「ひろ、ごめん。今日は帰れなくなったよ」――夫の拓から電話が来たのは、久しぶりに二人で夕食を食べるはずだった日の夕方だった。大井戸先生に呼ばれたから断れない、また今度時間を作ると言う。最近ずっとそんな調子で、約束しても仕事が優先。私は小さく息を吐いて「仕方ないわね」と呟いた。それから一か月後、私は思いがけない電話を受けた。亡き夫の知人だという女性からで、夫が亡くなったこと、葬儀は身内だけで済…

「ひろ、ごめん。今日は帰れなくなったよ」――夫の拓から電話が来たのは、久しぶりに二人で夕食を食べるはずだった日の夕方だった。大井戸先生に呼ばれたから断れない、また今度時間を作ると言う。最近ずっとそんな調子で、約束しても仕事が優先。私は小さく息を吐いて「仕方ないわね」と呟いた。それから一か月後、私は思いがけない電話を受けた。亡き夫の知人だという女性からで、夫が亡くなったこと、葬儀は身内だけで済...

「ひろ、ごめん。今日は帰れなくなったよ」

電話の向こうで、夫の拓が申し訳なさそうに言った。久しぶりに二人で夕食を食べられるはずだったのに、またしても仕事が入ったという。

「大井戸先生に呼ばれてしまってな。御人の先生に誘われたら断りきれないだろう」

「そうなんだ。それは仕方ないわね」

「悪いな。また今度時間を作るからさ」

最近ずっとそんな調子だった。約束をしても、結局は仕事が優先される。私は小さく息を吐いた。

「ねえ、最近ずっとそんなこと言って家に帰ってきてないよね。何か私に不満でもあるの?」

「何を言ってるんだよ。そんなことあるわけないだろう。お前は父さんからも信頼されて事務をやってくれている。そんなひろ子に俺が不満なんて持つわけないじゃないか」

「そう言ってくれるのは嬉しいけどね。夫婦としての時間が取れないのは不満よ」

「医者ってのはいつ何時呼び出されるか分からない仕事だからな」

「だからこそ、二人で協力して時間を作る必要があるんじゃないの?私だって色々調整して今日の晩御飯の時間を作ったんだから」

「それは分かってるよ。責めるのはまた後にしてくれ。俺だって仕事が終わったばかりで疲れてるんだ。しかもこの後も先生との食事会で気が休まらない。今ぐらいは俺のことを労ってくれてもいいだろう」

「頑張ってるのはもちろん分かるわ。でも――」

「今後は俺とお前で病院を切り盛りしていくことになってるんだ。こんなところで喧嘩なんてしてる場合じゃないだろう」

私は一瞬言葉を飲み込んだ。そうね、と小さく呟く。

「仕方ないわね」

「あと数年経てば俺も委長になって仕事もある程度は落ち着くだろう。そうなったら食事なんていくらでも一緒に食べられるようになる。これまでは我慢してくれよ」

「分かったわ。そんな日が来ることを願って、二人で頑張りましょう」

「もちろん。それじゃあね」

通話が切れた。私はしばらく、暗い窓の外を見つめていた。

一か月後、私は思いがけない電話を受けた。亡き夫の知人だという女性からだった。彼女は夫が亡くなったこと、そして葬儀は身内だけで済ませたことを伝えてくれた。

「あなたには本当に感謝してるんです。あなたがいなかったら、夫と最後の時間を過ごすこともできなかったでしょうからね」

「いえ、私は本当に何も」

「自分がまだ話ができた時に、あなたに直接お礼を言いたいと言ってたんです。でもそういう機会が作れなくて、ごめんなさいね。きっと向こうであなたに礼を言ってると思うわ」

