「妊娠したから、責任を取ってさやと結婚する。結婚記念日に何の冗談?」
私がそう言うと、夫は驚くほどあっさりと返した。
「お前と兄貴には離婚してもらう。理解してくれ」
「理解できないから、詳しく聞きたいんだけど。お姉さんって、さやさんのこと?」
「そうだ」
「実の兄のお嫁さんに手を出したの?」
「そういうことだ」
「何を堂々と肯定してんのよ」
「言い訳したところで事実は変わらないだろう」
「開き直りにも程があるわね」
「そうじゃない。俺は男として責任を取ろうとしてるだけだ」
「それは勝手だけど、まずは私とお兄さんに謝るのが筋じゃないの?」
「すまんな」
「何そのふわふわした謝り方」
「謝れば元に戻れるのか? お腹の中の子が消えるのか? 違うよな。だったら前を向くしかないだろう」
「すごいこと言ってるけど、大丈夫?」
「お前も兄貴とくっつけばいい。似た者同士、傷を舐め合ってるうちに惹かれ合うかもな」
「よくこの状況で冗談が言えるね」
「意外と本気だけどな」
私は何も言えなかった。夫が浮気をしていた。それも、私から見れば最も信頼していた義姉と。しかも妊娠までさせている。
「お前とは疲れてるとか言って、子作りしなかったのに。まさか外で、しかも身内と盛ってたなんてね」
「お前には本能が反応しなかった。それだけだ」
「地味に傷つくわ」
「そういうわけで、離婚するから」
「嘘でしょ? こんな大事な話をLINEで終わらせる気?」
「これ以上話すことある?」
「こうなった以上、り家の親とか呼んでちゃんと話し合いしないとでしょ?」
「ああ、無理無理。絶対にガチ切れされるし。修羅場とか超苦手なんだよ」
「無責任すぎる」
「それも全部わかってて言ってるんだよ。今、新居も探してるから決まったら出てくわ」
「何の責任も取らないつもり?」
「責任ってなんだよ。慰謝料に決まってんでしょ」
「はあ。なんで子供ができたんだよ」
「だから何。これは浮気じゃなくて本気だってことだ。慰謝料なんか発生するかよ」
「マジで言ってる?」
「単なる再婚だからな。当然だろ」
「お姉さんも同じ考えなの?」
「もちろん。俺らは考え方も価値観もよく似てるんだ」
「もういいわ」
私は夫とのやり取りを打ち切り、すぐに義兄に連絡をした。
「お兄さん、ご無沙汰してます。マイカです」
「おお、正月以来だね。どうした?」
「お姉さんから聞いてます」
「お? 何を?」
「あの、なんていうか、込み入った話っていうか」
「ああ、もしかしてさやの妊娠のこと?」
「はい。なんでマイカちゃんが知ってるんだよ。俺も昨日さやから聞いたばかりなのに」
「私は先ほど知ったばかりです」
「あいつ、嬉しくてつい自慢しちゃったのかな」
「あの、もしかして喜んでます?」
「そりゃ嬉しいに決まってるだろう。念願の自分の子供が生まれるんだよ。嬉しくないわけがないでしょう」
「へ? あ、そうだよね。マイカちゃんたちも子作り頑張ってるのに、俺らだけ浮かれちゃって気遣いが足りなかった」
「いえ、そういうんじゃなくて。複雑な心境だってことです。でも、おめでとうございます」
「ありがとう。今日は会社休んで妊婦健診に付き合うんだ。心拍が確認できるかもしれないらしくてさ。なんか緊張するよ」
「そうですか。お忙しいところすみません。順調に育つよう祈ってます」
「ありがとう。準平にもよろしくね」
私は電話を切り、感情を整理しようとした。しかし、どうしても理解できなかった。
その後、私は夫に報告した。
「お兄さんは何も知らなかったわ。むしろ、自分の子ができたって喜んでた」
「は? なんで?」
「しかも今から健診に付き合うらしい。何がどうなってるのよ」
「いや、違う。俺の子だ」
「あなたの言うことが本当なら、お兄さんは騙されてる。でも本当にお兄さんの子だとしたら、騙されてるのはあなたになるわ」
「そんなこと言われても。俺たちは確かに愛し合ったんだ」
「同時なら、いくら女性でもどっちの子かはわからない。答え合わせは生まれてからってことね」
「ふざけんな。さやさんは俺の女だ」
「知らないわよ。私に怒らないで。さやさんに聞いてみたら?」
「さやさんは今、産婦人科のはずだ」
「知ったこっちゃない」
私は夫に背を向けた。すると、その後しばらくして夫がさやさんに電話をかけていた。
「さやさん、どういうことか説明してくれ」
「純平君、どうしたの? 今車で産婦人科に向かってるから、あまりやり取りできないけど」
「お腹の子は誰の子なの?」
「純平君に決まってるでしょ」
「うちのマイカが兄貴と話したら、自分の子供だって言ってたらしいけど」
「ああ。まあそうだろうね。私がそう言ったから」
「俺の子なんだろ。二人で一緒に育てるんだよね?」
「うん。そうだよ」
「じゃあなんで今すぐに離婚しないんだよ」
「あのね、婚姻中に生まれた子は、法的には夫の子ってことになっちゃうの」
「なんで俺の子じゃないんだよ」
「遺伝子の話じゃなくて、法律の話。難しくてわかんないでしょ? じゃあ簡単に言うね。あの人の子供ってことにして離婚する。そして養育費だけもらうの」
「なるほど」
「ちゃんと時期を見てダブル離婚するように持ってくの。その際に、できるだけノーダメージで追われるようにしっかり考えて行動しないと。私と純平君が繋がってることを内緒にしておけば、子供のためにずっとお金を払い続けるわ」
「俺、そこまで考えてなかった。さやさんすごいよ」
「でしょ? だから誰にも言っちゃだめよ」
「ああ」
「何?」
「マイカに行っちゃった」
「はあ」
