母さん、絶縁しようか。
その言葉が電話越しに聞こえてきたとき、私は教室で採点をしていた。小学校教師として働く私、中村千鶴。手に持っていたペンが止まった。息子の大輔の声は、要件だけを淡々と告げるような冷たいものだった。
その直後、嫁の麻衣からもメッセージが届いた。
「お母さん、はっきり言います。あなたは目障りなので、今後一切会うことはやめましょう。」
私は四年間、息子夫婦を支えてきた。最初は月八万円の援助から始まった。それが一年後には十二万円、二年後には十八万円、三年後には二十二万円、そして四年目には二十五万円にまで増えていた。総額は約一千万円に達していた。
それなのに、息子は言った。
「母さん、爺ちゃんの遺産を渡してくれたら、絶縁を撤回してやるよ。」
絶縁すると言いながら、遺産だけは要求する。息子夫婦は、私が弱いから絶縁されたくないために遺産を渡すと思い込んでいた。手が震えた。頭の中が真っ白になった。
「わかりました。考えさせてください。」
私は震える声でそう答えた。電話の向こうから、息子の声がさらに強く聞こえてくる。
「母さん、はっきりしろよ。俺たちとの繋がりがなくなってもいいのか? 孫にも一生会えなくなるんだぞ。」
麻衣の声も重なって聞こえてきた。
「お母さん、私の親族にもあなたの悪い噂を流しますよ。それでもいいんですか?」
脅しの言葉が次々と飛んでくる。私は何も答えられずに電話を切った。手は震え、頭の中は真っ白なままだった。
冷たく切り捨てられ、それでも遺産だけは要求する。孫に会いたい。息子夫婦と繋がっていたい。だから遺産を渡すつもりだった。でも、もう耐えきれなくなった。
四年間の記憶がよみがえってくる。
大輔が結婚した日、麻衣が頭を下げて言ったのだ。
「お母さん、今ちょっと生活が苦しくて、少しの間だけ月八万円ほど援助していただけませんか? 本当に少しの間だけです。」
可愛い孫の顔を思い浮かべながら、私は迷わず頷いた。ところが、その「少しの間」は遠い記憶になっていく。
一年後には月十二万円、二年後には十八万円、三年後には二十二万円、そして四年目には二十五万円へと増えていった。
「転勤の話があるから」「部屋を広げたいから」「子供の教育費が増えたから」
息子からの電話の度に理由を説明された。私は家族のためと自分に言い聞かせ、「わかったわ」と答え続けた。
その代償として、私たち夫婦の生活は驚くほど質素になっていく。旅行も新しい服も外食も諦めた。
「大輔、今月も振り込んだわよ。孫たちは元気にしてる?」
「それは母さんが心配することじゃない。」
通話はすぐに切れた。電話をしても「忙しい」の一言。会いに行こうとしても「都合が悪い」と断られる。それでも支援の要求だけは毎月欠かさず届く。
息子の誕生日には、ケーキを持って訪れた。私はただ祝いたいだけだった。玄関のチャイムを押すと、麻衣が出てきた。
「今ちょっと忙しいんです。また今度にしてもらえますか?」
ケーキを差し出そうとすると、ドアはそのまま閉められた。
孫が体調を崩した時には、おかゆを作って持っていった。でも、それらは全て干渉と受け取られた。
「お母さん、勝手に来ないでください。邪魔なんです。」
ある日、麻衣の実家での親族の集まりに招かれた。麻衣の両親は丁寧にもてなされ、親族たちも笑顔で接していた。一方、私たち夫婦は端の方に追いやられ、誰も話しかけてこない。その場で麻衣が言った。
「お母さん、その服何年着てるんですか? 私たちが笑われるんですよ。こっちの身にもなってくださいよ。」
新しい服を買うお金がなくなったのは誰のせいだろうか。息子家族への支援のために、私たちは何も買えなくなっていた。
その日の夜、私は夫に全てを打ち明けた。ダイニングテーブルで向き合い、息子夫婦からの脅しのことを話した。
「実は大輔たちから脅しをかけられているの。絶縁するか遺産を渡すかどっちにするかって。遺産を渡せば絶縁を撤回してくれるっていうの。孫に会いたいし、息子夫婦と繋がっていたい。だから遺産を全て渡すつもりだったの。」
夫は真剣な表情で私を見つめた。
「千鶴、お前は何も悪くない。狂ってるのはあいつらだ。遺産を渡す必要なんてない。」
夫の言葉が胸に響いた。そうだ。私は何も悪くない。息子夫婦が私を弱いと思い込んで脅しまでかけてくる。ならば、遺産を渡さず復讐を実行すればいい。
復讐を決意した私は、その日の夜から行動を始めた。パソコンの前に座り証拠を整理する。息子からの脅迫のメッセージ、電話の録音、四年間の支援記録。それらを時系列で整理し、書類としてまとめた。