「そう言っていただけるだけで、とても嬉しいです。私も医療に従事している者として、人の役に立てたのだなと思います」

「それでね、近々そちらに伺おうと思って」

「え、そんなの大丈夫ですよ。場所を教えていただければ、私からそちらに向かいます。是非お墓にお参りをさせてください」

「そう?じゃあお言葉に甘えさせてもらうわね。実はね、これは夫の遺志でもあるの。是非受け取って欲しいものがあるのよ」

「受け取って欲しい?」

「そう。詳しくはその時にお話するから、来れそうな日があったら連絡をしてくれる?」

「分かりました。すぐにスケジュールを確認して連絡させていただきます」

その約束を果たす前に、私は思いがけない来訪者を迎えることになった。

「事務長、ちょっとお話があるんですけど」

事務所の扉を開け、見知らぬ若い女性が立っていた。白い看護師の制服を着ている。確か、数か月前から働き始めた新人の看護師だったはずだ。

「あなた誰?」

「私は木下さんです。今年から看護師として務めてるんですよ」

「ああ、木下さんね。何度か見かけたことはあるわ。どうして私の連絡先を?」

「ひろ田先生から教えてもらいました」

「どうして拓があなたに私の連絡先を教えるの?」

「事務長に伝えたいことがあると言って、お願いしたんです」

「そうなんだ。それで、伝えたいことって何?事務長の私が看護師のあなたに何か教えるなんて難しいと思うけど」

「もちろんそういうことじゃないです」

「じゃあ何?」

「病院後継のひろ田先生は、私がいただきました」

瞬時に、何を言われたのか理解できなかった。

「は?」

「だから、ひろ田先生はもう私のものになったんです。私とひろ田先生は結婚しますので」

「あ、ごめんなさい。全くついていけないわ。あなたは何を言ってるの?」

「そのままの意味ですよ。私とひろ田先生は愛し合ってるんです。そして将来を誓い合う中になったんです」

「そんなわけないでしょ。拓は私の夫なのよ」

「でもひろ田先生はあなたに不満を持ってるみたいですよ。家でもブスっとしてて、一緒にいて息が詰まるってね」

「拓がそんなことを言うわけないわ」

「ああ、何にも気づいてないんだ。鈍感なおばさんですね。あなたのような人と誰が好き好んで一緒にいたいと思うんですか?男っていうのはみんな若い女が大好きなんですよ。もちろんひろ田先生もその一人ってわけです」

「じゃあ、拓と結婚をするって言うの?」

「そうです。だから伝えたいことっていうのは、さっさと離婚をしろってことですよ」

「そんなわけにはいかないわ。私たちの関係はそんな軽々しいものじゃないの。私たちだけのことじゃなくて病院のことも考えないといけないんだから」

「そうやって関係を継続しようってことですか?みっともない。病院のことは私にお任せください。あなたはもう必要ないんですよ。時期委長夫人は私です。離婚して仕事もやめてくださいね」