「さやさんと一緒になれることも、子供ができたことも、全部嬉しくって、つい」
「アホすぎる。これがバレたら、私たちは慰謝料請求されるわ」
「浮気じゃなくて本気なのに」
「そういう問題じゃないの」
「マイカも似たようなこと言ってた」
「しかもDNA鑑定なんてされて、夫の子じゃないと分かれば、養育費だってもらえなくなるのよ。今、夫がマイカちゃんから珍しくLINEが来たって」
「あいつ、すぐに兄貴に連絡したんだ。でもマイカちゃんは何も言わなかったみたい。夫は普段通りだし、怒ってる気配もない。ご機嫌なの」
「なんで言わなかったんだろう」
「きっと、夫が喜んでるのが分かって、言い出せなかったのかも」
「どうしたらいい? マイカがこのまま引き下がるわけないよ」
「私に任せて。健診が終わったらマイカちゃんと話してみる」
「ああ、お願い」
二時間後、さやさんから連絡が来た。
「マイカちゃん、お久しぶり」
「お姉さん、ご無沙汰してます。ご懐妊されたそうですね。おめでとうございます」
「ありがとう。さっき健診行ってきたとこなの。心拍も確認できて、順調に育ってるみたい」
「それは良かったです」
「実はちょっと話があるんだけど。純平のことですよね」
「うん。私にもさっき、早く一緒になろうって連絡があって。困ってたところなの」
「そうなんですか」
「純平君もマイカちゃんも誤解をしてると思うから、ちゃんと説明させて」
「はい。私も本当のことが知りたいです」
「お腹の子は、夫の子よ」
「本当ですか?」
「うん。間違いない」
「じゃあなんで純平は俺の子だと主張してるんですか?」
「少し前に純平君がうちに遊びに来て、酔いつぶれて泊まっていったことがあったわよね」
「はい。朝迎えに行きましたから、よく覚えてます」
「その時、和室に布団を敷いてあげてたら、突然襲ってきたの。必死で抵抗したけど、酔ってるとはいえ力が強くって。それでそのまま最後までってことですか?」
「うん。何もしてない。数秒後には純平君は寝ちゃったの」
「確かに飲んだらすぐ寝ちゃいますけど」
「それで次の朝、純平君が謝ってきたのよ。兄貴の嫁さんに手を出してすみません。妊娠してたら必ず責任取りますからって。本人は最後までしたと思ってるってことですか?」
「そうみたい」
「なぜ否定しないんです?」
「気まずくなって、うちに来なくなると思ったから」
「どういう意味でしょう?」
「純平君が私に好意を寄せてるのは気づいてた。でも夫の弟だから、邪険に扱うこともできなかったの。でもおかしくないですか? 遠ざけたつもりが、純平はお姉さんとの再婚の計画まで立てて、浮かれてますよ。それが計算違いだったわ」
「落ち着いたら本気で話をして、二度と関わらないように伝えるつもりよ。お姉さんの話は分かりました。でも私の疑いは晴れません。DNA鑑定をしてください。生まれてからならいいわよ」
「さっき調べたら、母体の血液でも九十九パーセントの精度で父親かを判別できるそうです」
「悪いけど、母体に負担のかかることはしたくないの」
「血液検査だけですよ。健診でもやることでしょう」
「分かった。そこまで言うなら別に検査してもいいけど。夫の子じゃない可能性があると言って彼を傷つけた場合、あなたは責任を取れるの? え? 検査結果が出るまで、彼は疑心暗鬼になるわ。一度亀裂が入ったら修復は難しいかもしれない。せっかく私たち夫婦は愛し合っていて子供まで授かったっていうのに、あえて傷つけるの?」
「そこまでの意図はありませんが、私はただ本当のことが知りたいだけなんです」
「純平君に今私が言ったことを全部話せばいいわ」
「いいんですか?」
「もちろんよ。その上で、夫に全部話すか考えて」
「分かりました」
その後、私は夫にさやさんとの会話を伝えた。夫は難しい顔をしたまま、しばらく黙り込んだ。
「そうか。全部純平の勘違いだって言ってるけど」
「そうみたいだな。あの夜は酔ってたし覚えてなくて。俺は完全にやったつもりでいたんだけど」
「そんな曖昧な記憶で、子供ができたと聞いて俺が責任を取るなんて発想に至ったか。至ってしまったな」
「納得いかない」
「どこがだよ。あなたは愛し合ってると言ったでしょ」
「そうだっけ?」
「お姉さんは完全に二人の関係を否定したわ」
「さやさんの言うことが正しいんだよ」
「話を合わせたの? 何が?」
「お姉さんの方針に、あなたが合わせたように見える」
「それはお前の思い込みだろ」
「だったらいいんだけど。一つだけ事実があるよね。あなたはお姉さんが好きなんでしょ?」
「それはまあ、ちょっとした憧れっていうか、兄貴のものを欲しくなる癖っていうか」
「何それ?」
「昔から兄貴が持ってるものは全部よく見えたんだ。自転車も服も髪型も全部真似してきて。まさか奥さんまで羨ましく見えるとは思わなかったよ」
「そうだったんだね」
「でもさ、もう私に愛情がないなら離婚しよう。なんでだよ」
「他の人を思ってるあなたを、もう愛せないよ」
「だから違うんだって」
「自分がさっき離婚しようって言ったんでしょ」
「だから俺が間違ってたんだって」
「あなたとお姉さんの間に何があったかなんて証明もできないし。私はこのまま泣き寝入りするしかないのかもしれない。ただ、もし今回の話が全て嘘だった時は、それ相応の報いを受けると思ってた方がいいよ」
「俺は潔白だ。さやさんの言うことが全てだよ」
「ならいいわ。離婚の手続きはまた連絡する。私は実家に帰るから。さようなら」
「おい、マイカ、待ってくれよ。ちゃんと話し合おう」
