察呼べよ。
さっき倉島部長が呼んでいたんですが。あ、来ました。連行されます。
はあ。かなりやつれているらしいが、屈強な警察官二人に両脇を固められ、半ば引きずられるようにして去っていったという。
でもさ、ハンストなんてして何がしたかったんだ? 俺に特許使用料を横流ししてくれって言ってました。あげませんけど。
散々なことをしておいて、まだ特許使用料をくれと迫るのかと思うと、ちょっと相田が気の毒になった。どうとう金に困ってるんだな。俺に言えるのはそこまでだった。それ以上、彼にかける言葉はなかった。
ロサンゼルス国際空港に見慣れた二人のシルエットが見え始めると、俺は大きく手を振った。
おい、倉島、笹川。
実は今日から一週間、バーレンテックのアメリカ本社でリーガルカンファレンスが開かれるとあって、法務部長の倉島はアメリカ出張を言い渡されていた。また笹川は先日行った整備が不安だということで、新しいシステム開発部長の了承のもとロサンゼルスを訪れたというわけだ。二人の滞在中の滞在先は俺の家で、ソフィアも昨日から料理の仕込みに余念がない。
ああ、体痛い。エコノミーのあのシートどうにかならんのか。俺もう五十代なんだ。勘弁して欲しいわ。
そう言いながら、倉島部長は道中ずっと寝てましたよね。僕、ほとんど眠れなかったのに。
笹川は本当に寝不足のようで、目の下のくまが色濃く浮かび上がっていた。俺としても二人が来てくれたことは素直に嬉しく、少なくとも今日から一週間は存分に日本語が話せるなと笑みがこぼれた。
二人を乗せて車で走ること三十分。ようやく俺とソフィアの家のエリアに入った。場所はサンタモニカの海が見えるところで、もちろん海岸も近い。家の中には打ち寄せる波の音がよく聞こえるし、居心地は悪くないだろう。
そうだ。いやさ、あれから相田がどうなったか知りたい。どうなったの? それを聞いて、倉島が吹き出した。
おいおい倉島。あれは笑い事じゃなかったぞ。危うくお前らの特許が。
なんと相田は俺や笹川に隠れて、俺たちが共同開発した特許を持ち出していたのだという。しかし持ち出したところで、あの特許にどのくらいの価値があってどうすれば金になるかが全く分からなかったのだそうだ。そこで相田が頼ったのが、よく区でやってる無料弁護士相談だった。特許システムを持ち出してどうしたらお金になるのかを、無料相談所に取り次がれた弁護士に相談したのだという。さすが三十二年無職だっただけのことはあり、やることのスケールが俺の予想をはるかに超えている。
倉島さんがこの話を知ったのは奇跡みたいなものなんです。
笹川が後部座席から身を乗り出してくる。
うん。どういう意味? 実は相田さんが相談した弁護士って、うちの顧問弁護士だったんです。当然特許のことも詳しく知っていて。だがそれがあまり良くなかった。弁護士が顧問弁護士でなかったら話は別だったかもしれないが、まさに顧問弁護士であの特許のことをよく知るからこそ、相田は犯罪者にはならず犯罪未遂で終わったのだという。
つかぬことを聞くけどさ、結局相田はバイトとかしてないの?
お前、あいつにバイトとかできると思う? プライドだけはエベレスト級だぜ。
そう言われると、まあ彼にバイトは無理だろうなと思う。上から目線で、プライドが高く、そして物事を決めつけないと気が済まない。こんな三拍子そろった人間なんて、俺が面接官だったら絶対に採用しないだろう。
お、海岸にハンバーガーショップ発見。
海沿いにちょっと寂れた感じのバーガーショップがある。今にも潰れてしまいそうなみすぼらしいプレハブの店だが、知る人ぞ知るこの界隈の名店だ。
じゃあ着いたらハンバーガーでも食うか。
賛成です。お腹空きました。
いいね。ビールも飲んじゃおうかな。
俺たちの、最高に楽しい一週間は、まだ始まったばかりだった。