妊娠五日前、私は陣痛の不安で眠れない夜を過ごしていた。なのに夫は平然と「ねえ、友達との旅行、本気で行く気?」と聞いてきた。予定日まで一ヶ月を切っているのに。「うるさいなあ。土日はお互い好きにしていいって決まりだったじゃん。お前、妊娠してから変わったよな」その言葉に、私は初めての妊娠で不安でいっぱいだと必死に説明した。ホルモンバランスの乱れで感情をコントロールできないことも。でも彼はこう言い放…

妊娠五日前、私は陣痛の不安で眠れない夜を過ごしていた。なのに夫は平然と「ねえ、友達との旅行、本気で行く気?」と聞いてきた。予定日まで一ヶ月を切っているのに。「うるさいなあ。土日はお互い好きにしていいって決まりだったじゃん。お前、妊娠してから変わったよな」その言葉に、私は初めての妊娠で不安でいっぱいだと必死に説明した。ホルモンバランスの乱れで感情をコントロールできないことも。でも彼はこう言い放...

「ねえ、友達との旅行、本気で行く気?」
私は予定日まで一ヶ月を切っていた。いつ産まれてもおかしくない状態なのに、彼は呑気に旅行の話をしている。

「うるさいなあ。土日はお互い好きにしていいって決まりだったじゃん。お前、妊娠してから変わったよな。うるさいし、すぐ怒るし」

「悪いと思ってるけど、自分ではどうしようもないのよ。初めての妊娠で分からないことだらけで不安だし、ホルモンバランスも乱れてコントロールできないの。妻だってもっと寄り添ってくれてもいいじゃない」

「妊娠なんて病気じゃねえんだから。そんなに不安がらなくても大丈夫だって。何かあったら連絡してくれたら帰ってくるし」

そう言って彼が放った一言が、私の心を完全に折った。

「まあ、俺の旅行中に生まれてくるKYな赤ん坊とか嫌だけどな」

「よくそんな最低なこと言えるわね。もういい。顔も見たくない。旅行でもどこでも行ってくればいいでしょう」

「言われなくても行ってくるよ」

二週間前。

次の土日もまた彼は出かけると言った。

「どっかの誰かが妊婦ヒステリー起こしてて居心地が悪いったらありゃしない」

「言ってらっしゃい」

「あれ、怒らねえの?」

「もうヒステリー起こすのも疲れたのよ。あんたがいようがいまいが同じだし。それならいない方がイライラしなくて済むわ」

「あっそ。可愛げのねえ女だな」

出産五日前。

「おい、柚月、出産前のヒステリーも大概にしろよ。なんだよ、さっき送ってきたデータ。俺が浮気してるって言うのか?」

「してるでしょ」

「してないよ」

「逆に何なの、その態度。浮気してるけど、してないって言い訳しようってわけ?」

「浮気してないって。……ああ、もう、しゃあないな。確かに浮気はしてるけどさ」

「は?」

「お前が妊娠して急に泣いたり、金を使うような面倒な女になったから、よそに癒しを求めたんだよ」

「必須公文って何?」

「ヒステリー公文だよ。知らねえの? 全部私が悪いって言うんでしょ? そうやって私を責めるのね。私なんていなくなればいいんだわって」

「相手を精神的に追い詰める文章のことだよ。私、そんなことしてないわ」

「覚えてないのが一番タチが悪いよな。とにかく全部お前が悪いんだ。俺のせいじゃねえから」

「あのね、誰の子供を妊娠してこうなってると思ってるの? ホルモンバランスが乱れて感情的になったり泣きやすくなったりするのは、妊婦ならよくある症状よ。病気じゃなくても、お腹の中でもう一人の命を育ててるんだから。今までにない変化が現れて当然でしょう。よくそれで浮気の正当性を主張できるわね。バカにするのもいい加減にして」