私はそのまま車に乗り込み、実家へ向かった。
数日後、私は義兄にメッセージを送った。
「お兄さん、怒るのを覚悟でお伝えしておきます。お姉さんのお腹の子は、純平の子かもしれません」
「は? なんてことを言うんだよ。証拠もない状況で言うのは迷いました。ただ、後からなんで教えてくれなかったんだよって言われたくなかったので」
「マイカちゃん、これはあんまりだ。いくら悔しいからって、こんな風に人の幸せを壊そうとするのは違うんじゃないかな。がっかりだよ。俺は妻を信じてる。お腹の子は間違いなく俺の子だ」
「そうですよね。本当にすみませんでした」
「二度とこういうことは言わないでくれ」
「水を差すようなことをしてごめんなさい」
「大丈夫だよ。じゃあまたね」
それから一年後、義兄から連絡が来た。
「マイカちゃん。弟と離婚したってのに、俺なんかが連絡しても迷惑だと思うけど、ちょっと相談があるんだ」
「お兄さん、お久しぶりです。何があったんですか?」
「純平がうちに入り浸ってて困ってるんだよ」
「え、なんでお兄さんの家に?」
「娘が生まれてからずっとなんだ。メイコが可愛くて仕方ないとは言ってるが、頻度も可愛がり方も異常なくらいでさ」
「そっか、もう一年経つんですもんね。遅くなりましたが、ご出産おめでとうございます」
「ありがとう。今は二ヶ月になったよ。女の子なんですね。どちらに似てるんだろう?」
「それが弟の方によく似てさ。母方の血を引いたんだねって、みんな言ってる。自分の似て可愛いから通い詰めてるってことでしょうか」
「うーん。なんかそれだけじゃない気がするんだよな。遊びに来た時は娘を抱っこしたまま手放さないし。さやも別にそれを嫌がってる様子もない。でもお兄さんは嫌なんですね」
「そりゃね、俺より弟になつくようになったら悲しいだろ」
「そうですね。それで思い出したんだ。マイカちゃんが一年前に俺に言ったこと。あの時は突っぱねてしまったけど、なぜそう思ったのか詳しく聞かせてくれないかな」
「LINEでできることじゃありません。どこかファミレスとかでいいので、お時間取れませんか?」
「十四時なら大丈夫だ」
「そっちだと人の目もあるので、うちの実家の近くまで来れますか?」
「分かった。近くに着いたら連絡するよ」
数日後、私たちは駅前の喫茶店で落ち合った。私は義兄に、あの日さやさんから聞いた話をすべて話した。義兄は黙って聞いていたが、最後にこう言った。
「あの女は、俺とマイカちゃんをここまで苦しめたことを、一生かけてでも償ってもらうからな」
「お願い、許して。私は悪くないの。全部純平君のせいなのよ」
「汚い女だな。俺はこんなやつを一生守ろうと思ってたのかと思うと、目眩がするよ」
その三ヶ月後、義兄はさやさんに離婚を突きつけた。マンションの賃貸契約を解約し、さやさんには出て行くよう伝えた。
「今月末までに退去してくれ」
「は? 何の話?」
「そのままの意味だが」
「引っ越しなんて急すぎる。新しい家はどこなの?」
「さあ。俺は決まってるけど、君の新居は知らない」
「どういうこと? 別々に暮らすっていうの?」
「そうなるな。俺は先に出るけど、期限まではいていいから」
「ちょっと待ってよ。五ヶ月の娘を連れて引っ越しなんて無理よ。そもそも急にこんなこと言うなんておかしいでしょ。ちゃんと説明して」
「自分が一番分かってんだろ」
「何のこと?」
「ふざけやがって。二人で俺を嘲けて楽しかったか? 毎日のように純平が仕掛けてきて、俺は迷惑だったけど、お前は嬉しそうだったよな。あれはなんでだ?」
「自分でも分かってんだろ?」
「いや、違うの。何か誤解してる」
「ああ、じゃあ教えてくれよ」
「確かに純平君は私に好意を持ってると思う。直接言われたこともあるわ。でも断ったの」
「好意を寄せてると分かってるやつを毎回招き入れてたのか」
「だって毎日来るから」
「俺が仕事から帰ったらすでに。お前がオートロックを解除しなければ、あいつは入れないはずだけどな」
「だってあなたの弟よ。帰れだなんて言えないでしょ」
「言い訳はそのくらいでいいか」
「これが事実よ」
「そうやってお前が言い逃れするのは分かってたから、九州出張の間探偵をつけてたんだ。あれだけ純平が来ても入れるなと釘を刺したのに。お前は毎日、家に入れてたな」
「家に入れたから何? 別に何も後ろめたいことはしてないわよ」
「ベビーベッドにつけてある見守りカメラは、俺も外出先からアクセスできるんだぞ。お前らの楽しそうな声が聞こえたよ」
さやさんの顔色が変わる。私は黙って、緑色の書類を一枚差し出した。
「小春は本当に俺の娘か?」
「もちろんよ。小春の顔なんか、あなたにそっくりじゃない」
「じゃあ、この鑑定が間違ってるのかな?」
「鑑定って? まさか?」
「そうだ。DNA鑑定だよ。俺と小春に父子関係はない」
「最低。母親に黙ってそんなことするなんて。小春に何かあったらどうしてくれるのよ」
「心配するな。綿棒で口の中をくるくるしただけだ。ニコニコ笑って採取させてくれたぞ」
「信じられない」
「九十九・九パーセント、俺の子ではないという判定が出たんだけど、説明してもらっていいかな?」
「もう一度鑑定しましょう。きっと間違えてるのよ。今度は私が検査に出すわ」
「何度やっても同じだ。違う。私は浮気なんてしてない。じゃあなんでお前から生まれた子が俺の子じゃない?」
「えっと、私は純平君に襲われたの。酔っ払ってた時に」
「だとしてもお前は酒が飲めないし、大声で俺に助けを求めればよかったよな」
「兄弟の仲を壊したくなかったのよ」