「あなたの気持ちは分かったわ。でも、鵜呑みにもできない」

「それじゃあひろ田先生に聞いてみればいいですよ。結果は同じだと思いますけど」

五分後、私は拓に電話をかけていた。

「拓、さっきね、木下さんっていう看護師の子から連絡があったわ」

「は?」

「あなたと結婚するから、離婚して病院もやめろと言われた。どうなの?これは事実なの?」

返事はなかった。沈黙が答えだった。

「事実ってことね。あなたはずっと不倫をしてたってことでいいの?」

「なんかさ、向こうから一方的に好意を持たれちゃって」

「それで?鼻の下を伸ばして受け入れたんだ」

「そうだけど」

「あっさり認めるのね。それじゃあ、あなたのやったことは不貞行為だから、離婚もして慰謝料も請求するからね。それでいいのか?」

「引き止める気はゼロなんだ」

「あんたも最初から私を捨てるつもりだったのね」

「正直、お前といるのが辛くなってて」

「そう。じゃあ離婚してあげる。あんたの前から消えてあげるから」

その日から、潮目は一気に変わった。

二週間後、職員たちが慌ただしく私のもとにやってきた。

「事務長、聞きましたよ。退職されるんですって」

「そうよ。こんなところにはもういられないからね」

「もしかして、それって私が原因だったりします?」

木下だった。得意げな顔で立っている。

「何よ、今更。聞かなくても分かるでしょ」

「じゃあ、ひろ田先生と正式に離婚するってことですよね」

「もちろんよ。今は話し合いの真最中だから」

「いや、でもちょうどいいタイミングで離婚になりました」

「ちょうどいいタイミング?」

「なんかこの病院、将来的にさらに大きくする計画があるんですって。とんでもないお金を使って設備を一新したりするみたいで」

「へえ、そうなんだ」

「その時にはきっとひろ田先生が委長で、私が委長夫人ってことですよね。これって、とんでもないセレブ人生の始まりってことじゃないですか?」

「そうかもね」

「いやあ、本当に今まで私のために繋ぎをやってくれてありがとうございました。これからは惨めな独身生活になると思いますけど、頑張ってくださいね」

「ありがとう。あとはよろしくね」

「は、強がっちゃって。これだから変に権力を手にした年増はめんどくさいわ。あんたみたいにならないように、私も気をつけないと」

「もういい。手続きとか忙しいから」

「そうですか。じゃあ、さようなら」

私は病院を辞めた。しかし、それで話は終わらなかった。

一か月後、また木下から連絡が来た。今度はブロックを忘れていた相手からの着信だった。

「もしもし、藤原さん?」

「何よ。というか、ブロックするのを忘れてたわ。もう連絡なんて来ると思ってなかったから」

「もううちの病院は辞められたんですよね?」

「ええ、そうよ。今は無職だから」

「他の病院の職員も辞めさせたんですか?」

「何を言ってるのよ。私にそんな権限があるわけないでしょ。無理やり人を辞めさせるなんて労働基準法違反だしね」

「そうじゃないですよ。あなたと同時に、多くの病院の職員が辞めてるんです。現場で働く人間も、事務方の人間も。それでみんな引き継ぎやら何やらで大忙しなんですよ」

「そうなんだ。それは大変ね」

「まさか、あなたがこれを仕組んだんでしょ?」

「違うとは言い切れないわね」

「ほら、やっぱり」

「でも私はただ、仲のいい人たちに退職することとその理由を伝えただけよ。そしたらみんなが怒ってくれて、一緒に辞めるって言ってくれたの。私から命令したりお願いしたりなんてしてないわ。全部彼らの意思だから」

「いや、だからって」

「ちなみに、このことは全て、委長先生もご存知よ」

「そうなの?」

「だって、委長はうちのトップなんだから。私はずっと近くでサポートさせてもらってたし、お世話にもなったわ。だから、一番最初に報告させてもらったの。委長はとにかく引き止めてくれたわ。でも私は、もう夫やあの女がいるところでは働けないと言ってね。それでなんとか認めてくれたって感じよ」

「そんなにあんたのことを?」

「そうね。そして今回のように、あの二人のせいで病院内は大騒ぎになってる。それを委長は重く受け止めてるわ」

「どういうこと?」

「あなたには処分が下されるわ」

「は?」

「今回の一連の騒動の引き金になったのは、あなたの不倫よ。だとしたら、当然責任を追求されるわよね」

「不倫で処分なんて」

「はっきり言って、不倫そのものに対する処分ではないわ。病院の秩序を乱したという意味で、懲戒処分が下る可能性があるって言ってるの。出世とか、そういうのには響くことになると思う」

「何よそれ。でも、あまり気にしないわ」

「そう?」

「ええ。だって私が元々目指してたのは委長夫人なんだから。あの人が委長になると決まったら、その日に辞めてやってもいいくらいよ」

「そうか。だから別に病院での立場なんて気にしてないのね」

「そうよ。ただ、多くの人が抜けられると面倒くさいことになるから、怒ってるだけよ」

「それは、だから彼らが決めたことだから、あなたにとやかく言う資格はないわ。どうせ新しい人を雇って補填するんだから、気にすることでもないでしょ」

「それはまあ、そうだけど」

「それじゃあ、もういいかしら。こっちも新生活の準備とかで忙しいのよ」

「まあいいわ。それじゃあ、もう会うこともないでしょう」

「ええ、そうね。連絡もできないようにさせてもらうわ」

一週間後、私は拓から電話を受けていた。

「お久しぶりです。ひろ田です。覚えてらっしゃいますか?」

「どちら様でしたっけ?すみません。年のせいかも忘れがちで」

「あ、いえ、お気になさらず。ひろ子の夫の拓です。何度か病院でご挨拶をさせてもらったことがありまして」

「ああ、ひろ子さんの旦那さんでしたか。でも、あなたがどうして私の連絡先を……」

「父から聞いて、連絡させてもらいました。急に申し訳ありません」

「あ、いえ、それはいいんですよ。それで何か?」

「ど本信ノブテル様は、投資家として多額の資産をお持ちだったと聞いています」

「ええ、そうですよ。あの人は才能に恵まれた人でね、自分でも事業を成功させてましたけど、投資家としてもかなり優秀だったみたい」

「信ノブテル様が亡くなられて、その財産の一部をうちの病院に寄付していただけると聞いていました」

「そうなの。私たちは運命の人には恵まれなくてね。もちろん二人だけでも幸せに生活できたから不満なんてなかったんだけど、莫大な財産をどうするかっていう問題が残ってね。私が全部相続することになったんだけど、もちろん手に余るでしょう?それに私だって、すぐにお迎えも来るでしょうし。そうなった時に、あちこちに寄付をしようって、二人で話し合って決めてたの。その時に、そちらの病院にはとてもお世話になったからね、少しばかり寄付をさせてもらおうと思ったの」