「文句あるなら離婚するか? 一人で育ててみろよ」

「分かった。じゃあ離婚で」

「は? マジで言ってんの?」

「出産前だから、その方が面倒がなくていいかもしれないわ。親権とか養育費とか、正直面倒くさいし、あなた払う気もないでしょ」

「当たり前じゃん。育てねえがに金なんか払うかよ」

「ただし、離婚に対する慰謝料だけは払ってもらうからね。そっちの有責だから拒否権はないわよ。もし応じないなら、今の証拠を内容証明にして会社に送ってもいいんだからね。あなた、一応大手の保険会社に勤めてるし、ゴシップは困るんじゃない?」

「…………はいはい。財産分与とかだるいから、慰謝料だけにしてくれる?」

「希望額を支払うならね。弁護士に相談したけど、結婚期間五年で妊娠中の不倫は悪質だから、相場でも百八十万以上請求できるって。じゃあ二百万で手を打ってくれよ。あと、お前の荷物だけ取りに来てくれ。ベビーグッズとか使わねえし」

「さすがに住む場所も何も決まってないから、出産してから一ヶ月は引っ越しに猶予ちょうだい。慰謝料二百万と、引っ越しまでの間あなたはホテル暮らし。これに合意してくれるなら円満離婚するから」

「うん。別にいいけど。それくらい痛くも痒くもねえし」

「必要な時にこっちから連絡するから、そっちから二度と連絡してこないで」

「なんだお前、急に強がっちゃって。どうせまた泣きながらヒステリー起こすんだろ」

「ふん」

二週間後。

「柚月、生活は落ち着いてきたかい?」

「あ、ごめんなさい。出産の報告だけして、他が遅くなっちゃったんだけど。私、離婚したの。出産の三日前に。一週間前に退院して、今家にいるよ」

「話が急すぎる。何があったんだ?」

「あのバカ野郎が、私の妊娠中に浮気してたのよ」

「それは本当なのか?」

「本当よ。日にちを立て続けに旅行へ出かけるから怪しいと思って調査事務所に依頼したら、見事に引っかかったわ。もし離婚になるなら出産前がいいと思って話を切り出したら、あっさり認めたの。認知のこともあるから離婚届だけは出してもらって」

「慰謝料の支払いと財産分与はしないっていう合意書は、三日後に作って支払わせた感じ」

「離婚届を出した三日後に生まれるとは、私も思ってなかったけどね」

「そんなことになっていたなんて。ああ、全然知らなくて申し訳ない。助けになれなかったな」

「いいよ、いいよ。これから頼ろうと思ってたし」

「何でも言ってくれ。何をすればいい? 家を用意すればいいか?」

「それはすごくありがたいけど、自分でなんとかするよ。それより一つ聞きたいことがあって。お父さんの会社に田渕大吾って人が勤めてるの、分かる?」

「ああ、いや、さすがにそこまでは俺も把握してないよ。でも大吾って、柚月の旦那の名前じゃないか」

「そう、私結婚して田渕になったんだけど、夫の名前は田渕大吾。柚月が結婚して五年になるけど、田渕になったの初めて聞いたよ。本当に必要最低限しか話さない子だな」

「今それは置いといて。で、その田渕大吾の勤務先がセーフティ保険なの。お父さんの勤務先。日本有数の保険会社」

「嘘だろ? 俺の会社に勤めてたのか?」

「うん。知り合った時はびっくりしたけど、あえて言わなかったのよ。さすがに副社長の娘なんて知ったら気まずいだろうし。それに、父親って言っても八歳の時に離婚して以来別居だし。まあいいかって思って」