「結果的に壊してんだろうがよ。もう二度と純平を許せないし、会うこともないだろう。お前らのどっちが先に行動を起こしたか知らないし、興味もないよ。でもな、俺とマイカちゃんをここまで苦しめたことは、一生かけてでも償ってもらうからな」
「お願い。許して。私は悪くないの。全部純平君のせいなのよ」
「汚い女だな。俺はこんなやつを一生守ろうと思ってたのかと思うと、目眩がするよ。弟に寝取られて一年以上気づかない自分には日がないの? なんだそれ? 俺が悪いって言うのか?」
「責任の一端があるんじゃないかって言ってるの」
「これ以上話したくない。あとは弁護士を通してくれ」
「ちょっと待ってよ」
さやさんはそう言って私の腕を掴もうとしたが、私は振り払った。
数分後、私はさやさんに電話をかけていた。
「離婚して一年も経つくせに、今更何の用?」
「さやさん、ご無沙汰してます。あなたでしょ? 夫をその気にしたのは」
「相談されたので、知ってることを話しただけですが。今日は随分とご機嫌斜めですね。何かありました?」
「あなたのせいで養育費ATMを失ったのよ。そりゃイライラもするでしょ」
「お兄さんのことをそんな風に言うのは良くないですね」
「何よ。あの人に惚れたの?」
「そんなわけないじゃないですか。ただ、誰よりも気持ちが分かる同士ではありますね」
「あなたでしょ。DNA鑑定なんてその気にしたのは」
「ええ、元夫の幸せを壊して楽しいです」
「はい。楽しいです」
「サイコパスね」
「そう言われても仕方ありませんが、あなたには言われたくないですね。私は他人の子を夫に養わせようなんて発想は持ち合わせてませんから」
「何よ。他人になったからって随分強気ね」
「そうじゃありません。人の夫に手を出したクズに気を使う必要なんてないと思ってるだけですよ」
「負け惜しみにしか感じられないけど」
「あら、あなたは私に勝ったと思ってるんですか?」
「当然でしょ。私は愛する人と可愛い娘と生きていくのよ。たった三人で誰の助けも借りずに」
「何言ってんのよ。うちの両親は味方よ。孫も可愛がってくれてるし、しばらくは実家に住むわ」
「残念ですが、あなたたちは見放されます。あなたのご両親はお兄さん側に着きました」
「は? ありえない。孫に会えなくなってもいいわけ?」
「はい。そうみたいです。夫婦の間に生まれた子じゃないなら認めないそうです」
「そんなはずない。父なんて孫にメロメロなのよ。人として正しい決断をされたんだと思います。ご両親だけじゃないですよ。ご兄弟、ご親族全てです。今後一切さやさんからの連絡は対応するなと通達済みだそうです」
「ひどい。ひどすぎるわ」
「ひどいのは誰なんでしょうね。お兄さんは妊娠期間の十ヶ月間、子供の成長とあなたの無事だけを祈って支えてきてくれたはずです。それを裏切ったあなたが私には一番ひどい人に見えますよ」
「だって純平が口説いてくるからいけないのよ。あなたがちゃんと捕まえておかないから、私に魅力を感じてしまったんでしょ」
「その理屈が通るなら、この世の浮気された妻たちは、自分に魅力がないと認めないといけませんね。いいえ、違います。人のものに手を出してはいけないという幼稚園で習うような最低限のことすらできない大人が、こうやって大人になって平気で人を傷つけるんです」
「悪かったわよ。純平はあなたに返すから」
「いりませんよ。どうぞ引き続きお使いください。では失礼します」
そう言って私は電話を切った。
二ヶ月後。
「全部終わりだ」
「今更何よ。さやさんと娘と仲良くやってるんじゃないの?」
純平は笑った。しかしその顔は、どこか疲れていた。
「とんでもない。小春は俺の娘じゃなかったんだ」
「はあ?」
「俺も最初は、人のところが俺に似てると思ってた。でもふと思ったんだ。もし俺の子じゃなかったらって。DNA鑑定をしたら、父子関係が否定された」
「あの女、すごいわね」
「不思議なもんだよな。自分の子じゃないと分かった途端、一気に愛情が覚めたんだ。結局誰の子だったのよ」
「それが分からないらしい」
「ありえない。あの人、そんなに遊んでたの?」
「みたいだな」
「まあ弟に手を出すような節操のない人だから、全然不思議ではないけど」
「我ながら見る目のなさにうんざりする」
「それで、小春を捨てて自分だけ逃げたってこと?」
「なんと言われようと俺は後悔してない。俺の給料じゃ小さいアパートしか借りられなくて、それにも文句ばかり言われてたし。遅かれ早かれ終わる運命だったんだよ」
「何ふざけたこと言ってんの? あれだけ周りを巻き込んで不幸にしておいて、遅かれ早かれ終わってた? 冗談じゃないわよ」
「ごめん。別にどうでもいいけど、早く慰謝料払ってよ」
「できれば分割にしてくれないかな?」
「無理。振り込みのためにあんたのことを思い出したくないの。だから借金してでも一括で払って」
「じゃあ親に借りるか。どうせ今から帰るし、父さんに聞いてみるよ」
「何言ってんの? 親族全員ガチ切れだよ。あんたに手を差し伸べる人はいないし、おそらく電話も通じないと思うけど」
「嘘だろ。なんで? 自覚がないのが怖いわ。俺だって騙された被害者なんだぞ」
「それが本当なら誰かが助けてくれるんじゃない? 今母さんに電話してるんだけど、話中だ」
「それ、着信拒否ね。引っ越しで金を使って手持ちがない。実家に入れてもらえないならどうすりゃいいんだ?」
「大事に育ててくれたご両親も、たった一人のお兄様も、お年玉をくれていたおじさんも従姉妹たちも、全部二度と会うことはできないのよ。実は会社もリストラに遭ってしまって、バイトで食いつないでるんだ」