「少しばかりなんて。そんなご厚意の寄付、本当にありがたい話です。でも、この度のご連絡は、もしかして、その寄付の話がなくなったからでは?」

「そうです。よく分かったわね」

「その原因が私にあるとのことで……」

「そもそも、私たちが寄付をしようと思ったのは、ひろ子さんがいたからよ。信ノブテルが倒れられた時、ひろ子がその場で応急手当てをしたから助かったというのは聞いてるわ。あの時ひろ子さんが助けてくれなかったら、私は夫にお別れも言えなかった。夫も、ひろ子さんは命の恩人だと言って、とても感謝してたわ。でもそれだけじゃないの。あの人は患者や、現場で働く医者、すべての人たちのためを思って仕事をしてたの。夫も私も、そんなひろ子さんの気持ちに深く感銘を受けてたのよ。だから、ひろ子さんの力になるために寄付をしようと話し合って決めてたの」

「そうだったんですか……」

「でもまさか、彼女が辞めてしまわれるなんてね。だから、寄付の話を白紙にしたのよ」

「考えを改めていただくことはできないでしょうか?」

「どうして?」

「ど本様からの寄付を前提にして、うちの病院の増設計画が進んでるんです。今更これをなしになどできません」

「そんなの知らないわ。契約書を交わしてたわけでもないんですし。増設の計画は、勝手にあっちの病院が進めたんでしょ。あなたがやるべきことは、私にお願いをすることじゃなくて、ひろ子さんに謝罪をして、病院に戻ってくるように頭を下げることじゃないの?」

「それは……」

「まあ、でも無理でしょうね。あなたはひろ子さんを裏切った。聞いてたわよ?この話を聞いた時、久しぶりに怒りを覚えたわ。だから、即刻寄付を取りやめると委長先生にお話をしたの。委長先生はとても悲しんでらっしゃったわ。かわいそうだとは思ったけど、これは曲げられない。夫との約束だからね。では、話はこれで終わりよ。さようなら」

三日後、拓から再び連絡が来た。

「藤原、慰謝料についての話し合いをしたいの。いつなら時間は作れるかしら」

「どこまで見越していた?」

「え?何が?」

「どこまで見越して病院を辞めたのか、って聞いてるんだよ」

「悪いけど、あなたと雑談をするつもりはないわ。そんな関係でもないしね。慰謝料について話し合いをしたいのよ。だから、日が分かったら連絡をして。私は弁護士を連れてくるから、あなたもそうした方がいいわ」

「さっき父さんから呼び出されたよ」

「言いたいことがあるのなら、好きなだけ言えばいいわ。でも、これが最後だからね」

「父さんから、今回の件は全てお前の責任だと言われたよ」

「全てって何?」

「病院の職員が大量に辞めたことと、寄付を受けられなくなったから病院の増設計画が頓挫したことだよ」

「なるほど。そういうことね。お父さんが怒るのも無理はないわ」

「直接辞令を渡されたよ」

「何をされたの?」

「俺を委長にはしないってさ。別の人を委長にするって言われたんだよ」

「そう。でも、別に驚くようなことじゃないわ」

「だろうな。ここまでお前は見据えてたんだろうからな」

「何を馬鹿なことを言ってるの?こうなったのは全てあなたの責任よ。私が後ろで操作したみたいに言わないでもらえる?私はあなたたちの要望を聞いて、離婚をして病院を退職しただけよ。それなのに、どうして裏で糸を引いてた黒幕みたいに言われないといけないの?八つ当たりするのはやめてよね。そもそも、若い看護師と不倫をして再婚をしたなんて、恥ずかしいことだと思わないの?そんなことをする人間が委長になれるわけがないでしょ。お父さんみたいに私生活もしっかりされたような人じゃないと、委長は務まらないのよ」

「でも、俺は委長の息子だから、当然なれると思った」

「前から思ってたけど、あんたのその甘えた考え方は直した方がいいわよ。まあ、今更言っても手遅れだと思うけど」

「俺をここまで追い詰めて、満足か?」

「そんなわけないでしょ。追い詰めるつもりなら、こんなことで納得したりしないわ。だって、あなたは委長になれなかっただけで、医者としての地位は守られてるんでしょ?あの女だって、医者の妻としてそれなりの暮らしを送ることができるわ」