「結婚式をしないで写真だけにしたのは、俺に合わせないようにしたってことか」

「全然。単に面倒だし。私は結婚式に呼べる友達が多くて三人だし、ならわざわざしなくていいか、お金もったいないしってことで、代わりにハワイ旅行に行ってきたの」

「現実主義だなあ。ああ、いや、今それはどうでもいい。つまり、妊娠中に浮気して離婚したクズ社員がうちにいるってことなのか」

「そういうことになるわね。いいんですか? 大手保険の営業にそういう人間を雇っていても」

「すぐ懲戒調査する。これは匿名での通報という扱いにさせてもらうよ」

「ついでに私が揃えた証拠資料も匿名でお送りしますので、目を通してください。その間に私は新居を探しておくから」

三日後。

「柚月、中間報告だ。早くない? まだ三日しか経ってないよ」

「父さんは優秀だからな」

「ああ、先に言っておくけど、引っ越し先は二LDKのマンションを一部屋買うことにしたから、そこに住みなさい。大家は父さんで、家賃を払ってくれればいいから」

「いや、なんで?」

「俺の家から徒歩五分だから、何かと便利だろう。母さんには俺からLINEしておくから」

「三十三の娘に過保護すぎでは?」

「母さん再婚して海外だから、ありがたいけどね。で、本題だが、不倫は間違いない。この件は、うちのコンプライアンス部で精査する。それで相手の情報だが、間ナ子、二十三歳。先月までテレビ局の受付嬢として勤務していたが、退職済み。理由は婚約者との結婚に向けて同居生活をスタートさせたためとされているな」

「婚約者がいたの? そこまでは詰めなかったわ。信じられない」

「相手は大手商社の松星商事の営業マンで、かなりのエリートだよ。俺も面識があるんだ。佐藤俊介さんと言ってね。まさか彼の婚約者と、娘の元旦那が不倫するとは。地獄の煮凝りだよ。恐ろしすぎる」

「煮凝りって何だっけ? プルプルした和食だっけ?」

「例えが凝りすぎてたな。すまん。煮凝りだけに、ブロックしていい?」

「え、いや、父さんすごい働いてると思うんだけど」

「じゃあ話を戻して。とにかく一度父さんが佐藤さんと話してくるから、柚月は引っ越し準備を進めてくれ。二日後に引っ越し業者を手配してあるから。元旦那は今ホテル暮らし中なんだっけ?」

「そう。出産から一ヶ月以内に出ていく約束になってるから、二日後なら都合がいいよ」

「よし、じゃあそれまでに色々済ませてしまおう。それにしても柚月、一人で大変じゃないか。三時間おきに起きるって言うし、ベビーシッターさんを雇ってもいいんだぞ」

「うーん。本当に限界が来たら、って感じかな。でもすごく楽しいよ。赤ちゃんって毎日成長するから見てて飽きないのね」

「そうだ。お父さん、次の日曜日時間ある? 一ヶ月検診で産婦人科に行くんだけど、顔を見るついでに付き合ってよ」

「いいのか? もちろん。後でまた連絡してくれ」

その日の夕方。

「突然LINEで連絡してしまい申し訳ありません。本郷社の飯島さんから連絡先を聞いて追加させていただきました。改めまして、セーフティ保険の太田です」

「こちらこそ、いつもお世話になっております。松星商事の佐藤です。飯島さんからも連絡がいってますので大丈夫ですよ。でも、太田副社長から直接ご連絡をいただけるとは思ってなくて驚きました。何か緊急のご要件でしょうか?」

「単刀直入に申し上げます。私の娘が数日前に離婚したのですが、その離婚の原因があなたの婚約者だと判明したのです」

「そんな……何かの間違いでは?」

「娘が不倫の調査依頼で出した証拠に加え、弊社お抱えの調査事務所に依頼してさらに追跡して得た情報なので、間違いないかと。元旦那の名前は田渕大吾。お恥ずかしながら、弊社の営業社員でして。二人がどう繋がったのかは不明ですが、田渕はホテル暮らし中で、ナ子さんが出入りしているのが確認されています。失礼ですが、ナ子さんが今どうされているか把握していらっしゃいますか?」