「へえ。一晩でいいから泊めてくれないかな? 今どこに住んでるの? 住所教えてよ」
「よりによって私に頼む? 今となっては頼れる人はマイカしかいないから」
「アホなの? 顔も見たくないやつを泊めるわけがないでしょ」
「そう言わずに泊めてくれよ。元夫婦じゃん。なんならよりを戻してやってもいいぜ」
「あんまり人を舐めんじゃないよ。あんたたちのせいでどれだけの人が苦しんだと思ってんのよ」
「ごめん。そんな謝罪はいらないから、目に見えるお金にして私とお兄さんに示しなさい」
「兄貴にも俺、金なんかないよ」
「ないなら働くんだよ。このボケカス」
「ひどいよ。涙が出てきた」
「泣いてる暇はない。働け」
その後、義兄はさやさんに五百万の慰謝料請求をした。出産や育児にかかった費用も含めた額だ。満額は無理かもしれないが、相当な額だ。そして私は純平に二百万を請求し、彼は借金して一括で払った。
純平は今、建設業で働き、夜は副業をしながら返済に追われる日々を送っている。さやも純平も、全ての親族に見放され、友達も遠ざかっていった。父親が分からないので、誰からも養育費をもらえないさやは、子供を保育園に入れ、昼間は食品工場、夜はパチンコ屋の清掃をしている。一応、子供のことはちゃんと育てているようで、そこは腐っても母親だ。
義兄も私も、やっと区切りをつけて前を向いている。義兄は、早く両親に本当の孫を見せたいと笑って話してくれた。私も、両親に幸せな報告ができるように、人生を楽しみたい。あの日に流した涙が、いつか笑顔に変わる日「妊娠したから、責任を取ってさやと結婚する。結婚記念日に何の冗談?」
私がそう言うと、夫は驚くほどあっさりと返した。
「お前と兄貴には離婚してもらう。理解してくれ」
「理解できないから、詳しく聞きたいんだけど。お姉さんって、さやさんのこと?」
「そうだ」
「実の兄のお嫁さんに手を出したの?」
「そういうことだ」
「何を堂々と肯定してんのよ」
「言い訳したところで事実は変わらないだろう」
「開き直りにも程があるわね」
「そうじゃない。俺は男として責任を取ろうとしてるだけだ」
「それは勝手だけど、まずは私とお兄さんに謝るのが筋じゃないの?」
「すまんな」
「何そのふわふわした謝り方」
「謝れば元に戻れるのか? お腹の中の子が消えるのか? 違うよな。だったら前を向くしかないだろう」
「すごいこと言ってるけど、大丈夫?」
「お前も兄貴とくっつけばいい。似た者同士、傷を舐め合ってるうちに惹かれ合うかもな」
「よくこの状況で冗談が言えるね」
「意外と本気だけどな」
私は何も言えなかった。夫が浮気をしていた。それも、私から見れば最も信頼していた義姉と。しかも妊娠までさせている。
「お前とは疲れてるとか言って、子作りしなかったのに。まさか外で、しかも身内と盛ってたなんてね」
「お前には本能が反応しなかった。それだけだ」
「地味に傷つくわ」
「そういうわけで、離婚するから」
「嘘でしょ? こんな大事な話をLINEで終わらせる気?」
「これ以上話すことある?」
「こうなった以上、り家の親とか呼んでちゃんと話し合いしないとでしょ?」
「ああ、無理無理。絶対にガチ切れされるし。修羅場とか超苦手なんだよ」
「無責任すぎる」
「それも全部わかってて言ってるんだよ。今、新居も探してるから決まったら出てくわ」
「何の責任も取らないつもり?」
「責任ってなんだよ。慰謝料に決まってんでしょ」
「はあ。なんで子供ができたんだよ」
「だから何。これは浮気じゃなくて本気だってことだ。慰謝料なんか発生するかよ」
「マジで言ってる?」
「単なる再婚だからな。当然だろ」
「お姉さんも同じ考えなの?」
「もちろん。俺らは考え方も価値観もよく似てるんだ」
「もういいわ」
私は夫とのやり取りを打ち切り、すぐに義兄に連絡をした。
「お兄さん、ご無沙汰してます。マイカです」
「おお、正月以来だね。どうした?」
「お姉さんから聞いてます」
「お? 何を?」
「あの、なんていうか、込み入った話っていうか」
「ああ、もしかしてさやの妊娠のこと?」
「はい。なんでマイカちゃんが知ってるんだよ。俺も昨日さやから聞いたばかりなのに」
「私は先ほど知ったばかりです」
「あいつ、嬉しくてつい自慢しちゃったのかな」
「あの、もしかして喜んでます?」
「そりゃ嬉しいに決まってるだろう。念願の自分の子供が生まれるんだよ。嬉しくないわけがないでしょう」
「へ? あ、そうだよね。マイカちゃんたちも子作り頑張ってるのに、俺らだけ浮かれちゃって気遣いが足りなかった」
「いえ、そういうんじゃなくて。複雑な心境だってことです。でも、おめでとうございます」
「ありがとう。今日は会社休んで妊婦健診に付き合うんだ。心拍が確認できるかもしれないらしくてさ。なんか緊張するよ」
「そうですか。お忙しいところすみません。順調に育つよう祈ってます」
「ありがとう。準平にもよろしくね」
私は電話を切り、感情を整理しようとした。しかし、どうしても理解できなかった。
その後、私は夫に報告した。
「お兄さんは何も知らなかったわ。むしろ、自分の子ができたって喜んでた」
「は? なんで?」
「しかも今から健診に付き合うらしい。何がどうなってるのよ」
「いや、違う。俺の子だ」
「あなたの言うことが本当なら、お兄さんは騙されてる。でも本当にお兄さんの子だとしたら、騙されてるのはあなたになるわ」
「そんなこと言われても。俺たちは確かに愛し合ったんだ」