まず、息子の会社に連絡を取った。人事部に電話をかけた。
「息子の大輔から脅迫を受けています。証拠も揃っています。」
人事部の担当者が真剣な口調で答えた。
「承知いたしました。すぐに内容を確認させていただきます。このような事案は当社としても看過できません。」
次に、警察に通報した。最寄りの警察署に向かった。
「息子から脅迫を受けています。証拠も揃っています。」
警察官が書類を慎重に確認しながら答えた。
「脅迫罪に該当する可能性が高いです。証拠を確認させてください。立件に向けて動きます。」
さらに、嫁の親族にも連絡を取った。麻衣の実家に電話をかけた。
「麻衣さんと大輔から脅迫を受けています。証拠も揃っています。あなたたちにも悪い噂を流すと言われました。」
電話の向こうから、麻衣の母親が驚いた様子で言った。
「え、そんな。麻衣がそんなことを?」
しばらくして、息子から電話がかかってきた。声は怒りに震えていた。
「母さん、何してるんだ? 会社に連絡したって? 警察にも通報したって? 警察は民事不介入だろ。母さんも大事にしすぎだろ。」
私は冷静に答えた。
「このままあなたたちが突き進んだら、孫に確実に悪い影響が出るから、ここで全てを終わらせて頭を冷やしなさい。」
「は? 何言ってるんだ?」
「あなたたちの行動が孫の未来を壊すことになる。だからここで止めるのよ。」
電話を切った。しばらく時間を置いてから、息子への決別メッセージを送った。
「あなたのお望み通り、絶縁するわ。さようなら。」
私の心は驚くほど穏やかだった。
決別メッセージを送ってから一ヶ月後、知人から連絡があった。
「千鶴さん、大輔君、事業部長から平社員に降格されたらしいわよ。会社が『家族を大事にしない人間は人の上に立つ権利はない』って判断したって聞いたわ。年収も半分以下になったって話よ。」
後日、警察からも連絡があった。
「今回の件は脅迫罪に該当するため、立件可能です。正式に捜査を開始します。」
二ヶ月後、買い物の帰りに偶然息子と遭遇した。私の顔を見ると、息子は混乱した様子で近づいてきた。見た目も以前とは全く違っていた。疲れ果てた顔、皺の寄った服、髪も乱れている。以前の自信に満ちた表情は消えていた。
「母さん、待ってくれ。わかった。絶縁はなしだ。遺産も支援も諦める。だから警察と会社にはこっちで解決するって言ってくれよ。頼む。」
息子の必死な声が背後から聞こえてくる。でも私は振り返らなかった。
「あなたはもう救いようがないよね。」
私はそう言い残し、その場を去った。後ろから息子の「待ってくれ」という声が聞こえたが、もう何も感じなかった。
嫁からの連絡も急に増えた。電話をかけてきて、メッセージを送ってくる。私は出なかった。
「お母さん、話を聞いてください。お願いです。助けてください。もう夫婦関係も限界です。借金も返せない。子供の学校の費用も払えない。」
私は電話に出ず、メッセージにも返信しなかった。
三ヶ月後、嫁の実家から電話がかかってきた。
「千鶴さん、この度は本当に申し訳ございませんでした。私たちはあなたのことを勘違いしていて、冷たい扱いをしてしまいました。麻衣と大輔君があなたに脅迫をしていたなんて、証拠を見せていただいて初めて真実が分かりました。謝罪させてください。」
「いえ、もう過去のことです。」
「ちょうど現在の状況をお伝えしなければと思いまして。麻衣たちは今、本当にどん底に落ちています。私たちも麻衣たちを支援しようと思ったのですが、もう限界です。あなたが四年間も支援を続けていたのに、あんなことをするなんて、申し訳ございませんでした。」
「孫は私たちが責任を持って面倒を見ることにしました。千鶴さん、いつでも会いに来てくださいね。孫も会いたがっていますから。」
「安心しました。ありがとうございます。」
電話を切った後、私は静かに窓の外を見つめた。嫁の親族から謝罪を受け、息子夫婦のどん底の生活を聞いた。そして、孫の面倒を見てくれるという言葉も聞いた。でも、もう何も感じなかった。全ては息子夫婦が選んだ道の結果なのだ。
決別メッセージを送ってから半年後、私たちの生活は驚くほど豊かで充実したものになっていた。教室で子供たちの声を聞きながら、教師として働き続ける日々。支援を辞めたことで、私たちの生活は以前よりもずっと豊かになった。
窓の外を見つめながら、私は静かに微笑んだ。もう後戻りはしない。もう誰にも振り回されない。自分の人生を自分の手に取り戻したのだ。
四年間の我慢は決して無駄ではなかった。私に強く生きる勇気を教えてくれたから。
今、私は自由で幸せ。それが全てだ。