「ナ子は今、結婚前最後に友達と旅行に行きたいからと北海道に。インスタも更新してるんですよ」

「間違いないです。違う時期に行って撮ったものをアップしているだけではないかと。とにかく一度会ってお話をさせていただきたい。お願いできますでしょうか?」

「承知いたしました。すぐに調整します」

同時刻。

「二日後に業者を入れて引っ越しするから、明後日の夜には家に戻ってもらっていいわよ」

「あ? 早いじゃん。引っ越しの金、どうしたの? 消費者金融で借金でもした?」

「ああ、俺の慰謝料があるから、そこから出したわけだ。でもこれからの生活、しんどいだろうな。お前、在宅ワーカーで大した稼ぎもないし。それで貯金もないだろ?」

「そうね。シングルマザーの大変さは、これからどんどん増していくんでしょうね。実際、生まれてからも病院に行かないといけないしね」

「なんだよ。どこか悪いのか?」

「産後一ヶ月検診っていうのがあるの。赤ちゃんは健康よ。まあ、あなたには関係ないでしょうけど。どんなに大変なことがあっても、今だったらそれでも育てていけると思ったから子供を望んだの。自分が選んだことなんだからやり遂げるわ。それじゃあ、浮気相手とお幸せに」

三日後。

「初めまして。直接話すのは初めてですね。どうも、コンプライアンス担当取締役、太田信夫と申します」

「はい。もちろん存じ上げておりますが、なぜ私に個人的に連絡を? そもそも誰からこのLINEを聞いたんですか?」

「田渕柚月。今は離婚して、旧姓の柚月に戻っておりますが、ご存知ですよね」

「あの、えっと、元妻ですが……」

「その元妻は私の娘です。このLINEは娘から教えてもらったものですよ」

「あ、え、そんな……嘘ですよね。妻とは柚月が八歳の時に離婚しましたが、連絡は取り続けていて、養育費も支払っています。娘とは月に一度、成人してからは自由に会えるようになり、関係も良好です。ただ、サバサバした子なので必要最低限しか自分のことは話さない性格でしてね。結婚も事後報告で、相手については下の名前しか知りませんでしたし、結婚後の苗字も知りませんでした。だからあなたと娘が結婚していた事実は全く知らなかったんですよ。柚月さんならありえなくない話ですけど、でも今更なんで私にコンタクトを? すでに離婚していますし」

「離婚したことはどうでもいいんですが、離婚に至るまでの経緯が目に余ります。私の役職はコンプライアンス担当ですからね」

「ちょっと待ってください。確かに僕の有責で離婚になりましたが、別にそれだけでしょう。犯罪をしたわけでもないですし、コンプラに引っかかることなんて何もないはずです」

「今の時代、不倫はコンプライアンス違反なんですよ。特に保険会社は信用第一。営業担当が妻の妊娠中に『男の浮気は当然』なんて態度で離婚。しかも認知もせず養育費も不払いとあれば、それがどこからか漏れて顧客に伝わった際、嫌悪感を抱いて契約解除になりかねない。中には実際に配偶者の不倫で離婚になったご契約者様もいるかもしれない。噂を耳にされて、そんな社員を営業に置くなとクレームに発展したら、どう責任を取られるつもりですか?」

「それは……あの……」

「とにかく、あなたは営業から一度外れてもらい、自宅謹慎とします」

「そんな、待ってくださいよ。こんなの権限乱用だ」

「これはコンプライアンス部の決定です。正式な処分は役員会議後に決定とします。あなたが娘の元旦那に同じ処分を下しているので、ご安心ください」

数分後。

「お前、騙したな。父親が俺の会社の副社長って、なんで黙ってたんだよ。無視すんな。そうだ。お前、一ヶ月がどうのこうの言ってたよな。絶対に捕まえてやる。覚悟しろよ」

翌日。

「あなた、一日中病院の待合室で待ってたんですって。怖すぎるでしょ。『田渕柚月の夫です。妻が産後で連絡が取れないから、一ヶ月検診の日を教えてください』なんて。教えるわけないでしょ。私のところにまで確認の連絡が来たけど。あなた、今後あの病院は出入り禁止になったから、二度と近寄らない方がいいわよ。そもそも、あなたから連絡してこないでって言ったわよね」