「同時なら、いくら女性でもどっちの子かはわからない。答え合わせは生まれてからってことね」
「ふざけんな。さやさんは俺の女だ」
「知らないわよ。私に怒らないで。さやさんに聞いてみたら?」
「さやさんは今、産婦人科のはずだ」
「知ったこっちゃない」
私は夫に背を向けた。すると、その後しばらくして夫がさやさんに電話をかけていた。
「さやさん、どういうことか説明してくれ」
「純平君、どうしたの? 今車で産婦人科に向かってるから、あまりやり取りできないけど」
「お腹の子は誰の子なの?」
「純平君に決まってるでしょ」
「うちのマイカが兄貴と話したら、自分の子供だって言ってたらしいけど」
「ああ。まあそうだろうね。私がそう言ったから」
「俺の子なんだろ。二人で一緒に育てるんだよね?」
「うん。そうだよ」
「じゃあなんで今すぐに離婚しないんだよ」
「あのね、婚姻中に生まれた子は、法的には夫の子ってことになっちゃうの」
「なんで俺の子じゃないんだよ」
「遺伝子の話じゃなくて、法律の話。難しくてわかんないでしょ? じゃあ簡単に言うね。あの人の子供ってことにして離婚する。そして養育費だけもらうの」
「なるほど」
「ちゃんと時期を見てダブル離婚するように持ってくの。その際に、できるだけノーダメージで追われるようにしっかり考えて行動しないと。私と純平君が繋がってることを内緒にしておけば、子供のためにずっとお金を払い続けるわ」
「俺、そこまで考えてなかった。さやさんすごいよ」
「でしょ? だから誰にも言っちゃだめよ」
「ああ」
「何?」
「マイカに行っちゃった」
「はあ」
「さやさんと一緒になれることも、子供ができたことも、全部嬉しくって、つい」
「アホすぎる。これがバレたら、私たちは慰謝料請求されるわ」
「浮気じゃなくて本気なのに」
「そういう問題じゃないの」
「マイカも似たようなこと言ってた」
「しかもDNA鑑定なんてされて、夫の子じゃないと分かれば、養育費だってもらえなくなるのよ。今、夫がマイカちゃんから珍しくLINEが来たって」
「あいつ、すぐに兄貴に連絡したんだ。でもマイカちゃんは何も言わなかったみたい。夫は普段通りだし、怒ってる気配もない。ご機嫌なの」
「なんで言わなかったんだろう」
「きっと、夫が喜んでるのが分かって、言い出せなかったのかも」
「どうしたらいい? マイカがこのまま引き下がるわけないよ」
「私に任せて。健診が終わったらマイカちゃんと話してみる」
「ああ、お願い」
二時間後、さやさんから連絡が来た。
「マイカちゃん、お久しぶり」
「お姉さん、ご無沙汰してます。ご懐妊されたそうですね。おめでとうございます」
「ありがとう。さっき健診行ってきたとこなの。心拍も確認できて、順調に育ってるみたい」
「それは良かったです」
「実はちょっと話があるんだけど。純平のことですよね」
「うん。私にもさっき、早く一緒になろうって連絡があって。困ってたところなの」
「そうなんですか」
「純平君もマイカちゃんも誤解をしてると思うから、ちゃんと説明させて」
「はい。私も本当のことが知りたいです」
「お腹の子は、夫の子よ」
「本当ですか?」
「うん。間違いない」
「じゃあなんで純平は俺の子だと主張してるんですか?」
「少し前に純平君がうちに遊びに来て、酔いつぶれて泊まっていったことがあったわよね」
「はい。朝迎えに行きましたから、よく覚えてます」
「その時、和室に布団を敷いてあげてたら、突然襲ってきたの。必死で抵抗したけど、酔ってるとはいえ力が強くって。それでそのまま最後までってことですか?」
「うん。何もしてない。数秒後には純平君は寝ちゃったの」
「確かに飲んだらすぐ寝ちゃいますけど」
「それで次の朝、純平君が謝ってきたのよ。兄貴の嫁さんに手を出してすみません。妊娠してたら必ず責任取りますからって。本人は最後までしたと思ってるってことですか?」
「そうみたい」
「なぜ否定しないんです?」
「気まずくなって、うちに来なくなると思ったから」
「どういう意味でしょう?」
「純平君が私に好意を寄せてるのは気づいてた。でも夫の弟だから、邪険に扱うこともできなかったの。でもおかしくないですか? 遠ざけたつもりが、純平はお姉さんとの再婚の計画まで立てて、浮かれてますよ。それが計算違いだったわ」
「落ち着いたら本気で話をして、二度と関わらないように伝えるつもりよ。お姉さんの話は分かりました。でも私の疑いは晴れません。DNA鑑定をしてください。生まれてからならいいわよ」
「さっき調べたら、母体の血液でも九十九パーセントの精度で父親かを判別できるそうです」
「悪いけど、母体に負担のかかることはしたくないの」
「血液検査だけですよ。健診でもやることでしょう」
「分かった。そこまで言うなら別に検査してもいいけど。夫の子じゃない可能性があると言って彼を傷つけた場合、あなたは責任を取れるの? え? 検査結果が出るまで、彼は疑心暗鬼になるわ。一度亀裂が入ったら修復は難しいかもしれない。せっかく私たち夫婦は愛し合っていて子供まで授かったっていうのに、あえて傷つけるの?」
「そこまでの意図はありませんが、私はただ本当のことが知りたいだけなんです」
「純平君に今私が言ったことを全部話せばいいわ」
「いいんですか?」
「もちろんよ。その上で、夫に全部話すか考えて」
「分かりました」
その後、私は夫にさやさんとの会話を伝えた。夫は難しい顔をしたまま、しばらく黙り込んだ。
「そうか。全部純平の勘違いだって言ってるけど」