「それはそうだな」

「私がその気なら、もっと苦しめてやったから」

「そうか。まあいいよ。慰謝料の話をさっさと決めよう。もうお前とは早く縁を切りたいんだ」

「そんなの、こっちのセリフよ」

五年後、私は再び拓に連絡をした。今度は、告げるべきことがあるがための連絡だった。

「久しぶりね」

「お前、よくも連絡なんてできたな」

「できるわよ。だって、知らない仲じゃないんだから。これは一応、連絡をしておかないといけないことだから。だからブロックを解除して連絡させてもらったわ」

「これがやりたかったのか?」

「そうよ。最後に連絡をした時、どこまで見越してたって聞いてきたわよね。あの時はごまかしてたけど、実はここまで私は見越して動いてたの」

「どういうことだ?」

「病院を辞める前から、私をヘッドハンティングしようとしてる人たちがいたの。私の病院経営を高く評価してくれてね。でも私はあなたの妻だったから、そんな話は全く考えてなかった。だけど、私はあんたと離婚をして、退職も迫られた。それで、私はヘッドハンティングの話を受けたのよ。やっぱり医療に携わって、多くの人の力になりたいって思ってたから。そうしたら、ど本さんからも支援をしていただけるようになったのよ。ど本さんも、多くの人が適切な医療を受けられるようにしたいと思ってたらしくてね。おかげで移転先の病院には最新の設備を備えることができて、患者さんたちに対応できるようになったわ。その後も順調に病院経営をしてた時に、この病院を買収してくれないかって話が舞い込んできたの。色々経営が大変だったみたいで、この状態では患者さんたちに悪影響が出るってね。それは良くないと思って、私たちはその申し出を受けたってわけ」

「それが、俺を呼び出した理由か」

「そうよ。私は再びこの病院の事務長になる。そして、あなたを首にするから」

「報復人事なんて認められるか?」

「違うわ。あなたを首にすることは、五年前から決まってたのよ。あなたは医者としては、正直無能の部類に入るわ。でも、委長の息子だからという理由で残ってたのよ。でも新しい委長には別の人がなる。現病院長であるあなたのお父さんも、私たちにならと喜んで席を譲ってくれたわ。だから、あなたは首よ。使えない人を雇っておく余裕はないからね」

「お願いだ。考え直してくれ。実は、木下が二人目を妊娠してるんだ。一人目の息子だって、まだ幼稚園に入ったばかりで、まだ小さいんだ。これからあいつらの養育費を稼ぐためにも、無職になんてなってられないんだよ」

「別の病院で働けばいいでしょ。まあ、あなたを雇うような病院があるかどうかは疑問だけど」

「だからさ、俺の首は考え直してくれ。何でもする。何でもやる」

「何でもやるって、無能が言う言葉なのよ。自分が何をできて、どう貢献できるかを、しっかり説明できる?」

「いや、それは……」

「そうやって、あなたはずっと誰かに甘えて生きてきたのよ。私だって、あなたの能力は正直ずっと疑問だった。でも、あなたのことを愛してたから、支えようと思ってた。仕事の能力なんて関係なく、あなたの人間性が大好きだったからよ。でも、あなたはそんな私を裏切った。人としても最低だって、分かったの」

「なあ、待ってくれ。お願いだ。俺を見捨てないでくれ」

「それとこれは、病院としての判断だから。私にお願いしたって無駄よ」

「マジかよ……」

「それと、木下さんに伝えて欲しいことがあるの。私、あの人の連絡先を消しちゃってたから」

「なんだよ」

「『あなたみたいな女にならないように気をつけるわ』って、言っといて」

その後、拓は病院を追い出された。新しい仕事を探して病院を回ったようだが、どこからも相手にされなかった。当然、生活は苦しくなり、夫婦仲も悪くなっていき、木下は離婚を突きつけて実家に帰ってしまった。拓は高額の養育費を払いながら、貧しい生活を送っているという。木下は実家で子育てをしていたが、金の無心ばかりで親とも仲が悪く、喧嘩の絶えない日々だった。最終的には実家も追い出され、今はアパートでワンオペ育児に追われ、経済的にも精神的にもかなり追い込まれているそうだ。望んでいた委長夫人としてのセレブ生活は、永遠に手に入らなかった。

一方私は、再び事務長としてこの病院に戻り、立て直しに尽力している。私が戻ってきたことに、多くの職員や医者たちが協力してくれて、とても助かっている。苦しい道のりではあったが、こうして戻って来られたことは、本当に嬉しい。これからも、ど本さんの想いをしっかりと受け継ぎ、患者や医者のために力を尽くしていきたい。

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