「そんなこと言ってられるかよ。お前のせいで首になるかもしれないんだぞ」

「それだけのことをしでかしたんだから、当然じゃないの。私だって嫌だもの。不倫して妊娠中の妻を捨てて離婚する男が保険の営業なんて」

「何が目的だよ。金か。金だろ。生活に困って俺から金を脅し取るつもりか?」

「それなら会社に通報する前に、私の父親の存在をちらつかせて絞り取る方が賢いんじゃない?」

「それは……」

「あなたって、仕事はできるのかもしれないけど、人間として終わってるわよね。自己中心的で、カッとなりやすくて。私も妊娠する前はそんなに気にならなかったというか。基本気が合うし、さっぱりしてるし合理的だし、一緒にいて疲れなかったわ。べったりした関係が苦手な私にとって、すごく居心地が良かったの。だから五年も夫婦でいられたんだと思う。でもね、自分が妊娠してメンタル的に不安定になった時、ここまで寄り添ってくれない人間だとは思わなかった。あなたは私と夫婦になれたかもしれないけど、親になることはできないのよ。自分が変わるつもりはない。自分の不利益になることは一ミリもしたくない。そんなの、親になれるわけないわ。だって親は自分の損得関係なく、子供に与え続けなくちゃならないから」

「偉そうに語ってんじゃねえよ。お前だってどうせ親を頼るつもりなんだろ。俺から金を取るんじゃなくて、親を使って仕返ししてくるなんて卑怯だぞ」

「別にあなたからお金なんてもらわなくても、一人で子供は育てられるし。育てられると思ったから、妊娠しようと思ったのよ。だって両親が健在でいられるか、離婚せず夫婦でいられるかなんて保証はないわ。だったら一人で育てられる経済力がないとダメだと思ってね」

「在宅ワーカーのくせに何言ってんだ?」

「私は在宅ワーカーだけど、職業はデイトレーダーよ」

「はあ? 冗談だろ」

「面倒だから黙ってただけ。目標だった月収百万を超えたから、これなら子供も育てられると思ったの。先月は百二十万だったわね」

「お、俺より多いじゃねえか。ふざけんな。嘘つくなよ」

「何を見せれば納得するのよ。面倒くさいわね。じゃあ、なかったらどうやって調査費用八十万もかかる調査事務所にポンと依頼できるのよ」

「あ、マジなのかよ」

「財産分与しないってあなたから言ってくれて助かったわ。だって私の方が資産多いんだもん」

「てめえ」

「ちなみに、父さんと職業が同じだと気づいても黙ってたのは、副社長の娘なんて面倒だと思っただけ。まあ結果的に大晦日になったわけだけど」

「頼むよ。口聞きしてくれって」

「なんで妻の妊娠中に浮気することは男なら誰でもあることなんでしょ? じゃあ自信持って、自分の正当性を主張しなくっちゃ。誰が味方してくれるのか見物だけどね。それじゃあ、私はもう話すことないからブロックするわ」

その日の夜。

「初めまして。ナ子から連絡先を伺いました。ナ子の婚約者の佐藤俊介と申します。と言っても、元婚約者になりそうですけど。今回の浮気が原因で破局となりますので、こちらとしてはあなたに慰謝料を請求させていただきます」

「待ってくださいよ。結婚してたわけでもないのに慰謝料が発生するなんておかしいでしょ」

「こちらは結婚を前提に両家に挨拶も済ませて、同居させていたんです。当然でしょう。そもそも、俺は婚約者がいるなんて知らなかったんだから無罪だ。そんなの慰謝料は向こうだ」