「そうみたいだな。あの夜は酔ってたし覚えてなくて。俺は完全にやったつもりでいたんだけど」
「そんな曖昧な記憶で、子供ができたと聞いて俺が責任を取るなんて発想に至ったか。至ってしまったな」
「納得いかない」
「どこがだよ。あなたは愛し合ってると言ったでしょ」
「そうだっけ?」
「お姉さんは完全に二人の関係を否定したわ」
「さやさんの言うことが正しいんだよ」
「話を合わせたの? 何が?」
「お姉さんの方針に、あなたが合わせたように見える」
「それはお前の思い込みだろ」
「だったらいいんだけど。一つだけ事実があるよね。あなたはお姉さんが好きなんでしょ?」
「それはまあ、ちょっとした憧れっていうか、兄貴のものを欲しくなる癖っていうか」
「何それ?」
「昔から兄貴が持ってるものは全部よく見えたんだ。自転車も服も髪型も全部真似してきて。まさか奥さんまで羨ましく見えるとは思わなかったよ」
「そうだったんだね」
「でもさ、もう私に愛情がないなら離婚しよう。なんでだよ」
「他の人を思ってるあなたを、もう愛せないよ」
「だから違うんだって」
「自分がさっき離婚しようって言ったんでしょ」
「だから俺が間違ってたんだって」
「あなたとお姉さんの間に何があったかなんて証明もできないし。私はこのまま泣き寝入りするしかないのかもしれない。ただ、もし今回の話が全て嘘だった時は、それ相応の報いを受けると思ってた方がいいよ」
「俺は潔白だ。さやさんの言うことが全てだよ」
「ならいいわ。離婚の手続きはまた連絡する。私は実家に帰るから。さようなら」
「おい、マイカ、待ってくれよ。ちゃんと話し合おう」
私はそのまま車に乗り込み、実家へ向かった。
数日後、私は義兄にメッセージを送った。
「お兄さん、怒るのを覚悟でお伝えしておきます。お姉さんのお腹の子は、純平の子かもしれません」
「は? なんてことを言うんだよ。証拠もない状況で言うのは迷いました。ただ、後からなんで教えてくれなかったんだよって言われたくなかったので」
「マイカちゃん、これはあんまりだ。いくら悔しいからって、こんな風に人の幸せを壊そうとするのは違うんじゃないかな。がっかりだよ。俺は妻を信じてる。お腹の子は間違いなく俺の子だ」
「そうですよね。本当にすみませんでした」
「二度とこういうことは言わないでくれ」
「水を差すようなことをしてごめんなさい」
「大丈夫だよ。じゃあまたね」
それから一年後、義兄から連絡が来た。
「マイカちゃん。弟と離婚したってのに、俺なんかが連絡しても迷惑だと思うけど、ちょっと相談があるんだ」
「お兄さん、お久しぶりです。何があったんですか?」
「純平がうちに入り浸ってて困ってるんだよ」
「え、なんでお兄さんの家に?」
「娘が生まれてからずっとなんだ。メイコが可愛くて仕方ないとは言ってるが、頻度も可愛がり方も異常なくらいでさ」
「そっか、もう一年経つんですもんね。遅くなりましたが、ご出産おめでとうございます」
「ありがとう。今は二ヶ月になったよ。女の子なんですね。どちらに似てるんだろう?」
「それが弟の方によく似てさ。母方の血を引いたんだねって、みんな言ってる。自分の似て可愛いから通い詰めてるってことでしょうか」
「うーん。なんかそれだけじゃない気がするんだよな。遊びに来た時は娘を抱っこしたまま手放さないし。さやも別にそれを嫌がってる様子もない。でもお兄さんは嫌なんですね」
「そりゃね、俺より弟になつくようになったら悲しいだろ」
「そうですね。それで思い出したんだ。マイカちゃんが一年前に俺に言ったこと。あの時は突っぱねてしまったけど、なぜそう思ったのか詳しく聞かせてくれないかな」
「LINEでできることじゃありません。どこかファミレスとかでいいので、お時間取れますか?」
「十四時なら大丈夫だ」
「そっちだと人の目もあるので、うちの実家の近くまで来れますか?」
「分かった。近くに着いたら連絡するよ」
数日後、私たちは駅前の喫茶店で落ち合った。私は義兄に、あの日さやさんから聞いた話をすべて話した。義兄は黙って聞いていたが、最後にこう言った。
「あの女は、俺とマイカちゃんをここまで苦しめたことを、一生かけてでも償ってもらうからな」
「お願い、許して。私は悪くないの。全部純平君のせいなのよ」
「汚い女だな。俺はこんなやつを一生守ろうと思ってたのかと思うと、目眩がするよ。弟に寝取られて一年以上気づかない自分には日がないの? なんだそれ? 俺が悪いって言うのか?」
「責任の一端があるんじゃないかって言ってるの」
「これ以上話したくない。あとは弁護士を通してくれ」
「ちょっと待ってよ」
さやさんはそう言って私の腕を掴もうとしたが、私は振り払った。
数分後、私はさやさんに電話をかけていた。
「離婚して一年も経つくせに、今更何の用?」
「さやさん、ご無沙汰してます。あなたでしょ? 夫をその気にしたのは」
「相談されたので、知ってることを話しただけですが。今日は随分とご機嫌斜めですね。何かありました?」
「あなたのせいで養育費ATMを失ったのよ。そりゃイライラもするでしょ」
「お兄さんのことをそんな風に言うのは良くないですね」
「何よ。あの人に惚れたの?」
「そんなわけないじゃないですか。ただ、誰よりも気持ちが分かる同士ではありますね」
「あなたでしょ。DNA鑑定なんてその気にしたのは」
「ええ、元夫の幸せを壊して楽しいです」
「はい。楽しいです」
「サイコパスね」
「そう言われても仕方ありませんが、あなたには言われたくないですね。私は他人の子を夫に養わせようなんて発想は持ち合わせてませんから」
「何よ。他人になったからって随分強気ね」
「そうじゃありません。人の夫に手を出したクズに気を使う必要なんてないと思ってるだけですよ」
「負け惜しみにしか感じられないけど」
「あら、あなたは私に勝ったと思ってるんですか?」
「当然でしょ。私は愛する人と可愛い娘と生きていくのよ。たった三人で誰の助けも借りずに」
「何言ってんのよ。うちの両親は味方よ。孫も可愛がってくれてるし、しばらくは実家に住むわ」
「残念ですが、あなたたちは見放されます。あなたのご両親はお兄さん側に着きました」
「は? ありえない。孫に会えなくなってもいいわけ?」
「はい。そうみたいです。夫婦の間に生まれた子じゃないなら認めないそうです」
「そんなはずない。父なんて孫にメロメロなのよ。人として正しい決断をされたんだと思います。ご両親だけじゃないですよ。ご兄弟、ご親族全てです。今後一切さやさんからの連絡は対応するなと通達済みだそうです」
「ひどい。ひどすぎるわ」
「ひどいのは誰なんでしょうね。お兄さんは妊娠期間の十ヶ月間、子供の成長とあなたの無事だけを祈って支えてきてくれたはずです。それを裏切ったあなたが私には一番ひどい人に見えますよ」
「だって純平が口説いてくるからいけないのよ。あなたがちゃんと捕まえておかないから、私に魅力を感じてしまったんでしょ」
「その理屈が通るなら、この世の浮気された妻たちは、自分に魅力がないと認めないといけませんね。いいえ、違います。人のものに手を出してはいけないという幼稚園で習うような最低限のことすらできない大人が、こうやって大人になって平気で人を傷つけるんです」
「悪かったわよ。純平はあなたに返すから」
「いりませんよ。どうぞ引き続きお使いください。では失礼します」
そう言って私は電話を切った。
二ヶ月後。
「全部終わりだ」
「今更何よ。さやさんと娘と仲良くやってるんじゃないの?」
純平は笑った。しかしその顔は、どこか疲れていた。
「とんでもない。メイコは俺の娘じゃなかったんだ」
「はあ?」
「俺も最初は、人のところが俺に似てると思ってた。でもふと思ったんだ。もし俺の子じゃなかったらって。DNA鑑定をしたら、父子関係が否定された」
「あの女、すごいわね」
「不思議なもんだよな。自分の子じゃないと分かった途端、一気に愛情が覚めたんだ。結局誰の子だったのよ」
「それが分からないらしい」
「ありえない。あの人、そんなに遊んでたの?」
「みたいだな」
「まあ弟に手を出すような節操のない人だから、全然不思議ではないけど」
「我ながら見る目のなさにうんざりする」
「それでメイコを捨てて自分だけ逃げたってこと?」
「なんと言われようと俺は後悔してない。俺の給料じゃ小さいアパートしか借りられなくて、それにも文句ばかり言われてたし。遅かれ早かれ終わる運命だったんだよ」
「何ふざけたこと言ってんの? あれだけ周りを巻き込んで不幸にしておいて、遅かれ早かれ終わってた? 冗談じゃないわよ」
「ごめん。別にどうでもいいけど、早く慰謝料払ってよ」
「できれば分割にしてくれないかな?」
「無理。振り込みのためにあんたのことを思い出したくないの。だから借金してでも一括で払って」
「じゃあ親に借りるか。どうせ今から帰るし、父さんに聞いてみるよ」
「何言ってんの? 親族全員ガチ切れだよ。あんたに手を差し伸べる人はいないし、おそらく電話も通じないと思うけど」
「嘘だろ。なんで? 自覚がないのが怖いわ。俺だって騙された被害者なんだぞ」
「それが本当なら誰かが助けてくれるんじゃない? 今母さんに電話してるんだけど、話中だ」
「それ、着信拒否ね。引っ越しで金を使って手持ちがない。実家に入れてもらえないならどうすりゃいいんだ?」
「大事に育ててくれたご両親も、たった一人のお兄様も、お年玉をくれていたおじさんも従姉妹たちも、全部二度と会うことはできないのよ。実は会社もリストラに遭ってしまって、バイトで食いつないでるんだ」
「へえ。一晩でいいから泊めてくれないかな? 今どこに住んでるの? 住所教えてよ」
「よりによって私に頼む? 今となっては頼れる人はマイカしかいないから」
「アホなの? 顔も見たくないやつを泊めるわけがないでしょ」
「そう言わずに泊めてくれよ。元夫婦じゃん。なんならよりを戻してやってもいいぜ」
「あんまり人を舐めんじゃないよ。あんたたちのせいでどれだけの人が苦しんだと思ってんのよ」
「ごめん。そんな謝罪はいらないから、目に見えるお金にして私とお兄さんに示しなさい」
「兄貴にも俺、金なんかないよ」
「ないなら働くんだよ。このボケカス」
「ひどいよ。涙が出てきた」
「泣いてる暇はない。働け」
その後、義兄はさやさんに五百万の慰謝料請求をした。出産や育児にかかった費用も含めた額だ。満額は無理かもしれないが、相当な額だ。そして私は純平に二百万を請求し、彼は借金して一括で払った。
純平は今、建設業で働き、夜は副業をしながら返済に追われる日々を送っている。さやも純平も、全ての親族に見放され、友達も遠ざかっていった。父親が分からないので、誰からも養育費をもらえないさやは、子供を保育園に入れ、昼間は食品工場、夜はパチンコ屋の清掃をしている。一応、子供のことはちゃんと育てているようで、そこは腐っても母親だ。
義兄も私も、やっと区切りをつけて前を向いている。義兄は、早く両親に本当の孫を見せたいと笑って話してくれた。私も、両親に幸せな報告ができるように、人生を楽しみたい。あの日に流した涙が、いつか笑顔に変わる日まで。