「確かに出会いはマッチングアプリで、最初は知らなかったのかもしれないですが、後半は知ってましたよね。明らかに僕やあなたの奥さんの話題がLINEに残っています。もうナ子のスマホは押収しているので、嘘はつかない方がいいですよ」

「そんな……なんでこんなことに?」

「ナ子と同じことを言うんですね。自業自得でしかありませんよ。ナ子の嘘を見抜けなかった僕も僕ですけどね。あなた以外にも色々男遊びをしていたようですから、こっちも後処理に追われて大変なんです。あなた一人にかまってる暇はないので」

「俺以外にも相手がいたのか。そんな嘘だろ。俺が本命だって言ってたのに」

「まあでも、生まれてくる子にとってはこれで良かったんじゃないですか。カスの父親に振り回されることなく、誠実な母親に育ててもらえるんですからね。それと、あなたが担当している顧客の中に弊社の社員が何人かいますが、契約担当の変更希望の旨をメールでご連絡差し上げます。それでは、慰謝料金額等のご連絡は弁護士からさせていただきますので、失礼します」

一ヶ月後。

「田渕大吾君に関しての報告だよ。彼は自宅謹慎した後、営業からお客様サポートセンターに移動させた。あそこは一日中電話で外に出ることはないし、クレームも処理しないといけないから、メンタル的にしんどいだろうね。それでもAIには任せられないし、誰かがやらなければならない必要な仕事だ。今のご時世、簡単に社員を解雇にできないから。これが精一杯の処分だよ。給料も営業時代に比べたらだいぶ下がるから、これで納得してもらえるかな」

「もう慰謝料は支払ってもらってるから、求めることは営業から外れることだけよ。でも、お給料が下がった状態で、浮気相手の元婚約者さんに慰謝料は支払えるの?」

「慰謝料は八十万、なんとか貯金で支払ったそうだよ。ただ、元から金遣いは荒い方だったんだろう。今の家の家賃も、部署移動して賃金低下したことと、さらに今まで払っていた分を一人では支払えないってことで引っ越し。物価高で引っ越し代が払えなかったらしくて、消費者金融から借り入れたそうだ。これからは細々やっていくんだろうね」

「浮気相手のナ子さんは、彼女にも慰謝料八十万請求。向こうの方が大変そうだね。内緒で借金を作っていて、結婚したら佐藤君のお金で払おうと思っていたらしい」

「げえ」

「元婚約者の佐藤さんには、次に結婚相手を探す時は俺に声をかけるように言っておいたよ。『ナ子さんのような変な女性かどうか見抜きますからね』って。なあ、よく言うよ。最初は柚月も一緒だからね。コンプライアンス担当としての目利きを信じてくれって話だから」

その後。

その後、大吾は退職することになったそうです。というのも、ナ子が自分がこんなことになったのは大吾のせいだとSNSで勤務先と実名を暴露してしまったのです。もちろんそれに関しては、プライバシー侵害、名誉毀損ということで訴えを起こして取り下げさせたそうですが、一度ネットの海に出たものは削除できません。お客様問い合わせセンターに電話が殺到し、直接罵詈雑言を浴びたことが精神的に堪えて、自主退職することになったということでした。

まあ、それだけのことをした相手をしたことは、自分に帰ってくるということです。今は実家で引きこもり、働くこともせず、ついに親に追い出され、その後どうしているかは分かりません。

ナ子もナ子で、大吾に対しての暴言で慰謝料を支払わなければならなくなり、さらなる借金地獄に。両親からも見捨てられ、自己破産寸前なんだとか。

まあ、どれもこれも私にとってはどうでもいいことです。

何せ、一人のシングルマザーとしての毎日が忙しすぎますので。

この子はきっと、私と仮想離婚させるために、今このタイミングで私を選んで生まれてきてくれたんだと思っています。

そんな娘は、今回の救世である父にしっかり恩を返さなくてはと言ってますが、誰が言ってんねんと突っ込んでおきました。

私も人のことは言えないですけど。

男に引っかからないように育てていきたいですね。

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